残酷な世界の中で

突如現れた超大型巨人と鎧の巨人の襲撃により、壁の中で百年続いた安寧と人々の暮らしはいとも簡単に破壊された。たった数時間だけで夥しい数の無辜の民の命が失われ――あの日を生き伸びたとしても。仕事も住む場所も、何もかもいっぺんに失ったウォールマリア領の人々にとって残された道は、開拓地へ移るということだった。

人類はウォールマリア全域を放棄し、シガンシナ区に代わってウォールローゼ領南側突出区・トロスト区が人類最前線の街となった。人類に残された土地は減り、食糧難は目に見えていた。
残った二枚の壁の中で人類は、これから先どうやって生き延びて行くのか、王政は選択を迫られている。

巨人の襲撃から一週間。既にこの出来事は内地である王都まで知れ渡っているのだろう。無理矢理押し込められた船は、無事にウォールローゼ南側突出区・トロスト区の船着場に到着した。
それからナマエはトロスト区に設置された、避難民受入れ地区で避難生活を送っている。だだっ広くて無機質な倉庫内に、人一人分のシートが所狭しと敷かれているだけ。ここは命辛々逃げて来た人々で溢れており、プライベート空間は存在しない。

家族連れで避難している者は勿論、子供達だけで避難生活を送っている者も多くいた。敷き詰められたシートの上で人々は、ひとまず今日を生き延びることを考えている。明日のことまで頭が回らないのだ。

食料は一日三回、一人一個のパンと一杯の水が配給されるが、食べ盛りの子供が満足する程の量ではない。ここで避難生活を送る者は常にお腹を空かせている。ナマエも例外ではなかった。

香ばしい匂いと小麦の味わいが飛んしまったパンを、ナマエはもそもそと咀嚼する。口の中の水分がパン生地に吸い込まれて食べる度に余計喉が乾いてしまう程、乾燥していた。
最後の一口を水で流し込む。そんな酷いパンだが、誰も文句は言わなかった。食べ物を食べられるだけ――いや、生きているだけでマシだとナマエは思った。あんな惨劇を目にしてしまった後なら尚更だ。食糧がどんなに酷くても、誰もが我慢している。

ナマエはこの避難所で両親を待っていた。もう死んでしまっていることは何となく解っているが、それでも最後の悪足掻きだ。シガンシナ区から最終便でトロスト区へ逃げ混んで今日で七日が経つ。
あれから一隻もウォールマリア領から船はやって来ていないのが何よりの証拠だ。トロスト区からウォールマリア領へ続く運河の扉は、固く閉ざされてしまっている。運河の扉の先は、人がいない巨人の世界が広がっている。

シガンシナ区をはじめとしたウォールマリア領の住民は、帰るべき家も仕事も失った。過酷な状況を嘆いている暇はなく、明日も生きるために開拓地へ移っている。実際に、ナマエと同い年くらいの子供数名が数日前に、ウォールローゼ内の開拓地へと向かって行ったのを目にした。
このままずっとここにいる訳にもいかないことはナマエも解っている。だけどどうしても諦めが付かない思いと共に膝を抱えた。

シガンシナ区へ戻れるのなら、戻りたい。
誰も住めなくなった土地で、巨人だけの世界に取り残された両親を――あの時助けてくれた駐屯兵も――見付けてあげたい。雨風に曝されて、誰のものとも知れない骨になって朽ちてしまうなんて、とてもじゃないが耐えられない。泣き喚いて楽になってしまいたいのに、涙が出なくてナマエは更に小さく縮こまった。
「君がナマエちゃんだね」
「……どなたですか」
突然名前を呼ばれたナマエは声がした方へ目を向けた。そこには、しっかりと仕立てがされたスーツを来た一人の男が前に立っていた。

豊かな白髪に、優しそうな双眸でこちらを見ている。記憶を探っても男について、どこの誰なのか思い当たらない。警戒心丸出しで男を見据える。
優しそうな風貌の下に、良からぬことを画策している可能性だってある。誰もが極限状態だし、生きるためにはどんなことにも手を染める輩もいる。
「ああ、申し遅れた。私はイリス商会の会長のマルクス・イリスだ……君のお父さんとお母さんの仕事仲間だよ。君がまだ小さい時何度か会ったことがあるんだが、覚えていないか?」
「……そう言えば父さんの仕事場まで付いて行った時、見掛けたような気もします」
男はナマエが不審に思っているのを察したようだ。そう言われてナマエは頭の中の記憶の引き出しを開けてみる。

小さい頃、何度か父の仕事場に付いて行ったことがあるから、その時に会ったのだろう。
「今回の報せを受けてシガンシナへ向かった仲間を探していたんだが……どうやら生き残ったのは君だけらしい」
マルクスと名乗った男は物腰柔らかい口調で自己紹介した後、酷く憔悴した様子で溜息を吐いた。
「……君が無事で本当に良かったよ。こんなことになるなんてね……我々は大事な仲間を失ってしまった」

最後の悪足掻きもさせてくれない現実を告げられる。父と母が、シガンシナの地で朽ちて行く。ナマエのことを助けてくれた、名前も解らないあの勇敢な駐屯兵も。
「嘘だよ、そんなの……、誰かしら生き残っている筈――」
「私だって嘘だと思いたいさ。だが私には、商会を立て直さないとならない義務がある」

商会がどうなろうと知ったこっちゃない。そう口にしようとしたが、唇から溢れでたのは、現実を否定する言葉だった。
「……うそ、だ」
「現実から目を逸らしてはいけないんだ!前に進まざるを得ないんだよ、解るかい?」
マルクスが物腰柔らかな口調から幾分声を荒げる。彼はシガンシナ区陥落の知らせを受けて以来、不安や焦燥感をずっと押し込めていたのかもしれない。
生き残った人間は、死んだ人間の分まで生きなければならない。それがこれから生きる人間の務めなのだ。マルクスに掴まれた両腕が軋む。
「いた、い」
「済まない……!声を荒げるつもりはなかったんだ」
マルクスが気まずそうに謝った。ナマエは唇の端を噛み締める。口内で仄かに鉄錆の味が広がり、不愉快だった。
「さぁ……、カラネス区へ帰ろう。君のおじいさんとおばあさんが待っているよ」

マルクスから差し伸べられた手をナマエは掴んでヨロヨロと立ち上がった。避難所ここに留まるのも潮時かもしれない。
帰るべき場所、仕事や家族を失った人間達は開拓地に行く以外、手立てはない。自分が暮らす家があるだけ、まだマシなのだ。トロスト区からカラネス区まで馬で走って半日足らずで到着する。
「門の表に私の部下が待っている。さぁ……」
「はい……」
促されるようにナマエはトロスト区の避難所からウォールローゼへと続く内門に向かう。ナマエは後ろ髪を引かれて何度も後ろを振り返った。

ひょっとしたら、もう一隻の船がウォールマリア領からやって来るかもしれない。両親が避難所に降り立って、ナマエを探しているかもしれない。
そう思うと、避難所を離れるのが苦痛でたまらなかった。今すぐ駆け出して、自分の存在を声高に叫びたい衝動に駆られる。
不毛な行動を繰り返すナマエに、マルクスはもう何も言わなかった。今にも立ち止まりそうな少女を促すよう、手を強く握って来る。無力な子供が大人を振り切ることも、男の歩みを止められることも出来なくて。
一歩。また一歩と――足を踏み出す毎にトロスト区の避難所が遠くなる。ウォールローゼへと続く内門を潜ると、マルクスの部下が十数名待機していた。黒塗りの馬車も何台か止まっている。一人の部下が、マルクスとナマエの姿を確認して安心したように出迎えた。
「会長……、お待ちしておりました」
「彼女はミョウジ家の娘だ。どうやらこの子以外全員シガンシナ区で全滅したようだ」
「あの報せは本当のことだったのか……」
「とにかく、子供だけ無事で良かった」
「トロスト区を飛び越してシガンシナ区人類の最前線へ勢力を広げようとしたことが間違いだった。カラネス区も安全とは言えなくなってしまったが、また一から立て直しだ。憲兵を抱き込めれば内地での覇権が取りやすくなる。これからまた忙しくなるぞ」
憲兵を後ろ盾に出来れば、弱体化したイリス商会が返り咲くことが出来るに違いない。問題はどうやって憲兵の後ろ盾を得られるかどうかだ。
既にマルクスの瞳は野望に燃え、未来を見据えている。

こんな極限の状態で話す内容ではないだろうに。大人達の遣り取りがナマエの頭上を飛び交うが、彼女にとって商会がどうなろうが正直どうだって良かった。金の匂いに敏感な厭な連中としか思えなくて、不愉快だった。もう聞きたくなくて、ナマエは両耳を塞ぐ。彼女の視線は未だウォールローゼの内門の先にある――もう見えなくなった――避難所へ注がれていた。

マルクスの部下から馬車に乗り込むよう言われたので、大人しく従った。馬車の中はこぢんまりとしているが、横になれる広さはあるようだ。
「これを食べてしっかり休むんだぞ」
そう言われて、食糧が入った紙袋を受け取る。中を覗くとパンと瓶に入った水だった。
「足りなければ声を掛けてくれ。パンしかないが……遠慮するなよ。菓子は持って来てなくてごめんな」
「……いえ、これだけで十分です。ありがとう、ございます」

ふわりと、小麦の香ばしさが鼻を掠めた。馬車がゴトゴトと揺れ始め、出発した。車窓から見る空の色は、澄み渡るくらいの青色だ。一週間前に巨人が襲撃した時の空は不気味な程赤かったのに、今ではあの出来事が嘘のようだ。
そう言えば、調査兵団の帰還に心躍らせていたあの少年は、無事にシガンシナ区から脱出出来たのだろうか。一緒にいたあの少女も。
避難所は溢れんばかりの人混みだったし子供も多かったから、彼ら二人の姿を確認することは出来なかった。生き残っていることを祈るばかりだ。

何だか疲れた。ナマエは横になり、少しだけ眠った。夢は見なかった。
時々休憩を挟みながら馬車は目的地であるカラネス区へ進む。漸くカラネス区へ続く内門が見えたのは太陽が東の空へ沈む夕方の頃合いだった。
「さあ、起きて。帰って来たよ」
「……カラネス区に?」
「ああ、そうだよ」
やっと帰って来たと実感が湧かないまま、ナマエは馬車から降りた。マルクスに手を引かれて内門へ向かって歩く。胸にぽっかりと空いた空洞は、ジクジクと痛みを伴う。両親大事なものをシガンシナ区に置いて来てしまった。
硬い石畳の上を歩くと、コツコツという足音が門の中を反響する。内門を潜るとそこには見慣れた故郷の街並みが広がっていた。

石畳の上に所狭しに建てられた建造物達。市場に集まる人々の影。道端で遊ぶ子供達の笑い声。時を知らせる鐘の音が街中に響き渡る。
噴水から噴き出す水飛沫が、夕陽に反射して目が痛かった。道端に生えている草花は咲き誇り、己の存在を主張している。
カラネス区この街は、生きている。

一週間前と寸分違わない美しい街並みがナマエを迎えた。ここを出発した時は、両隣に父と母がいた。他にも商会メンバーだって数人いた筈なのに。 生きて帰って来て見慣れた景色を目にしたのは、ナマエだけだった。“死”の色を見過ぎた少女にとって、“生”はあまりにも色鮮やかで眩し過ぎて――残酷だった。猛毒のように、彼女の身体を蝕んで行く。故郷の街を目にしても懐かしい気持ちや、帰って来た喜びも特に感じない。

「ナマエ!!」
バタバタと急いで駆ける足音と共に、自分の名前を呼ぶ懐かしい声がした。

その声の主が親友のものだとナマエが認識するより先に、ぎゅっと身体を強く抱き締められた。
「ミーナ……?」
「良かった……もう、駄目かと思った……!」
ミーナの優しい香りがナマエの鼻腔を掠める。ボロボロと涙を流す親友の安心した声が耳元でした。
「シガンシナが巨人が襲撃されたって、ここにも早馬で伝わって――、ナマエのことが凄く心配で……!」
嗚咽混じりに話すミーナは、一度抱き締めていたナマエから身を離した。涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「お帰り、ナマエ!無事で本当に良かった……辛かったよね、もう大丈夫だから……」
お帰り――。 ナマエは漸く帰って来たと実感した。
「うっ、うぅ……」

五十メートルもある壁から覗く――赤い筋肉質が剥き出した――視界に溢れんばかりの醜い顔をした大きな巨人。破壊された町と夥しい数の死体と、赤黒い飛沫。
人々の悲鳴と断末魔が耳の鼓膜を震わした。迫り来る無数の巨人達は、不気味な笑みを貼り付けながら、人間を鷲掴んで口の中に放り込み、食べやすいように人間の身体をあらぬ方向に折って口に含んだ。
もう二度と会うことが叶わない両親と、戻って来なかった駐屯兵。
町に取り残された人々に張り付いた絶望の色。一週間遣り場のない押し込めていた感情が発露して、ナマエの黒い瞳から大粒の涙が零れた。

「父さんと母さんが――、死んだ」

たった一言、ナマエはそれだけ言うとミーナが息を呑んで小さな肩を震わせた。そして何も言わず、再びナマエを優しく抱き締める。それだけで、心に溜まったものを涙として流すことが出来た。心に出来た空洞が痛い。
どうして。どうして、こんな悲惨な目に遭わなければいけなかったのか。両親が、この壁の民が一体何をしたというのだ。残された狭い壁の中で、慎ましく日々の生活を営んで来ただけなのに。
許せない。遣る瀬ない。負の感情を吐き出すために、ナマエはミーナの腕の中で号泣した。彼女はずっと抱き締めてくれた。




ひとしきり泣いてミーナと別れた後、ナマエはマルクスに連れられて祖父母の家に送り届けられた。夕陽が沈み、月が輝く時間になっていた。
マルクスから息子夫婦が巨人の襲撃で犠牲になったと告げられ、祖父母は大いに嘆き悲しんだ。その様子をナマエは涙で腫れた顔で、見ていることしか出来なかった。
「マルクスさん、この子だけでも連れて帰って来てくれて本当にありがとうございます……!」
「ナマエちゃんはあの惨状を目にして心に深い傷を負っているだろうから……ゆっくり休ませてあげて欲しい」
祖母が涙ながら何度も感謝する。マルクスが彼らを宥め続けた。ナマエは三人の様子をただ傍観者のように見ていた。
「会長。私はとうに会員を引退しているが、商会の立て直しに参加させて欲しい。息子が死んでしまった以上、儂にはその義務がある筈」
「……ありがとう、チャールズ。だが、今はこの子のそばにいてくれ。これからのことは改めて相談させて貰う。それじゃあ私も帰るよ。ナマエちゃん、お休み」
「ありがとう、会長さん。お休みなさい……」
マルクスは十数名の部下を引き連れて、夜の闇に消えて行った。
「さあ、ナマエ。疲れただろう?後でホットミルクを入れるから、お風呂に入って来なさいな」

祖母は目元に溜まった涙を拭いた。ナマエは気丈に振る舞う祖母を見上げる。
「……おばあちゃん。私が寝るまで、そばにいてくれる?」
「ええ。おばあちゃんもおじいちゃんもどこにも行かないから、安心しなさい」
その言葉を聞いて、ナマエは漸く人心地付いた。


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