人類史上最悪の日

ナマエにとって生まれて初めての壁外調査は、故郷であるカラネス区の住民から、突き刺すような冷たい視線を浴びる結果となった。

兵団内に紛れているらしい諜報員の存在。突如襲撃して来た女型の巨人。何も詰まっていない巨人の項部分。多くの仲間が壁の外で巨人に喰われて死んで逝った。失った命に報いる結果すら、まともに出すことも出来ずに。

エレンが所属するリヴァイ班の班員も死亡したと、後からユミルが教えてくれたのだ。リヴァイ班のメンバーの遺体を回収したのは、ユミルとクリスタだという。
「……エレンは無事なのかな」
アルミンの推察やジャンの話を聞く限り、女型の巨人はエレンを探していたようだ。

何故女型の巨人が彼を求めていたのかは解らないが、エレンには巨人化能力の他に何か秘められた力があるのだろうか。巨人の生態の謎に今一歩辿り着けないナマエが考えても、答えは出て来ない。
「……こんな結果じゃ、エレンは中央に呼び出されるだろうな」
気怠そうにユミルが人ごとのように言ってのけると、横からクリスタの咎める声が聞こえる。二人の応酬をナマエはぼんやりと聞いていたけれど、言葉はぐるぐると頭の中を旋回して反対側の耳から出て行っただけ。一日中出突っ張りで――何より死と隣り合わせの空間にいたので――疲れてしまっていた。

厩舎に入って馬を繋ぎ、荷解きをして先輩兵士から命じられた雑務を終えた後ナマエ達は、鉛のような身体を引き摺り部屋に向かう。漸く硬いベッドに横になれる。全員、おやすみと挨拶することもなく睡魔に呑み込まれて行った。

「ナマエ……ナマエ!ねぇ、起きて!」

それからどれくらい時間が経ったか解らない。誰かに名前を呼ばれているような気がするし、そうじゃないような気もする。夢と現実の狭間を彷徨いながら、ナマエは自分の意識が深い海の底から水面へ急上昇している感覚を覚えた。
「ん……、クリスタ……?」
寝惚け眼のまま起き上がると、部屋はランプの柔らかい灯りが広がっていた。クリスタの整った顔が視界に入る。彼女は寝巻きではなく、何故か白無地のシャツと薄桃色の長いプリーツスカートを身に付けていた。

緩慢な動作でカーテンの隙間へ目を向けてみると、地平線からとオレンジ色を帯びた細い光が伸びており、新しい一日の始まりを告げようとしていた。丁度日の出の時刻なのだろうか。入眠してから思ったより寝ていないことになる。
「一体どうしたの?まだ――」
まだ夜が明けたばかりだ、と言おうとしたナマエをクリスタが遮った。
「ナナバさんから出発命令が出たわ。ここから離れたローゼの南区で待機することになったみたい。武装は不要、私服で構わないって」
「出発命令?どうして……?」
思わず本音が口から零れ落ちてしまう。

ここから移動して待機するためだけに、早朝に叩き起こされたのだ。加えて昨日の疲労が回復し切れていない。ナマエじゃなくても、誰だって安眠を妨げるに値する理由じゃなければ顔を顰めたくもなるだろう。兵団内に壁の破壊を目論む諜報員が紛れている切迫した状況だというのに――いや、この情報は箝口令か何か敷かれているのかもしれない。

ナマエの疑問にクリスタは小首を傾げて、少しだけ困ったような表情をする。どうも腑に落ちない。起きたばかりのまだ覚醒仕切っていない脳内では、上手く思考が組み立てられない。クリスタも、どう言って良いか思案しているようだ。中々進まない二人の応酬に、支度を終えたらしいユミルが代わりに答えになっていない答えを返してくれた。
「私達だって上官から詳しい説明すらされてないんだから、解る訳ないだろ?クリスタを困らせる余裕があるならあんたもさっさと支度しな」
「ちょっと、ユミル。そんな言い方ないでしょ?」
ユミルのぞんざいな物言いに苦言を呈しているクリスタを尻目に、ナマエは仕方なくもそもそと身体を動かす。

関節がミシッと唸り身体も重たい。昨日の壁外遠征の疲れはあまり取れていないようだ。本来なら今日は調整日で休みの筈なのに、朝早く叩き起こされるとは思ってもみなかった。もう一度布団に入って惰眠を貪りたいという欲求を断ち切って、ナマエはスキニーパンツに手を伸ばす。
「……そういえば、ミカサは?まだ部屋に戻って来てないの?」
寝巻きを脱ぐと、早朝特有の張り詰めた空気が体温の生温さと混じって更に冷たく感じた。ナマエはこの瞬間がちょっぴり苦手だったりする。せっかく自分の心地の良い体温に浸っていたのに、外部から無遠慮に侵された気になるからだ。
「もしかしたらエレンの看病で医務室に泊まってるのかも。ナナバさんから出発命令が出た時も、ミカサの名前がなかったから……」
クリスタの答えにナマエも納得してしまう。昨日の壁外調査でエレンが怪我を負ったのであれば、ミカサなら側につきっきりでも何らおかしくない。
「おい、芋女、起きろよ。いつまで寝てんだ?後十五分で出発だぞ!」
中々起きて来ないサシャをユミルが乱暴に揺すって叩き起こしていた。
「……朝ご飯、ですか……?」
むにゃむにゃと寝言混じりのサシャの声がした。

まだ半分夢の中にいて覚束ないサシャの着替えをクリスタが手伝うことになり、私服に着替えたユミルとナマエは厩舎から馬の準備をすることにした。空は徐々に白み始めている。
「せっかく生きて帰って来たってのに、休む暇もないとはな。今日は昼頃まで寝てやろうと思っていたのにさ」
ユミルが馬に鞍を取り付けながら苦々しく呟く。
「本当にナナバさんから何も聞いてないの?」
「何だよ、私があんたに嘘を言ってるとでも?」
ユミルが良い加減にしてくれと言いたげに、大きな溜息を吐いた。それでもナマエは怯まない。
「そうじゃないけど……」
「お前らも叩き起こされたのか」
すると、欠伸を噛み殺しながら眠そうなライナーが厩舎にやって来た。
「ライナー、お前一人だけか?珍しいこともあるんだな。いつも一緒にいるベルトルさんはどうした?」
「ベルトルトはコニーを起こしてから来る。その間にオレが三人分の馬の準備をする訳だ」
「ふぅん、そうかい」
ユミルはさして興味なさそうに相槌を打ち、もう一体の馬の胴体に慣れた手つきで鞍を取り付ける作業を続けている。その隣でナマエはユミルの様子を眺めた。

彼女が最も興味を持つものと言えばクリスタだ。訓練兵時代から二人は仲が良かったとナマエは記憶している。百四期生の女神様ことクリスタへ注がれる同期からの視線と、ユミルが向けるそれは種類が違っていたように思う。
ナマエを含めて、クリスタに向ける視線の殆どは友人としての信頼や憧れだったり、年頃の男子からの淡い恋心が大半だった。しかしユミルのそれは、どれにも当て嵌まるものではなく――クリスタの本質を見つめ、時に慈しむような視線だった。
言葉遣いは荒いし、時に男っぽい振る舞いをするユミルがあんな優しい瞳をするなんてナマエは驚いたものだ。同時に普段は粗野な振る舞いをするユミルが、慈しみや柔らかな雰囲気を醸し出させてしまうクリスタの本質をナマエは気になっている。

でも、彼女の本質を見抜けるのはユミルしかいないのかもしれない。クリスタ自身も、他とは異なる彼女からの視線を不快に思っている様子もなかったから、外野から見ていれば二人は本当に仲の良い友人――という印象なのだ。
今みたいに何の説明もされずに叩き起こされて、不愉快に感じているもののクリスタと一緒なら別に構わないのだろう。
「ライナー達は何か説明された?例えば……これから何をするのか」
「コイツさっきからそればっかなんだ。何か聞いていれば説明してくれよ」

ユミルが鬱陶しそうに溜息を吐いた。
「いや、悪いが何も説明されていない。武装は不要、私服に着替えろとしか聞いてねぇな」
「……そう」
「詳しい説明は後でされるんだろう。周りを見てみろ。オレ達百四期しかいないし、立体起動装置も不要と考えると緊急事態でもなさそうだぞ」
ライナーに言われて松明に照らされている厩舎の中を見渡してみれば、同じように数名の同期が目をしょぼしょぼさせながら私服姿で馬の支度をしている。ナマエ達と同じように叩き起こされた証拠だ。

本当に緊急事態なら武装不要な訳がない。女型の巨人の襲来と、姿の見えない諜報員の存在に少しだけ神経が過敏になっているのかもしれない。きっと、そうに違いない。
「ナマエ、手が止まってる。早く馬にハミを付けてくれよ」
「あ、あぁ……、ごめんユミル」
頭の中で、つい考え事がぐるりと回ってしまって手が疎かになってしまっていた。ナマエは手にしていたハミを急いで馬の口に取り付け始めた。

馬の準備が整い、広場に向かうと数十人の上官が既に揃っていた。彼らは全員兵団服に身を包み腰には立体起動装置を付けている。幾分、緊張した空気が漂っている気がしてナマエは少しだけ違和感を覚えた。眠い目を擦りながらコニーとサシャが、クリスタとベルトルトに連れて来られる。二人はまだ寝ぼけ眼のままだ。
「全員揃ったな。我々はこれからローゼ南区にある施設に向かい二日、三日待機する予定だ。その間お前達新兵は訓練はせず、待機しているだけで良い」
分隊長であるミケ・ザカリアスから簡潔な任務内容が伝えられると、百四期生が怪訝そうな顔をする。

この反応も想定済みだと言わんばかりに、更にミケが畳み掛けて来た。
「悪いが質問は一切受け付けない」
上官がそう言ってしまえば、ナマエ達はそれに従う他ない。それが兵団に属する者の秩序なのだ。
「上出来だ。……出発するぞ!」
馬の蹄が辺り一面に響いた。ナマエは釈然としない気持ちのまま馬の手綱を握って進んだ。馬の立髪が夜明けの風に煽られて、滑らかに流れた。




壁から離れたローゼ南区は周囲を山に囲まれた、のどかな――戦いとは一切無縁の場所である。その一角に、数十人が寝泊まり出来る石造の施設があった。ベッドルームと共同の炊事場と浴室。食堂や書斎、武器保管庫も完備されていて、調査兵団所有の施設のようだ。
この施設に移ってから丸一日が経つものの、ナマエはこの状況がどうしても腑に落ちなくて、周囲の様子を窺っていた。

あまりにも平和過ぎて、不審がっている自分がおかしいのではと錯覚してしまいそうになる。上官から訓練不要と命令されているため、百四期生は食堂に集められ手持ち無沙汰だった。
困惑している気持ちを抑えるためにお喋りしたり、静かに読書やチェスをして上手く時間を潰して過ごしている。

案の定、軟禁状態に痺れを切らしそうな二人は不満を零し始めていた。
「何で帰っちゃ駄目なんだよ。ここからオレの村が近いのに、やることもなく一日過ごしているだけじゃねぇか」
「私の故郷も近いですね」
コニーとサシャの暇を持て余すような会話を耳の端で聞きながら、ナマエは腑に落ちない理由を探すことにした。何もしないでぼんやりすることも、読書やチェス、お喋りに興じるゆとりすらなかった。

まず、ここに移動して待機するという明確な意図が見えない。一昨日の壁外遠征で巨大樹の森でも、まともな説明すらされなかったのと同じように、ここでも何の説明もないまま一日を過ごしてしまっていた。武装も訓練も不要なら、わざわざこんな所に連れ出さなくても本部で待機していれば良い。何も、早朝に叩き起こされる必要もなかった筈だ。
つまり、本部から早急に離れなければならない何かしらの事象や理由があった筈。その理由を、ここにいる新兵に説明することが困難な状況――というところだろうか。
「あ、れ……?」
同期の人数が足りないような気がする。ナマエはもう一度周囲を見渡してみる。百四期だけを連れ出す意図とは一体何だろう。

アルミンが推察していたことを思い出しながら整理してみる。この壁の内側にエレンと同じように巨人化出来る人間――“女型の巨人”と仲間の諜報員が存在している。諜報員達が、どうして壁の破壊を目論む理由は定かではないが――。
「アルミン……?」
先般の遠征は兵団に隠れている諜報員を炙り出すための作戦だったらしい。本来の目的を覆い隠すためにダミーの作戦を用意する程、細心な注意を払って壁外調査は決行された。結局彼らを捕らえることは出来ずに帰還した訳だが――。

そこまで考えたナマエは息を呑んだ。どうしてエレン、ミカサ、アルミン、ジャンがここにいないのだろうか。
「おかしいと思わねぇか。何で私服で待機なんだ?“兵団風も着るな”、“訓練もするな”だぞ?更に疑問なのは上官達の完全武装だ。ここは前線でもねぇ。壁の内側だぜ?何と戦うってんだ?」
「この辺りは熊が出るからな」
「熊なら鉄砲で良いだろう……。皆訳が解らなくて困惑しているが、寛いでいるのはお前らだけだよ。いっそ抜け出して上官の反応でも伺いたい気分だ」
ライナーが何か言っているが、ナマエはそれどころじゃなかった。

今、この瞬間も諜報員を炙り出す作戦が密かに継続していたら。そう思うと途端にお腹に冷たいものが流れ、ナマエは自分の考えにぐらりと眩暈を感じた。仮にそう・・だとしても。どうして百四期なのか根拠が解らない。

仲間を疑うなんてどうかしている。
「……ナマエ。さっきから顔色が良くないけど、具合でも悪いのかい?」
不意にベルトルトに声を掛けられたて、思考の海から現実に戻された。
「へ!?」
こちらを心配そうに見て来るベルトルトに、自分達は壁の破壊を目論む諜報員の疑いを掛けられて、軟禁されている可能性があるなんて――。信じてもらえないだろう。
「どうしたんだよ。さては、腹でも下したか?」
どう答えて良いかナマエが思案していると、コニーは真面目な顔で冗談を言う。
「さっきから難しい顔して黙っていたから何かと思えば……」
「……そ、そうだね!ちょっと席外すよ」
ライナーも呆れたように言うので、何だか否定することも面倒になってしまったナマエは腰を上げた。とにかく一旦落ち着きたかった。
「足音みたいな地鳴りが聞こえます!」

突然サシャが慌てたような声を出したので、各々暇潰しに興じていた全員が彼女に注目する。
「何言ってんだサシャ?ここに巨人がいるって言いたいんなら……ウォールローゼが突破されたってことだぞ?」
「サシャ、そんな悪い冗談止めてくれよ……。ここは壁の内側だぜ?」
「本当です!確かに足音が――!」
「全員、いるか?」
勢い良くナナバが窓辺に着地した。上官の顔に焦りが浮かんでいるのを見て、全員が只事ではない雰囲気を感じ取ってしまった。
「五百メートル南方より巨人が多数接近。こっちに向かって歩いて来ている。君達に装備をさせてる暇はない。直ちに馬に乗り……付近の民家や集落を走り回って避難させなさい。良いね?」
「南方、から……?」
「壁が壊されたってことなのか?」

ライナーとベルトルトはお互いに青白い顔をしていた。
「そんなことって……」
「さあ動いて!!残念だけど仕事が終わるまで昼飯はお預けだ!」
その掛け声がきっかけで各々が厩舎へと直行した。ナマエも自分の鞍とハミを手に取って皆の後を追う。

昨日までの平和は今この瞬間崩されたのだ。いや、昨日のあれは嵐の前の静けさ――の方がしっくり来る。壁は再び破壊されたと考えて良いだろう。
気掛かりなのは破壊された穴の規模だ。トロスト区の時と同じように手頃な大岩が都合良くある筈ないから、穴を塞ぐことなんて不可能に近い。また多くの人間が死ぬことになるのかと、ナマエは馬を走らせながら唇を噛んだ。

人類史上最悪な日が更新されてしまった。
突如降って湧いた凶事に無防備なまま放り出されるなんてナマエも他の皆も思ってもみなかった。だが、五年前や一ヶ月前のあの日だって大事なものが一瞬で破壊されたのだ。巨人はどうやら人間達を休ませてくれやしないらしい。
「あの巨人達が林まで到達したら一斉に離散する!それまでに四つの班を構成する!百四期と武装兵で構成した班を東西南北に分ける。戦闘は可能な限り回避し、情報の拡散に努めよ!」
人や集落を発見次第離散することになった。南班は、壁が破壊された箇所を特定するために他の班より人数を割く作戦だ。
「誰かこの地域に詳しい者はいるか!?」

先頭を走るミケが叫んだ。
「はい!北の森に故郷があります!その辺りの地形は知っています。あと、コニーも……」
「南に……っ、南にオレの故郷があります。巨人が……来た方向に。近くの村を案内出来ます!その後……、オレの村に行かせて下さい」
「解った……南班の案内はお前に任せる」
「コニー、オレも行く」
「多分……南が一番危険だ。巨人がいっぱいいる」
「何言ってんだ、さっき抜け出しに加担するって言っただろ。お前はどうする?ベルトルト」
ベルトルトは一瞬だけ考えた後、「勿論……僕も行くよ」と言葉短めにそう言った。
「私も行く」
「な……、何言ってんだお前!南は危険だから他の班にしとけ!」
「南班は人数が必要でしょ、無茶はしない。それに……こんな状況じゃどの班に行っても同じだよ」
「……クソッ、ヘマすんなよ!」
ナマエがそう言うと、ライナーはもうそれ以上何も言わなかった。
「巨人共が林に到達したぞ!!」
掛け声と共に巨人の集団へ目を向けると、九体の巨人がゆったりとした足取りで建物の近くまでやって来ていた。
「離散せよ!最高速度で駆け抜けろ!!」

それぞれが班ごとに散り散りになる瞬間。巨人達は、巨体を不規則に動かしながら大地を揺らすような足音を立てて、こちらへ猛烈な速度で迫って来る。
「速い!追い付かれるぞ!」
「さっきまで歩いていたのに一体何で……!?」
九体全てが奇行種だったとは思わなかった。
「ゲルガー!南班はお前に任せた!」
ナマエは単騎で乗り込んで行く分隊長の姿を目に焼き付けた。

コニーの案内で南班は更に南に向かって進むこと数時間。空の真ん中に位置していた太陽も傾き、辺りは夕焼け色に染まり始めていた。施設から出発して以来、幸いなことに巨人に全く遭遇することもなかった。順調に馬を南へ進めれば進む程、コニーの焦燥感が募るばかりで、南班は殆ど彼を追い掛けているような状態だった。
「待て、コニー!落ち着け!!どこに巨人がいるか解らんぞ、一旦下がれ!コニー!」
漸く前方に民家が点々と見えて来たので、目的の場所に到着したらしい。ライナーからの呼び掛けにも耳に入っていないコニーが、一心不乱に馬の速度を上げて村へと駆けて行った。頭の中は家族の安否でいっぱいなのだろう。
ライナーがその後を続き、ナマエも後を追ってラガコ村へと入った。



マグカップが床に落下してガチャンと割れる不快な音。床に散らばる大小様々な破片。飲み物と共に不吉な予感がジワリと広がる。
「クソ、ついてねぇな……」
悪態を付いたジャンは、飛び散ったマグカップの破片を拾うためにしゃがみ込んだ。

憲兵による事情聴取から漸く解放されて一息入れようと思ったのに。深い溜息を吐く。こんなにも胸の中が鉛のように重く――モヤモヤしている理由は明白だった。
壁の破壊を目論む裏切者――諜報員が兵団内にいる。諜報員の炙り出しを決行した先日の壁外調査で得た女型の巨人という存在。その女型の巨人捕獲作戦を実行してから既に一日が経っていた。

結果から言うと、ストヘス区内で行われた捕獲作戦は成功したとは言えなかった。しかし、失敗したという訳でもない。女型の巨人がジャン達の同期であるアニ・レオンハートだったという信じ難い結果だけを残したまま。
彼女の目的――何故壁の破壊を目論んでいるのか、エレンを攫うのか、マルコの死について何か知っているのか――を聞き出すことも出来ないまま。アニは地中深くの地下牢で懇々と眠り続けている。硬い水晶体に全身を覆われた様子は、まるで冷たい棺の中で眠っているようだった。

どんな理由や大義があって壁を破壊したのか。何の釈明すらせず殻に閉じ篭ってしまったアニに対して、ジャンは卑怯だと憤った。出て来いと怒鳴った。出て来て落とし前を付けろよと、何度も何度も水晶体を割ろうと試みたが結局割ることは不可能だった。どんな大義があったとしても、何の罪もない人間が数え切れない程死んで良い理由にはならない。そう思ってしまうのは、自分が甘い人間だからなのか。

それだけ聞くと失敗したように思えるが、諜報員の一人を捕まえたという事実は、巨人に蹂躙されて来た人類にとって大きな前進でもあった。未だ嘗てない戦果と言えるだろう。しかし何よりもジャンの気持ちを重くしているのは、アニの他にまだ裏切者が存在している可能性があるということだ。
あろうことか、アルミンは同期である百四期生の中に紛れているのではないかと考えている。壁外調査から帰還後すぐに、アルミンの発案で同時に組まれたアニ捕獲作戦と諜報員隔離作戦。
現在も百四期新兵はウォールローゼのどこかの施設で軟禁されているらしい。正直、コニーやライナー、ベルトルトなどのメンバーの中に裏切者がいるとはジャンには思えなかった。

いや――思いたくないのかもしれない。頼り甲斐のあるライナーや、気弱なベルトルト、仲間想いなコニーや、食い意地が張っているサシャ。同期生全員の女神クリスタと言動が粗暴なユミル。そして外の世界を見たがっているナマエ。その他の仲間達。ジャンの頭の中に同期達の姿が浮かんでは消えて行く。
女型の巨人の身体から水晶体に包まれたアニの姿を目にしても、ジャンは未だに信じられなかったのだ。

アニとはそんなに仲が良かった訳ではないけれど、やっぱりショックだった。彼女が敵だろうが何だろうが、三年間同じ釜の飯を食って来たという事実は揺るがない。散らばったマグカップの破片を拾い集めている内に、一息入れる気が失せてしまった。床に零した飲み物の始末を終えたら、大人しく部屋に戻ってベッドに横になって休もう。
捕獲作戦の準備で慌ただしく動いていたから休む暇もなかった。と言えば聞こえは良いが、何かしていた方が煩わしいことを考えずに済んだからだ。それに、長時間の意味のない事情聴取はジャンをとても疲れさせた。
そもそも、一介の新兵でしかないジャンから憲兵は何を聞き出そうとしたのだろう。有益な情報を聞き出せると思ったのならヤツらは間抜けにも程がある。

エルヴィンをはじめとした調査兵団幹部から聴取する方が、手っ取り早いではないか。何もお互い時間のロスをする程暇ではない。まさか調査兵団を失脚させるネタでも掴もうとしたのだろうか。
「……いや、それはねぇか。考え過ぎだ」

雑巾で床を拭きながら鼻で嗤う。本当に疲れているのかもしれない。先日の壁外調査で既に調査兵団の支持母体は失墜しているし、民衆から冷たい視線を嫌という程浴びたばかりだ。壁の中の世界で、調査兵団に期待している人間はいやしないだろう。
そう思っていると、何やら食堂が騒がしくなる。
「何かあったのか……?」
不審に思いつつ耳を傾けると、耳を疑いたくなるような状況を突き付けられたのだ。
「ウォールローゼが突破されて、既に大量の巨人が入り込んでいるらしい!」
「“超大型”がまた現れたって話だ!ストヘス区ここが最前線になっちまうのか……?」
食堂にいる憲兵達が騒付いて、色々な憶測があちらこちらで無遠慮に飛び交っている。

ウォールローゼが突破された。もしそれが本当なら――。
同期あいつらがいる場所じゃねぇか!」

五年前のウォールマリア陥落と共にトロスト区に押し寄せて来た大量の避難民。絶対的な守護の象徴だった壁の脆さを目の当たりにしながらジャンは育って来た。
ただでさえ狭い壁の中は食糧難なのに、ローゼの土地を放棄してシーナだけで残りの人類を賄えるとは思えない。本当に壁が突破されたとしたら、ピクシスの言う通り人間同士の争いが原因で人類滅亡を迎えることになるのは間違いない。
「ジャン!ここにいたんだね、探したよ……!」

本部を走り回ってジャンを探していたらしいアルミンが荒い息をしながら食堂に入って来た。ジャンはアルミンが落ち着くのを待てずに問い質す。
「ウォールローゼが突破されたってのは本当なのか!?皆パニックになって、勝手な憶測ばかりで何が何だか解んねぇよ」
「本当だよ……!ローゼの壁が突破された……!被害の状況確認と壁の破壊箇所の特定は、駐屯兵団の先遣隊が確認中だ」
そうなれば自分の生まれ故郷であるトロスト区も放棄することになるだろう。ローゼ内で避難生活中の両親と、軟禁状態の同期達の安否が気懸りだ。厭な冷や汗が背中に伝った。
「壁に穴が空いたとなれば、エレンの巨人の力が必要かもしれない。エレンには消耗しているところ悪いけど……出動の身支度をして貰っているよ」
「あいつらは……無事なのか?」
諜報員かどうか確たる証拠がないという理由で、何の説明もないまま軟禁されているナマエ達。彼女達に何かあったら――。
「……解らない。でも、数十名の上官達が付いているから持ち堪えてくれるのを祈るしかない。とにかく、エルヴィン団長が部隊を編成してエルミハ区まで進行する手筈を整えているから、ジャンも急いで支度してくれ!」
ジャンはアルミンの後に続いて駆け出した。武装していつでも出発出来るように整えなければならない。
女型アニを捕らえたと思ったら、今度は巨人の襲来かよ……!」
結局アニは喋れる状態でもないので、マルコの死について聞くことも出来ないまま。壁の中に超大型巨人が潜んでいたという衝撃の事実。そして今回の巨人達の襲撃。

アニは懇々と眠り続けているし、挙げ句の果てに、壁の中に巨人が眠ってる非常識なことが判明したばかりだ。一体この先どうなってしまうのだろう。


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