研ぎ澄まされた純粋な殺意

薄暗い巨大樹の森の中で待機して暫く経った頃。突然、砲撃に似た不穏な音が森の奥から響いて来た。
「ミカサ。この音何だと思いますか?森の奥で大砲でも撃っているんでしょうか?」
サシャが不安そうに呟いた。
ここに来るまで、右翼側から黒の信煙弾が頻繁に上がっていたのをミカサも確認している。その意味は、陣形内に巨人が侵入したということ。人的被害は計り知れないだろう。そして極め付けは、本来なら来る予定ですらなかった巨大樹の森での待機命令だ。ここに来た瞬間から、シガンシナ区への試運転という本来の作戦は、意味を為さなくなったと考えて良いだろう。ならば今、自分達は一体何のためにこんな所で待機しているのか。

エレンは無事なのだろうかと、ミカサが心配している矢先での出来事だった。
「……巨人相手なら大砲より立体起動を使う。ので、壁外で大砲を使う理由はない、と思う」
「それじゃあ、この音は一体何なんでしょう?」
ミカサは少しだけ考えてみたものの、解らなかった。こういう時に、アルミンがいれば何か糸口が掴めたかもしれない。
「……解らない。とにかく、エレンが無事だと良いんだけど」

砲撃音が止むと辺りは静かになったものの、ミカサは神経を研ぎ澄ませている。まだ何か起きるかもしれない。
「早く帰りたいです。ここに来るまで巨人に喰べられそうになりましたし……」
サシャが深い溜息と共に弱音を吐き出すと、今度は森の奥から獣のような断末魔が響いて来た。
「……突然何?」
「待って!聞いて下さい、ミカサ!」

サシャの顔色は随分と青冷めでいた。
「さっきの悲鳴聞いたことがあります!私がいた森の中で……!アレと同じなんです。追い詰められた生き物が全てを投げ打つ時の声……狩りの最後ほど注意が必要だって教えられたんです!」
「……だから注意しろと?」
「いつもより百倍注意して下さい!森舐めたら死にますよ、あなた!」
「私も山育ち何だけど……」
「野菜作ってた子には解らないですよ!」
「そう……」

確かにサシャの勘は結構当たる。しかも、主に悪い予感の時だけ。横目でサシャを窺えば、グルグルと野犬の如く唸っている。アルミン曰く、エレンは中央後方辺りにいるのではないかと言っていた。

つまり、エレンは自分達と別行動をしている中列部隊と一緒に森の奥にいることになる。確か、森の奥に進んでいったのは、中列部隊と荷台組だけだったと思う。何故、こんなにも胸騒ぎがするのだろう。
「――見て下さい!巨人が……森の中に!」

大小様々な巨人の大群が、先程の断末魔に導かれるよう一斉に走り出す。それと共に鋭い声で下された戦闘開始という号令に、ミカサはアンカーを発射させた。

何体もの巨人の項を刈り取っても、敵は森の奥へと侵攻して行く。辺りが蒸気で視界が悪くなった頃、唐突に打ち上げられたのは青色の信煙弾――撤退命令の合図だった。

待機命令から突然の戦闘開始。状況が良く解らない。一体どうなっているのか。エレンは無事なのか。一抹の不安を抱きながらもサシャと一緒に馬を繋いでいる場所へ向かっていると、今度は聞いたことのある咆哮が森に轟いた。
ハッとしたミカサは後ろを振り返る。

目を凝らしても、周囲は高い樹木に覆われているせいか薄暗くて奥が見えない。全てを覆い隠してしまっている。何だか嫌な予感が、心の中にじんわりと――染み渡る様に広がって行く。居ても立っても居られなくなったミカサは元来た方へ引き返すことにした。
「ミカサ!?どこ行くんですか、そっちは反対方向ですよ!」
サシャの制止する声を無視してミカサは先程の叫び声を頼りにして、更に森の奥へ戻って行く。
「――エレン!!」

ミカサはアンカーを木の幹に突き刺し、ワイヤーをレールで巻き取って立体起動のガスを吹かす。素早く森の中を移動しながら、最愛の家族の名前を叫んだ。いつも冷静な色を帯びるアルトボイスには切迫感が滲み出ていた。何しろエレンは兵団の切り札であり、ミカサにとって大事な家族なのだ。

暫く進むと、樹木が拓けたところに出ることが出来た。多くの樹木が薙ぎ倒され、地面は抉られた跡がいくつもあった。薄っすらとした陽光の元で。蒸気が昇る項から、虚ろな表情をしたエレンの姿があった。一体の巨人が、エレンを口に含む動作。エレンの巨人と思しき物から爆ぜる赤黒い飛沫も。ミカサの目に、全てがゆっくりと映る。
「あ、ぁぁ……」
乾いた口内から空気が漏れ、言葉にならなかったもの達が呻きとして口から出た。

ズキン、と頭が鋭く痺れた。また、失ってしまうのか。エレンが目の前で巨人に飲まれ、ミカサの世界は唐突に色彩と音が失われて行く。エレンを口に含んだ巨人は、ゆっくりとその場を去って行った。呆然としたままのミカサの存在に気付かずに。
「待って……エレン……」
やっとの思いで口にした言葉は、迷子の子供の如く心細いもので――酷い痛みに耐えるような声音だった。
「行かないで……」

トロスト区あの時のような喪失感を味わいたくない。人知れずエレンを守ることを再び心に決めて、この一ヶ月を過ごして来たのに。少女の想いすら踏み躙るような現実は残酷と呼ぶべきか。
もう二度と。エレンを喪う訳にはいかない。
どんどん離れて行く巨人の後ろ姿だけを呆けた目で追っていたミカサは、自分の中ではっきりとした目的意識が芽生えた気がした。敵を掻っ捌いて、エレンを助けることだと。

強くグリップを持ち直し、トリガーを引く。立体起動のガスを最大限に吹かす。素早く、そして力強く飛び出した。鋭利な刃物を思わせる目付きで、前方を走る女型の巨人を睨め付ける。ミカサは、少しずつ距離を縮めて行った。
エレンを奪われた怒りで、自然と低い声音でエレン家族の名を呼ぶ。
「エレンを――」
ガスの力と重力を上手く使い、身体を回転させてブレードを女型の顎に滑らした。
「エレンを――返せ!!」

女型の目前に躍り出た後、瞬時に後退すると共にブレードの切っ先で敵の肩口を切り裂いた。
ミカサは巧みにトリガーを操作して、まるで振り子のような動きを繰り返しながら、くるくると旋回した。女型の脚や背中、腕に刃を突き立てて追い詰めて行く。
ブレードが肉を裂く度に、巨人の熱い血がミカサの顔を濡らした。傷付きながらも走ることを止めない敵に、ミカサは低く唸るような声音で己の気持ちを刃にぶつける。
「返せ!!」

斬撃によって厚い膝裏の肉が切り裂かれて、走っていた巨人がぐらりと傾き歩みを止めた。
ここぞとばかりに、ミカサは項へと狙いを定めてガスを吹かす。
さっきから手で項を守っているが、関係ない。手ごと切り裂いてしまえば良いのだから。ブレードが敵の急所を捉えたとミカサは思った。金属と金属がぶつかった甲高い音が森の中で響く。項を削いだ後の独特な手応えが全くない。それどころか、ブレードは瞬く間に刃こぼれを起こしてしまった。
「何故……刃が通らない!!」
ミカサは荒い息を吐いて、ひざまずいてたままの敵を睨み付けた。
巨人の返り血で濡れてしまった顔やローブから、熱い蒸気が昇っている。黒い瞳を細め、巨人の口元へ目線を投げる。

あの中に、エレンはいる。
「……絶対、生きてる」
そう一言だけ言い聞かせ、ミカサは替えの刃をグリップに装填してから対象を狙うよう構えた。
「絶対に、エレンは生きてる!!どこにいたってその女殺して――身体中掻っ捌いて、その汚いところから出してあげるから。ごめんね、エレン……もう少しだけ待ってて」

顔に張り付いた返り血が蒸発して消えて行く。
虫を潰す要領で片腕を翳して来た巨人からの一撃を躱した。ミカサが避けた隙に、敵は再び逃走を開始する。
「――待て!!」
苦々しい思いで胸一杯のミカサは後を追おうと身体に衝撃が走った。

「一旦離れろ」

大人とも子供とも付かない声がした。声を荒げている訳でもないのに反発する気持ちが削がれる――そんな圧力を持つ声の主をミカサは忘れない。
「くっ……」
前を走る女型へひと睨みしてから、ミカサは声の主へ顔を向けた。
「この距離を保て。奴も疲弊したか、それ程速力はないように見える……。項ごと囓り取られていたようだが、エレンは死んだのか?」
「生きてます」
リヴァイの問いにミカサは即座に応える。
“死んだ”なんてあってはならない。ミカサには、初めからそんな考えは全くない。
「目標には知性があるようですが、その目的はエレンを連れ去ることです。殺したいのなら潰す筈……。目標はわざわざ口に含んで戦いながら逃げています」
先程ミカサを潰そうと拳を突き出して来たのも、項を庇う行動も普通の巨人には当て嵌まらない。敵はエレンと同じように知性があるに違いない。
「エレンを喰うことが目的かもしれん。そうなればエレンは胃袋だ……。普通に考えれば死んでいるが……」
「生きてます」

ミカサは再び強く断言した。そんな彼女へリヴァイが視線を投げる。
「……だといいな」
ミカサは反抗心を隠すこともなく、少し前に飛んでいるリヴァイを睨み付ける。
「……そもそもはあなたがエレンを守っていれば、こんなことにはならなかった」

エレンの身柄の行方を決めた審議で、この男はエレンの顔面が変わるまで――血だらけで痣だらけになるまで蹴り倒したのだ。小柄な体躯からは想像し得ない程の力を込めて。周囲はリヴァイの所業に恐れ慄いたが、この男が身に纏う有無を言わせない絶対的な雰囲気のせいだ。
それはたった数年で培ったものではなく、既に男の身体に染み付いて取れないものだ。
例えあれ・・がパフォーマンスの一環だとしても、エレンやアルミンが何と言おうと、ミカサだけは許さないつもりだ。

エレンを傷付ける人間は誰であっても。己が所属する兵団で、兵士長を務める“人類最強”と謳われている男だとしても。
「そうか、お前はあの時の……エレンの馴染みか」
こちらに視線を向けているリヴァイの顔には、ミカサにとって形容し難い痛みとも苦悩とも取れる何かが見て取れた。だけど彼女には、その意味は解らなかった。
「目的を一つに絞るぞ。まず女型を仕留めることは諦める」
「奴は……仲間を沢山殺しています」
「皮膚を硬化させる能力がある以上は無理だ。俺の判断に従え」

ミカサは前を走る女型に目を向ける。巨人の分厚い肉を削ぎ落とすために、特化された超硬質スチール製のブレードが簡単に砕けたことを考えると、あの能力はとても厄介だ。何しろ、巨人は項を削ぎ落とさない限り、何度でも回復してしまうからだ。
「エレンが生きていることに全ての望みを賭け、ヤツが森を抜ける前にエレンを救い出す。オレがヤツを削る。お前はヤツの注意を引け」

ミカサはリヴァイの判断に従うことにした。今前方で走っている女型を掻っ捌きたいが、エレン救出が急務だ。腰に装着している立体起動のガスを吹かせ、女型の脚へ目掛けて前に飛び出した。
敵がミカサに気を取られている間、対するリヴァイは後ろから迫る。彼が女型の巨人の視界を奪い、勢いのまま筋肉の筋を切り刻み――動きを封じるまで――瞬殺の出来事であった。

リヴァイの立体起動の操作、ガスの力と重力の使い方、ブレードの捌き方全てが、ずば抜けており目で追うことが精一杯だった。流石のミカサも、リヴァイの真似は出来なかった。
“人類最強”という通り名に相応しい、圧倒的な力の差を見せ付けられる。ミカサが加勢する余地がない――というより加勢する必要がないくらい――一方的に攻撃されている女型を、見ていることしか出来ない。

早すぎて硬化で防ぐ暇もない。
鬼気迫る勢いでリヴァイが刃を突き立てると、女型の血がそこら中に飛び散る。顎周りの筋肉から腕の筋肉、肩周りの筋肉を瞬時に削ぎ落とされ、だらんと力なく腕が下がると露わにされる項。
ミカサはどきりと、した。
今なら――。

狙える。疲弊しているから、きっと動けない。殺せる。アンカーを打ち、ガスと遠心力を利用してミカサが女型の急所へ迫る。
「よせ!!」
制止する声と一緒に背中を強く押されて、ミカサは弾き出された。リヴァイが女型の顎の筋肉を削ぐと、固く閉じられていた口内が開かれる。そこには、体液にまみれたエレンが気を失っていた。
リヴァイはそれをさっと横に抱えると、女型から離脱する。
「オイ!ズラかるぞ!!」
「エレン!!」
ミカサはエレンの名前を呼んだ。リヴァイに抱えられたエレンは、全くミカサの呼び掛けに反応しない。ドロドロとした液体に絡まった彼を見て、ミカサは少し心配になった。
「多分生きてる、無事だ。汚ねぇが……。もう奴には関わるな。撤退する」
ミカサがホッとしたのも束の間。リヴァイは言葉少なめに、必要なことだけを口にした。
「作戦の本質を見失うな。自分の欲求を満たすことの方が大事なのか?お前の大事な友人だろう」

自分の欲求。リヴァイの言葉に、沸騰していたミカサの頭が急激に冷えて行く。
「違う、私は……」
徐々に遠くなるリヴァイの背中を見つめながら、口から否定の単語が出て来た。まるで譫言のようにミカサは呟いたものの――続きの言葉が出て来ない。

大事な家族を敵から奪い返すための作戦が、いつの間にか敵を殺すことに転換されていた。それ程、ミカサはエレンを失うことを恐れた。同時に動揺し――トロスト区で覚えた喪失感を再び味わうことが耐えられなかった。
ミカサが女型の項を狙ったのは、僅かなチャンスを棒に振りたくなかったから。“殺してやる”という研ぎ澄まされた殺意と、“自分なら殺せる”という純粋な自信が少女の胸にあったからだ。

エレンの敵は、即ちミカサの敵である。
どんなことがあってもエレンを守ると決めた六年前から、少女にとって少年は守るべき存在に変わりはない。だからエレンを取り戻すためなら、どんな手段だって厭わないという気持ちが――感情が上回ってしまった。リヴァイの言う通り、私情に流されて勝手に取った行動だったと――ミカサは自覚してしまったのだ。

ミカサは自分の力不足を悔いた。“エレンを守る”ことは愚か、感情を爆発させたせいで上官に諭されるなんて。エレンを取り戻す作戦なのに、隙を突いて女型を殺そうとしたことに間違いはない。下手をしたら、あのままエレンを奪われてしまっていたらと思うと、背筋がゾッとした。リヴァイの言葉に反論出来なかったのは、図星だったからだ。
「ごめんなさい……エレン。私は、作戦の本質を見失っていた……。エレンよりも自分の欲望を優先してしまったなんて」
ミカサの言葉は誰かに届くことなく、静かに森の中に吸い込まれて行く。
「今度こそ、あなたを守ってみせる」
前方にいるリヴァイの方へ視線を向けたミカサは人知れず決意した。本隊と合流するために、リヴァイとミカサは立体起動で森の中を駆け抜けた。


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