新たな作戦の始動

壁外調査から帰還した後、ウォールローゼ内の本部に戻って来たのはすっかり夜の刻限だった。
「オレ、本当に帰って来たんだよな……?」
コニーは、自分が壁内に帰還した事実を信じられないようだった。
「ああ……!お前は――オレ達は、生きて帰って来たんだよ」
ライナーがコニーに言い聞かせるように言う。ジャンとベルトルトは無言で馬の荷解きをしていた。そんな彼らをよそに、アルミンはとある場所へ急ぎ向かう。生きて帰って来たことに安堵する時間はない。一刻を争う事態だった。

兵団の中に紛れている諜報員の炙り出しは、どうやら失敗したようだ。今回の壁外調査の結果を鑑みれば、エレンの身柄は王都に引き渡されることが決まったと思って良いだろう。諜報員を探し出すことも出来ないまま、人類は壁が破壊される様子をただ指を咥えたまま見ていることになる。

本当はすぐにでもベッドで横になりたい。鉛をぶら下げたような身体の重さから解放されたいところだが、アルミンは疲労で軋む身体に鞭打ってエルヴィンの執務室の扉をノックした。

「僕が……もっと早く団長に報告していれば、多くの先輩方が戦死することもなかったと思うんです。エレンの身柄だって今よりずっと安全になった筈だ」
エルヴィンの執務室でアルミンは全てを――今回の壁外調査の真の目的と、諜報員の存在について――報告し終わった後、悔しさを吐露した。後悔がアルミンの心に滲む。

執務室の主人である男は、疲労すら微塵も感じさせない雰囲気で――諦めるという選択肢はないのだ――アルミンの報告を静かに聴いていた。
百人の仲間を切り捨てた代償は、必ず取らねばなるまい。立ち止まることは許されないのだから。
「被験体殺しがあった時、今回の遠征目的を周知しなかったのは私の判断だ。だから君が責任を感じる必要はない。況してや不確定要素が多い状態のままで君は私に報告なんてしないだろう」
「あれを……見間違える筈、ないんです」

僅かな傷や凹みだって、マルコと一緒に整備した思い出は色褪せない。
「マルコの立体起動装置を見た時、彼女が自分の装置を提示出来ない理由があるんじゃないかって疑っていたのに……」
ジャンによると、先月のトロスト区攻防戦で死亡したマルコの遺体には不審な点があったらしい。マルコの遺体は、立体機動装置を装着していなかったという。加えて、ジャケットも着ていなかった。
マルコ自身がジャケットを脱いで、立体機動装置を外したと考えることも出来るが、戦闘中に――しかも、巨人が蔓延るトロスト区内において――それは有り得ない。

ジャンの証言をアルミンも知っていたのに、エルヴィンに進言しなかったのは――。
「アルミン……賢い君ならこれからすべきことが解っている筈だ。選んだ選択を後からどうこう考えたって意味がない。勿論、どこが間違っていたか検証することは大事だが……それは後悔することと同義ではない。我々には時間がない。ならば今回の結果から、次の有効な一手を考えることに時間を使う方が建設的だ。
今回の女型捕獲作戦は私の博打でしかなかった。まさか敵が、全てを投げ打つ覚悟をしていたことは勿論、皮膚の硬化能力と叫びの力を持っていたことは想定していなかった。今回は私の負けだ……しかし――」
アルミンは、エルヴィンの視線を感じた。
俯いていた顔を上げると、そこには静かな闘志を内包した蒼い両目と視線がぶつかる。

巨大樹の森の中で、ジャンとナマエに言ったではないか。結果なんて解らないが、必ず選択する時は訪れるのだと。
あの言葉は自分にも言い聞かせたつもりだ。
仲間を、疑うという覚悟を。

今回の壁外調査で炙り出された事象を整理したアルミンは、頭の中で導き出された可能性を何度も反芻する。女型の巨人が取った不可解な行動の一つ一つを。
「君が女型の正体を割り出してくれて、私の博打も無駄ではなかったようだ。まだ首の皮一枚で繋がっている……さて、次の作戦も信頼に足る者達のみで遂行しなければならないが、君から見て他に信頼出来そうな人物はいるか?」

エルヴィンからの問いに、アルミンは暫く黙って頭の中を整理してみる。今日の壁外調査の出来事を思い返して、信頼出来る人物を探す。

いるではないか。アルミンは一人の人間の名前を口にした。



「アルミン、お前昨日からどこほっつき歩いてたんだよ?」
鮮やかな夕陽に染まる兵舎の廊下でアルミンはジャンに声を掛けられた。目的の人物へ目を向けると、ジャンはどこか所在なさげな雰囲気である。

無理もないだろうとアルミンは思った。作戦は既に始動しているのだから。
「ジャン。僕も君のこと探していたんだよ」
「……俺を?何でだ?」
怪訝そうな表情をしているジャンだが、同期が誰一人見掛けない状況が不自然なことくらい解っているだろう。
ジャンは頭の回転が早い男だから。
「そもそも、コニーやライナーとか……あいつらはどこ行ったんだ?起きたら部屋に誰もいねぇしよ……」
「それについてだけど……君に話したいことがある。連いて来て」
アルミンはそれだけを言うと、くるりと向きを変えて静かな兵舎の廊下を進む。後ろから怪訝な雰囲気を纏ったジャンが連いて来る気配を感じながら。

「エルヴィン団長、失礼します」
「アルミン、ここって――」
コンコンと、乾いた木の音を響かせて。扉を二度叩き、中から了承の意を確認したアルミンはドアノブを回した。

部屋の中は西陽のせいで濃厚な橙色に染まり、色彩が統一されている。影が色濃く長く伸びている部屋には、エルヴィンを初めに主要幹部が揃っていた。アルミンは扉を閉めてからしっかりと施錠する。
「……ミカサ!?見掛けねぇと思ったらここにいたのか」
未だ怪訝な表情を浮かべているジャンが、部屋の入り口付近で立っているミカサに声を掛けた。彼女はジャンの声掛けに特に反応することもなく、アルミンの方へ目配せをする。彼女は多くを語らない。とにかく、アルミンの話を聞くようにと言いたいようだ。
「……団長、これで揃いました」
「アルミン。彼が信頼出来るという人物なんだね」
エルヴィンの冷静沈着で――それでいて、どこか冷酷さを思わせる二面性を含んだ声がした。
「はい。僕達百四期の同期――ジャン・キルシュタインは信用に値する人間です」
「そりゃ、どういう意味だアルミン……?」
当の本人から困惑した声が返って来るが、エルヴィンはそれを気にせずジャンに声を掛ける。
アルミンはこの場をエルヴィンに引き渡した。

今の段階で自分に出来ることはやった。後は団長であるエルヴィンの仕事だ。場の空気は、緊張の糸が張り巡らされているせいで重たい。
「急に呼び立てられて困惑しても無理はない。済まないね。おまけに、こんな狭い部屋に幹部が集まっていたら只事だと思えないだろう」
エルヴィンはジャンにソファーに掛けるよう促すと、彼は素直に従った。そしてエルヴィンもソファーに腰を下ろす。
「ジャン、昨日はご苦労だった。初めての壁外調査で疲れただろう」
部屋の空気に似付かわしくない声音でエルヴィンがジャンを労う。それは別に何もおかしなことではない。長たる者の務めだ。
「今日一日休めたので、大丈夫です」
「そうか……。女型と遭遇しても、時間稼ぎで陣形の崩壊を阻止しようとした君の勇敢な行動はあっぱれだ。特に大きな怪我もしていないようで安心したよ」
「自分に出来ることをしたまでです」
この場の重たい空気に飲み込まれまいと彼なりに抗っているのだろう。

アルミンは、壁外遠征でジャンが女型巨人の足止めを提案したことを、昨晩エルヴィンに報告した。同期という贔屓目を外し――私情を捨てて――動かすことが出来ない事実をありのまま伝えのだ。
前へ進むために。
「なるほど」
エルヴィンはジャンの返答を咀嚼している間、暫く黙った。そして、淀みなく言い切る。
「単刀直入に言うが、女型の巨人の捕獲作戦に協力して貰いたい。敵と刃を交えた君の力が必要だ」

ジャンが息を呑む気配を、アルミンは感じた。
「つまり女型の巨人の――本体の捕獲、ですか」
やっぱり。ジャンは察しが早い。
「本体はアルミンが割り出してくれた。
そして捕獲作戦を立案したのも彼で、それを私が採用した」
「女型の巨人の中身は、一体誰ですか」
「目標は普段ストヘス区中の憲兵団に所属している。その女型の巨人と思しき女性の名は――アニ・レオンハート 」



「は……?」
思わぬ人物の名前を耳にして、ジャンだけが露骨に声を上げてしまった。アルミンも、ミカサも他の幹部達も驚きとか困惑の色なんて微塵もなく、エルヴィンの言葉を聴いている。
この部屋にいる――ジャンを除いた全員が、既に知っていたのではないだろうか。
「アニが、女型……?アルミン、根拠はあるのか」
百四期生で一番頭が切れるアルミンが割り出したのだから、納得する答えを持っている筈だ。そう思ったジャンは、真剣な表情をしている彼へ視線を投げる。

しかしアルミンはこちらへ視線を向けず、前を見据えたままだ。
「証拠はないけど、可能性はかなり高い。一つは、マルコの遺体に立体機動装置がなかったことが挙げられる。そして、行方不明の立体機動装置をアニが持っていたんだ。どうしてアニがマルコの立体機動装置を持っていたかは解らない。拾ったのかもしれないけど――被験体の巨人殺しの検査で、マルコの物を提示したからあの場で追及を逃れることが出来た。二つ目は……君のお陰だよ、ジャン」
「オレの……?」
「女型の巨人は顔を確認する行動を取った。エレンの顔を知っているだけじゃなくて、僕が叫んだ“死に急ぎ野郎”にも反応した。これは、僕達百四期しか知り得ないエレンの渾名さ」
“死に急ぎ野郎”は他でもないジャンが命名したものだ。アルミンの揺るぎない確信が言葉の端々に滲んでいる。

喉がカラカラに乾いていく感覚を覚えた。確かに女型の巨人と交戦して追い詰められた時、アルミンの機転のおかげでジャンは生還した。あの時既に、女型の本体を検討付けていたことになるのだろう。
得られる情報は不十分にも関わらず、あんな土壇場で切り返すなんて。
とんでもなく頭が切れるアルミン同期に、ジャンは背筋に寒いものを感じた。味方だから心強さというものがあるが――正直敵には回したくない相手だ。
「つまり、昨日壁外調査に参加した俺達を除いた同期が犯人だって――言いたいんだな」
しかし、駐屯兵団を選んだ者達が大半だ。
昨日の遠征に参加していない人間が犯人だと仮定すれば、その中にいる方が確率は高いのだが。

ああ。だから確証がない・・・・・、か。

マルコの不審な死体――立体機動装置の行方の件を鑑みると、やっぱりアルミンの主張は簡単に無視出来るものではない。

アルミンの言葉を引き継ぐ形で、エルヴィンが口を開いた。
「諜報員は一人ではなく複数名いるだろう。そして、我々調査兵団に紛れ込んでいる可能性が高い。君以外の新兵は早朝、別の場所に隔離させてもらった。アニ・レオンハートとの接触を断つことを目的に、私の部下達が彼らの監視を行っている」
目が覚めてから一人も同期の姿がなかった理由を、ジャンは漸く理解した。
理解出来たけれど、次から次に入ってくる情報に頭がついていかなくて焦る。同期が裏切者の嫌疑を掛けられているなんて胸糞悪い。しかも、同期が同期を疑っているあたり始末が悪い。

女型の巨人の中身がアニであるという理由で、百四期生は疑われている。それ以外にも疑惑を向けられている理由があるのかもしれないが、ジャンには一つの疑問が浮かぶ。
「何でオレが信用出来ると踏んだんだ、アルミン。正直……オレは自分が白だと思って貰える客観的な理由を挙げることが出来ねぇ。“エレンの幼馴染”であるミカサやお前とは条件が違って、オレは隔離されたあいつらと同じなんだぞ。理由を教えてくれないか」
「実はこうなった以上、君達百四期生の戸籍を洗い出しているんだ。今は少しでも早く身元確定をしたいからね。それで――ああ、自己紹介が遅れたね!私はハンジ・ゾエ。これでも分隊長をやっている。よろしく、ジャン」
「よ、よろしくお願いします」

ハンジと名乗った人物は、部屋の緊迫感を物ともせず明朗快活に自己紹介をした。髪を一本に無造作に結んでおり、男性にも女性にも思わせる中性的な容貌と声音が相まって不思議な雰囲気を持つ人物だ。
一見柔そうだが、眼鏡の奥にある瞳だけは鋭い。
「話を戻そうか。この身元確認なんだけど……正直難航しててね。マリア陥落以降、大勢の難民がローゼに流れて来たから役所の戸籍管理も杜撰でさぁ……参ったよ、後できっちり文句言ってやる」
ハンジは役所の職務怠慢をぼやいて、手元の二枚の紙で名前を確認する。
「確認が取れたのは、今のところ二人だけ!トロスト区出身の君と……えぇと、カラネス区出身のナマエだ」
「これでジャンの身元が確定した。もし君が諜報員だったとしたら、あの場面で僕達に時間稼ぎを提案しないし、諜報員の存在を僕に提示する必要もないだろう?ジャンが取った行動はエレンを捕らえるという敵側の目的に反する行為だ」
「オレがお前の考えていることを想定して、裏をかいて動いている可能性だってあるんだぜ?」
ジャンの問いをアルミンは無垢な笑顔で、いとも簡単に否定する。こういうところが怖い。

金髪に蒼い色をした瞳。
色白で細身な体躯も相まって虫も殺せないように見えるのに、腹の中では私情を捨て去ることも出来る彼を見て、ジャンはそう思った。
「ないよ。ジャンは良くも悪くも正直者だからね」
「……即答だな。つか、そこは少し考える節を見せろ」
図星で悔しかったから、少しだけ噛み付くような声音で細やかな抵抗をした。
「同じように身元がはっきりしたナマエがここにいないのは、ジャンに比べて信用する判断材料が足りなかったからだ。彼女はエレンのことを気にしていたけど、こちら側に探りを入れて来た――ように見えた。巨人の正体にも心当たりあるような節もあったから」
「アイツの作戦企画紙にはエレンの居場所は左翼前方だって言ってただろ……。巨人のことだって、もしアイツが諜報員ならそんな解りやすいボロ出すとは思えねぇ。それに――、」

巨人が発する蒸気が立ち込める巨大樹の森の中で。彼女は巨人の血に塗れながら――。
「アイツは一人、巨人の項を観察していた……ように見えた」
その言葉に反応を示したのはハンジだった。
「え?その子、巨人を観察していたのかい?」
「あ、はい……。巨人の正体が人間かもしれないって言ってました。項が急所なのも人間と同じ構造をしているからだと」
「何だって?ナマエって子は、巨人についてそんなことを!?」
「アイツは訓練兵の頃から、熱心に巨人について勉強していましたから」
すると、急にハンジが興奮気味に叫んだ。まるでこの場にナマエがいないことを残念がる口振りである。その様子に、ジャンは目を見張った。
「そんな子がいるなんて聞いてないよ!!ああ、何てことをしたんだ!今から彼女だけでも連れ出して、是非とも巨人の見解を――!」
「ハンジ」

ハンジの暴走を止めたのはエルヴィンだった。しん、と静まり帰る執務室は妙な空気が漂っていた。ピンと張り詰めた息苦しい空気が一瞬の内に緩む。
「あ、あぁ……ごめん、ごめん。つい……」
「だからそんなヤツが――」
「敢えて巨人の正体を仄めかす言動はしない。言い掛かりかもしれないことは承知の上だ。彼女が潔白なら、申し訳ないことをしたと思っているよ。勿論……アニにも。君が他の皆のことを疑いたくないって思っていることも解っているし、僕も皆のことは疑いたくない……でもグレーなまま女型捕獲作戦には参加させられない。潜伏中の諜報員のことを考えれば、少しでも脅威は遠ざけておくべきだ」
「ただ、彼女――ナマエの戸籍についてなんだけど、どうも不自然なんだよねぇ」
「ハンジ、どう不自然なんだ?」
エルヴィンが問う。
「気のせいだと思うんだけど、何て言うか……ジャンの戸籍の紙と比べると、つい最近作成されたように見えるんだよね。まあ、役所の杜撰な管理のせいで戸籍の紛失トラブルも聞いたことがあるし……、紛失されたから新しく作り直した可能性もある。それにしても、彼女って名字はないの?」
「彼女は自分の名字を知らないそうです。孤児院で育ったと、以前教えてくれました」
アルミンが答えた。親がいない孤児なんて溢れる程いる。何も特別なことではない。現に、同期のユミルだって名字がない。

つまり、ナマエを信じるに値する証拠がないのだ。彼女について判明している事実は出身地だけ。他の同期も、これと言った決定打が恐らくない。完全に潔白だとは判断出来ないから、罰することも出来ずに監視対象にされたのだろう。
女型の巨人捕獲作戦は、“可能性”という非常に危うい足場の上で実行するしかないらしい。解っているのは、この部屋にいる者達はどんな結果になろうとも既に覚悟をしているということだけだ。

三年間、同じ釜の飯を食べて来た仲間が裏切り者かもしれないとうことを、ミカサも受け入れている。
この作戦の結果なんか誰にも解らないが、一手を進めなければ先は拓かない。アニはマルコの死に関わっているかもしれない。確かめければ。

決して楽観的に考えている訳ではないが、次のことは結果が解ってから考える。そのために、今ある判断材料で最良の選択をして良い状態のまま次に繋げるだけだとジャンは思った。
「オレが信頼された理由は解りました。それで……団長、オレは何をすれば良いですか」
向かいに座ったエルヴィンから役割を聞いたジャンは、その内容に軽く眩暈がした。


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