平行線は交わらない

エレンはこの世の全てを破壊する。落ちて来た女型の巨人の腕を喰い千切り、急所である項の硬い肉を力任せに囓り取れば、剥がれた肉片が宙を舞う。囓り取られた急所から、アニの姿が見えた。彼女は、何かに耐えるように目を瞑って涙を流していた。

地下道の近くでアニが嗤った時、エレンは言い知れぬ悪寒を感じた。壁外調査で多くの仲間を殺された憤りよりも、 これだけの大罪を犯した人物が、一ヶ月前まで寝食を共にしていたアニだったという衝撃の方が大きかった。アニが憎き女型の巨人へと変貌する姿を、エレンは目の前で目撃したのに。否応がなく突き付けられた現実が、どうしても信じられなかった。

いや、信じたくなかったと言うのが正しいのかもしれない。三年間の訓練兵時代で、格闘術を伝授してくれたアニが敵だなんて信じたくなかったのだ。今だって、彼女が涙を流しているのを見て、臓腑を焦がす程の怒りが何故か霧散していく。流れる涙が太陽の光に一瞬反射して、煌めきながらアニの頬から零れ落ちる。

数秒間動けなかった。アニの泣き顔に目を見張っている内に、不思議な現象が起きた。眩ゆい光が放たれて、彼女の身体を水晶が取り込み始めたのだ。瞬く間に水晶体が成長し、それがエレンに迫り来る直前でリヴァイが颯爽と現れ、すんでのところでエレンは救出されたのだ。
後に残ったのは蒸気を上げている白骨化した巨人の残骸と、破壊し尽くされた街並みに転がる夥しい数の死者だった。
「ミカサ……、アニは……?」

身体が重い。巨人化の後遺症だろうか、エレンは指一本動かすのも、声を出すのも億劫だった。
そばに寄ったミカサが何も言わず前方へ視線を投げるので、エレンもゆるゆると緩慢な動作でそちらを見る。蒸気が揺らめく先へ目を凝らすと、朽ちる巨人の身体の近くに大きな水晶体の塊があった。
周りに調査兵達が群がっている。
「ここまで来てだんまりかよ!アニ、出て来い!出て来てこの落とし前を付けろよ!!」
ジャンが苛立ちを隠さず、水晶体を壊すために何度もブレードで叩いている。カンカンと金属と水晶体がぶつかる甲高い音がエレンの脳内に響き、不快だった。
「オイ、卑怯だぞ!アニ!」
「よせ。無駄だ」
リヴァイに窘められてしまえば、ジャンもこれ以上何も言えないようだった。悔しそうに唇を噛み、振り上げられた腕を力なく下ろす。ブレードが刃こぼれしていた。
「ワイヤーでネットを作ってこれを縛る!いつ目を醒ますか解らないこの子を地下に運ぶ!早く!」
ハンジの指示が飛び、水晶体に取り込まれたアニを包むためのネットが取り付けられる。その光景を見たエレンは、ぼんやりした頭の中で、作戦が成功しなかったことを痛感した。

自分を水晶に封じ込める手段を取る程、アニが守りたかった情報とは一体何だったのか。この三重の壁を壊す目的も手掛かりすら掴めず、結局振り出しに戻ってしまった。エレンは重い頭で、懸命に考えてみたけれど解らなかった。アニは、調査兵団が喉から手が出る程欲しがった情報と共に、冷たい水晶体の中で懇々と眠りに就いてしまった。

後一歩だった。謎に包まれた壁の世界の真実へ後一歩だったのに。
「エレン……、エレン!!」
ミカサが自分の名前を呼んでいる。だけど、返事をするのが億劫で。次第に目蓋が重くなり、深い眠りに落ちて行った。




目を開けると、柔らかい光が視界に広がった。
「エレン……」
近くでミカサの柔らかな声がした。エレンは声が聞こえた方へ目を向けると、心配そうな顔をしたミカサとアルミン、壁に背を預けたジャンがいた。
木目調の天井が視界に広がった。温かな陽の光が満ちた一室。どうやらここは地下牢ではないらしいと、エレンは起き抜けでぼんやりした頭で考える。頭とは対照に、巨人化の後遺症は嘘のようになかった。身体の怠さはない。
「身体は大丈夫?」
ミカサの黒い髪が、窓から入って来る心地良い風と一緒にさらさらと揺れる。
「ああ……、気持ち悪いくらい元通りだ。アニは……どうなった?」
「水晶体の中で眠っているよ。今は兵長とハンジさんの監視の下、地下に安置されている」
エレンの質問に、アルミンが答えてくれた。
「クソ……あれだけ大掛かりな作戦やって収穫なしかよ」
「あそこまでして情報を守ったんだ、アニは」
「ああ。まんまと逃げられた」
「逃したのはエレンだ。……そうでしょ?」

アルミンの声は落ち着いていた。幼馴染を責める非難の色はなかったけれど、エレンの胸の中へ鉛のような重たいものが流れて来る。

あの一瞬・・・・がなければアニの捕獲は成功していたと思う。それ程この世界の秘密に迫っていたと言っても過言ではない。
「アルミンの言う通りだ。オレはやり損なった。アニを見たら……動けなくなっちまった」
「……何があったの?」
ミカサが静かに尋ねる。その先を促すような口振りだった。
「あいつ……泣いていたんだ」
エレンの言葉にミカサもアルミンも、ジャンも口を挟まなかった。エレンの言葉の続きを待ってくれている。
「アニは……オレ達の故郷を――あれだけ大勢の仲間を殺した“超大型”と”鎧”の仲間だ。許せねぇって思っていたのに……」

泣いているアニを見て、自分と同じ人間なんだと知った。

どんな大義があって人を殺したのか、本人の口から聞くことは一度もないまま。彼女は厳重な監視下の元、地下深くに幽閉されているという。
「アルミン・アルレルト、ジャン・キルシュタイン。事情聴取だ」
「オレ達からか」
「じゃあ、また後で」
憲兵に呼び出されたアルミンとジャンが部屋を出て行く。パタンと扉が静かに閉められ、ミカサと二人になり、暫くお互い何も言葉を発しなかった。
「あの時……気持ち良いと思った。身体が壊れるのなんか清々するくらいだった」
憤怒に支配される心地良さと、全てを破壊したい衝動に身を委ねた時に感じた高揚感は、まるで麻薬のようにエレンの内側を蝕んだのだ。あの時感じた高揚感は、今でも忘れられない。
「何ならこのまま死んでも良いってくらい――」
「エレン!」
ミカサが心配した口調でエレンの名前を呼んだ。ハッと我に返ったエレンは、不安げな顔をしてこちらを見つめているミカサを安心させるように、今はそう思っていないと答えた。
「戻って来てくれて本当に良かった……」
ミカサに握られた手が酷く心地良く、温かい。

自分は生きていると、エレンは思った。
「食事を持って来るから……そこで待ってて」
言葉短めに言ったミカサが、部屋を出ようとドアノブに手を伸ばす。
「絶対、安静にしてて。動いてはダメ」
「解ってるよ……。ここで待ってるから、早く行って来い」
エレンがそう言えば、ミカサはどこか安心したような表情をして、するりと――猫のような機敏さで部屋から出て行った。

一人になった。頬を撫ぜる柔らかい風が、薄手のカーテンを押し上げて部屋に入って来る。何も聞こえない、穏やかな空間。女型の巨人捕獲作戦なんて最初からなかったのではと、錯覚してしまう程。
犬歯で親指の付け根を食い千切った傷も、綺麗に跡形もなく治癒している。

どうして。やっと追い詰めたのに。
一筋の涙を流すアニを見て自分の身体は動けなくなってしまったのだろう。地下通路に追い込まれても、ミカサに発破を掛けられても――エレンは巨人化出来なかった。

まだアニと戦うことを、躊躇しているのではないかと指摘された。目の前で班員を殺したのはあの女だろうと、現実を痛い程突き付けられた。

世界は、残酷だ。アニはこの世界を地獄に変えた敵なのに。最後までエレンとアニの線は交わることもなく、平行線のまま夕陽が落ちていく。

今回の作戦で、人類の終焉を阻止出来たと確証出来る程の結果を残せなかったものの――エレン及び調査兵団幹部召還の件は、ひとまず凍結したことで首の皮一枚で繋がった。しかし、調査兵団の独断で今回の作戦が実行されたことに対しての是非が問われた。
肝心のアニ・レオンハートは全身を強固な水晶体に包まれているため、何の情報を引き出せないままだ。多くの命が犠牲となり、真相は各兵団上層部とストヘス区区長、ウォール教司祭達という限られた者のみに留まった。
それ以外の一般兵や民間人には何もなかったと説明され――表向き、ストヘス区を荒廃させただけという結果になり、後味の悪さを一層際立たせた。

しかし無駄骨だったかと問われれば、そうでもないとエルヴィンは説く。人間が巨人化するなど考えもしなかった頃と比べれば、諜報員の一人を拘束しただけでも実行した価値はある。今度は自分達が進撃する番であると、エルヴィンは宣言した。

アニが流した涙の意味も知らずに、エレンはミカサが持って来たパンを齧り、スープを飲み干す。壁の中に潜む敵を全て追い詰めるために。しっかりと食事を摂ったからか、エレンは懐かしい夢を見た。まだ壁が破られておらず、母親が生きていた頃のシガンシナ区でのひと時だった。

目を開けるとそこは懐かしい実家でもなく、母親の姿もなかった。お腹いっぱいに食事を摂ったからか、昔の夢を見たのかと心の中で呟いたエレンは、ゆっくり上体を起こす。傍らでミカサがうたた寝をしていた。恐らく自分の部屋に戻らず、ずっとここにいたのだろう。
赤いマフラーがミカサの手からするりと滑り落ちて、エレンはそれを手にした。

これを彼女に巻いてから大分時間が経ったと思う。両親をいっぺんに失って帰る場所がなくなり、寒さに震えていたあの日の少女はエレンの後を追って調査兵となった。
マフラーの毛糸はところどころほつれており、その都度ミカサが編み直して修繕した形跡がいくつも見て取れる。その証拠に彼女の手元にはソーイングセットがあった。
「……それ」
「落ちたぞ」
目が覚めたミカサにマフラーを返すと、彼女はそれを大事そうに受け取って優しく撫でている。
「もうボロボロだな。今度支給品に新しいのがあったら貰っといてやるよ」

マフラーを撫でる手を止めたミカサをエレンは不思議に思っていると、乱暴に扉が開いて息を切らせたアルミンが現れた。緊迫した空気をまとっているアルミンに、エレンもミカサも只事ではないと感じ取る。
「……アルミン、どうしたの?」
「エレン!ミカサ!大変なことになった!巨人がウォールローゼに……!」
同じ頃、別の場所で人類の次なる脅威はこの時既に迫っていた。


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