悪魔の甘言

ナマエは、他の壁内人類と比べて変わっている少女だとベルトルトは思っている。その印象は三年間の訓練兵時代を経ても、変わらなかった。今、仰向けのまま動けない一体の巨人の姿を見つめる少女を目にして、ベルトルトは得体の知れない薄ら寒さを覚えたのだ。

三年間を思い返すと、ナマエは訓練兵入団式である通過儀礼で教官を含めた全員を前にして、壁の外に行きたいと宣言していた。巨人に対する考え方や捉え方が、エレンのように憎しみや憎悪を燃やすこともなかった。彼女は他の人間と大分変わっている。外の世界に行く手段として、巨人の起源や生態を知りたいといつも言っていたのだ。
巨人の生態や調査兵団による壁外調査の報告結果についての講義は熱心に受けているし、図書室で調べ物をしている姿をベルトルトは何度か見かけることもあった。

何故わざわざ死ぬかもしれない危険を犯してまで、外の世界に行きたいのか。ベルトルトにも、理解出来なかった。彼女と同じような目的を持つエレンは、何かと突っ掛かって来るジャンと良く喧嘩を起こしていた。だけどナマエに至っては、同期達から変な奴だと思われているものの、誰かと衝突することもなく――それこそアルミンやマルコと一緒に勉強したり、時にはミーナと一緒にアニに格闘術を教えて貰っていた。そう、ナマエは上手く他の人間と関係を築いていた。

壁内ここはベルトルトの故郷よりずっと自由を謳歌出来る、楽園と呼ぶに相応しい場所だというのに。外の世界にはエルディア人にとって自由なんて存在しない、虐げられた冷たい世界しか広がっていない。でも外の世界の記憶がない彼ら壁内人類は倖せなのかもしれないと、ベルトルトは島の悪魔ナマエ達に対して、憎しみと哀憫と羨望という複雑な思いを抱いてしまった。
この壁の中の悪魔達は、巨人に対して恐怖と憎しみを胸の中に抱きながら生きている。

八四五年に、ウォールマリアの扉が破壊されて多くの人間が巨人の餌食になった。エレンは母親を巨人に喰われた恨みと絶望を、あの蜂蜜色をした瞳に宿らせている。勿論、ナマエの両親も巨人に喰われたらしいと――本人から聞いている。だから、大層巨人のことを憎んでいるのだろうとベルトルトは思っていたのだ。エレンと同様の黒い憎悪が、ナマエには見受けられなかった。
巨人のことを敵として認識しているにも関わらず、外の世界に行く手段のために巨人についての知識を吸収しようとしている。



その日は調整日だった。ライナーは今日も頼れる皆の兄貴分として、エレンとアルミンと共にローゼ内を散策しに行っている。何だか今日は一日ぼんやりていたい。毎日苦しい訓練に幾分疲れてしまったのかもしれないし、はたまた――胸の中で日々成長する罪悪感と虚無感を空っぽにしたいと思ったのか、ベルトルトはライナーからの誘いを珍しくも断った。

一人で訓練場の裏手にある雑木林の中を進む。小鳥の囀りと心地良い風が、まるで傷心しているベルトルトを癒してくれているようだった。雑草を踏み分けて、暫く登り坂を登ると――訓練場を一望出来る見晴らしの良い場所に出る。ここはベルトルトのお気に入りの場所である。
こうして眼下に広がる訓練場だとかローゼの街並みを見下ろしていると、幾ばくか心が凪いで行く。
「何だ、先客がいた」

見知った人物の声がした方へ振り向くとそこにはナマエがいた。手に一冊の本を持っている。
「一人なの?ライナーと別行動だなんて珍しいね」
何て言いながら彼女はこちらへ歩みを進めていたが、ふと立ち止まる。
「あ、もし一人でゆっくりしたいなら……別の場所に行くけど」
「大丈夫だよ、そんなに気を使わないでくれよ」
そう言うとナマエは良かった、なんて言いながらベルトルトの隣に腰を下ろした。
「そんなに僕がライナーと一緒じゃないのが珍しいかな?」
「大体いつも一緒じゃない。ご飯を食べる時も講義の座席も隣だし、調整日の時も一緒に行動すること多いしさ。本当に仲良いよね」
「そう言う君も今日はミーナと一緒じゃないんだね。君達は幼馴染なんだろう?」
アニの名前も一緒に出て来ない辺り、今のところ“ライナーと同郷”という設定は周囲には怪しまれていないようだ。
ベルトルトがそう言うと、ナマエが気の抜けた声で、まあねと答える。
「……今、喧嘩中だから。落ち着こうと思ってここに来たんだ」
「……そ、そうなんだ」

不味い話題だったようだ。だから二人は今週中何となくピリピリした空気を纏っていたのか。喧嘩の内容を聞く程、自分は野暮な男ではないが――正直、興味はない。
「それよりさ、ベルトルトはここに良く来るの?」
「うん。ここから見える景色を見ていると落ち着くから」
「私も良く来るよ。ここは静かだから落ち着いて本が読めるしね」
そう言ってナマエは本をページを捲って読み始める。風に揺れる葉の音。小鳥の囀り。そして乾燥した紙の音。あまりにも平和で穏やかな時間。
「何の本を読んでいるの?」
「アンヘル・アールトネンの伝記」
ナマエが簡潔に答えれば、二人の間に会話が途切れてしまった。

ベルトルトは何故か少しだけホッとする。ナマエから、何故一人でここにいるのか理由を聞かれなかったからだ。もしかしたら、ベルトルトが一人でいようがいまいが、彼女にとってはどうでも良いことなのかもしれない。
ベルトルトはこの沈黙の時間が気まずいとも思わなかった。心地良い風が二人の間をすり抜けて行く。

だから、だろうか。独り言を言うように――胸に溜まった負の感情が――唇から漏れ落ちる。
「何だか最近夢見が悪いんだ」
「……どんな夢を見るの?」
呼吸三回分の間の後、ナマエが聞いているようで聞いていない声音で反応する。彼女の視線は、静かに活字を追っていた。
「壁が壊された日の夢だよ。僕とライナーが住んでいた村は、壁が壊された知らせが来るより先に巨人が来たんだ」
島の悪魔達に話すつもりは毛頭なかったのだが、唇から零れ落ちた言葉を止めることなんて、ベルトルトには出来なかった。
「僕にはライナーともう一人の幼馴染がいたんだ。あの日、僕達は三人で巨人から逃げようと無我夢中だった。でも……もう一人の幼馴染が巨人に掴まれて――目の前で食べられてしまった。僕は、逃げるライナーの背中を無我夢中で追い掛けた」

この場で真実を口にすることなんて出来やしない。だからベルトルトは最も賢くて――狡い手段を取ることにした。事実に嘘を混ぜたのだ。
ふと、開拓地にいた男が頸を括ったことを思い出す。今なら、あの男の心境を何となく理解出来る気がする。きっと、ベルトルトは自分が犯した罪を誰かに裁いて欲しいのだ。裁判官が、隣に座っている悪魔であろうとも。
「友達を助けることが出来たかもしれないって、ずっと悔やんでいるの?」
おもむろにナマエが本から視線を外す。

巨人によって親しかった者を亡くした者同士だと言うのに、ナマエの黒い瞳は無感動なまま。ベルトルトの話を聞いてどう思ったのか、感情の機微が伝わって来ない。同情や哀憫は一切なかった。ただ、湖の湖面のような凪いだ視線だけが返ってくるだけ。
「……そう、かもしれない。マルセルはとても頼りになるヤツだったから」
マルセルを喰った巨人の本体は今頃どこで何をしているのだろう。限られた時間の中で、束の間の自由を――謳歌しているのだろうか。

あの時は気が動転してしまい逃げるライナーの背を必死に追ったけれど、後で冷静になってみると失態を犯してしまったことに気が付いて、絶望した。
あのまま故郷に戻ったとしても、このまま右往左往していても待っているのは死あるのみ。
「今でこそライナーは皆から頼れる兄貴みたいに思われているけれど、昔は僕もライナーもマルセルに頼りっぱなしだったんだ。彼は僕達のリーダー的存在で、仲間想いだった。機転も利くから彼がいればきっと何があっても大丈夫だって、思っていたよ」
「とても仲が良かったんだね、マルセルって子と」
「……仲間だったからね」
この壁を壊してからずっと仕舞い込んでいた感情を少しだけ吐露出来て、ベルトルトは少しだけ気が楽になった。

マルセルを失って以来、ライナーは必要以上に壁の悪魔達の“良い兄貴分”を演じている。時折ベルトルトはライナーへ目配せすることがあるが、彼はいつまでマルセルの真似をし続けるのだろう。
あの日。超大型巨人ベルトルトが壁越しから覗いたシガンシナ区の光景は、まるで精巧なレプリカのようだった。悪魔を根絶やしにするために、ウォールマリアの扉をいとも簡単に蹴り上げて壁の中最後の楽園を地獄に変えたのに、悪魔の末裔達は故郷にいる家族達と何ら変わらなかった。

だからベルトルトは――開拓地で過ごした二年間も、訓練兵になった今でも壁内人類に心を寄せることをしないよう生きている。それが唯一の防衛策だと解っているのに、胸の中で生まれた罪悪感はどうして消えてくれないのだろう。
「でも、僕はマルセルの仇を取りたいから訓練兵に入団した訳じゃないんだ。僕は臆病だから……特権階級狙いでここにいる。もし、上位で卒団出来ないなら全部放棄するかも……しれない」
消えてくれない罪悪感を緩和させるには“兵士の振り”をするのが一番だと、ベルトルトは知っている。
「君は通過儀礼で言ったよね。“巨人に奪われた外の世界を取り戻すために来た”って。それって、御両親の仇を取るためなのかい?」
「……ベルトルト」

パタンと、本が閉じられた音。そして、凛とした声で名前を呼ばれる。
「あの場で公に心臓を捧げたヤツなんていやしない。キース教官はそれを見抜いていたのかもね」
「それじゃあ……、一体何のために外の世界に行くの?だって…… ここにいれば・・・・・・平和に暮らせるし、巨人に喰われることもないんだよ?」

ベルトルトは自分が加害者にも関わらず、とても酷い言葉を口にしていることに気付いて――知らない振りをする。ナマエは隣に座っている男が、ウォールマリアを陥落させた張本人だとは全く知らない。
「ねぇ、ベルトルト」
もう一度、名前を呼ばれた。
ここにいれば・・・・・・平和に暮らせるなんて、まるで他の場所だと私たちが・・・・・・・・・・ 平和に暮らせない・・・・・・・・みたいじゃない?」

ぞくりと、背筋が粟立つ程の悪寒がベルトルトを襲う。一瞬で言葉を失ってしまった。

つい先程まで静謐だった黒い瞳は希望の輝きを帯び、色白の頬もほんのりと紅く蒸気する。どうして彼女は、あんなにも愛おしそうに外の世界へ想いを馳せるのか。まさに悪魔だと思った。ベルトルトは何一つ言葉を返すことが出来なかった。
墓穴を掘ってしまうかもしれない。今更ながら、首筋に恐怖が纏わり付いて苦しい。恐怖で口の中が乾いて上手く発音出来やしない。そんなベルトルトの様子にお構いなしのナマエは、一人で夢見心地の少女みたいにうっとりしている。
「やっぱり海ってあるのかな?子供の頃にね、見た夢なの。浜辺に打たれる波の音や海の味とか――灼け付く太陽の熱さとか鮮明で。その夢を見る度にどうしても帰りたいって思うんだ」
心臓が厭な音を立てる。ぐらりと視界が歪んで、平衡感覚が保てない。隣にいる女の正体を暴きたい衝動に駆られた。
「……おかしいよね、私の居場所は壁の世界ここなのに、今更どこに帰るっていうの?」
どうやら無言でナマエを凝視していたらしい。ベルトルトがどんな気持ちで、今の話を聞いていたのか知りもしない島の悪魔はキョトンとしている。
「ベルトルト……どうしたの?そんな怖い顔して」
「いや、何でもないんだ。その……、君の話があまりにも現実離れしていて――」
「“驚いた”?」
「……ごめん」

彼女から不審に思われてはならない。ベルトルトが海を知っているなんてナマエは全く考えてないだろうし――それこそ外部からの侵入者であると言うようなものだ。それに、必要以上に壁内人類と関わるべきではない。

冷静になれ。ベルトルトは“兵士の振り”はするけれど、“兵士”ではないのだから。
「良いよ、自分でも解ってるから」
「ナマエは……あるかどうか解らないもののために、兵団ここにいるのかい?」

ナマエは――一体、何者なのか。

女の口から零れる言葉を耳にして、ベルトルトの頭の中に最もあり得ない可能性の一つが浮かぶ。それはベルトルトを酷く動揺させるのに十分過ぎる程だった。悪魔エルディアの口から零れ出た言の葉が戦士マーレを誑かす。

誰でも良いから――誰かに自分達を見付けて欲しくて堪らなかった。その相手が壁の中にいながらも、外の世界に想いを寄せている悪魔だとしても。
「私はこの世界のことなんて何一つ知らないの」
純真無垢な悪魔がそう言った。

ハッとして隣を見ると――彼女はいつものように柔和な笑みを浮かべ――底なし沼みたいな黒い瞳がこちらを見つめていた。深淵に絡め取られてしまいそうだったから、ベルトルトは直ぐに視線を女から外して眼下に広がるローゼの街並みへ目を向ける。
「君の夢は――」
男は悪魔を――辛うじて――拒絶した。そして更に追い討ちをかけるように。
「とても……、酔狂なだ」
残酷な外の世界や巨人の秘密を彼女が知ったら、滅びの道を従順に受け入れてくれるだろうか。
「……そう。私は酔狂なのためにここに来たの」
悪魔ナマエは少しだけ寂しそうに笑った。



何故今になってこんな取るに足らない記憶が滲むのだろうと、ベルトルトは思った。その原因は、目の前に横たわっている同胞の哀れな姿に他ならない。ナマエだけが、目を輝かせたように――まるで一縷の希望を目の前の巨人に見出したような純粋無垢な眼差しを向けているからだ。
ベルトルトは心の中で問う。君は、一体何者なのだと。


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