シュレディンガーの缶詰

 まだ一日は終わらない。ラガコ村から出発してから、すっかり陽が沈み暗闇に包まれた。巨人が発見されて既に十時間はゆうに過ぎているだろう。ナマエ達は松明に火を灯して、壁の破壊箇所を特定するために更に南へ馬を進める。ぼんやりとした橙色の温かい色が足元を照らし出すだけでとても心許ない。
一行はウォールローゼの壁際に近いところまで来ているにも関わらず、今のところ巨人に遭遇することはなかった。
 誰も言葉を発することをせず、ただ前に広がる暗闇だけに目を凝らして進む。息苦しい。頬を脂汗が伝い、心臓の鼓動がとてもうるさくてしょうがない。松明を握る手も小刻みに震えている。破壊された穴に近付けば近づく程、巨人という名の“死”が忍び寄って来るような錯覚に陥って――全員、気がおかしくなりそうだった。
 いつ巨人は現れるのだろう。いくら陽の光がない夜は巨人の活動が鈍ると言われていても、六人の人間が「どうぞ食べて下さい」と言わんばかりの無防備な状態に曝されているのだ。捕食するなら格好の餌食だろう。こんなに緊張を強いられるくらいなら――。いるなら早く出て来て欲しい。否、やっぱり出て来て欲しくないと、ナマエは頭の中で無意味な押し問答を繰り返す。緊張が最高潮に達した時。目の前に見知った顔が暗闇に浮かび上がった。
 西班に配属されたユミルとクリスタも無事のようだ。
「お前らも壁に沿って来たのか?」
「ああ……、それで……穴はどこに?」
ゲルガーの問いにナナバは続ける。
「ここから西に異常は見付からなかった。そっちが見付けたんじゃないの?」
「いや……こちらも穴など見ていない」
ナナバとゲルガーの奇妙な遣り取り。リーネが見落とした可能性を示唆するも、ヘニングが否定する。
 そもそも、巨人が侵入して来れる程の穴に誰も気付かないはずがない。日が暮れて視界が悪かったとしてもだ。奇妙な点はそれだけではない。壁際ここ まで来るのに、一度も巨人と戦闘すらしなかった。となれば、壁が破壊されたということ自体が眉唾物だ。
 ならば、あの巨人達はどこからやって来た?ラガコ村が破壊されていたのはどう説明する?
 だめだ。ほぼ一日中、生と死の緊張感に曝されながら馬に乗り続けたのだ。疲れていて思うように思考が続かない。さっきからずっと、同じところをぐるぐる巡るだけ。ナマエは考えることを止めた。
「流石に馬も我々も疲労が限界に来ている。今以上の集中力は期待出来ない。せめて月明かりでも……」
丁度、風で雲が流れて満月が顔を出す。青白い光の中にぼんやりと古びた城が浮かび上がった。
 青白い月明かりに照らされた城跡のような建物で、一行は馬と身体を休めることにした。石造りの城は、古びた看板に“ウトガルド城”と印されている。壁の内側にも位置しているにも関わらず、一体何と戦うために建てられたのか定かではない。どの年代に建てられたのか不明だが、状態を見るにかなり古い建築物のようだ。
 城壁として積まれた石は、老朽化で崩れかけている。当時の姿形をなんとか保っている有様で、ちょっとでも揺れれば、すぐに崩れてしまいそうだ。
「野宿よりマシだ。今夜は一晩ここで休息を取る」
ナナバが先導して城内へと足を踏み入れた。
「……焚き火の跡があるぞ。おい、見ろよ。これ食い物かな?」
コニーは四つほど積まれた木箱を漁っていた。
「良からぬことを企む奴らにとっては、ここは絶好の隠れ場所って訳か」
 食糧を少し拝借・・して腹の足しにする。焚き火の跡の近くには、ポットやコップなどの日用品がそのまま放置されていた。つい最近までこの古城は誰かの根城だったようだ。きっと破落戸ならずものがいっときの住処にしていたに違いない。数人横になれるスペースもあるので、巨人がいるかもしれない森の中で野宿するよりずっと良い。一晩だけの仮宿としては十分だ。
「お前達新兵はしっかり休んでおけよ。日が沈んで結構経っているからもう動ける巨人はいないと思うが、我々が交代で見張りをする。出発は日の出の四時間前からだ」
「あの……、」
 クリスタがおずおずと口を開いた。
「もし、本当に壁が壊されていないとするなら、巨人はどこから侵入して来ているのでしょう?」
「それを突き止めるのは明日の仕事だ。今は身体を休ませることに努めろ」
そう言って、ゲルガーは見張りをするために屋上へと続く階段を登って行った。
ナマエだけでなく、誰もが今回の巨人の襲撃に関して奇妙な点を持っているようだ。
「当初想定した程のことは起こっていないんじゃないでしょうか?何と言うか……」
「ああ。壁が本当に壊されたにしては、確かに巨人が少ないようだしな」
「西班も巨人と一度も遭遇しなかったのですか?」
「そうだね……。私達が巨人を見たのは皆と一緒にいたあの時だけだ」
ナマエの問いに、ナナバが答えてくれた。
「コニー。お前の村は?」
「壊滅した。巨人に踏み潰された後だった……」
コニーの言葉に場の空気が暗くなってしまった。ユミルがコニーに気遣わしげに一声かけたが、彼は断言した口調で故郷について語る。
「でも、誰も喰われてない。皆上手く逃げたみたいで、それだけは良かったんだけど」
「……村は壊滅したんだろ?」
コニーの含みがある物言いに、ユミルが首を傾げた。
「家とかは壊滅されたけど、村の人々に被害はなかったんだ。もし喰われていたら、その……、血とかの跡が残るもんだろ?それがないってことは――つまりそういうことだろ。ただ、ずっと気になっていることがあってよ。オレの家にいた巨人だ。自力じゃ動けねぇ身体で何故かオレの家で寝てやがった。そいつが何だか――母ちゃんに似てたんだ」
「え……?コニー、それ――詳しく教えてくれる?」
 ナマエの心臓は高鳴った。背後からベルトルトの咎めるような視線を感じたけれど、気付かない振りをする。まさか。そんなことってあり得るだろうか?
「あ、ああ……、いや。オレも良く解らねぇんだけど、何かそんな気がして。あの巨人さ、オレに“オカエリ”って――」
「コニー。お前まだ言ってんのか、そんなこと」
ライナーが良い加減にしろとでも言いたげな雰囲気を声に含ませた時、ユミルがほんのりと頬を赤らめて唐突に笑い出した。
「お前の母ちゃん巨人だったのかよ!?じゃあ何でお前はチビなんだよ、オイ!?お前馬鹿だって知ってたけど、こりゃあ逆に天才なんじゃねぇか?」
「うるせぇな、何か馬鹿らしくなって来た……」
その笑い声にコニーは毒気を抜かれてしまったようだ。
「つまりその説が正しければ、お前の父ちゃんも巨人なんじゃねぇのか?じゃねぇと……ホラ、出来ねぇだろ?」
「クソ女もう寝ろ!」

 薄桃色の桜の花弁が舞う中にナマエは一人で立っていた。ここ数年見ることがなかった“自分だけが知っている記憶”の夢だ。夢の中で泣いていた。巨人に生命を脅かされることもなく、好きなように謳歌出来る特別な場所が愛おしい。
“日本”の記憶を見ても、彼女はそこで自分が何をしていたのか――壁の世界に生を受けた契機きっかけを未だに思い出すことが出来ない。霞みがかって何も見えないのだ。だけど、ナマエにとってそれは重要なことではない。寧ろ記憶がない方が良い。どんなことをしていたのか知らない方が幸せに決まっている。
 もし“日本”の両親が生きているとしたら、彼らは娘の所在を心配しているのではなかろうか。行方不明の娘の帰りを待っているのかもしれない。そう想像すると胸が締め付けられた。一度だけ、グリシャからとても興味深い物語を聞かせてもらったことがある。その物語は幼心に深い傷痕を残した。
 遠い昔の神々の物語。冥界その世界の食べ物を口にすると元の世界には戻れない掟により、神が住まう楽園から冥界の住人になった女神の物語。異界の食べ物を身体に取り込むと元の世界に帰れないという法則があるのなら、壁の世界の大地で育まれた食糧を取り込んで生きて来たナマエは既に手遅れだから。
いや、既に“死んでいる”としたら。
――きっともう、帰れない。
 この世界に生まれ“記憶の夢”を見るようになってから、ナマエは一度だって帰れる方法を探すことをしなかった。諦めというより、どこかで無意味だと解っていたからだ。それでも、壁に囲まれた世界で生きるには目的が――理由が必要だった。そうでないと、残酷な世界で生きるには耐えられそうにないから。彼女が夢見ているのは、地図にない希望ゆめの場所。

 ゆっくりと目蓋を開けると、涙が頬を流れた。頭が痛い。泣きながら寝ていたのか。視界に広がるのは薄桃色の桜の花弁なんてなかった。剥き出しの石畳。乱雑に積まれたいくつもの木箱。赤黒く燻っている焚き火。クリスタ、コニー、ベルトルトが眠っている姿があった。
 ナマエが生きている世界は壁の中の世界ここ。あるかどうか分からない、自分だけの記憶の中にある世界ではない。あんな夢を見たから、少しだけ感傷的になっているのかもしれない。ナマエは起き抜けのぼんやりした頭でそう思った。
 もぞもぞと起き上がって涙を拭う。城内を見渡してみると、ユミルとライナーの姿がない。まだ出発まで時間がある。無防備なまま城の外に出て万が一巨人に出くわしてしまったら――大変なことになる。
「二人を探さなきゃ……」
ナマエは周りを起こさないよう静かに立ち上がる。キョロキョロと辺りを見渡せば、隣の部屋からうっすらと明かりが漏れている事に気が付いた。音を立てずにゆっくりと扉を開けてみれば、ライナーとユミルが驚いたような顔でこちらを振り返った。
「……何だ、お前か。ビックリさせんなって……なあ?ライナー」
二人の姿を確認して、ホッと安堵の息を吐いた。
「良かった、ここにいたんだね。起きたら二人共いなかったから心配したよ……。ライナー、何持っているの?」
「ナマエ、これ何て読むか分かるか?」
ライナーが手に持っていた物をナマエに渡す。掌に収まる程度の大きさの缶詰だ。松明の橙色の灯りを頼りにラベルに印されている文字を追うと、初めて見るものだった。
「何て読むの?」
「“にしん”と読むらしいぞ」
「へえ。この文字、“にしん”って読むんだ。初めて知ったよ」
「俺も読めなかったんだが、ユミルは読めるらしいぞ」
缶詰・・なんて久しぶり・・・・に見たよ、どこにあったの?」
 手渡された缶詰をしげしげと眺める。
「だいぶ年季はいってるね。 まだ食べらるか・・・・・・・な?」
「ナマエ……、“にしん”って食べられるのか?」
ライナーの言葉にナマエは缶詰からすっと目を離すと、強張った面持ちのユミルとライナーが何も言わずにこちらを見つめていることに気が付いた。
「え、何……?どうしたの二人共……」
 彼ら二人の視線は――まるで、亡霊を見たかのように――大きな戸惑いが滲み出ていた。何か変なことでも口走っただろうか。不可解な気持ちを抱きながらも、硬直したままのライナーとユミルを見返す。松明がゆらりと揺れ、ライナーとユミルの顔の陰影がより一層濃くなる。
 どうやら二人は鰊が魚であることを知らないらしい。一瞬だけ不気味な程の間の後、背後が慌ただしくなった。
「全員起きろ!屋上に来てくれ、すぐにだ!!」
 リーネの慌てた声で瞬時に眠りから醒めた他のメンバーと共に、ナマエとライナー、ユミルも石段を駆け上がる。屋上に出ると満月がとても近くて眩しかった。太陽に反射して一度死んだ月の光が照らし出した光景に、全員が目を疑った。
 ウトガルド城周辺に何体もの巨人が迫って来ていたのだ。深夜の刻限にも関わらず、巨人達は昼間と同様の生き生きとした表情で――城の周りを彷徨いたり、城壁をよじ登ろうとしたり――蠢いている。巨人の原動力は日光ではないのか?夜でも動き回れる巨人なんて今まで聞いたこともない。目の前で起こっている信じられない事態。全員の身体に動揺が走り抜けた。
「オイ!あれを見ろ!!」
コニーが何か見付けたらしく、指をさしている方へ皆が目を向ける。
 とても不気味だった。長い両手。尖った両耳。猿のように毛むくじゃらの体毛で覆われた巨体。他の巨人とは一線を画す異様な風体のそれは、大きな足音を響かせてゆっくりと歩いていた。ウトガルド城には興味を示すそぶりもしないで、そのまま真っ直ぐ壁の方へ向かって行く。
「巨人……?ていうか、何かじゃねぇか」
「あれは、……?奇行種なの?」
ウトガルド城に目もくれない巨人の姿を見たナマエは呟いた。その呟きを、ユミルに聞かれていることも知らずに。
「下がっているんだよ、新兵。ここからは立体起動装置の出番だ」
 月明かりに反射して煌めく超硬質素材のブレード。武装していたナナバ達が、ウトガルド城に群がる巨人の大群へ突っ込んで行った。
「まだ……、巨人のことだって何も解らないのに……!」
誰しもが劇的に死ねる訳でもなく――況してや死ぬ場所すら選ぶことも出来ない現実に直面して、ナマエは自然と身体が震えた。兵士でいる限り、きっとどこかで死ぬタイミングが来る。それを承知で調査兵団を選んだけど、いざその時が迫って来ると強張ってしまう。死ぬことの恐怖というより、まだ生きたいという気持ちの方が強い。
 上官達が巨人を次々と斃して行くのを、塔の一番上から見守ることしか出来ない。冷たい夜の空気に熱い蒸気が上がる中、立体起動で移動して来たリーネの口から、最悪の情報が齎される。城の扉が破られて巨人が侵入してしまったのだ。
「急いで中に入ってバリケードを作って防いで!防げなかった時は、最悪この屋上まで逃げて来て!でも……、それも必ず助けてやれるってことじゃないからね?私達も生きていられるか解らないから」
 森の方に目を向ければ、夜中だというのに――まるで日中のように――生き生きとした表情で跋扈する巨人達。いくら上官達が腕っ節が立つからと言っても、ガスやブレードが尽きれば終わりだ。状況は圧倒的に不利であることに変わりはない。
それでも最初から“諦める”という選択肢はなかった。嘆いている暇があるのなら、少しでも生き延びるための選択をするだけだ。今、やるべきことは何なのか。
「でも、やることはいつでも同じさ。生きてる内に最善を尽くせ!」
「――了解!!」
 完全無防備なままでは巨人の餌食になるしか道はないだろう。それでもジャンだったら。ふと、ナマエは思う。こんな絶望的で理不尽な状況でも、彼は最善な選択をするだろうから。どうしてこんな時にジャンのことを思い出すのか解らなかった。
 だけど少しだけ勇気がじんわりと湧いた。身体の震えもいつの間にか収まっている。ミーナとの約束があるから。後悔しながら死にたくない。生き残って外の世界を見るまでは――死ねない。同期に倣ってナマエもその場から屋内へと走り出した。

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