優しく微笑む理解者

「やあ、ナマエ。元気にしてたかい?」

学校の帰り道。午前中の授業が終わり、これから習い事だというミーナと先程別れたばかりのナマエは、この後何をして過ごそうか考えていたところだった。
コツン、と足先で小さな石ころを蹴りながら帰路に着く矢先のことだった。
「イェーガー先生!」
そこには会いたかった人物が立っていた。ナマエは長身の男へ嬉しそうに走り寄り、ぎゅうっと腰に抱き付いた。
「相変わらず元気そうで安心したよ。少し身長も伸びたようだね」
男は軽く笑いながら優しい手付きでナマエの頭を撫でてくれた。

グリシャ・イェーガーは医者である。ウォールマリア領南側突出区・シガンシナ区に住んでいる。シガンシナ区とは、ナマエが暮らすカラネス区から壁を一つ越えた人類最前線の居住区だ。
「今回はどれ位ここにいるの?」
「一週間はいる予定だよ。今回は患者数が多いんだ」
彼はたまにカラネス区へ診療にやって来る。ナマエは、この男が来る度に彼の仮診療所に入り浸って本を読む。勿論、簡単な手当の手伝いをすることもある。二人肩を並べて仮診療所まで歩く時、グリシャは歩幅の小さいナマエに合わせて歩いてくれる。
「あらイェーガー先生、お久しぶりです」
街の人々に挨拶され、グリシャは軽く会釈をして軽い世間話を一つした後再び歩き始めた。彼の医学知識は豊富で様々な分野に於いて多岐に渡っており、日夜研究に勤しみながらこうして壁の世界を行き来して診療している。

数年前、シガンシナ区を襲った謎の疫病の脅威から人々を救ったのもグリシャの功績である。医者としての腕前はお墨付きなのだ。おまけに人当たりも良いため、カラネス区の住民達にも慕われている。
「ねえ先生。この間お願いしていた巨人についての本、持って来てくれた?」
「ああ、持って来たよ。本当にナマエは本を読むのが好きなんだね」
「うん!将来調査兵団に入るためだからね、知っておかなくちゃ!」
無邪気にそう言ったナマエをグリシャは静かに見つめてから尋く。
「ナマエは調査兵団を見たことはあるのかい?」
「ううん、ないよ。ここは南領じゃないから調査兵団は来ない。トロスト区やシガンシナ区なら見られるんだろうね。この街には仕事しないでお酒ばっかり飲んでる駐屯兵のおじさんしかいないよ。皆良い人達だけど」
調査兵団は壁外調査を主に行っており南側領土が拠点のため、あまり東側領土のカラネス区では見かけない。ナマエは新聞で壁外調査の結果を知る程度で、調査兵団はあまり身近な存在とは言えなかった。

だから彼女にとっての調査兵団とは、新聞の活字の中だけに存在する。ごわごわとしたあまり良い品質とは言えない新聞紙に、調査兵団の壁外調査が散々たる結果が書き連ねてあっても――背中に自由の翼を生やし、壁の外を果敢にも飛んで行く様を活字の中で想像する度にナマエの心はときめくのだ。
私も早く調査兵として外に行きたいなぁ、と。

シガンシナ区こちらの駐屯兵もここと同じようなものだよ」
「そうなの?シガンシナにいようがここにいようが駐屯兵は変わらないんだね」
壁の強化に勤める駐屯兵はシガンシナの町のそこら中にいて、仕事もせず昼間から酒を飲んでいるらしい。最前線の町でも日常茶飯事のようだ。
「イェーガー先生は見たことあるでしょ?調査兵団ってどんな人達なの?」
ナマエは隣のグリシャを見上げる。
「……ああ。彼らは人類の誇りそのものだよ」
グリシャの言葉の意味をナマエは良く解らなかった。だけど、調査兵団に対して好意的に見ているようだったから、嬉しかった。

王政直々に、人類活動領域の拡大施策を任されている唯一の兵団にも拘らず、父も母も調査兵団に対して良い感情を持っていない。壁の中の住民の大半は、わざわざ好き好んで外に出るなんて自殺することと同義であると思っている。
実際に、税金の無駄遣いだとして調査兵団の壁外調査を取りやめるよう各所に掛け合っている貴族もいると、父が言っていた。

壁外調査を行っても得るものより失うものの方が多く、人類活動領域の拡大すらままならないのに彼らは外の領域に行くことを辞めない。無謀でもありながら、心が勇敢な者にしか出来ない芸当だとナマエは思っている。

坂道を一気に駆け登り切ると、こぢんまりとした石造りの空き家を改装したグリシャの仮診療所があるのだ。グリシャは診療所の扉の鍵を開けて中に入った。
一番最初にすることは、診療所の中に充満した埃臭い空気の入れ替えだった。ナマエもそれを手伝った。前回来たのは半年前。床にも埃が溜まっていたので二人で手分けして掃除をするのがルーティンである。

掃除が終わると、ナマエはグリシャから巨人の生態について書かれた本を渡された。表紙の革はところどころ擦り切れており、年季が入っているそれを大事そうに受け取った彼女は、大人しく本を読むことに専念する。ページを捲る音と筆が走る音だけのゆっくりした時間が流れる。何者にも邪魔をされることのない空間。
窓から入る陽の光は柔らかく部屋を照らし、街の活気付く人々の声が適度にナマエの鼓膜を揺する。
ナマエはこの穏やかな空間が好きだ。

人類の敵である巨人について知れば知る程、謎が謎を呼び寄せる。彼らは壁外に存在しているため、その生態は解明されていない。
驚異的な生命力を持ち、四肢を損傷させてもたちまち修復してしまうという。唯一の弱点は項のみで、項を損傷すると即死する。知性はなく、人間との意思疎通は不可能とされており、その体は蒸気が出るほどに高温らしい。触れたら焼け爛れてしまうのだろうか。ナマエは巨人の皮膚に触れてみたいと思った。

巨人について解っていることといえば、『南方から現れる』『人間を喰らう』『人間以外の生物には興味を示さない』という点だ。人間を喰らうが食事の必要はなく、百年以上人間を捕食できない環境下でも存在し続ける脅威の存在――と、本に記されていた。

「ねぇ、先生」
ナマエは本から目を離して、何やら書き物をしているグリシャへ声を掛けた。
「ずっとね、考えていることがあるの」
「ん?どんなことだい?」
「……笑わない?」
「笑うもんか。君の話を僕が一度だって笑ったことはあるかい?」

思い当たる節はなかった。いつだってグリシャは、ナマエの話に耳を傾けてくれる。彼にとってナマエは、出張先で出会ったただの少女に過ぎないだろう。実の子供でも何でもない少女の話を、グリシャは同じ目線に立って聞いてくれる。それがとても嬉しくて、心地良かった。

「巨人が人間を喰べる理由って、人間に戻るためだったら……どうかな?」
グリシャの筆が止まる。
「彼らが元は人間だった――と?」
それを見たナマエは、そのまま自分の突拍子もない考えを続けても良いと判断した。
「うん。元は同じ人間だったんじゃないかな。巨人はお腹が空いたから人間を喰べる訳じゃなくて元に戻るために喰べるんだ。きっと本能としてインプットされているのかも」

人間は空腹になったら豚や牛などの家畜の肉や野菜、果物など何でも食べてしまう。巨人とヒトの違いとは、きっとほんの僅かな差異なのかもしれない。差異を埋めるために、人間が人間を食べれば――巨人になり得るのだろうか。
非常に曖昧な境界線の上でナマエ達は生きている。
「でも、もし人間に戻るために食べるなら巨人って可哀想だね。だって人間に戻りたいのに調査兵団が殺しちゃうから」
彼らに追い詰められた結果、人類は狭い壁の世界で生きることを余儀なくされたけれど。ナマエは巨人に対して“可哀想”と思ったことは一度もない。両親や親友を巨人に喰われたこともないから、“憎い”という感情がないのだ。だけど“倒すべき敵”として、しっかり認識はしている。
「それは面白い見方だね。それだと調査兵団は悪いヤツになっちゃうけど、ナマエは良いのかい?」
「良くないよ!イェーガー先生だって調査兵団は人類のホコリだって言ったじゃん!悪いヤツが人類のホコリなら、人類全部が悪いヤツになっちゃう!」

ナマエはグリシャの言葉に噛み付いた。調査兵団を好意的に評価しているグリシャから、彼らが“悪いヤツ”という言葉が出て来たことにショックだった。
もっと言うならば、ナマエにとっての正義の味方が“悪いヤツ”であるという言葉は、いとも簡単にすんなりと自分の心の中に入ってしまってその言葉を認めたくなかったのだ。

すっかり臍を曲げてしまった少女をグリシャは慰めた。
「調査兵団を貶したい訳じゃないんだよ。彼らは間違いなく人類の希望だと私も思っている。私はナマエが何で巨人が可哀想だと思ったのか知りたいんだ」
グリシャの言葉にナマエは暫く黙ってから、頭で考えたことをそのまま口にした。
「……もし、わたしが巨人になったとして元に戻る方法が人間を喰べるしかないなら……嫌だけど人間を喰べる。本能には逆らえない。巨人の行動って人間に戻るためなんじゃないかって思ったの。巨人は人間の敵だけど、巨人にとってはわたし達が敵なんだよ」
ナマエの口調が尻すぼみした。想像したら遣る瀬なくなったからだ。殺して、殺される終わりのない悪夢の循環。一体誰が、何のために巨人を創ったのか。

彼女の言葉に横槍を入れずに聞いていたグリシャは椅子から腰を上げて、ソファでうずくまっているナマエの隣に腰を下ろす。
ソファは二人分の重量を受けて、より下に沈み込んだ。

「事柄を一つの側面から見ることはあまり賢いとは言えない。間違っているとは言わないが、視野が狭くなって大事なものをいつの間にか見失ってしまうかもしれないからね。それぞれの立場、考え方は人類の数だけあるんだ。だからナマエ……」
ナマエはグリシャに名前を呼ばれたので、顔を上げた。

眼鏡の奥にある瞳は獰猛な獣に似ている。ナマエはふと、そんなことを思う。グリシャがあまりにも真っ直ぐこちらを見て来る。その獣のような獰猛さに視線を外すことが出来ず、彼女もグリシャを見返した。
「これから君が生きて行く中で、様々な意見が食い違って対立することがあるだろう。その時は、見方を変えてみるんだ。そうすればお互いの妥協点や相互理解が深まる筈だからね」
ナマエは目の前のグリシャが何を考えているのか解らなかったから、素直に質問する。
「それはどうやったら出来るようになるの?」
「この世界の人々を愛することだ」
グリシャに投げた質問は更に難解な言葉になって、ナマエの元に戻って来た。意味が解らなくて小首を傾げる。
「……アイスル?」
「ちょっと難しかったかな……、言い方を変えよう。この壁の中に、ナマエにとって大好きな人や大事な人を見付けることだ」
「うーん……、大好きな人も大事な人もいるけど嫌いな人もいるよ!私のことを本の虫って馬鹿にして来る子もいるし、学校には意地悪な先生や先輩もいるから全員大好きになるのは無理だよ」

ナマエは苦手な人間の顔を何人か思い浮かべて少しだけ顔を顰めた。子供らしい仕草にグリシャが笑うと、 少女は大きな黒い瞳を細め、小ぶりな唇を尖らせて不満気な顔をする。
「嫌いな相手や憎い相手を愛することはとても難しいことだ。大人ですら出来ない人が多い。それが出来なかった昔の私は……、己の過ちに気付くのが余りにも遅過ぎた……」
グリシャは目を細め、何かを思い出すような口振りで呟かれた言葉はどこか空虚だった。いつも穏やかな男から急に醸し出された憂いの正体を、ナマエは窺い知ることが出来ない。
「……、今は違うの?」
「ああ、ある人の……いや、――古い、友人の――お陰でね。どうしようもなかった私にも守るべき家族が出来た。息子がいてね、ナマエと同い年位の男の子なんだ。それに、私の医術を必要としてくれる人々がここにいる。温かく迎えてくれる人々も。勿論、君もだ」
「その古い友人さんは今何してるの?」
一呼吸分の沈黙の後。
「……、随分前に亡くなったよ。不治の病でね」
グリシャがぽつりとそう言った。

医者として命を救えなかった悔しさ、遣る瀬なさ、喪失感、悲しみ。そういった負の感情とは程遠い声音で。事実だけを淡々と無感情に述べる口調だった。だけど、肉体は朽ち――土に還ろうとも。
「彼は私の中で生きている。彼の意志は私に受け継がれていつか……次の代に繋がるんだよ」
男の瞳の奥には隠れることのない牙が――確かに宿っていた。
不思議と彼の言葉は、ナマエの心に染み渡り馴染んだ。グリシャと死んだ古い友人との間に一体何があったのかナマエは知らないけれど、土足で簡単に踏み込んで良いものではないことだけは解った。
「先生の意志ってどんなもの?」
「……難しい話をしてしまったね」
「何か良く解らないんだけど、いつか……、話せるようになったら先生とその人のお話し、聞かせてくれたら嬉しいな」
「ああ……。そんな時が来たら、な」
グリシャはナマエの頭を優しく撫でた。

「ねえ、イェーガー先生。秘密のお話聞いてくれる?」
「夢のお話に出て来る“ニホン”のことだね。今回はどんな夢を見たんだい?」
そう言ってナマエは夢見た光景を思い出しながら説明する。

彼はナマエが話す日本のことや、海の話を興味深そうに聞いてくれるのだ。壁の外にも海があるかもしれないと言っても、壁の中の住民とは違い、海の話や外の世界に興味を持つことを止めるよう言われたことがなかった。“本当の自分”を見てくれているようで、嬉しかった。この世界に存在して良いのだと――言ってくれているような気さえした。

ナマエは自分の頭の中を過ぎる懐かしい“記憶”をまた思い出していて、グリシャに知って欲しいと思っていたのだ。
壁に囲まれた世界で理解の範疇を超えている少女の話に、医者である男がどんな反応をするのかナマエはいつも楽しみにしていた。彼と話している時だけ、本当の自分に戻れたような気がした。


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