手を尽くしてから後悔しろ

「遅えな、エルヴィンの野郎共……待たせやがって」

温かいオレンジ色の灯りが点された静かな食堂内で、二つの影がゆらりと揺れる。リヴァイとエレンのものだ。いつも喧しくて仕方がないと眉根を寄せるリヴァイだが、重たい空気で満たされた食堂に身を置くと、二度と戻らない日常の光景を思い出して眉根を寄せる。

一ヶ月間、この食堂はエルドとグンタ、ペトラとオルオの賑やかな話し声で溢れていたのに。彼らと過ごした束の間の平穏。いまは、その残滓すらない。
「迎えに来る憲兵団が先に来ちまうじゃねぇか」

昨日決行された壁外遠征は見事失敗し、調査兵団は敗走することとなった。リヴァイ班はエレンとリヴァイを除いた四人が女型の巨人との戦闘によって死亡した。暗い森の中で無残な姿に変わり果てた四人の部下をリヴァイは瞼に焼き付けて、近くの席で己を責めているであろう少年――エレンを女型から奪還した。
結局エルヴィンが指揮した作戦で多くの兵士が死に、エレンが人類にとって有益な存在だと証明することが出来ず――。明後日、エレンの身柄は中央に引き渡されることが決定したのだ。
「大方……クソがなかなか出なくて困ってんだろうな」
紅茶を一口飲んで、カップをソーサーに戻す。いつもなら鼻腔に広がる芳醇な茶葉の香りを愉しむのだが、今日は何故か香りが弱い気がする。

理由は明白だ。こんなクソみたいな状況の中で、優雅に紅茶を愉しむ余裕なんて――リヴァイは持ち合わせていない。
「兵長……今日はよく喋りますね」
「馬鹿言え。オレは元々結構喋る」
上官が喋っているのに無視を決め込むのは些か心苦しかったのか、エレンは何か一言でも返さなくてはと思ったのかもしれない。今の言葉には、そういう意味合いが込められていた。

昨日負傷した右脚が幾ばくか痛む。その痛みが余計にリヴァイを、クソみたいな心境にさせるのだ。
リヴァイは痛む脚に手を添えると、その様子にエレンから覇気のない謝罪の言葉が飛んで来た。
「……すいません。オレがあの時、選択を間違えなければこんなことには……」
リヴァイは軽く溜息を吐く。エレンにとっての“こんなこと”とは、最終的に彼自身を責めることに集約される。

班員と多くの仲間を死なせてしまったこと。巨人化したものの、女型の巨人を捕獲することも殺すことも出来なかったこと。全ては、自分が仲間を信じるという選択をしてしまった結果だと――自分を責めているのだ。
しかし、十五年しか生きていない子供が正しい選択を選び取れたのかと問われればどうだろう。あの場での“正しい選択”とは一体何だったのか、リヴァイには解らない。

十五才は大人に比べたら人生経験だって豊富じゃないし、経験に基づいて正しい答えを選ぶことも難儀なのだ。自分が選んだ選択を後悔しない強さだって持ち合わせていない。子供だから選択を間違えるなんておかしな話しで、大人だって選択を間違えるものだ。

リヴァイは地下街で共に過ごした、今は亡き二人の仲間を忘れたことはない。あの頃があったからこそ、今の自分がいる。
今でも覚えている。ひょんなことから調査兵団へ入団し、ドブ臭さとカビの臭いが染み付いたクソみたいな地下街から飛び出した。生まれて初めて感じた壁の外にある自由と開放感。清廉された空気は、地下街の澱んだ空気によって膿んだ肺を浄化してくれた。

初めての壁外遠征で、昔馴染みのファーランとイザベルを失った。リヴァイは自分の手でエルヴィンを殺すことに拘っていた。元々調査兵団に入ったのも、エルヴィンを殺すつもりだったから。
彼が巨人に食われる前に殺しに行くとリヴァイが二人から離れた隙の出来事だったのだ。あの時は、二人の側から離れなければ良かったと何度も何度も後悔した。
それからはずっと後悔の連続で、自分の力を信じても信頼する仲間の選択を信じても、結果は解らなかった。

だがリヴァイは地下街を飛び出して、調査兵団で――エルヴィンの元で――彼が見たいと願ってやまない未来ビジョンを共に見るために――生きることを選択ことに後悔はしていない。
「……言っただろうが。結果は誰にも解らんと」
エレンは己が下した選択の結果に耐え兼ねている。

こんな時にハンジがいれば、リヴァイの伝わり難い言葉の意味を気の利いた意訳――それはもう、そんな意味まで含まれていたのかと他人が驚く程ハンジなりの解釈――をされるのだが。
「ですが兵長、オレのせいでリヴァイ班の皆は……いや、他の先輩達だって――」
「死んだヤツらがお前を恨んでいるかもしれないって?」
どうやらリヴァイの言葉は的中したようで、エレンは顔を苦痛に歪ませて下を向いてしまった。

女型の巨人と交戦して、壁内に帰還してから一日しか経っていない。リヴァイ班の四人はエレンの命を守るために、己の命を賭して任務にあたった。
そして、エルヴィンが切り捨てた百名の仲間と共に人類の未来のために散ったのだ。
「エレン……お前の身体に傷ひとつ付けないという重大な任務を、あいつらは全うした。最後まで戦ってお前を守ったあいつらの気持ちを無駄にしないために、お前は何をするべきだ?」
「……それは――」
「お前が前を向いて先に進むことだ。捧げられた心臓を無駄にさせるな。どっちかを選べば、選んだ分結果が付いて回る……良い結果も悪い結果も平等にな。“選択”とは、そういうものだ」

リヴァイが言い終わると丁度扉が軋み、エルヴィンが姿を現した。
「遅れて申し訳ない」
「お前ら……!」
エルヴィンの隣には、見慣れない顔ぶれが並ぶ。その中にマフラーを巻いた馴染みの顔を見付けた。
見慣れない顔ぶれ達がエレンの同期であるとリヴァイは検討付けた。
「女型の巨人と思わしき人物を見つけた。今度こそ確実に捕らえる」
エルヴィンの冷静な声が静かな食堂に響いた。

テーブルに広げられたのは、細部まで細やかに書き記されているとある地図。配られた作戦企画紙をリヴァイは読み始めた。
「作戦の決行は明後日――場所は我々が王都に召喚される途中で通過するストヘス区だ。ここが最初で最後のチャンスとなる。ここを抜ければエレンは王都に引き渡され、壁の破壊を企む連中の追求も困難になるだろう。ひいては……人類滅亡の色が濃厚となる。我々はこの作戦に全てを賭ける」
エルヴィンが作戦のあらましを語る中、各々は緊張した面持ちで耳を傾けた。

ストヘス区を通過する際、エレンが囮となって地下通路まで目標を誘き寄せるのだ。エルヴィンは赤い丸で囲まれている部分を示す。この地下通路は、地下都市建設計画が頓挫した時の名残りだという。
最下層まで誘い込めばサイズと強度を考えて、目標が巨人化したとしても動きを封じることが可能だ。
ここで捕らえることが出来れば上出来だが、誘い込む前に巨人化された場合はエレンに託されることになる。

二次作戦で、巨人化したエレンが女型の巨人と地上で交戦して捕獲する。最悪のことを想定し、三次作戦としてハンジ班が控えている場所まで誘導して捕獲するというものだった。ストヘス区は甚大な被害が出るだろうから、避難指示係を区内に配置せねばなるまい。
「エルヴィン、ここに憲兵団が迎えに来てエレンを連れて行くんだぞ。護送ルートも決まっているだろうから、この地下通路前は通らねぇ。どのタイミングでエレンは護送車から抜け出す算段だ?」
「そのために彼がいるんだ、リヴァイ。ジャンがエレンの影武者をやることになっている」
「……はぁ!?」

突然エレンが立ち上がってジャンと呼ばれた人物を睨むと、不服そうな顔をした相手がエレンを睨み返した。
「エレン」
と、マフラーを巻いた馴染み――ミカサ――に窘められたエレンは場を乱したことを素直に詫びた。
「――すみません、続けて下さい」
「ここに憲兵団が迎えに来てエレンは馬車で王都まで向かう。ストヘス区へ入る一瞬の隙を突いて、影武者のジャンと入れ替わる。その後の流れは先程説明した通りだ」
「オレが女型の巨人と戦うことは解りました。それで、肝心の目標は本当にストヘス区にいることは確実なんですか?」
「ああ、目標は憲兵団に所属している。それを割り出したのはアルミンだ。曰く女型は、生け捕りにした二体の巨人を殺した犯人と思われ――君達百四期訓練生の同期の可能性がある」
「ちょ、ちょっと待って下さい……!百四期って――」

思いもよらなかった返答に困惑を隠し切れないエレンをよそに、エルヴィンが一層声を低くして女型の正体を口にした。
「ア、アニが女型の巨人?何でそう思うんだよ……アルミン」
アルミンと呼ばれた気弱そうな兵士は、机の上に配布された作戦企画紙一点だけを見つめながら一つ一つ丁寧に答えて行く。
だが、エレンには信じられない――と言うより、信じたくない――ようにリヴァイの目に映る。
「この作戦に参加する百四期生は僕とエレン、ミカサとジャンだけだ。壁外調査で女型による急襲があったということは、兵団の内情を知っている人間が諜報員の可能性が高い。アニが女型だとすれば、僕達同期に残りの諜報員が混じっている可能性が考えられる。他の皆には悪いけど、早朝に隔離施設へ移って貰った。……武装解除したままね。数十名の上官達が彼らを見張っている。アニと接触することも出来ないし、お互いの目もあるから下手なことは出来ないだろう」
先程から淀みなく同期を疑う理由を述べるアルミンに、エレンは力なく呟く。信じたくない――そんな声音だった。
「あいつらのことも疑うのかよ……?」
「潔白の証拠がないからだ、エレン」
「そんなの、敵だっていう証拠もないだろ……」
「アニはマルコの立体起動装置を持っていたんだ。だから、被験体殺しの追求を逃れることが出来たんだ」
その言葉に、エレンは見間違いだろうと一点張りだ。これでは埒が明かないと思ったリヴァイは、作戦企画紙から目を離した。
「オイ、ガキ。それはもう解った。他に根拠はないのか」
「ありません」
「アニは女型と顔が似ていると私は思います」
ミカサが感情の見えない声音で、きっぱりと滅茶苦茶な理由を答える。
「はぁ!?何言ってんだ?そんな程度の根拠で――」
根拠なんてこれっぽっちもないが、エルヴィンがまた大きな博打をしようとしていることにリヴァイは解っていた。
「つまり証拠はねぇが、やるんだな……」

この場にいる人間は既に決めてしまっているが、エレンだけが子供のように駄々を捏ね続けた。
「証拠がない……?何だソレ……何でやるんだ?どうするんだよ、アニじゃなかったら」
「アニじゃなかったらアニの疑いが晴れるだけ」
「そうなったらアニには悪いと思うよ。
でも、だからって何もしなければエレンが中央の奴らの生贄になるだけだ」
「アニを疑うなんてどうかしてる……」
「エレン。アニと聞いた今、思い当たることはないの?女型の巨人と格闘戦を交えたのなら、アニ独特の技術を目にしたりはしなかったの?」

エレンに注目が集まる。
目を見開いて何も言わないエレンの様子を見て、無意識の内に何か思い当たる節があるのだろうとリヴァイだけでなく、この場にいる全員が確信に近い何かを感じた。

その後、エレンから合意が――渋々のようにリヴァイには聞こえた――出て作戦会議は終了した。
リヴァイにはエレンが完全に納得したようには見えず、要であるエレンが半信半疑のまま作戦は明後日決行されることになったのだ。
確かハンジから、エレンは明確な目的意識がなければ巨人化が出来ないと聞いている。
“同期が敵かもしれない”と信じたくない気持ちがストッパーになって、失敗することが唯一の懸念点だ。リヴァイは先日の遠征で脚を怪我しているため、今回の捕獲作戦から外されている。
エルヴィンと一緒に憲兵団の牽制役くらいしか役に立てない自分に少しだけ苛立った。

エルヴィン達が本部へ戻り、燭台の灯りの中に二つの黒い影がなかった。食堂内に再び静寂が訪れる。椅子に座って俯いたままのエレンに、リヴァイは声を掛けた。辛気臭い顔は勘弁だと思っただけで決して慰めようと思った訳ではないし――自分の言葉は慰めには適さないことは重々承知しているのだが。
「お前の同期が女型だと、まだ決まった訳じゃねぇだろう。隔離された連中もな」
「……はい。ですが、もし本当にアニが女型じゃなかったら――」
「エレンよ。オレ達は選択の連続の中で生きている。お前は一体何を恐れているんだ?」
「アニが女型じゃなかったら、どうするんですか?ストヘス区だけじゃなく、この壁の世界全体を大混乱に陥れることになるんですよ。オレは……仲間を疑いたくないんです」
「オレはあの時言った筈だ。後悔しない方を選べと。何も手を打たない……これも一つの選択だ。だが、このままだとお前は中央に殺されるし人類は滅亡の危機に曝されるだけで、そうなったら確実に悔いるだろうな。どうせ後悔するのなら、やり尽くしてからにしろ」
沈黙が二人の間に落ちる。

燭台の炎が細かく揺れた。
「お前の仕事は同期が潔白だと確認するために、アニというヤツに会うだけだ。違うか?」
そう言ったリヴァイは席を立ち、食堂の扉の取っ手に手を掛けた。
「オレはもう寝るが、燭台の始末は任せだぞ。エレン、お前も寝た方が良い」
後ろでガタッとエレンが立ち上がった気配がした。
「兵長。ありがとうございます……オレのこと心配してくださったんですよね」
「……何のことだ?辛気臭ぇ顔はもう見飽きた。ガキはさっさとクソして寝ろ」


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