女神達の慈悲深き加護

美しい街並みを囲むように聳える堅牢で巨大な壁がどこにいてもナマエの視界に入り込む。ウォールローゼ領東側突出区・カラネス区は、石造りの建造物が所狭しに並べられた城壁都市だ。街には整備された大きな運河が内地から延びており、さらに外側の領地へと続いている。

街をぐるりと囲む巨大な壁は高さ五十メートル、厚さ十メートル程あり、三重構造になっていて人類にとって残された最後の活動領域なのである。
「駐屯兵団のおじさん達!今日も私達と遊ぼう!」
「何だ、またお前達か。昨日も遊んでやっただろう?今日もオレ達は仕事で忙しいんだ。ガキは向こうで遊んで来な」

今日もナマエは近所に住んでいる幼馴染のミーナと一緒に、呑んだくれで気の良い駐屯兵団の兵士達に構ってもらっていた。
「何言ってんの、おじさん達のお勤めってお酒を呑むことなんでしょ?これだから駐屯兵団は駄目なんだって皆に言われちゃうんだよ」
ナマエは腰に手を当てて昼間から酒をかっ食らっている赤ら顔の兵士達を窘めると、彼らはがさつで粗野な笑い声を上げた。
「そりゃあ違げぇねえ!全く相変わらず生意気なガキだな、ナマエは!」
「オレ達より憲兵の方がもっと堕ちてるけどな!」
「お母さんもいつもおじさん達のことそう言ってるよ?」
「親の受け売りってやつか」

駐屯兵団とは、壁の強固に務める兵士の集まりである。あの巨大な壁の外側には人類の天敵である“巨人”という化物がいて、人類は幾度となくヤツらの餌食にされて来た。壁の中に人類が逃げ込んでからもう百年近く経つ――と、初等学校の歴史の授業で習ったばかりだ。

人類が壁の中に逃げ込んでから百年。今日まで安寧を享受し、人類は繁栄し続けている。それ故に巨人の襲撃なんてあり得ないと誰もが信じて疑わないし、駐屯兵団は堕落していた。
街にいる殆どの駐屯兵士はこうして昼間から酒を呑むだけなので、住民から税金の無駄使いだと言われ、仕事をしろと野次を飛ばされることは日常茶飯事である。
「お前達今日は学校で何勉強して来たんだよ?」
「今日は歴史のことを習って来たよ。おじさん達が守っている壁のこと!」
ナマエは、頭に冠のようなものを被った女神――ローゼの横顔が施された壁のレリーフに目をやる傍で、ミーナがニコニコしながら、板書したノートを赤ら顔の兵士に見せている。

この三重の壁は三柱の女神――マリア、ローゼ、シーナという女性の名前が付けられている。人類は彼女達女神によって加護されていると、壁を信仰する団体が熱心に――時に狂信的に――説いているのを街中で良く見掛けることがある。
「あの壁はシーナに住んでいるすごく偉い王様がわたし達を守るために創ってくれたものだって」
女神だろうがなんだろうが壁は壁に過ぎないと、ナマエはそう思っている反面、自分も壁に生かされていることを理解している。限られた狭い土地の中でしか生きる道がない人類にとって健やかな人生と心の安寧を求めるあまり、何かに縋りたくなったっておかしくはないだろうから。

信じる、信じないは自由だ。あの壁に何かを見出そうとする人がいれば、駐屯兵と同じように日々楽しくお酒が飲めれば良い人もいる。壁の向こうの世界に行きたいと思うことは、別におかしいことではない筈だ。
例えナマエにとってはただの壁であろうとも、それを信仰している者には神聖且つ畏怖の念を抱かざるを得ない存在なのだ。人間は、何かに酔っていないと生きるのが辛い生き物だろうから。
「ミーナにナマエ。お前達が駐屯兵になってこの街を守るのはどうだ?生まれ故郷を守るなんて名誉なことだと思わないか?」
そう問われるとミーナはいまいちピンと来ていない様子で、うーんと首を捻っている。
「……わたしは調査兵団に入りたい」

ナマエは視線を女神・ローゼの方へ向けたまましっかりとした口調で答えた。少女の答えにその場にいる駐屯兵は開いた口が塞がらない様子で、アルコールが回った赤ら顔に少しの戸惑いを浮かべていた。
「お、おいおい……ナマエ、お前本気なのか?調査兵団に入った暁には、すぐに巨人の餌食にされちまうんだぞ」
「この間の壁外調査も殆ど何も得ることも出来ずに多くの兵士が帰って来なかったらしいしな」
ミーナは見たこともない化物の姿を想像したようで、怯えた口調で質問した。
「どうしてナマエは調査兵団に入りたいの?だって外には……巨人がいるんだよ?」
「外の世界について書かれた本が一冊もないんだもの」
「……本?」

ミーナが小首を傾げる。外の世界の様子が記された書物が全くないことにナマエは不思議に思っていた。人類活動領域を記した大まかな図説を書物で読んだことがあったが、ウォールマリア領の外側――壁外については記されておらず依然と謎のままだ。図説そのものが街や壁の大きさを正確に描写したものではなく、人類に残された領域の広さを感覚的に示したものに過ぎない。
「巨人が人間を喰べちゃって、壁の外に人間はいないから外の世界のことが解らないんだよ」
「だから調査兵団は壁外調査をしている。外の世界を知ることが出来るんだよ!この街に流れているあの大きな運河の先を見ることが出来るなんてワクワクする!」
ナマエは黒い瞳を輝かせながらそう言った。

この街に整備された大きな運河は、内地からここを通ってマリア領へ延びている。一日に何度か生活物資や食料などが貨物船で運ばれて来るので、狭い壁の世界に於いて重要な生命線なのだ。一本の生命線が三重の壁を超えてどこへ向かって続いているのか確認したい。
もしかしたら海まで延びているのかもしれない。

ナマエは物心つく前から、ふとした瞬間に見たこともない光景が頭の中を過ぎることがあり、それは大きくなるに連れて頻繁にあった。良く解らない現象を怖いとか不思議に思うことはなく、むしろ夢を見ているような感覚だった。
太陽の光を反射して輝く美しい水面は舐めると塩辛い。寄せては返す穏やかな波と白い砂浜をナマエは知っている。いや――知っているというより、見たことがあると言うべきか。

夢に出て来る光景は様々だった。淡いピンク色をした花は一年に一回しか咲かない。その花は“桜”という種類で、この壁の中の世界で探してみたものの――未だに見つけることが出来ていない。
父と母にも尋いたことがあったのだが、ナマエの話す内容にきょとんと不思議そうな顔をするだけで、“桜”や“海”、“日本”という名称は知らないし聞いたことがないと首を傾げるだけだった。
どこか懐かしくて、胸が締め付けられる夢は多分ナマエだけの“記憶”なのだろうと気付いたのはつい最近のこと。

「調査兵団に入って、外の世界を見たいんだ。だから巨人なんかに負けない強い兵士になりたい」

ナマエの熱の籠った言葉を聞いた駐屯兵が諭すように言った。
「いいか、ナマエ。王政は外の世界に興味を持つことを禁忌タブーにしている。外の世界には巨人以外何もないことになっているんだ。お前さんを怖がらせるつもりはないが……壁を越えようとした夫婦がいたらしくてな、憲兵に見つかって行方不明らしい」
“行方不明”という不穏な響きの単語に、ミーナが小さい悲鳴を上げて身体を震わせた。
「おじさん、もしかしてナマエのこと憲兵のおじさんに言うつもりなの?」
「安心しろよ、ミーナ。ナマエの話は聞かなかったことにするからよ」
不安そうな彼女の顔を見てそう言った駐屯兵は、二人の少女の頭を乱暴に撫でた。
「……ありがとう、おじさん達」
ナマエは乱暴に撫でられてぐしゃぐしゃになった黒い髪を整えながら言った。
「――ほら、お前達のお袋さんが迎えに来たぞ。お子様はお家に帰る時間だ」

振り向くと、街中からミーナとナマエの母親がこちらへ向かって来る姿が目に入った。
もう夕飯時である。駐屯兵に遊んで貰って、母親が迎えに来るまでがナマエ達の日常だった。
「いつもすみませんねぇ。うちの子がお仕事の邪魔ばかりして」
ナマエの母親が駐屯兵達へチクリと小言を言ったが、彼らはそんなこと一ミリも気にしていない様子であった。
「いやぁ、良いってことよ。子供は元気が一番だ!……ほら、お前達もう帰りな。また明日な」
「また明日も遊んでね、おじさん達!」
ほろ酔い顔の駐屯兵達に見送られ、ナマエとミーナは母親に連れられる。ミーナは少しだけ不安そうな表情でナマエに手を振って母親と共に帰路に着いた。

外の世界に行きたいのなら、正攻法を使って調査兵団に入る。調査兵になって外の世界を見れば良い。そのためには巨人のことを知っておかなくてはならない。より一層勉強に力を入れなくては。
「母さん。私、もっと勉強頑張るね」
ナマエは初等学校を卒業したら、訓練兵に志願しようと密かに決めていた。キュッと、母の温かい手を握る。
「あら、頼もしいじゃない。将来が楽しみだわ」
そう言って母は笑った。
母親は娘の――娘は母親の気持ちなど――何も知ることもなく。


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