怒りと哀しみを鉄槌に乗せて

君には何が見える?敵は何だと思う?
一ヶ月前に二体の巨人が襲撃された時、エルヴィンから問われた謎。その時は、そんなことを質問して来る意図が全く解らなかったエレンだったが、今なら解る。
兵団内に、壁の破壊を目論む勢力が紛れていると仮定すれば頷ける。それも壁が破壊された五年前に敵勢力が侵入して来たのなら、容疑者の線引きもしやすいだろう。どうやらエレンだけでなく、ペトラも同じような質問をエルヴィンからされたらしい。
あの質問に答えられていたら、今回の本作戦に関わることが出来たのかもしれない。

何度目かの爆発音と不気味な叫び声が止んで暫くした頃。背の高い樹々の合間から青い煙弾が打ち上げられたのを確認したグンタが、少しだけ緊張を緩めた顔をする。待ち侘びた信煙弾の色はカラネス区への帰還の意味だ。
「どうやら終わったようだ。馬に戻るぞ!撤退の準備だ!」
「中身のクソ野郎がどんな面しているか拝みに行こうじゃねぇか」
オルオの口振りはリヴァイとは似ても似つかないものだった。
「本当に、ヤツの正体が……?」
エレンは信じられない気持ちを口にする。相手は”超大型”と“鎧”の仲間である。強敵を捕らえたということは、巨人の正体や世界の秘密のことは勿論、何故人類への攻撃を仕掛けたのか全てが明るみになるということだ。
「エレンのおかげでね」
隣でガスの整備をしているペトラが明るい声でエレンに話し掛けた。
「オレは特に何も……」
何もせず、何も出来ずに。仲間が無惨に死んでいく様子を見て、子供のように喚いていただけだ。そう心の中で呟いたエレンに、ペトラは優しく微笑みながら答えた。
「私達を信じてくれたでしょ?あの時、私達を選んだから今の結果がある。正しい選択をすることって結構難しいことだよ」
「オイ、あんまり甘やかすんじゃねぇよ、ペトラ。コイツが何したって言うんだ?みっともなくギャアギャア騒いでいただけじゃねぇか」
「う……」
リヴァイの口調を真似てオルオが尤もなことを言う。

オルオの言う通り、エレン自身その自覚があったから反論しなかった。今回は女型の捕獲作戦だと周囲に隠されていた訳だから、新米の兵士なら尚更混乱するのは仕方ないかもしれないけど。
「まぁ……最初は生きて帰ってりゃ上出来かもな。だがそれも作戦が終わるまでだ。評価は出来ん。いいか、ガキンチョ。お家に帰るまでが壁外遠征だからな」
「もう、分かりましたって……」
エレンは溜息を吐いた。口ではああ言っているがオルオ自身も、ひとまずエレンが自分達を選んでくれたことに安堵しているのかもしれない。

リヴァイ班は馬を繋いだ場所に戻るために立体起動で移動する。カラネス区へ帰還ということもあり、行きとは打って変わって、和やかな雰囲気が班員達を包む。先頭を行くグンタが後ろで騒ぐ四人をぴしゃりと諌めた。

緊張感が解けたものの、ここは壁外。巨人が支配する世界だ。生きて再び壁の中の地を踏むためにリヴァイ班は立体起動で薄暗い森の中を進む。パン、と乾いた発砲音が響いて皆それぞれが上空へ目をやった。森の隙間から上がる緑の信煙弾を確認する。
「――おっと、きっとリヴァイ兵長からの連絡だ。兵長と合流するぞ!続きは帰ってからやれ!」
リヴァイと合流すれば、後は再び隊列を組み直してカラネス区へ帰還するだけである。
グンタが一旦太い木の枝に着地して、リヴァイへ自分達の場所を知らせるため空に向かって信煙弾を撃つ。子気味良い発砲音と共に緑色の煙が上空に広がった。

信煙弾を撃った後、エレン達はトリガーを操作してアンカーを太い木の幹に打ち付けて飛行する。
前方を進んでいたグンタが突然切羽詰まった声音で叫んだ。
「誰だ……!?」
エレンがグンタの声を耳にした瞬間、横からやって来た者がグンタに接触する。

一瞬、キラリと刃が光った。
くるくると回りながら。糸がプツンと切れたかのように。落ちていくグンタは一本のアンカーが木の幹に打ち込まれていたため、落下は免れたようだ。
「グンタさん!?ちょっと……どうし――」
エレンは目を見開いて息を呑んだ。

ぶらぶらと宙に揺れ、力なく投げ出された両腕。項からボタボタと滴れる赤黒い液体。瞬きすらしない両の目。自分の身に何が起きたのか解らない表情のまま事切れたグンタがぶら下がっていた。
「エレン、止まるな!進め!」
グンタだった物体を眺めているエレンを、オルオが青い顔をして叱咤する。襲撃者は乱立する木の幹に上手く隠れ、エレン達からは確認出来ない。太陽の柔らかい光も樹々に遮られ、視界は薄暗かった。

姿の見えない敵にリヴァイ班を包む空気は緊迫感に包まれる。
「エレンを守れ!」
「チクショウ、どうする!?エルドどこに向かえば良い!?」
オルオがエルドに指示を仰いだ。
「馬に乗る暇はない!全速力で本部へ向かえ!とにかく味方の元へ!」
ガスを最大限に蒸す音とトリガーを打つ音だけが森の中に響く。
「女型の中身か!?それとも複数いるのか!?」
「掛かって来い!刺し違えても倒す!!」
ペトラが薄暗い森の中でどこかに潜んでいる敵に向かって叫んだ。周囲を睨み、敵の居場所を探っている。

女型の巨人が迫っているなんて。捕まったのではなかったか。ついさっき、エレンはこの目で見たのだ。何本もの太いワイヤーで身体を固定されて身じろぎ出来ない女型ヤツの姿を。
エルヴィンをはじめとした、歴戦の調査兵士達が女型の周りを囲んでいたのを。
敵が巨人化の力を残す術を持っているならば。エレンよりも巨人化の精度が高ければ、再び巨人を出現出来るかもしれない。エレンの心臓は早鐘のように鼓動する。

背後で稲妻が落ちたような――耳が裂けてしまう程の音と爆風と共に、橙色をした眩ゆい閃光の後。エレンの瞳に女のような身体つきをした巨人が映った。

「女型の巨人だ!!」

身体中から熱い蒸気を幾重にも纏って再び姿を現した女型の巨人は、先程と全く変わらない速度でエレン達を追って来た。身体にワイヤーが貫かれたこともなかったかのように。未だにエレンを諦めていない強い意志が瞳に宿っていた。
エレンは己の親指の付け根に歯を突き立てる。
「今度こそやります!オレが奴を――」
「ダメだ!!」
エルドがエレンの巨人化を止める。この力があれば敵を倒すことだって出来るのに、彼はエレンに巨人の力を行使することを許さなかった。
「オレ達三人で女型の巨人を仕留める!エレンはこのまま全速力で本部を目指せ!!」
最善策に留まっていては、すぐ後ろにいる脅威に勝てることなど出来ない。

全てを失う覚悟で挑み、リスクを背負うことも厭わなければ女型には勝てないだろう。
「オレも戦います!」
「これが最善策だ!お前の力はリスクが多すぎる!」
エルドが鬼気迫った顔をしてエレンを見た。
「オレ達の腕を疑ってんのか!?」
「そうなの、エレン?私達のことがそんなに信じられないの?」
先程と似たような押し問答にエレンは歯噛みした後、大きくガスを蒸せて前へ進むことにした。
「我が班の勝利を信じてます!御武運を!!」

仲間同士で信じ合っているからこそ、グンタを失った直後でも、エルド達三人は声掛けをすることなく無駄のない連携で女型を追い詰めて行くことが出来るのだ。数々の困難を共に乗り越えて来たからこそ、彼らは強いのだとエレンは思う。
進もう。振り返らずに、皆を信じて進めばきっと勝てる。

オレには解らない。自分の力を信じても、信頼に足る仲間の選択を信じても。結果は誰にも解らなかった。冷たい何かが心臓の鼓動によって、血液と共に血管を巡り身体中にじわじわと広がる。

エレンが思わず後ろを振り返ると、追い詰められた女型の喉元へエルドが噛み付く勢いで迫って行く姿だった。刹那、女型の巨人が大きく口を開けてエルドの身体にかぶり付いた。
そして乱雑に口から吐き出された肉片は、無惨にも森の中に捨てられる。ペトラが彼の名前を叫んだ。目の前で繰り広げられる殺戮。一瞬の隙に起きた出来事を目にして、エレンは己の選択が間違っていたことを悟った。瞬時にトリガーを引き、オルオとペトラの元へ向かう。
「片目だけ!?片目だけ優先して早く治した!?そんなことが、出来るなんて!!」
ペトラの動揺した声が聞こえる。エレンは精一杯ガスを吹かせて進むが、中々距離が縮まらない。
ペトラに的を絞った女型は、大きく跳躍する。足音を響かせながら、猛スピードで迫って来る。
「ペトラ、早く態勢を直せ!早くしろ!!」
オルオの必死の叫びも虚しく、女型は全体重を掛けて虫を潰すように彼女の身体を踏み付けた。木の幹に大量の血痕がこびり付く。

エレンは何も出来ない。
目の前で信じた仲間が殺される様を目撃して、喉が潰れる程絶叫することしか出来ない。最後の一人になってしまったオルオは、女型の項へと狙いを定めてブレードを突き立てた。しかし、最後まで勇敢だった彼の世界も、女型の重い一蹴りを受けて暗転した。

鉄錆の濃い臭いがエレンの鼻腔を直撃する。先程まで、生きていた人間の中で流れていた血潮の臭いだ。何の慈悲の欠片も存在せず、殺すことを目的とした行為。それはエレンの目の前で、一瞬の内に起きて終わった。赤子の手を捻るよりも簡単で――鬱陶しい虫を払うように、何の躊躇いも無駄な動きもなく行われたのだ。

鬱蒼とした森の中は、圧倒的な強さを見せ付けるように女型の巨人が女王の如く君臨する。巨大な樹々に陽光が遮られているので周囲は薄暗く、敵の姿は一層不気味に映えた。
自分を守るために散っていった命の残骸達が網膜に映る。胸の中で激しい憎しみと哀しみが際限なく湧き出て、グチャグチャに混ざり合う。ドロドロとしたものは明確な殺意へと変わり、エレンの身を激しく焦がす。一ヶ月前の奪還戦で感じた憎悪の毛色が違うが、エレンの殺意が爆発した。
「こいつを……殺す!」

親指の付け根の肉を噛み千切ると、橙色の光の中でエレンの身体は巨人の身体に取り込まれる。変わりに姿を現したのは、熱い蒸気に覆われた巨人が――哀しみと怒りの感情を外へ放出するように吼えながら――女型の巨人めがけて弾丸の如く森中に足音を響かせて突進していた。

相手はエルド達の斬撃によって肩周りの腱がズタズタにされている。斬撃を負った箇所から蒸気がゆらゆらと上がり、回復中のようで両腕は使えない。その隙に殺してやると意気込んだエレンは、巨人の身体を通して拳に力を込めて女型へと振り翳す。しかし、相手は動体視力が優れているのか軌道が読まれ軽々と躱されてしまった。女型の巨人は後ろに飛び退いた後、素早く重たい蹴りをエレンに見舞う。
繰り出された蹴りの衝撃で巨人の姿のエレンは何とか踏み留まって力任せに敵を蹴飛ばして――何度も拳を繰り出すが――敵はいとも簡単に全てを躱してしまう。女型はエレンの一撃を一つずつ躱しながら後退して行く。胸の淵から溢れ出てくる怒りと哀しみを憎い敵にぶつけるために吼え続ける。
森全域に亘って、エレンの泣いているような叫び声――獣と似ても似つかない――が森の中を轟かせる。

自分が下した選択を後悔し、還らぬ仲間達のことを想って元凶の憎らしい顔面へ腕を振り下ろした。仲間を信じたいと思ったから。だから、彼らは死んだ。
いや、違う。エレンが彼らを信じた理由はもっと単純なものだった。

同じ壁の中の無数の人間から向けられる不躾な視線――興味、畏怖、憎悪、恐怖――に曝されるのに嫌気が差していた。どこにでもいる普通の少年が、ある日突然“人類の希望”とか、または“悪魔”という存在に祭り上げられて。自分は皆と同じ人だと声高に訴えても冷たい視線だけが突き返されるだけ。
一人地下牢にいる時は孤独感に何度も襲われたこともあった。

結局、この世界の人間達がエレンの気持ちに共感することなんて出来やしない。いつしかジャンに“見返りを求めていると”言われて、エレンは自分がそういう存在になってしまったのだと自覚した。いや、自覚させられたと言うべきか。

エレンは、心の拠り所が欲しかったのだ。化物扱いは、正直もうたくさんだったから。だから、仲間を信じることは正しいことだと――エレンは思いたかっただけで、そっちの方が都合が良かった。
自分の気持ちに共感は出来ないけれど、寄り添ってくれた者達は確かに存在した。愚かな自分は今になって気付いたのだ。

彼ら四人は命を賭して最期までエレンのことを心底信じていたが、エレンは彼らを頼ることも、信じることも――怖かったのだ。
自分は中途半端なクソ野郎だと思う。遣る瀬なさで心がどうにかなってしまいそうで、尚更エレンを苦しめる。自分が抱いた子供じみた思いが、これからの調査兵団を担うかもしれなかった多くの命を奪ってしまったことに慟哭する。“見返りを求めている”なんてジャンに言われたが、結局エレンは何も返せていないのだ。

もっと早く巨人化していれば、多くの仲間達が死ぬことなどなかった。敵の捕獲が失敗することもなかったのに。もしも、あり得たかもしれない未来を想像して心が死にそうになった。エレンのために多くの仲間が命を使い、死んで逝く。
次の希望を十五の少年に託して、少年が見返り一つ返せないまま――勝手に死ぬ。自分にもっと力があれば全部守って戦えるのに。

やりたきゃやれ。
あの時。リヴァイのシンプルな言葉によって、巨人化するための自傷行為を止めたのは、他でもないエレン自身である。あの時は、それが最良だと思ったから巨人になるのを止めたのだ。

だけど、やっぱり。氷のような冷たい表情で見上げている女型を、エレンは睨め付ける。振り下ろした拳がミシミシと修復されていく。この手が治ったら、バラバラに引き千切ってグチャグチャにして細かくして喰ってやる。
エレンにはそれしか頭になかった。嬲り殺しにしてやる。楽に殺してやる道理などない。仲間を色んな方法で殺した相手にかける情は、一片たりともない。苦しんで死んで逝ってもらわねば気が済まない。じゃないと、グツグツと煮え滾る激しい殺意は収まる余地がない。
憎しみからは憎しみしか生まれないが、負の連鎖を止めることなんてエレンは出来ない。

さあ、エルド達にズタズタにされた腕からにしようか。それとも、移動を封じるために脚からにしようか。手始めにどこから引き千切ってやろうかと思ったところで、女型の巨人は突如俊敏な動きでエレンの拘束から逃れる。
お互い縺れるような激戦が続いた後、エレンは女型の鳩尾に重たい一撃を食らわせる。敵の巨体は宙を飛んで、大きな木の幹に激突した。木の幹は激突した衝撃を受けてもビクともしなかった。
女型が鳩尾の衝撃に耐え兼ねているところを、エレンは襲撃するが相手は瞬時に反応して間一髪で逃げ切った。

ここで決着を付けてやると、エレンは両腕を構えて女型を見据える。混戦の中ゆらりと身体から蒸気が昇るままこちらへと振り向いた女型の姿に、エレンの瞳は動揺の色を帯びる。
無意識に唇からくぐもった音が漏れた。


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