18’ 慈雨

 黒く凄む空から、ざあざあと雨粒が降り注ぐ。庭先に広がる緑は色褪せ、冴え冴えした色に変わっている。
「最近、顔色良くないけど大丈夫?」
「ただの寝不足です。平気ですよ」
 エレンは何でもないように言った。今思えば、心配させたくなかったのだろう。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 大雨降り頻る中、エレンは孤児院へ出勤して行った。私も診療所の支度を始める。朝から悪天候のため、診療所は閑古鳥だった。溜まっていた書類整理に勤しむ。大きな雨音は、周囲の物音すら掻き消してしまう。窓の表面に伝う雨水を眺め、今日は早めに閉めようと思案した時だった。けたたましいベルが鳴り響く。急報を伝える音だった。
 エレンが勤務中に、具合悪くなった。医務室で休息中だから、迎えに来て欲しい。知り合いから、そう連絡が来たのだ。大粒の雨が石畳に叩きつけられる。外は仄白い煙が立つ中、急いで孤児院へ向かう。足元が濡れても、気に留めなかった。
「エレンの容体は……!」
「大丈夫、安心して。今は落ち着いて、眠ってるから」
 動揺した様子の私に、知り合いは呆気に取られる。ほら深呼吸して、と言われる始末。気持ちを鎮めた後、医務室へ案内された。
 五台の寝台が並ぶ部屋は、エレンの寝息だけが聞こえた。彼は静かに眠っていた。朝より顔色は良さそうだし、どこも怪我はしていないようだ。安堵の息を吐き出す。知り合い曰く、近頃のエレンは頭痛に悩まされていたらしい。
 知り合いは、状況を教えてくれた。
「エレンが頭痛いって、子供達が教えてくれてね。本人は平気だって言うけど、顔色も真っ青だったから医務室に連行したの」
「……迷惑かけてごめん」
「気にしないで。今日は上がって良いから、しっかり休ませてあげて。念のため、明日も休んで良いよ」
「ありがとう。車を呼んでくれる?」
 知り合いから、エレンの手荷物を受け取る。そして送迎の車を呼ぶため、医務室から退室して行った。
 はぁ、と肺の奥から溜息を吐く。寝台脇の椅子に腰かけ、眠るエレンを眺める。
「私って、そんなに信用ない……?」
 問われた言葉に、返答はない。
 知らなかった。エレンが頭痛に悩まされていたなんて。どうして何も言わず、黙っていたのだろう。未だに信用されてないのかもしれない。私達は元々、敵同士だったから。紛れもない事実が、胸に突き刺さる。痛くて堪らない。まるで鋭い刃物で刺されたみたいだった。マーレで暮らしていた時、エレンに嘘を吐かれたことがあった。あの時と同じ胸の痛みだった。

 世界から巨人は消滅した。怨嗟の念は断ち切られ、エルディア人は解放されたのに。あの頃から今も、私達は何ら変わってない。
「先生……?」
 眠そうな声。身じろぎする気配。
「気分はどう? 少し頭痛は楽になった?」
「……すみません」
 エレンは私がここにいる理由を察したのだろう。ゆっくりと起き上がり、開口一番に謝った。朝に比べて、顔色は良くなっている。少しだけ回復したようだ。
「今日は上がって良いって。車を呼んでもらったから、帰ったら休みなさい」
 手荷物を渡し、帰り支度を促す。けれど彼は、寝台から動かなかった。湿気を吸い込んだ、重苦しい空気が漂う。
「俺……先生に心配かけたくなくて――」
「その話は帰ってからしましょう」
 丁度その時、知り合いが医務室に顔を出す。送迎車が来たと知らせてくれた。急いでエレンに帰り支度をさせて、医務室から出る。
 玄関先には、数人の子供達がいた。エレンのことが心配で、様子を見に来たらしい。
「エレン、大丈夫?」
「頭痛いの治った?」
「ごめんな。もう大丈夫だから」
「本当?」
「おう。ちゃんと良い子にしてろよ」
 エレンはしゃがみ込み、子供達と同じ目線で言葉を交わす。小さな頭を撫でる様子は、どこにでもいる普通の人間である。地鳴らしを発動した張本人だと、誰も思わないだろう。
 エレンは車の後部座席に乗り込んだ。
「しんどいなら、横になって良いから」
「先生は?」
「私は助手席に、」
「先生の肩、貸して下さい」
 ぐっと腕が掴まれ、行く手を阻まれる。どうしても、振り払えなかった。ましてや手を離して、とも言えなかった。請われる声音が、とても心細く聞こえたから。
「……分かった」
 そのまま後部座席に乗り込んだ。運転手に自宅の場所を伝え、静かに発車する。ラジオから流れる、軽快なジャズの演奏は場違いに感じた。今は音楽に癒される気分になれず、余計に気持ちがささくれ立つ。石畳の振動を感じながら、車窓から雨に濡れた街の景色を眺める。未だに雨足は、弱まる気配はない。雨は夜になっても、降り続けるだろう。
 ぼんやりしていると、右肩にエレンの重みがのしかかる。さらりと、滑らかな髪型頬を掠めた。そっと隣を窺えば、エレンは目を閉じている。長い睫毛。つんと高い鼻。男性よりも女性らしい顔つきだと思う。きっと母親似なのかもしれない。子供達がエレンを女の子みたいと言った理由が、今なら少し分かるかもしれない。肩から伝わるエレンの体温と、重みを感じながら目を瞑った。

 自宅に着くと、エレンは何か話したい雰囲気を出していた。口をもごもごさせるも、覚束ない仕草だ。私はエレンの背を押して、寝室へ連れて行く。
「夕飯が出来たら持って行くから、それまで横になってて」
「いいえ、平気――」
「エレン。お願い」
 お願いだから、言うことを聞いて。どうしても、今は一人になりたかった。このまま一緒にいると、彼を責めてしまいそうだったから。これ以上、自分に失望したくない。
「……本当に心配かけたくなかったんです。それだけは、分かって下さい」
 エレンの大きな手が、私の手に恐々と触れる。幼いことが親の機嫌を窺う仕草に似ていた。
「分かってる……。分かってるわ」
 そう言ってエレンを宥め、部屋に行くように促す。すると繋いだ手が急に離れた。彼は自身の掌を無言で眺めている。まるで亡霊を見たような、目を見開き驚いた顔だ。
「エレン……?」
「何でも……ない、です」
 抑揚なく、感情を失った声だった。エレンは大人しく引き下がり、ふらりと部屋に入ってしまう。エレンに触れられた箇所が、急に熱を失い始めていく。冷たい空気に熱が溶けないように、私は手を摩ることしか出来なかった。
 はあ、と深く息を吐く。少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。妙な虚脱感が残っているが、夕飯を作らなければ。私はキッチンに立ち、夕飯の支度を始めた。
 念のため胃腸に優しい食事を作り、エレンの部屋に持って行く。扉をノックするも反応はない。もしかしたら、寝ているのかもしれない。静かに扉を開けると、薄暗かった。エレンは寝台に腰かけている。
「夕飯作ったけど、食欲ある?」
 机の上に夕飯を置き、洋燈をつけた。明るい橙色に、エレンの輪郭が浮かぶ。彼は足元に視線を向けていた。どんな表情をしているのか分からない。石みたいに、じっとしたままだ。やっぱり体調は、まだ良くないのかもしれない。
「エレン?」
「なぁ、教えてくれ……」
 呼びかけると、ようやく顔を上げてくれた。彼の目には、涙の幕が張っている。洋燈の灯りに反射して、艶めいていた。呆気に取られている私は、尚もエレンに問いかけられる。
「先生は……あんた・・・は、知っているんだろ?」
 力強く、両肩を掴まれた。
 ドクドクと強く脈打つ心臓が痛い。彼が何を言わんとする内容。その言葉に、全てが詰まっている。
 全ての記憶が――。
「俺は――俺が……世界を……地鳴らしで、壊したのか?」
 喉元を締め上げられた呻き声。静かに問われる言葉には、怒りと絶望で押し潰された苦悩が孕んでいる。私は黙ったまま、エレンの前で立ち尽くしている。
「全部……繋がった。俺の故郷と、世界のことも」
 縋りつくように掴まれた両肩が痛い。頭の中で、軽い耳鳴りが響く。何の前触れや兆候もなく、訪れるものなのか。唐突すぎて、上手く状況が呑み込めない。記憶が戻るきっかけは、何だったのか分からない。
 空白の記憶を目を背けたくなる事実。エレンは混乱しても尚、譫言みたいに懇願する。知っていることを、教えてくれと。

 肯定か、はたまた否定か。
 果たしてどちらが正解なのか。今、目の前で答えを迫られている。ぐっと目を瞑る。私が肯定すれば、彼は計り知れない罪悪感を背負い込むはずだ。それでも私は――。
「俺は本当に――」
「あなたの名前は、エレン・イェーガー。地鳴らしで巨人の大群を引き連れ、世界を踏み潰した。大勢の命が……失われた」
 パラディ島では英雄。世界では大罪人。相反する異名を持つエレンは、力なく寝台へ腰かける。寝台のスプリングが軋んだ。
やっぱり・・・・、そうだったのか」
 諦めや拒絶でもない。絶望に打ちのめされたわけでもない。己の行いを、ただ受け入れる口振り。あらかじめ、知っていた口調だった。
「やっぱり……?」
 今度は私が混乱する番だ。涙に濡れた呟きが聞こえた。
「実は半分だけ……記憶を取り戻していた」
 最初のきっかけは、私がリヴァイさんの往診から帰った夜。宵闇の中、手を握った時だった。僅かな違和感を覚えたという。
「この手に触れるのは、初めてじゃない。懐かしいと思った。少し冷たい指先も、乾燥気味な皮膚の感触も……」
 エレンは指先で、私の手をそっとなぞる。
 記憶が思い出せなくても、身体は覚えていた。彼を構成する細胞一つひとつに。
「それから時々、夢を見た。仲間だと思っていた奴らに裏切られたりした。壁の中で殺し合いもした。夢とは思えないほど、生々しかった。目が覚めたら、涙が止まらなかった……。あれは夢じゃない。昔の記憶だと……直感した」
「どうして、黙っていたの……?」
「状況を整理したかった」
 最初は夢という形で、閉ざされた記憶の扉が開いた。私を媒介にして、徐々に記憶は蘇る。霧が少しずつ晴れるように。記憶が戻る感覚は、まるでパズルのピースを当て嵌める作業に似ていた。

 自分が何者なのか知りたい。その一心でエレンは、私の手に触れ続けたのだ。彼が取った不思議な行動の意味が、ようやく理解した。
「和平交渉のニュースに、かつての仲間達が出る度、俺は嬉しかったんだ」
「いつ頃、全ての記憶が戻ったの」
「さっき孤児院から帰って来て、あんたの手に触れた時だ。全て思い出したら、話すつもりだった」
 順調に全ての記憶が、思い出せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた矢先だった。
「故郷を奪還した後、勲章式の時……俺は未来を見たことを、思い出したんだ。地鳴らしで、世界を踏み潰す光景を」
 故郷を取り戻し、マーレへ乗り込んだ記憶。同じ屋根の下で暮らし、罵り合った一幕。断片的に思い出す度、必ず鋭い頭痛を伴った。思い出したいのに、思い出したくない。眠りが浅くなるまで、時間はかからなかったという。
「ちょっと待って。あなたは地鳴らしが起きることを、知っていたの……? 分かった上で――」
 エレンは、静かに涙を流しながら頷く。海を超えてマーレに乗り込んだ時、既にエレンは知っていた。世界が迎える結末を。思いもよらぬ事実に、私は眩暈を覚える。
「自由を拒む者達を、俺は駆逐してやろうと思った。始祖ユミルを取り込んだ俺は、地鳴らしを起こした。俺の望みを……叶えてくれた。彼女は二千年間、終わりない呪縛に囚われていた」
 地鳴らしを止めたのは、ミカサだった。同時に始祖ユミルの未練を断ち切ったのだ。
「俺はミカサに首を刎ねられて死んだ。骨が絶たれた感触も覚えているのに……生きている。訳が分からなかった」
 エレンは己の首筋を、確かめるように触れる。滑らかな皮膚には、何の痕跡も残っていない。私はエレンの隣に座った。二人分の重みで、寝台のマットレスが沈み込む。
 パラディ島から放たれた、巨人の大群を目にした時から聞きたかった。四年の歳月をかけて、肥大化したうろ。心の中に巣食うわだかまりだ。
「エレン……どうして地鳴らしを――世界を踏み潰したの?」
 エレンの口から聞きたくても、聞けずじまいだった。彼と言葉を交わす機会は、永遠に失われた。そう思って生きていたから。
「俺の故郷を守るためだ。ヒストリアが望まない子供を産まされ続けるのも、島の皆が自死の道を辿るのも嫌だった。俺が地鳴らしを起こす未来は、仲間達にも言えなかった。他に方法があったなら、誰か教えて欲しかった……」
「地鳴らしは仕方なかった、ということ?」
「そうだ。俺は世界の望みを拒んだ。正直言うと、世界に落胆したんだ」
「落胆……?」
「誰にも荒らされてない場所を、探検したかった。壁の向こうの世界は、自由の象徴だったから」
 壁を越えた海の向こう側。エレンの思い描く自由とは、ほど遠い場所だった。既に大勢の知らない人々が暮らしていたから。自由を求めて、全部真っ平らにしたのだろう。純粋すぎる動機は、時に狂気となり得る。
「そう……」
 私は力なく答えた。起きてしまった出来事について、とやかく言っても何も変わらない。恨み言は無意味だと、知っているから。

 あの日。真っ赤に燃える夕暮れは、今も瞼の裏に焼きついて忘れられない。これから流れる、大勢の人々の先決を彷彿させた。
 エレン万歳。我らの救世主。犠牲なくては勝利はない。
 興奮冷めやらぬ、住民達の歓声。島は異常な興奮の渦に、呑み込まれていた。暴徒化する大衆は、何をするか分からない。ましてや私は、海の向こう側から来た捕虜。彼らにしてみれば、敵同然である。己の命が脅かされる中、瓦礫の撤去と怪我人の治療に明け暮れたのだ。
「本来なら私も、地鳴らしで死ぬはずだった……」
 図らずしも、生き残ってしまった事実。エレンが無差別に、虐殺決行へ踏み切った現実。次から次へと運ばれる怪我人。彼らを処置することで、どうにか気力を保っていた。そんな時、兵団員が声高に叫ぶ。
 エレン・イェーガーは、かつての仲間に討たれた――と。目の前が真っ暗になった瞬間だった。連日張り詰めた糸は千切れ、私は人目も気にせず泣き崩れたのだ。どうして、私が生き残ってしまったのだろう。ずっと分からなくて、負い目を感じながら今を生きている。
「あなたの故郷を見てみたい。あの頼みを受け入れた理由は……大勢を殺すことへの罪悪感があったから?」
「違う……! そうじゃない! あ、いや、罪悪感はあった。だけど、それとは別の理由だ」
「じゃあ、どんな理由があったの……!? 教えて……私が生き残った理由は何?」
 ずっと押さえ込んで感情の遣り場を、エレンへぶつけてしまう。お互いの口調は、次第に余裕がなくなっていく。
「あの言葉は、あんたの自由意思だったから。俺は……あんたを……殺したくなかった。大勢を殺すことになっても、あんたには死んで欲しくなかったんだ」
「死んで欲しくなかった……?」
「最初はそう思わなかった。あんたと暮らす内に、色んなことを知った。もう恨むことも殺すことも……出来なかった。憎むべき敵なのに、守りたいと……思っちまった。俺が死んだ後も、長生きして欲しかった。だから俺は――」
 エレンは自分の命を犠牲にして、大事な仲間と私の命を助けてくれた。それなのに、私は何て酷いことを言ってしまったのか。ずっと彼の願いを踏み躙り、この命を粗末にしていたなんて。
「エレン……。ごめん……エレン、ごめんなさい……」
 マーレで暮らしていた当時も、私は彼に謝っていた。四年経っても私達は、まだ擦れ違い続けている。エレンは嗚咽を鳴らし、泣き続けている。その姿は痛々しいのに、どうしようもないほど愛おしさが溢れてくる。彼に両腕を回し、ぎゅっと抱き締める。

 ずっとエレンに知って欲しかった。四年越しの気持ちを。
「私だって……あなたには、長生きして欲しかったよ」
 ずっと伝えたくても、伝えられなかったこと。今やっと、言葉にして伝えることが出来た。エレンは抱き締め返してくれる。抱き締めることも、抱き締められることも、もう二度とないと思っていた。
「あなたが死んだと聞いて、心にぽっかり穴が開いたみたいだった」
 死ぬまで心の虚は、埋まらないと思っていたのに。エレンの腕の中にいるだけで、こんなにも安堵感で満たされていく。ぽろぽろと涙が溢れ、尚も頬を濡らしていく。
「地鳴らしの後、パラディ島はどうなったか教えて欲しい」
 故郷の行く末が、気になるのだろう。当時のことは、今でも容易に思い出せる。
「島はイェーガー派に掌握されたわ。元マーレ軍医である私にも、兵団へ降れと要求された。まだ利用価値があると思われたのね……。殺し合いは、もう勘弁だった。大事な人を作りたくなかった」
 これ以上、傷つくことも失うことも厭だった。だから私は混乱の最中、パラディ島を後にすることに決めたのだ。結局、自分の居場所は作れなかったのだ。
 地鳴らしの被害は甚大で、大陸は酷い有り様だった。私は各地を放浪し続けた。生き残った人類と共に、町の復興と怪我人を治療する活動へ身を投じていく。医者として、出来ることなら何でもやった。
「決して博愛でも、慈愛でもなかった。生き残ってしまった罪悪感や、負い目を埋めるため。命の使い道が、分からなかった」
 毎日を生き抜くことで、精一杯だった。主に難民キャンプを転々とした後、生まれ故郷に流れ着いただけ。気がつけば地鳴らしから三年半経っていた。
「俺は……これから、どうすれば良いか分からねぇ。罪を背負って、生きろというのか?」
 エレンの顔は、絶望と苦しみに塗れている。自身顔が犯した罪の大きさを理解している。彼は抱え切れない罪を、また独りで抱え込むつもりだ。かつて誰にも相談出来ず、孤独を抱えて地鳴らしを決行した時と同じように。

 ようやく、自分の命の使い道を見つけた。
「エレン、聞いて」
 私は涙を流すエレンを呼んだ。赤く腫れた目尻を、指先で撫でてあげる。長い睫毛に絡む涙の粒。洋燈の灯りに煌めき、まるで宝石みたいだった。
「生き残った者が出来ることは、死んでしまった人達の分まで、精一杯生きること。辛くても生きるの。生きて……欲しい」
「俺は……取り返しつかないことをした。償い切れない。生きる居場所もない」
「失った命は還らないけど、居場所なら……また作れる。罪悪感も孤独感も全部、今度は一緒に背負いたい。やっと……覚悟出来た」
「俺の分まで背負う義務は――」
「この気持ちは、義務じゃない。私の自由意志。見届けて欲しいの。あなたが壊して創った世界の行末を。だから最期まで生きて欲しい。ただ、それだけよ」
 エレンは涙に濡れる目元を、服の袖で乱雑に拭う。幼い子供のような仕草だった。鼻を啜りながら、ポツリも話し始める。
「……目を覚まして、一番最初に見た光景が忘れられない」
 どこまでも続く地平線。視界を遮る煩わしい壁は見当たらない。緑豊かな森は消滅し、民家も跡形もなく消え去った。見晴らしの良い、砂の雪原が辺り一面に広がっていた。周囲に人の気配はない。
「長い夢から、醒めたような心地だった」
 丁度、明け方だったらしい。地平線の向こうから、眩い光を放つ太陽が昇ってきた。朝日に反射する砂地は、炎々と燃えているように見えたという。
 荒廃する光景に、彼は何を見出したのか。彼にとって、この世界は――何を意味するのか。
「あの光景は……綺麗だと思った。目の前に広がる世界は広くて、美しかったんだ。俺は訳も分からず泣いた。涙が止まらなかった。その瞬間、思ったんだ。生きていたい。俺が……この世に生まれたから」
 エレンの瞳に、紅蓮の炎が灯る。記憶の中にいる彼が、戻って来た瞬間だった。行きたいと思う気持ちに、理由はいらない。この世界で行きたい。それだけで十分なのだ。
「俺のことを、見つけてくれてありがとう」
 エレンから、ありがとうと言われたのは初めてだと思う。四年前の私達は、孤独を分け合っても何も満たされなかった。心は渇き、空虚だった。あの時と比べて、少しだけ前に進むことは出来たのだろうか。
 涙が頬の上を、幾筋も滑り落ち続ける。鏡を見なくても分かるほど、ぐちゃぐちゃで酷い有り様だろう。泣きながら顔を合わせ、存在を確かめ合った。心地良い子供体温が、額に広がる。
「あなたが泣いているところ、初めて見た気がする」
「あんたは、いつも泣いてばかりだ」
「……そうかも」
 二人で子供みたいに、ぼろぼろ泣いた。
 かつて酷い言葉で傷つけ合った。恨みのことなをぶつけ合い、涙を流した。己の過ちを認め、涙ながらに謝った。当時は、絶望と後悔に塗れていた。今は違う。安堵と僅かな希望が頬を伝う。これから先、どんな困難が待ち受けていても、二人なら乗り越えられるかもしれない。

 小鳥の囀り。清らかな朝の光。ゆっくり浮上する意識。そっと目を開けると、自分の部屋ではなかった。隣には体を丸めて眠る、エレンの姿。ぼんやりしたまま、昨夜の記憶を引っ張ってみた。どうやら泣き疲れて、知らぬ間に眠ってしまったらしい。良い大人が何をしているのか。まるで子供みたいだ。
 昨日降り続けた雨は、すっかり止んでいた。窓の表面についた水滴が、朝陽の筋に反射する。寝ぼけ眼には些か眩しくて、私は目を細めた。すると隣から、くぐもった声が聞こえた。
「お、おはよう。エレン」
「……おはよう」
 寝起きのエレンは、あどけない少年みたいだ。眠そうに目を擦っている。少しだけ、目尻が腫れていた。
「ごめん。ここで寝ちゃった」
「いや、構わない……」
 疾しいことは、一切していないのに。妙に気持ちは落ち着かなかった。沈黙が部屋全体を包む。微妙な空気感に、拍車をかけるだけ。会話の糸口を見つけなければ。起きたばかりの頭で、必死に考える。
 結局、これしか思い浮かばなかった。
「体調はどう? 頭は痛くない?」
「もう平気だ。全部思い出して、すっきりした。久しぶりにぐっすり眠れたし」
「……それは良かった」
 すると隣から、腹の虫が鳴る。そういえば、夕飯を食べ損ねていた。机に置かれたままの夕飯は、すっかり冷めている。まずは朝食の支度をしよう。
「温め直すね。支度出来たら、降りて来て」
「すぐ支度する」
 私は冷めた夕飯と共に、そそくさと部屋を出る。エレンは全ての記憶を思い出した。私達にとって、再出発の一日が始まった。

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