あの日の少女は歩き出す

カラネス区に帰ってから、まずは今まで住んでいた自宅を引き払うことになった。マルクスが色々な手続きを取ってくれたお陰で、滞りなく書類関係の処理は終わったものの――日常に戻るには気持ちの整理が中々出来なかった。

街を歩くと駐屯兵達が声を掛けてくれるし、学校に行けば教師やクラスメイト達が優しく接してくれる。いつもナマエのことを揶揄ったり意地悪する子も、珍しく大人しかった。
普通に――今までと同じように接して欲しいのに。
数え切れない程の人間が死んで、住む場所を失った多くの人間は今も避難生活を強いられている。地獄を見て帰って来たナマエに、優しくしたり気遣ったりするのは何もおかしいことではない。
ごく当たり前のことなのだ。

ありがたい反面、腫れ物として扱われているようでナマエは居心地が悪い思いも抱えながら過ごした。
「ナマエ!後でいつもの場所で待ち合わせね!遅れて来たら駄目だよ!」
「うん!それじゃあ、また後でね」
そんな中、ミーナだけが今まで通りに接してくれた。

あの日。多くの巨人と死体を目にしても、壁の外の世界に対する興味は薄れることはなくて。寧ろ、外の世界へ行きたい気持ちがより強くなった。
巨人について知らないことがあまりにも多過ぎる。巨人のことを知らなければ、人類は勝てないと身を以て経験した。
だから学校でも家でもナマエは本を読んで、知識を吸収する。苦手な体育の授業も、真面目に取り組んだ。放課後に教員室に顔を出しては、教師に色々と質問を投げたりした。胸の中に燻る気持ちを隠して。
絶対に調査兵になることを、人知れず心の中で誓う。シガンシナ区で調査兵団の現実を目にしたけれど、結局ナマエにとって調査兵団への憧れが萎むことはなかった。

こうして少しずつ心に空いた穴が小さくなり、あの日からいつの間にか一年半近く経っていて。
壁の中では、十二歳になったら訓練兵団に入団しなければ腰抜けだという風潮が強くなっている。カラネス区も例外ではない。日常が戻って来た感覚を抱き、進路について話が飛び交う頃。祖父からこんな話が舞い込む。
「内地の中等学校に?」
祖父から渡されたパンフレット。それは、アインリッヒ大学付属の中等学校の案内書だった。良質な紙に、重厚そうな建物のイラストが表紙に描かれている。
「この話は、おじいちゃん達とは無関係なの?」
ナマエがカラネス区に戻って以降、祖父は父の代わりにイリス商会の会員に復職した。会長のマルクスと共に、商会の立て直しに力を注いでいる。

あの日の惨劇で、父と母を含めた会員が何人も死んだ。まるで心の空白を埋めるかのように、祖父は商会のために活動していた。
「マルクス会長の友人が大学の理事長でな。巨人生態学という授業もあるそうだ。ナマエは巨人に関する本を良く読んでいると会長に話したことがあったから、覚えてくれてたのじゃろう」
祖父の返答に、ナマエはパンフレットを捲る気が失せてしまった。
商会は、内地で商売が出来るようコネ作りに勤しんでいる。恐らく、この話も内地への足掛かりの一つに違いない。

イリス商会はカラネス区での商売を維持しながらも、売り手市場の開拓や取り扱い商材――銃器や砲台などの武器――の拡大を行なっている。いつまた巨人が攻め込んで来るか解らない現状の中、銃器などを求める一般家庭から駐屯兵団まで客層は様々だ。
「わざわざ訓練兵団に入らなくとも、巨人の勉強が出来る環境じゃ。調査兵団の報告会も行われるから、壁外の環境も知ることが出来る。どうじゃ?素晴らしいと思わないかね?」
「……考えておくね」
自分の夢を汚されたような気分になり、早々に祖父との会話を切り上げてしまった。
ナマエが入学を希望すれば、手続きはマルクスがしてくれると祖父が言う。学校のカリキュラムはナマエの心を惹き付けるものであったが、何から何まで他人に御膳立てされた環境で勉強をしても意味がないと伝えた。
口が酸っぱくなる程に。

「調査兵団に入るのは反対だ!あの日の悲劇を忘れたとは言わせぬぞ。私達がどんな思いでお前を育てて来たと思ってるんか?お前は自分の父と母を失ったんだぞ!次はお前かと思うと……」
「……そんな言い方狡いよ、おじいちゃん!」
アインリッヒ大学付属の中等学校へ入学を進める祖父との溝が深まるだけだった。

ある日のこと。ナマエが学校から帰宅すると家にマルクスが訪れていた。痺れを切らしたのか、はたまた中々首を縦に振らないナマエに対して、祖父が実力行使に出たのか。とにかく、向こうからやって来たのだ。
「ナマエちゃん、久しぶりだね。君の帰りを待っていたよ」
彼は優雅に紅茶を飲んでいた。
「どうもお久しぶりです。お元気そうで何よりです……」
「君のおじいさんから聞いたよ。アインリッヒより、訓練兵団に入りたいそうだね」
マルクスが立ち上がり、窓の前で立ち止まる。彼は何の前振りもなく、本題を話し始めた。
「……死ぬ危険もない環境で、巨人や外の世界を知れるんだ。何故わざわざ命を曝してまで調査兵になろうとするのかね?訓練兵団に入ったとしても卒団出来るのは一握りだと聞いている。訓練中に事故で死んだり、脱落する者が多いらしいと聞くが」
「とても素敵な話だと思います。きっと私が知りたいことが沢山学べる環境なのでしょう……。ですが、お断りします。これは私の人生です」

ナマエは目の前で寛いでいる男へ向けてきっぱりと断った。
「自分の人生、ねぇ。君がここで生活出来るのは、一体誰のお陰だと思っているんだね?私があの避難所から連れて帰って来たからだ。両親を失った君はチャールズ夫妻のお陰で生きている。君はまだ一人で十分に生活出来た試しがない。十二歳はまだ子供なんだよ」
「会長さんの言う通り、私には生活能力はありません。だからと言って、貴方の操り人形にならなければいけない謂れもありません」
「ナマエ!マルクス会長に何てこと言うの……!」
祖母が慌てたように嗜める。決して交わることのない両者の主張。恩着せがましい物言いにナマエは哀しくなった。

「イリス商会は内地の覇権を取りたいのでしょう?そのために私も駒として利用する……。私の夢を勢力拡大のダシにしないで下さい」
「なるほど。命を賭けても良いと思える君の夢とは一体何だね?」
マルクスが腕を組み、商人の目でナマエを見つめる。

数多の人間や商品を己の目で値踏みして来たという膨大な経験が、自負としてこの男にある。
「私には夢があるんです。外の世界へ行って、壁の向こうに続く運河の終着点……“海”を自分の目で見ることです。そのためには巨人のことを知らないと辿り着けない。だから私は巨人のことが知りたい……巨人殺しの技術を身に付けたいんです」
「ウミ……?この壁の外にあるかどうかも解らない、そんなもののために命を賭けると?」
ナマエの回答が予想外だったのか、マルクスの口調に戸惑いが滲む。
「貴方にとっては“そんなもの”かもしれない。だけど私には自分の存在意義に関わる程重要なことです。夢の中で見た“海”が忘れられない。“海”を見れば、何か解るかもしれないんです。もしかしたら、貴方は善意でやってくれているのかもしれないけれど――私の意志は初めから決まっている……」

時に善意は、望んでいない者にとって鋭利な刃物に変貌する。ナマエは黒い瞳で一人の商人を見返した。意見は交わらないが、お互いの視線だけは交わっている。相手はナマエが言う“海”だとか、“存在意義”の本当の理由を理解し切れてないだろう。
きっと“自分探しをするため”に調査兵になりたいと思っているに違いない。酔狂で危ない思想を持った子供だと――。

相手は百戦錬磨の商人で、商会を纏める会長だ。ここで視線を外してはいけない。ナマエはそう思った。束の間の沈黙の後、マルクスがおかしそうに笑った。
「商人は人の目を見て判断するが、君のような目をする人間を私は初めて見た。まあ、良い……条件がある」
「条件……?」
「ミョウジ家は代々イリス商会構成員の家系なんだがね……。ナマエ、君は商会から除籍する。今後ミョウジの姓を名乗らないこと。戸籍もミョウジ家から抜いておく。駒にならない代わりに、訓練兵団でも調査兵団でもどこにでも行くが良いさ」
マルクスの言葉に祖父母が狼狽し、どうかそれだけは取り下げて欲しいと懇願した。
しかし、男の意思は固いようで却下されてしまった。マルクスは靴音を鳴らしながら、リビングを出て玄関へ向かう。
「このまま放り出して死なれたら目覚めが悪い。初等学校卒業までの半年間はチャールズ達に面倒見て貰いなさい。卒業したら君は晴れて自由だ。好きに生きると良い」

振り向き様、男がナマエの瞳を捉える。
「ただ――人はどこかに帰属したがる習性がある。自由程生き辛いものはないよ」

マルクスと約束した半年は、川の水が滞りなく流れるように――あっという間に過ぎ去った。今日は訓練兵団の入団式があり、祖父母の家から永遠に旅立つ日でもある。天気は晴天だ。
ナマエは生活感が消えた自分の部屋を眺める。彼女は今日から、ミョウジ家に存在しなかったことになるのだ。
この家に暮らしていた証を残したら祖父母が哀しむだろう。そう思って、不必要なものを全て処分した。
「そろそろ出発しないと間に合わないか」
そう呟いて、ナマエは自分の部屋を後にした。
「それじゃあ……おじいちゃん、おばあちゃん。行ってきます」

さようならは言えなかった。ナマエは履き慣らしたブーツを履いて、簡単にまとめた荷物を手に取る。
「……本当に行くのかい」
「うん、行くよ」
今更な質問に、彼女は首を縦に振る。祖父母は息子の忘れ形見である孫を会長に取り上げられても、先祖代々受け継がれて来た商会から脱退するという選択が出来なかった。何かを選択するには、何かを捨てなければならない。
商会から脱退すれば、老夫妻の食い扶持がなくなってしまう。マルクスの判断に逆らうことなど初めから彼らは出来ないのだ。
「親不孝というか、祖父母不孝な孫娘で本当にごめんね……。ウォールマリア陥落あんなことがあってもやっぱり私、諦められなくて」
涙が視界が滲む。祖父母の皺くちゃな顔も歪んで解らなかった。祖父は言葉短めに言う。
「たまには手紙を送りなさい」
「え……?連絡取り合っているのが会長さんに見付かったら大変だよ」
「ミーナちゃんの自宅に送りなさい。彼女のおばあさんが協力してくれることになったのでな」
ミーナには迷惑掛けっぱなしだ。ナマエが嗚咽で何も言えないでいると、祖父母が抱き締めて来た。
「……元気でね。他の子達に迷惑を掛けるんじゃないよ」
「……うん」
「ナマエは隠し事ばかりする癖があるから、ちゃんと自分の気持ちを周りの子に伝えなきゃ駄目よ」
「……うんッ」
「手紙、待ってるからな」
「……うん……ッ、行って来ます」
やっぱり、最後までさようならは言えなかった。

一人で涙を流しながらカラネス区の街を歩く。ここに戻って来ることは、もうないだろう。祖父母の家を一歩出た瞬間から、ナマエは姓名を失った。
自由には代償が付き纏う。
彼女は壁の向こうの世界に想いを馳せるあまり、家族と生まれ故郷を剥奪されるという代償を支払った。

ミーナにそのことを告げた時、彼女はナマエに対して怒った。あんなに激怒した親友を目にしたのは初めてだった。家を捨てる程の夢なのかと――。
そして、ナマエのことを心底心配してくれた。辛かったらいつでもうちにおいでよと、そう言ってくれた。あのまま調査兵団への夢を諦めて、マルクスの敷いたレールの上を走れば、人生は安泰だったのだろう。

安全で快適な内地で、好きなだけ勉強が出来る。命を脅かされることもなく。しかし、そうじゃない。それは自分の人生ではなく、他人に用意された人生だ。
いくつかある選択肢から選んだのは、兵士としての道だった。ただ、それだけのこと。

鼻を啜り、涙を拭いた。内門を潜った先は、泣きたいことも辛いことも沢山詰まった訓練場がある。こんなことで泣いていては開拓地送りにされてしまう。ふと、前を見ると。
「……ミーナ?」
内門の前に見知った親友の姿があった。
手には何やら荷物が入った鞄が握られていて、ナマエはミーナがここにいる理由をすぐに理解した。
「ナマエ、遅いよ。待ちくたびれちゃった!」
ミーナはニコッと笑って戯けたように言った。
「何で……?だってミーナは――」
「もう、また泣いたの?そんなんじゃ調査兵になれないよ?」
涙だらけのナマエの顔面を、ミーナが乱雑にハンカチで拭いて来る。
「ねぇ、痛いよ、ミーナってば……」
「これ位我慢する!」
抗議するがミーナに強い口調で却下された。本当に容赦ない。
「はい!これで大丈夫かな」
どうやら拭き終わったらしい。
「見ての通り、私も訓練兵団に行くんだ。別にナマエが行くから私も行くって訳じゃないからね?」
「解ってるよ。でも、ミーナも一緒で嬉しい……」
ナマエがそう言うと、ミーナが小さくクスッと笑う。
「ほら、一緒に行こう?」
差し伸べられた親友の手をナマエは掴んだ。


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