16’ 追憶

 庭先の茂みが朝露に濡れている。滲んだ朝焼けが空に広がり始めた頃。私は自宅を出て駅へ向かう。明け方の空気は冷たい。小さく身震いし、ストールを巻き直した。
 地鳴らし後、最初の復興として着手されたのが大陸縦断列車だった。巨人の大群に壊滅的な被害を受け、四年の歳月をかけて最近完工したばかりなのだ。この列車の終着駅は、マーレの首都だ。今回の目的地は、終着駅手前の駅である。私の住まいから、片道で約四時間程度の距離だ。
 大きな汽笛は鳴り響き、鼓膜を揺する。黒光りする列車が動き始めた。切符に記された座席まで移動する。早朝にもかかわらず、車内は混雑していた。通路に立つ人々を縫うように歩く。ようやく、座席まで辿り着いて腰を落ち着けることが出来た。四角い車窓から、朝焼けの景色が流れる。
 大都市の復興は目覚ましい。
 だけど少し離れてしまえば、未だに殺風景な荒野が広がっている。今も車窓から見える景色は、真っ平らだ。朝日に照らされた赤茶色の大地には、家も職も失った人々が寄せ集まる難民キャンプが点々と見えるだけ。光と陰が浮き彫りになる。復興は、まだ追いついていない。

 マーレに入国し、二件の往診を終わらせた。そして最後の患者の自宅に着いたのは、太陽が天辺を越した頃だった。呼び鈴を押すと、扉が開いた。
「こんにちは。リヴァイさん」
「いつも遠いところ悪いな」
「気にしないで下さい」
 中に上がるように促され、ぎこちなく歩くリヴァイさんの後を追う。今日は車椅子や杖を突いていない。壁に手をつけて、自分の力で歩いている。膝の具合が良いのだろう。
 リヴァイさんは四年前の戦いで、片目の視力を失い――膝に大きな怪我を負った。これまでの過酷な戦闘で痛んだ膝は、限界を超えてしまったのだろう。杖がないと、思うように歩けない。リヴァイさんは粘り強くリハビリを続けた。その甲斐あり、今では少しだけ自力で歩けるほど回復した。
 私は月に一度、こうして彼の自宅へ往診している。
「リハビリ中は、膝に違和感や痛みはありますか?」
「痛みはあるが、大した痛みじゃない。塗り薬が無くなりそうだから、新しい物を処方してくれ」
「分かりました。処方しておきますね」
「ああ、助かる」
 問診と触診。塗り薬の処方とリハビリの指導。診察が終わると、リヴァイさんに今日の予定を尋ねられた。
「この後は、他の往診はあるのか」
「いいえ、ありませんよ」
「美味い紅茶と菓子を手に入れた。良かったら飲んで行け」
「ありがとうございます」
「用意するから、ちょっと待ってろ」
 リヴァイさんは椅子から立ち上がり、キッチンへ行こうとする。私が用意すると申し出ても、断られてしまった。
「歩ける内は、自分でやりたい。リハビリにもなる」
 そう言われてしまえば、医者として何も言えない。彼は他人に世話されることを、あまり好まない。無理ない範囲なら、とやかく言うつもりはなかった。
 ポットとティーセット。クッキーが乗ったお盆と共に、リヴァイさんが戻って来た。リヴァイさんは紅茶通である。紅茶の選び方や淹れ方に、一切妥協はしないのだ。あらかじめ温められたカップに、黄金色の液体が注がれる。
「頂きます」
 淹れたての紅茶を一口飲むと、芳醇な香りが鼻から抜けていく。ひと心地ついた気がする。
「美味しいです」
「それは良かった」
 クッキーを頂きながら、取り留めない話をする。リヴァイさんは、近状を教えてくれた。膝の痛みが少ない時、近場の公園まで散歩に行くそうだ。
「時々ガビとファルコが、様子を見に来るんだが……何かと俺の世話をしようとする。罪滅ぼしのつもりか知らねぇが、必要ないと言っても聞く耳を持たない。困ったもんだ」
 ぼやく彼の言葉に、棘はなかった。戦いから解放され、穏やかな毎日を過ごせているのだろう。
「リヴァイさんのことが心配なんですよ。賑やかで羨ましいです」
「お前は最近どうなんだ?」
「えっと……」
 脳裏に過ぎるエレンの顔。私は何と言えば良いか窮してしまう。リヴァイさんは知らない。私がマーレ軍医だった頃、数ヶ月間エレンと暮らしていたことを。私がエレンを知っていることすら、リヴァイさんは知らないのだ。レベリオ収容区の襲撃後、落ち着いて話す機会は終ぞなかったから。地鳴らしから四年。面と向かい合っても、私は未だに話すことが出来ずにいる。

 四年分の罪悪感で黙り込む。私の様子に、リヴァイさんは更に眉間の皺を深めた。
「糞が詰まったような顔だな。紅茶が口に合わねぇか?」
「そ、そんなことないですよ……!」
「言いたいことがあるなら言え」
 かつてエレンと暮らしていた過去を――割り切って話せるだろうか。私は今もエレンと、同じ屋根の下で暮らしている。まだ関係は途切れていない。終わっていないから、上手く割り切れない。
 エレンは生きている。
 その一言を口にすることが、こんなに難しいとは思わなかった。リヴァイさんにとって、エレンは故郷の仲間だ。このまま沈黙を貫くのは、事実を隠すことに繋がる。イェレナに口止めされ、本当のことが言えなかった。本来であれば私は、四年前の地鳴らしで死んでいたはずだった。マーレを捨てて島へ渡ったのに、居場所を作ることが出来なかった。
 罪悪感が罪悪感を呼び寄せる。
「話したくないなら無理に――」
「私……ずっとリヴァイさんに、黙っていたことがあります」
 これは告解か。それとも懺悔か。
「四年前、マーレ軍医だった私は……エレンと数ヶ月だけ一緒に暮らしていました」
 頑なに口を噤んでいたのに。隠していた事実を一つだけ言葉にすると、後は止められない。雪崩みたいに、全て話してしまった。
 私はマーレに滅ぼされた亡国の民で、ずっとマーレ人に成りすまして生活していたこと。イェレナに正体を見破られ、エレンを匿うように脅されたこと。彼とともに暮らしていた頃、敵対して罵り合ったこと。そして――互いのことを理解するために歩み寄ったことも。
「おい、待て……。いっぺんに話すな。情報が多すぎるだろうが」
「……す、すみません」
 リヴァイさんは、指先で机を叩く。
「まず情報を整理したい。つまり……お前はマーレ人ではなく亡国の民で、イェレナに弱味を握られた挙句、利用された。俺達の元から姿を消したエレンを匿い……一緒にマーレの街で暮らしていた。そして敵であるエレンと交流する内に、お前は心を寄せちまった」
「合ってますけど、心を寄せたのは語弊が――」
「エレンにパラディ島を見てみたいと伝え、イェレナ経由でアズマビトの屋敷に捕虜として来た訳か。なるほど……やっと合点がいった」
「合点がいったとは?」
「海の向こう側の人間は、俺達のことを悪魔と憎んでいた。なのにお前は最初から俺達に従順だったし、アルミン達とも普通に言葉を交わしていた。鉄格子に入れられ、軟禁状態だったのに文句一つ言わない……。マーレのスパイにしては、妙だと思っていた。ずっと釈然としなかった」
 そんな風に思われていたとは、知らなかった。リヴァイさんは、深い溜息を吐き出した。無理難題に苦慮するように、頭を抱えている。
「極めつけは、エレンが生きている?」
「……はい。ひと月ほど前、私の診療所に連れて来られたんです。彼は……地鳴らし前の記憶を失っています」
「どういうことだ?」
「日常生活に支障はないですが……島の皆さんや、私のことも覚えていませんでした。今は私の診療所で療養しながら、近くの孤児院で働いています」
「お前はエレンに、真実を伝えたのか?」
「いいえ、まだ……。無理に思い出させるのは、良くないので。でも、地鳴らしがあった事実は伝えました」
「まぁ、そうだな……」
 鉛みたいな重たい空気が、私達の間に流れ込む。リヴァイさんは、事実を噛み砕いて呑み込もうとしている。今まで死んだと思っていた相手が、実は生きていた。寝耳に水だろうし、気持ちの整理もつかないはずだ。
「エレンに……会いたいですか?」
 前を向いて生きる彼に、酷な質問をしてしまった。慌てて謝罪する前に、リヴァイさんが口を開く。
「エレンは自分の行いに、目を背ける奴じゃない。俺は上官として、ずっと見てきたから分かる」
 静かな語り口調だ。苦楽を共にした時間が垣間見える。
「あいつには、言いたいことも山ほどあるが……俺はガキのあいつに、辛い選択ばかりさせてきた。どうやって生き返ったか知らねぇが、今度こそまっとうな人生を歩んで欲しい。誰かに謗られようとも、幸せになって……欲しいんだ」
「リヴァイさん――」
「エレンを俺に会わせるかは、医者のお前の判断に任せよう」
 切実な願いに、胸が締めつけられて痛い。目の前にいるリヴァイさんは、澄んだ瞳で前を見据えていた。過ぎ去った時間ではなく、これからの未来を見ているのだ。強い人だと思う。

 リヴァイさんは紅茶を一口だけ啜り、ぽつりと言った。
「すっかり冷めちまったな。お湯、沸かし直す」
 しんみりした空気を吹き飛ばす、明るく元気な声が玄関からやって来た。
「兵長! 入るよ!」
「兵長、こんばんは!」
 どたどたと賑やかな足音とともに現れたのは、ガビとファルコだ。二人は私を見て、礼儀正しく挨拶してくれた。
「お前ら……。もう俺は兵長じゃないと、何度も言ってるだろ」
「すみません。癖が抜けなくて」
「今日は一緒に夕飯を作る約束でしょ?」
 ガビは食材が詰まった袋を掲げた。私は懐中時計を確認する。時計の針は既に五時を回っていた。診察が終わってから、長居してしまった。
「もうそんな時間か。あっという間だったな」
 リヴァイさんは、苦い顔をしている。ひと回り以上年若い二人に圧倒される彼は新鮮だ。三人の賑やかな応酬を聴くだけで、勝手に口許が弧を描いてしまう。前を向いて生きるとは、こういうことなのかもしれない。
「良かったら先生も、一緒にどうですか?」
「ありがとう、ファルコ。でも明日も診察があるから、帰らなくちゃ。また今度ね」
 ファルコは、分かりましたと頷く。
 帰り支度をすると、三人は駅まで送ると言ってくれた。彼らの時間を邪魔したくなかったので丁重に断った。それでも三人は引かない。街灯のおかげで明るいものの、夜道をリヴァイさんに歩かせたくない。私がそう言うと、ガビとファルコは素直に承諾してくれる。リヴァイさんだけ、不服そうな顔でこちらを見ていた。
 見送りの折衷案は、玄関口までと意見が纏まった。
「また来月、うかがいますね」
「ああ、気をつけて帰れよ」
 三人へ一礼する。駅へ向かおうと歩き出すと、リヴァイさんに呼び止められた。
「どうしたんですか?」
「帰るべき場所は……見つかったのか」
 私の生い立ちを聞いて、何か思うことがあったのかもしれない。
「はい。今は生まれ故郷に住んでいます」
「……そうか。本当の故郷に帰れて、良かったじゃねぇか」
「……ありがとうございます」
 最後に一礼し、リヴァイさんの自宅を後にした。

 夕闇迫る中、駅まで歩いて出国手続きを済ませる。しばらくホームで待っていると、蒸気を吹かせた列車がやって来た。私は逸る気持ちを抑え、故郷行きの列車に乗り込んだ。エレンが自宅で待っている。自分の帰りを待っている相手がいるだけで、何となく帰路を急ぎたくなるのは何故だろうか。
 列車に揺られながら、車窓から宵闇を覗く。ガタン、ゴトンと一定の揺れが心地良い。今日は早起きだったから、少しだけ眠ろう。そっと瞼を閉じる。束の間の休息を摂ることにした。
 日帰りの往診が終わり、アクビを堪えて改札を出る。時刻は既に十時を超えていた。長時間の移動で疲れた身体に鞭を打つ。面倒な入国手続きを終え、トランクを持ち直して家路を歩き出す。すると、ロータリーに長身の男が立っていた。
 彼は私に気づき、のそのそとやって来た。
「おかえりなさい」
 エレンは静かな口調で、ぼそっと言う。帰りは遅くなるからと言ったのに。反戦デモの記憶が、ふと頭を過ぎる。当時の彼と今の彼が、重なって見えてしまう。エレンには、当時の記憶はないのに。どちらも彼本人だと、否応なく突きつけられる。鼻奥が痺れ、視界が溶けた。街灯の灯りがぼやけ、エレンの輪郭が滲む。
「……ただいま」
 目元から涙が零れる前に、指先で目尻を拭う。
 今日はリヴァイさんに会い、マーレやパラディ島での記憶が蘇った。少し感傷的になっているだけ。きっとそうだ。
 パラディ島を去り、生まれ故郷で診療所を開業した。私も前を向いて、再出発出来たと思っていたのに。未だ過去に囚われているのかもしれない。
「先に休んで良いって言ったのに」
「駅まで人通りが少ないから、一応……」
「どれくらい待っていたの?」
「十分くらいです」
 その割には、鼻先が赤くなっている。冷たい風が、エレンの長い髪を揺らす。私は彼の手を掴んだ。
「嘘。手が冷たい」
 エレンは気まずそうに、駅前の時計を盗み見た。
「……一時間半くらい」
 私に呆気なく見破られて、ばつが悪そうだ。ここは海風が吹く土地柄、朝晩の気温に差がある。無骨な手を温めるように、私は両手を重ね合わせた。
「待たせてごめんなさい。迎えに来てくれて、ありがとう。風邪引く前に、早く帰ろう」
 夜も遅いため、車や人通りはない。田舎町だから駅前でもひっそりしている。家に繋がる方向へ歩き出す。隣にいる彼は立ち止まったまま。穴が開くほど、私を凝視している。
「エレン? どうしたの?」
「……いや、何でもありません。帰りましょう」
 繋いだ手は、温まることなく冷えたまま。子供体温の彼は、私の記憶の中にいる。再び目頭が熱くなった。やっぱり今日は、感傷的になりやすい。エレンに手を引っ張られ、無言で帰路に着いた。

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