世界でたった一人の味方

外門から憲兵団本部が引き連れた二台の護送馬車が、ガタゴトと音を立てながらやって来た。あの馬車のどちらか一台に、エレンがいるに違いない。
今ここで、エレンを奪取するのは得策ではない。護送馬車の両脇には、護衛の憲兵がぴったりと張り付いているし、民家の屋根の上や公道脇等そこかしこに憲兵の目がある。そして、巨人を削ぐことを生業としている調査兵団幹部も護送馬車に乗っているのだ。

まさに袋の鼠。ここで手を出せば、エレンを奪取することが出来るかもしれないが、同時にアニが捕縛される可能性も高い。ハイリスク、ハイリターン。アニは考えあぐねる。得られる成果と、それに伴う危険性を天秤にかけてみる。グラグラと揺れる天秤の腕が覚束ない。両方手に入れられる可能性は――。駄目だ、あまりにもリスクが高過ぎる。
だけど、エレンが王都に消えて行くのをこのまま指を咥えて見ている訳にもいかないのだ。だってアニには、故郷で待っていてくれる人がいるのだから。

護送馬車が目の前を過ぎれば、その後を追うようにマルロ達がバラバラと駆け出す。結局考えた結果、アニはひとまず任務に当たることにした。
「アニ」
ふと、足が止まる。誰かに聞かれないよう密やかに、だけど拒否はさせないと言わんばかりの意志を持った声だった。呼びかけるその声は、三年間の訓練兵生活で耳に馴染んでしまったものだ。
弱虫な癖に強くて、だけど優しい声。それは、先日の壁外調査でも耳にしたのと同じものだった。

振り向かなくても、それが誰なのかアニには解った。駆け出す足が止まる。目の前から、どんどん遠ざかって行く同僚達の背中。野次馬達も、護送馬車の進む方角へぞろぞろと移動する。
誰一人、アニが立ち止まったことを咎めるどころか全く気付いていない。憲兵団の指揮系統の杜撰さが、白日の元に晒された。暫く立ち止まった後、アニは声がした方へ導かれるように、建物と建物の間の狭い路地を縫って走った。そこには――。
「やぁ……もうすっかり憲兵団だね」
「………アルミン」
雨具を羽織りフードを目深に被ったアルミンが、薄暗くじめじめした路地裏にぽつんと立っていた。

何故、彼がここにいるのか。嫌な予感がするのに、アニの心臓は冷静さを欠くことなく一定のリズムで鼓動する。調査兵団と共に無防備なエレンがストヘス区を通って王都へ行く。アニにとっても相手にとっても、またとない千載一遇のチャンスなのだ。
とは言え、まさかアルミンから出向いて来るとは思っていなかったので、アニは少々驚いた。つまり、そういうこと・・・・・・だろう。
次に会うとしたら、もしかしたらと思っていたけれど、まさかこんなに早く目の前に現れるとは。嫌な予感というものは大概当たってしまうものだ。あの時・・・“死に急ぎ野郎”に反応したことがまずかったのだろうか。
アルミンがストヘス区に来ているということは、同郷の二人もいるのかもしれない。

心の内をアルミンに悟られぬよう、いつもと変わらない口調でアニは質問する。ひとまず、“兵士としてのアニ”を演じるのだと心の中で唱えた。
「どうしたの?その格好」
「荷運び人さ。立体起動装置を雨具で見えないようにしているんだ、ほら」
そう言ったアルミンが雨具の裾を持ち上げると、腰に取り付けられた立体起動装置が鈍色に光った。
「……どういうこと?」
「アニ。エレンを逃すことに協力してくれないかな」
目の前に現れたアルミンの蒼い瞳の中に、アニは自分の姿を見付けた。そこには、宣戦布告を受けた一人の戦士が無表情に映っていた。



ジャンは二日間自分なりに考えてみたことがある。アルミンが、百四期生の中であえて自分をこの作戦に参加させた理由だ。
あの場で女型の巨人の足止めを提案したのは他でもない自分だ。これは覆しようのない事実である。だからこそ、今回の極秘作戦の一部に参加するに至ったのだ。ジャンは、アルミンの決意の固さと非情さを垣間見ている。仲間を疑うことを厭わない――無垢のように見せかけた――何かを。

作戦に参加しているものの、自分に与えられた役目はエレンの身代わりになることである。仮にジャンが諜報員だったとしても、問題の少なそうな役割ならば作戦に大きな支障も出ない。おまけに、周囲は憲兵団とエルヴィンもいるのだ。
下手な動きは取れないだろうことを、アルミンなら見越している筈だ。

しかし、ジャンはそれで良いと思っている。自分の身の潔白は自分で晴らすしかない。エレンの影武者に徹することで、潔白を証明出来るのであれば――例え不本意な変装であっても――ジャンは腹を括った。

護送馬車は順調にストレス区の街中を進んでいるようだ。事前にエルヴィンから、護送中は憲兵団が街中を護衛するらしいと聞いている。屋根の上、公道から憲兵達がご護送馬車と並走しながら見守っている筈。それにしても、駆り出される人間が多過ぎるのではないか。
「何に対しての護衛なんだ?」
壁の破壊を目論む諜報員は別として、この狭い壁の中で王政に逆らう人間がいるとは思えない。明らかに対エレン用だろう。

見た目は自分と同じ十五歳の少年で、ただの人間なのに。巨人になれるというだけでエレンは地下に押し込められ、不自由な生活を余儀なくされている。アイツは化物じゃない、人間だと言ったところで、エレンの巨人の姿は多くの人間が目にしているのだ。エレンから、じゃあ俺は一体何だと問われたらジャンは胸を張って答えることが出来る。――死に急いているただの人間である、と。

しかし、周囲はそう見てくれない。表向き、厳かな雰囲気の外で――憲兵が感知しないところで――アルミン達は、女型アニの捕獲作戦を実行している。
作戦は上手く行ってるのだろうか。今頃どうなっているのか、ここからだと全く解らない。
護送馬車の中で、ただひとすらじっとするだけ。己に与えられた任務であるものの、やはりもどかしい。

すると、突如大きな爆発音がストヘス区全域を襲った。街のどこかから、人々の恐怖の叫びと共に鋭い閃光が街全体を包み――それは護送馬車の中にいるジャンにも届いた。
この爆発音を耳にして、瞬時に状況が理解出来てしまった。捕獲作戦がアニに見透かされて巨人化されたか。もしくは、エレンが巨人化したか、どちらにせよ――。
「この街も破壊されるってことか……!」
トロスト区故郷と同じように。

突然の爆発音に驚いたのか、護送馬車が急停車した反動で、ジャンの身体は前の方につんのめる。強打した額を押さえながら、車窓のカーテンを少しだけ捲って周囲の様子を窺った。屋根の上にいる護衛班も困惑している様子である。街の向こうから煙が上がり、建物が崩れる音と何か地響きに似た振動がこちらまで伝わって来る。
「護衛班!ここは良い!状況を見て来い!!」
「了解です!」
「ナイル!全兵を派兵しろ。巨人が出現したと考えるべきだ」
「ここはウォールシーナだぞ!巨人など現れる訳がない!」
憲兵団団長がエルヴィンの言葉に狼狽した。慌てふためく外のやり取りを耳にして、もう替え玉作戦を決行する意味もないだろうとジャンは思った。

ならば――今、何をするべきか。居ても立っても居られなかったジャンは、護送馬車から飛び出すように降りた。
「待て!動くなイェーガー!」
「変装ごっこは終わりだ!二度とその名前で呼ぶなよ、馬鹿ヤロー!」
頭に被せた黒髪のカツラを乱暴に剥ぎ取り、傲慢な態度を取った憲兵に向かって捨て台詞を吐いてやったジャンは、エルヴィンとリヴァイの元へ駆けた。
「団長!オレも行きます!」
「装備は第四班から受け取れ」
「――了解!」
手に持っていたローブをさっと羽織ると、リヴァイが声を掛けた。
「威勢が良いのは良いが、死なねぇ工夫は忘れるなよ」
「はい!」
表情とは裏腹なリヴァイの気遣いにジャンは一つ返事をして、女型の巨人と戦闘になっているであろう場所へ急いだ。

恐怖の表情を顔に貼り付けて、叫びながら逃げ惑う民衆の間を逆走する。屋根の方へ目を向ければ、憲兵達が口を開けてぼさっと突っ立ったまま、目の前で起こっている光景にどうして良いのか戸惑っていた。考えてみればここは内地だから、巨人を目にする機会なんて全くない。彼らが思考停止になるのも無理はないだろう。
巨人の脅威から遠ざかり、安寧の日々を手に入れるために憲兵になったのだから。憲兵団を選んだ自分の、もしもの姿がそこかしこにあった。
「……のんびりしやがって!オレだって本当は“アッチ側”にいられたじゃねえか。それがどうしちまったんだかなぁ……!」

生気のないマルコの顔。誰のものか解らない黒焦げの燃え滓。あの夜、憲兵を選んでいれば壁外で女型の巨人と戦闘することもなかったし、アニが敵だなんて知ることもなかった。
同期が疑われて、どこかの施設に軟禁されていることも知らずに。日々の職務に当たり適度にサボり、――悠々自適に内地の生活を楽しんでいただろうに。悪態を一つ吐いた。
ジャンは今、一人の調査兵として――息を上げながらストヘス区を走り回って仲間の元へ急いでいる。
本当に、何でこうなってしまったのだろう。



エレンを逃がすにしても、王政の命令に逆らってこの壁の中のどこに逃げるというのか。審議会勢力を引っ繰り返す材料の根拠について質問しても、目の前のアルミンは固く口を閉ざして、「ごめん、言えない」とだけ言った。
本当に――“言えない”だけなのだろうか。
こちらへ姿を現すタイミングが良すぎて、猜疑心が募っていく。アニは深く溜息を吐いた。
「悪いけど……話にならないよ。黙っといてやるから勝手に頑張んな」
簡単なフォローを目の前の少年に投げて、くるりと踵を返す。勝手に持ち場を離れてから、少し時間が経ってしまった。別にアニ一人いなくても、護衛任務は滞りなく回る。しかしこのままアルミンと一緒にいれば、自分の身が危なくなるかもしれない。

元来た道へ戻ろうとすると、アルミンから焦ったような声音で呼び止められた。
「お願いだ、このままじゃエレンが殺される!何にも解っていない連中が自分の保身のためだけに、そうとは知らずに人類自滅の道を進もうとしている!」
こちらとしても、エレンが殺されてしまうのは困る。長い時間行方不明だった巨人を、故郷に持ち帰ることが出来ればきっと――。
「説得力がないことは解っている……!それでも……、大きな賭けをするしかないんだ」
「あんたさ……私がそんなに良い人に見えるの?」
足を止めたアニは横目でアルミンを見つめた。

先日の壁外調査でエレンを連れ去ろうとした張本人に、エレンを救うよう頼むなんておかしいではないか。
「良い人か……。その言い方は僕はあまり好きじゃないんだ。だって、それって……自分にとって都合の良い人のことをそう呼んでいるだけのような気がするから。全ての人にとって、都合の良い人なんていないと思う。誰かの役に立っても、他の誰かにとっては悪い人になっているかもしれないし……、だからアニがこの話に乗ってくれなかったら……」
アルミンは一旦そこで言葉を切ってからほんの少しだけ黙った後、こう言った。
「アニは僕にとって悪い人になるね……」
その言葉を皮切りに、薄暗くて狭い小路は静寂に包まれる。無言だが、互いの腹の中を探るような居心地の悪い空気感。アニは肩に掛けたマスケット銃を路地に置くと、アルミンが望む言葉を口にする。そちらがその気なら。
「良いよ……。乗った」
右手の人差し指に指輪切札を嵌めた。エレンを奪取出来るなら、賭けてみる価値はある。

コツコツと靴音を鳴らしてストヘス区の裏道を、荷運び人に化けたエレン、ミカサ、アルミンをアニは引率する。同郷の二人の姿はどこにも見当たらない。下手に彼らのことを聞いて墓穴を掘るのは宜しくないので、アニは無表情のまま歩を進める。
「キョロキョロしない」
エレンが落ち着かない様子で周囲を見回しているので、ミカサから窘められた。
ストヘス区に入ってから瞬時に、エレンと入れ替わるようにジャンが護送馬車に乗り込んだとアルミンが説明してくれた。つまり憲兵はジャンを護衛していることになる。間抜けにも程がある。
「ねぇ……。私が協力しなかったらどうやって壁を越えるつもりだったの?」
「立体起動で突破するつもりだったんだ」
「無茶じゃない?そもそもストヘス区に入る前に逃げた方が、こんな面倒も掛からなくて済んだ筈でしょ?何で今ここでなの?」

ひゅう、と軽く吹いた風が通りを吹き抜ける。ここは裏道だからか、あまり人がいない。そう、不自然・・・なくらいに。
「この街の入り組んだ地形が、替え玉作戦の成功率を上げると思ったからさ。それに真っ向から逆らって逃げるよりも、ある程度従順に振舞って警戒心を解いてからの方が逃走の時間を稼げるからね」
さり気なく探りを入れた質問にも、アルミンが淀みない口振りで完璧な解答を出してくれる。どこからどう見ても矛盾点がないので、アニは取り合えず納得する素振りをしてみせた。

つまり、アニの警戒心を解こうという腹積もりなのだろう。暫く無言で歩みを進めると、地下道の入り口が見えて来た。
「昔計画されてた地下都市の廃墟が残っているんだ。これがちゃんと外扉の近くまで続いている。地上を歩くよりはるかに安全だよ」
入口は薄暗くて先が見えないし、おまけに空間は狭いだろう。
「本当か?すげぇな……」
アルミン、エレン、ミカサが地下道に続く階段を降り始める姿をアニは――無表情を貼り付けて――歩みを止めた。

ここを通ってはいけない。頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響く。やっぱりアルミンは気付いていた。数段降ったところで、エレンがアニに声を掛けて来た。
「アニ?何だ、お前……まさか暗くて狭いところが怖いとか言うなよ?」
「……そうさ、怖いんだ。あんたみたいな勇敢な死に急ぎ野郎には……きっと、か弱い乙女の気持ちなんて解らないだろうさ」
「大男を空中で一回転させるような乙女はか弱くねぇよ……馬鹿言ってねぇで急ぐぞ!」
呆れたような口調でエレンがそう言うと、アルミンとミカサも無言で階段を降り始める。彼らが一段、また一段と降る程、疑惑が確信に変わっていく。
「いいや、私は行かない。そっちは怖い……。地上を行かないんなら協力しない」
強い風が地下道へ引き込まれる。まるで目に見えない魔物が手をこまねいているみたいだった。落ち葉や塵屑が暗い深淵へと消えていく。

不思議と風が吹く音だけがアニの耳に入って、鼓膜を震わせる。人の気配すらないこの場所は、不気味な程静かだ。だけど、皮膚をチクチクと刺す異様な緊張感が自身に纏わり付いていることに、アニはずっと前から気付いていた。
「な……、何言ってんだテメェは!?さっさとこっちに来いよ、ふざけてんじゃねぇ!!」
「エレン、叫ばないで」
「大丈夫でしょ?ミカサ。さっきからこの辺には何故か――全く人がいないから」

変わりに感じるのは、止むことを知らない不気味な風と共に運ばれて来る数十人からの突き刺すような殺気にも似た視線と――。
「全く……、傷付くよ。一体いつからあんたは、私をそんな目で見るようになったの?……アルミン」
眼下からこちらを見つめて来るアルミンの視線には、“恐れ”と“疑心”が内包されていた。アニ、と震える声で名前を呼ばれる。
「何で、マルコの立体起動装置を持っていたの?」
それは質問の体裁だが、明らかな確信を持っている。エレンが息を呑む気配が空気の振動で伝わって来た。
「僅かな傷や凹みだって……一緒に整備した思い出だから、僕には解った」
「そう……。あれは……拾ったの」
核心に迫る問いを投げつけられて、ゾクゾクと背中が粟立つ。アニはアルミンの疑問に一つずつ答えることにした。周囲を敵に囲まれているのに、どうしてこんな行動を取っているのかアニにも解らない。

だって、ここまで来たら何を答えたって疑いが晴れる訳でもないし――寧ろ、疑惑が確信に変わるだけであろう。自暴自棄、だろうか。それとも同期と面と向かって話せるのがこれで最後だからだろうか。もしそうなら、相当ヤキが回っているとアニは思った。
「……じゃあ、生け捕りにした二体の巨人はアニが殺したの?」
「さあね……。でも、一ヶ月前にそう思っていたんなら何でその時に行動しなかったの?」
「今だって信じられないよ……!きっと何かの見間違いだって思いたくて……そのせいで…!でも、アニだってあの時僕を殺さなかったから今……こんなことになっているじゃないか」
「ああ……心底そう思うよ。まさか、あんたにここまで追い詰められるなんてね。あの時……」

血塗れで横たわるアルミンを上から覗き込んだ時、どうして他の調査兵と同じように踏み潰さなかったのだろう。いや、踏み潰せなかったのだ。
どうして部屋で一人泣いているナマエにハンカチを渡したのだろう。
「……何で、だろうね」
「オイ、アニ!お前が間の悪い馬鹿でクソつまんない冗談で適当に話を合わせている可能性が……まだ、あるから――とにかくこっちに来い!この地下に入るだけで証明出来ることがあるんだ!こっちに来て証明しろ!!」
「……そっちには行けない」
無実を証明出来るのであれば、とっくのとうに階段を降っている。エレンの必死の説得にもアニは首を縦に振らず、しっかりと己の意思表示をする。
“悪魔”が住まう場所に長く留まり過ぎたのかもしれない。兵士にもなり切れず――。
「私は……“戦士”になり損ねた」
「だから!つまんねぇって言ってるだろうが!!」
「話してよアニ!僕達はまだ話し合うことが出来る!!」
「――もう良い。これ以上聞いていられない」
痺れを切らしたミカサが乱雑に荷物を放りげ、雨具を脱ぎ捨ててスナップブレードを瞬時に柄に嵌め込み――。
「不毛……」と、こちらの方へ睨み付けながら一言だけ言い放った。
「もう一度ズタズタに削いでやる。女型の巨人!」

アニの口から、穢れを知らない純粋な乙女のようで――蠱惑的な艶を含んだ笑いが零れた。白い頬を紅く上気させた顔は、生々しい程美しかった。
滑稽だったから。アニは笑うしかなかった。腹の中から競り上がって来る開放感と罪悪感を味わいながら、一頻り笑い続ける。

同郷の二人が今のアニを見たらどんな表情をするのだろう。彼らのことだから、きっと驚いて固まってしまうに違いない。アニは大人びた雰囲気をまとっているが、今まで感情を押さえ込んで生きて来た――どこにでもいる普通の少女なのだ。
ウォールマリアを破壊して、トロスト区を巨人に蹂躙させて、先日の壁外調査で行く手を阻む者を全て葬った。いや――アルミンだけ殺し損ねたのが運の尽きだったか。

今まで沢山の国を巨人の力で蹂躙し、捩じ伏せた。数え切れない人間を葬っても、罪悪感なんてこれっぽっちも抱かなかった。だけどアニは、帰りを待ってくれる人がいると知ったから。
五年前に壁の中へ侵入して目にした光景は地獄だった。生まれて初めて、自分達がしてしまった行動は、間違っていたのではないかと一丁前に罪悪感という名の感情を抱いた。だけど、その感情をすぐに蓋をして任務に勤しんで来た。男の元に帰らなくちゃいけないから。

どんなに頭の中を振り絞って考えてみても、まともな弁解すら浮かばなくて。逃げ場がない状況まで追い詰められた先にあるのは、破滅だけ。何てお粗末な結末だろうか。
「アルミン……私があんたの良い人で良かったねぇ……。ひとまずあんたは賭けに勝った」
人が人殺すのにどんな大義が必要なのだろう。そう考えるようになったのは、この壁の中に侵入してからだ。
「でも――私が賭けたのはここからだから!」

パン、と乾燥した破裂音と共に物陰に隠れていた調査兵達が勢い良く飛び出す。一瞬の隙を突かれたアニは、巨人化出来ないよう拘束されてしまった。地下道に続く階段から、誰かの射抜くような視線を感じながら、アニは指輪に細工した刃物で己の指を切り裂く。いつも通りの痛みがやって来たと同時に、身体が橙色の光に包まれた。
そして、周囲の家屋諸共多くの人間が吹き飛び死んで行った。




「アニ!今度こそ僕を殺さなきゃ“賭けたのはここからだ”なんて負け惜しみも言えなくなるぞ!!」
空中を飛ぶアルミンとジャンを掴むために、アニは大股で走った。

後少し、というところで大きな砲声が轟いて火花が散る。全身をワイヤーで貫かれ、身動きが取れなくなった女型の巨人アニは――尚もジャンとアルミンを追おうと視線をギラつかせて――ギチギチと太いワイヤーを軋ませる。もがくようなぎこちない動きの反動で、脚が滑ってしまい地に伏せると、すかさず屋根上から金網を落とされた。
「ここじゃ、この間みたいにお前を喰い尽くす巨人もいない。でも大丈夫……代わりに私が喰ってやるよ。お前からほじくり返した情報をね」
一人の調査兵に刃を向けられたが、脚に力を入れて金網を振り解いた。

何が何でも故郷に帰る。もはや執着に近い思いを原動力に、金網から自力で脱出したアニは、燃えるような憤怒を放出したエレンと取っ組み合いになった。
二体の巨人が滅茶苦茶な戦いをするので、無垢な命が潰され、美しい内地が踏み荒らされて死の色が濃くなる。巨人化したエレンに殴られた巨体が建物に衝突する。腕がもがれ、瓦礫で潰された屍がアニの目の前に積み重なって視界を紅く染めて行く。

父さんだけはお前の味方だ。今更許してくれとは言わないが、一つだけで良い。泣き出した男は、喉から声を絞り出すように嗚咽混じりに言った。

男に抱き締められたのはいつだったか。
“女型の巨人”をこの身に宿した時か――それとも“悪魔の島”へ出発することが決まった時だったか。とにかく、いつも厳しく格闘術を伝授して来る男が、涙声になりながら己の過ちを認め――許しを請う姿をアニは初めて目にした。
脳内にこびり付いた思い出を消すように。脚に噛み付いて離れないエレンを思い切り殴って、壁を越えるために走り出す。

息も絶え絶えになりながら、アニは見えない故郷に向かって壁を登る。見上げた空はいつものように窮屈で。伸ばした指の先に刃が煌めいて痛みが走る。ミカサが幾分ホッとしたような表情でポツリと呟いた。
「アニ……落ちて」
漸く自分の身体が宙に浮いてゆっくりと――落ちていることにアニは気付いた。何一つ掴めぬまま壁の中へと落ちて行く。

子供の背中に生えた翼は――いつの間にか気付かぬ内に千切れてしまっていた。
視界一杯に広がった空はとても広く澄み渡り、遥か海を越えた故郷に繋がっている。無慈悲にもアニの願いは届かなかった。

仕方がなかったと言い訳を言ったところで、壁の中に住む人類は――エレンは赦さないだろう。アニが敵だと知ったナマエは、一体どんな顔をするのだろう。
私がやったことは間違っていたのか。
それは誰にも解らない。

――この世の全てを敵に回したって良い。
この世の全てからお前が恨まれることになっても……父さんだけは味方だ。
だから、約束してくれ……。帰って来るって。


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