17’ 迷子

 翌朝。寝ぼけ眼でリビングに行くと、既にエレンは早く起きていた。おはようと声をかけ、私は珈琲の支度をする。すると、背後から気配を感じた。
「先生。以前……俺と会ったことありますか」
 問われた言葉に、ぎくりとする。咄嗟に珈琲豆を挽く手を止めてしまう。後ろを振り返ると、エレンは静かに立っていた。凪いた湖面に似た瞳に見下ろされる。もしかして、記憶が戻ったのだろうか。
「……どうして、そう思うの?」
 外から小鳥の囀りが聞こえる。沈黙が永遠に感じた。実際の体感時間は、ものの数秒かもしれない。
「エ、エレン?」
 我ながら素っ頓狂な声を出した。エレンは眉根を寄せ真剣な面持ちだ。何かを確かめるように、何度も私の掌を握っている。
「昨日、先生に手を握られた時……懐かしさを感じたんです」
 失った記憶を取り戻す。即ち、自分自身を取り戻すことだ。例え残酷な記憶だとしても、思い出して欲しい。エレンにも、今を生きて欲しいから。でも確信に迫る記憶は、彼自身が思い出さなければ意味ないと思った。
「四年前にマーレで、あなたと少しだけ暮らしていた。黙っていて、ごめんなさい」
「……本当ですか? その時、俺と先生はどんな関係でしたか」
 エレンの瞳に、初めて一筋の光明が宿る。どこまで話せば良いだろう。しばらく考えた後、私は静かに口火を切った。
「当時、私達は敵同士だった。パラディ島から来たあなたを悪魔だと見做して……憎んでいた」
「俺は……何で憎まれていたんですか?」
「エルディア人は巨人になり、長い年月をかけて世界を支配していたから」
 そっとエレンの手に触れる。瞳に差す僅かな光明は、消えてしまっていた。彼の纏う雰囲気が強張る。
「でも、今は違う。数ヶ月間だったけど、あなたから色んなことを教わったわ」
「俺は……先生に何を教えたんですか」
 敵対することを止めて、お互いのことを話し合った。それから――。
「同じ体温を持つ、人間だと教えてくれた」
 それ以上の真実は、まだ伝えられなかった。エレンの大きな瞳が涙ぐんでいたから。唇の端を、きゅっと噛み締めて堪えている。身に覚えない事柄を、聞かされるのは辛いだろう。エルディア人だからという理由で、世界から根絶を願われ、恨まれていたなら尚更だ。悲しげに歪む顔を見て、私の胸に痛みが広がる。
そこには……ただの人がいただけ」
 パラディ島で過ごした数ヶ月間。あまりにも、無知だったことを実感した。海の向こう側の人間というだけで揶揄された。目の前で唾を吐かれた。それらは私達が、エルディア人に行った仕打ちそのものだ。

 もちろん、優しい人もいた。医療技術の向上に、協力してくれた。私のことを最後まで気にかけてくれた。どちらも、同じエルディア人なのだ。
「もう恨んでない……憎みたくない」
 紛れもない私の本音だ。もっと早く過ちに気づけていたら――。違う未来があったかもしれない。そんなことばかり考えてしまう。
 エレン・イェーガーが討たれた時、世界は歓喜に沸いた。今の世界は、私達が募らせた憎悪の結果だ。多くの尊い人命が散り、人類に大きな傷痕を残した。四年の歳月をかけ、世界は復興に邁進している。生き残った者達は、明日を生きることに懸命だ。向かう先の未来が眩しければ、足元に出来る暗い影に誰が目を向けるだろう。私は影の麓で佇んでいる。まるで世界から、取り残された気分だった。
「ごめんなさい。あなたに……悲しい顔なんて、させたくないのに」
 彼は何も言わず、私の手を離さなかった。怒りをぶつけれても、おかしくないのに。その行為が無意味だと分かっているみたいだ。指先を絡めて、握り合う。私たちは互いの体温を、掌を通して確かめ合った。

 冷たい海風吹く今日この頃。診療所にエレンを連れて来た、お爺さんがやって来た。
「やあ、先生」
「あら、こんにちは。今日はどうされました?」
「どうも喉が痛くてな。風邪を引く前に、薬を貰いに来た」
 喉の具合を確認するため、診察を開始する。近頃、同じ症状を訴える患者が増えている。
「確かに、喉奥が少し腫れています。海風が冷たいから、喉元を冷やさないように。飲み薬を処方します。毎食後、飲んで下さい」
「ありがとう」
 症状と処方内容を、カルテに書き込む。お爺さんは、世間話をする口調で尋ねた。
「エレン君の様子はどうだい? 元気そうに見えるが、記憶は戻ったのかい?」
「いいえ、まだ戻ってないです。そう簡単に戻るものでもありませんし……。ゆっくり時間をかけて良いと、本人に伝えています」
「まぁな。焦っても、良いことはない。幸いなことに、若者には時間が沢山ある」
 お爺さんは、窓から外を見る。私も倣って外に視線を向けた。青みを帯びる透き通った空。鳥は羽ばたき、自由を謳歌している。穏やかな午後のひととき。まさに平和そのものだ。地鳴らしは、悪い夢だったのだはないか。そんな錯覚に陥ってしまう。
「……私に出来るのは、エレンを見守るだけです。彼の苦しみも悲しみも……取り除けない」
 ずっと心の奥底に滲む、暗澹あんたんたる気持ちを口にした。
 大きな壁から姿を現す巨人の大群。地響きの振動で、三半規管が全て狂った感覚。まさしく、あれは悪夢ではなかった。
「先生。医者のあなたは、歯痒いかもしれんが……見守るだけで、救われることもあると思うぞ」
「そうでしょうか?」
「この間、町でエレン君に会った。初めて会った時より、顔色が良くなって安心したよ。今は孤児院で働いているんだって?」
「はい。知り合いの孤児院で働いてます。毎日、子供達の世話でぐったりしてますけど」
「そうだろうな。子供は元気だから」
 お爺さんは、からから笑う。物悲しい空気は、どこかへ飛んでしまった。
「……初めて会った時、彼は生きる気力すら感じなかった。だけど先生と一緒に暮らし、孤児院で働き始めた。エレン君も、生きようとしている。儂には大きな一歩だと思った」
「……ありがとう、ございます。私が励まされちゃいました」
「年寄りの戯言だと思ってくれ。長居してしまった。そろそろ帰るとしよう」
「お大事になさって下さい」
 私はお爺さんを玄関先まで見送る。彼がエレンの真実を知ったら、どんな反応をするのか。柔和な表情は憎悪に歪め、ありとあらゆる呪詛を吐き散らすだろう。容易に想像出来てしまう。エレンが行ったことは、それほど罪深い。例え長い時間を重ねたところで、憎しみは簡単に消えないのだ。一人の冷たい海風が、私の横を通りすぎた。

 対パラディ島との和平交渉は今も続いている。連日取り沙汰される内容に、エレンは興味を持つようになったのだ。きっかけは、幼馴染の存在だった。
「連合国親善大使は、エレンの幼馴染よ」
「アルミンは、立派になった・・・・・・んだな」
 私が知っている内容を、エレンは少しずつ噛み砕いて呑み込んでいく。ライジオや新聞から情報を選択し、己の知識として蓄積していく。新しい情報は次々と吸収出来る。つまり、脳の機能は問題ないのだ。脳そのものは、記憶喪失にならない。しっかりと情報は覚えているという。脳と心は表裏一体で、時々お互いうまく結びつかないことがある。その結果、記憶が思い出せないことが起こるらしい――と、脳の専門家は教えてくれた。
「自分が何者か知りたいんです。何もせず、ただ生きるのは嫌だから」
 リヴァイさんの言葉が頭に過ぎる。さすがエレンの元上官だ。本質を見抜く力に感嘆する。
 例えばエレンの記憶が戻った時、私がすべきことは何だろうか。心の中で自問自答ばかりしている。
「エレン。何しているの?」
「こうしていたら、何か思い出せるんじゃないかと思って」
 終始エレンは、難しい顔をしたままだ。あの晩に起きたことを、再現しようとしているのだろう。手の甲を撫でたり、掌の感触を確かめるように突いたりする。そして大きな両手に包まれた。
「……何か思い出せた?」
 エレンは無言で首を振る。不服そうな顔をしている。どうやら、簡単には上手くいかないらしい。
「意識すると難しいのかも。あの時は無意識だったんじゃない?」
「……確かに。そうかもしれません」
 それ以降の彼は、何気ない日常の一幕で私に触れるようになった。私に触れる時、柔らかい眼差しになる。一緒に市場へ出かける時は、必ず手を繋ぐようになった。まるで壊れ物を扱うような手つきなのだ。照れ臭くて、勝手に心臓が跳ねてしまう。どうしてものかと、私は一人で頭を抱えた。

 日曜の朝は、駅のロータリー前で生産市場が開かれる。色彩豊かな野菜。瑞々しい果物。水揚げされたばかりの鮮魚。料理に欠かせない香辛料や調味料。
 何の変哲もない、穏やかな毎日。どれほど儚く尊いものか、人類は痛いほど実感した。地鳴らし後、マーレを中心とした連合国軍が結成された。生き残った僅かばかりの人類は、連合国軍から配給された食糧や生活物資で食い繋いだ。生産数と交易ルートも安定し始めた今、食糧難の問題は解決しつつある。
「おはようございます。今日も賑わってますね」
「先生、おはよう。今日も大賑わいね」
 果物屋の女主人は、沢山の露店が軒を連ねる市場を見渡す。客を呼び込む声。売値と買値を交渉する声。品物を吟味する声。多くの声で溢れている。
「先生はここに来る前、難民キャンプで医療活動をしていたんでしょう?」
「復興と医療支援活動をやっていました」
「私は生きるだけで精一杯で、他人を気遣う余裕もなかった。今も同じよ」
「それが普通だと思いますよ。私も……生きるために、医療支援の活動をしていました。あの頃も今も、皆必死ですから」
 地鳴らし後、私はパラディ島を去り――最初にマーレのラクア基地へ戻った。捨てたはずなのに、捨て切れなかったのだ。故郷は跡形すら残っていなかった。かつて暮らした住居兼診療所。街の中心にあった時計台。所狭しに建ち並ぶ石造の住宅。何もかもが住民諸共、真っ平らな大地と化していたのだ。

 やっぱり駄目だった。虚無感と虚脱感。罪悪感に押し潰されて、胸が苦しかった。果てしなく続く地平線を前に、涙が枯れるまで泣いた。
「先生。頼まれた野菜、買って来ました」
 エレンに呼ばれ、過去から引き戻された。紙袋の中には、幾つもの野菜が詰められている。女主人へ果物の代金を払い、私達は大通りへ向かう。
「他に買う物はないですか?」
「これで十分よ。帰ろう」
 エレンは黙ったまま、私が抱える紙袋を眺めている。
「荷物、持ちます」
 ひょいと容易に袋を取られ、手持ち無沙汰になってしまう。手元が寂しいと感じるとは、私も大概だと思う。隣にいる彼の片手へ触れてみる。そっと小指を絡めると、応えてくれた。エレンは今、どんな顔をしているだろう。
「……マーレに住んでいた頃、一緒に買い物したんですか?」
「ええ、一緒に市場へ出かけたわ」
 二人で買い物して、私の荷物を持ってくれた。丁度、今と同じように。懐かしい思い出だけど、エレンは覚えていない。手を繋げるほど、近くにいるのに。やっぱり心には、手が届かない。あの頃と何ら変わらない距離感に、どうしようもない悲しさが募る。
「すみません。覚えてなくて」
「良いのよ、気にしないで」
「俺の記憶が戻ったら、先生は……どこか遠くに行ってしまいますか」
 改まった声音。真剣な眼差しに混じる、僅かな戸惑いの気配。まさかエレンの口から、そんな類の言葉が出て来るとは思わなかった。何故そう思ったのだろう。不安にさせてしまっただろうか。
 かつて私は難民キャンプを転々としながら、病人や怪我人の治療に明け暮れた。さまざまな土地を流浪しても、心安まることはなかったのだ。生まれ故郷に戻るまでは。
 既に答えは決まっている。
 答えるまでもない。私は――。
「どこにも行かない。ずっと……この町にいる」
 エレンの強張る表情から、少しだけ力が抜けていくのが分かった。寧ろ彼の方が、どこかに行ってしまいそうだ。誰よりも不自由をいとい、自由を求めるから。
「俺も……この町にいて、良いですか」
 彼の名前を呼んだ。
「エレン。それはあなたの意志で決めることよ」
「俺の意志……?」
「あなたは今まで、そうやって戦ってきた。マーレに乗り込んだのも、あなたの意志だったわ」
 間違いなくエレン自身が、駆け抜けた軌跡だ。失われた記憶だとしても、知って欲しかった。これは私のエゴだろうか。

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