大事なものを捨てることが出来る人

突然森の奥から響いて来る大砲に似た不穏な音は、今も断続的に続いていた。壁外にいることを忘れてしまう程、穏やかだった空気は一瞬の内に緊迫した。



巨大樹の根元に群がる巨人の様子は個体によって行動が様々だった。草原に寝そべって寛ぎながらこちらの様子を窺う巨人。周囲を彷徨うろつくだけの巨人。そして――積極的に人間を捕食しようと木に登って来る巨人もいた。
「少し移動するぞ、アルミン!ナマエ!」
ジャンの指示でナマエとアルミンは立体起動装置を稼働させて、後ろの木の枝へ移動する。先程までいた木の幹には、巨人が両腕を上手に使って迫って来ていた。
「あいつ、木登りが段々上手くなって来てるぞ」
「学習能力があるってことだ……怖いことに。それも個体差があるだろうけど」

左右の両腕を交互に使ってよじ登って来る巨人の目はジャン、アルミン、ナマエに注がれたままだ。虎視眈々とその時を見定めている。
狙っている――とナマエは思った。
木登りが出来るなら、こちら側に飛んで来る可能性だってあり得るのだ。それにしても、先程から大砲に似た音が止まない。
「アルミン、さっき何か言いかけたよな。今森の奥で何をしているのか、何となく察しがついて来たぞ。あの女型巨人を捕獲するために、ここまで誘い込んだんだな?」
ジャンの言葉にアルミンは一つも否定をしなかった。ずっと頭の中でぐるぐると巡っていた可能性を、ナマエは漸く確信した。
「兵站拠点作りの作戦はダミーだってこと……?」

その言葉に、アルミンが頷いた。
「作戦企画紙にカラクリがあったんだ。既に新兵勧誘式と並行して計画されていた可能性がある」
「カラクリ……?」
「君の企画紙にはエレンはどの位置に記されていたんだい?」
アルミンの質問に、ナマエは容易に仲間の位置を頭の中で思い浮かべることが出来た。今日を生き延びるために。生きて、壁の中の大地を踏むために。何度も反復して頭に叩き込んだお陰だ。
「エレンがいるリヴァイ班は左翼前方でしょ?」

ナマエの答えにアルミンとジャンは何も言わずに顔を見合わせた。
「僕の企画紙には右翼前方、ジャンは左翼後方、ライナーには右翼だと記されていた。エレンの位置が人によって滅茶苦茶なんだよ。そもそもエレンがそんな前線に配置される訳ない。だって、これはエレンをシガンシナへ送るための兵站拠点作りで……エレンが万が一巨人に殺されでもしたら元も子もないからね。それに、ネス班長の講義でもエレンの配置が記されていなかったことも僕は不思議だった。そして図ったかのような女型の巨人の襲来……」
この意味解るよね?とアルミンの蒼い大きな瞳は、そう言いたげだった。

その意味を考えれば、胸の中に冷たいものが流れて来た。ナマエは生唾を飲み込む。耳鳴りが頭に響いた。
「この森に来たのも、最初から来る予定だったんだろう。もっと正確に言えば……ヤツの中にいる人間の捕獲だ。エルヴィン団長の狙いは最初からそれだった。そんな大作戦を一部の兵にしか教えなかった理由もこれしか考えられねぇ」

ジャンは、一度言葉を切って息を吸い込んだ。これから紡がれる、恐ろしい事実と向き合う準備のためのように。
「人為的に壁を壊そうとする奴らが……エレンと同じように巨人化出来る人間が他にもこの兵団の中にいるってことだろ?アルミン」
「うん……僕もいると思う。多分団長はそう確信している」
「ちょっと待って……。巨人になれる人間がエレン以外にいるってこと?」

幼い頃。グリシャに巨人とは何なのか話したことをナマエは思い出す。

元は同じ人間だったのではないか。
アルミンから女型の巨人がネス達の身体を、握り潰したり叩き付けて殺したという。その話を聞いた時に感じた違和感の正体。それは、エレンと同じことが出来る――巨人の姿を纏った人間の仕業だったからだ。
ナマエの言葉にアルミンは頷いた。
「エレンの存在は巨人が人為的に操作されている可能性を示唆するものだから、壁を壊そうとした巨人は人間であり……彼らは壁の内側にいると想定される。ならば真っ先にやるべきことはその人間を特定して、これ以上壁が壊されるのを防ぐことだ」

このまま指を咥えていたら、人類が滅亡するのは時間の問題だろう。エルヴィンは早急に巨人化出来る人間を炙り出すために、今回の壁外調査を決行したのだ。女型の巨人の捕獲に成功すれば壁の破壊を阻止出来るだけでなく、調査兵団の悲願であるこの世界の真相そのものが解明されることになる。

ならば、森の奥で轟いている不穏な音は女型の巨人が何かしらの罠に掛かった音なのだろうか。
「つまり、エレンはその餌か……。しかし、どうして団長はエレンが壁を出たら巨人が追って来ると確信出来た?」
「それはこの間の襲撃の時、彼らが攻撃を途中で止めてしまったからだと思う」
「は?」
「せっかくトロスト区の扉を破ったのに、内門を破ろうともしないしエレンが扉を塞ぐ時も放って置いた。恐らくそれどころではなくなったってところじゃないだろうか……」
「それどころって……」
ジャンが困惑した声音で、アルミンに続きを促す。
「もし彼らが壁の破壊よりも重視する何かがあの時に起こったのだとしたら――。それはエレンが巨人になって暴れ回ったこと以外には考えにくい……」
「……てことは、つまり――エレンの巨人化をあの時知った奴の中に、諜報員のようなものがいるってことだな?」

あの時。砂埃が漂い、荒廃した街中で暴れる一体の巨人を見ていた兵団に属する大勢の人間の中に。誰かが――壁の破壊を目論んでいる。
“誰か”は一人とは限らない。何より一番怖いのは五年間も壁の中で諜報員を含めて、“超大型”、“鎧”、“女型”と寝食を共にしていたという事実だ。彼らは仲間の仮面を被ったまま、人類に牙を剥く準備を水面下で何年も掛けて進めていたのだろう。
昨日、今日で出来る芸当ではない。

諜報員の存在もとても気掛かりだが、ナマエにはもう一つ気になることがあった。
「……そもそも、エレンは何故巨人化出来るようになったんだろう」
トロスト区攻防戦で彼が巨人の項から出て来た瞬間から、ずっと考えていること。エレン自身も巨人化出来るようになった理由を知らないようだ。
しかし、何かしら契機きっかけはある筈だ。

先のトロスト区の攻防戦で目にした光景は、ナマエに幼い頃の突拍子もない子供染みた考え――巨人は元を辿れば人間であるということ――を容易に思い浮かばせた。
「今まで私達は“未知なる生物”と戦っていたんじゃなくて、人間同士で殺し合いをしていたことになるかもしれない……。アルミン、訓練兵団に入る前にエレンの様子がおかしかったり変わったことってなかった?」
「特にエレンの様子に変わったところはなかったけど。あ、そう言えば……開拓地に移ってから暫く、エレンにイェーガー先生の行方を質問すると必ず体調を崩していたっけ。確か二つ上の街に診療しに出掛けたってミカサから聞いたけど、あの日以来先生は行方不明なんだ。今はエレンに先生のこと聞いても体調を崩すことはないけれど……、初めて避難所で過ごした夜の記憶が曖昧らしいんだ。あんなことがあったから、無理はないと思う。僕とミカサもエレンが巨人化出来るなんてトロスト区で初めて知ったんだ」

つまり、ナマエやジャンが知っている情報以上のものは、アルミンにも解らないということだ。
「そうなんだ……。それならエレンの記憶が戻るまで解らないってことか。エレンが巨人化出来たことを考えると――私達も何か契機きっかけがあれば巨人化出来る可能性はあるのかも、しれない」

ナマエは調査兵団に入ると決めてから――まずは敵を知ることだと考えて、図書館で調査兵団による簡易的な報告書を読み漁り――訓練兵に入団してから巨人の生態についての講義を熱心に受けていた。しかし、巨人は人間――所謂ヒト以外に興味を示さず、ヒト以外を捕食しない理由も、巨人の起源も解明されていない。その度に頭をもたげて来るのは幼い頃の突拍子もない考えだった。
巨人とヒトの差異なんて“ヒトを喰べるか、喰べないか”の違いだけだ。そう結論付けてからナマエは思い直したものだ。

いや、ヒトだってヒトを喰べるではないか、と。闇ルートで極上の人肉が高値で売れるらしいということも、イリス商会の構成員だった祖父から聞いた。一体どこの誰がそんなものを買い求めているのか詳しくは聞かなかったが、こんな狭い壁の中にも“人肉嗜食”は根付いている。嫌悪感こそあれど珍しいことでもない。
ヒトのはらわたは霊薬として重宝されていたと文献にもあったから。いうならば、ヒトも巨人も同じではないかと思ったのだ。

ナマエは、巨人について一層解らなくなった。
結局いつもそこまで考えて、思考がどん詰まりしてしまうのを繰り返していたところに自論を証明されるが如く――エレンの巨人化を目の当たりして、一層その考えを強めたのだ。
勿論、エレンだけが特別な可能性だってある。
ナマエは左右にいるジャンとアルミンを見比べた。困惑した二つの顔が見返して来る。
「そりゃあ……、何て言うか……ぶっ飛んだ考えだな、ナマエ」

ジャンが乾いた声音でそう言った。
自論が肯定されないこともナマエは解っているが、それでも子供の頃を思い出しながら言葉を続けた。
「子供の頃……巨人の姿かたちが人間に似ているから、巨人の正体は人間だと思っていた。巨人が私達を喰べる理由は人間に戻るためなんじゃないかって……。でも彼らは喰べた人間を吐き戻してるし、実際に巨人から人間に戻ったという事例もなかったから何の証拠もない子供染みた考えだって一蹴りしてたけど……“エレン”の存在で巨人の正体が人間の可能性も想定出来るようになったのは事実だよ」
「でも、それが事実だとする根拠が巨人と人間が似ているからって言うのは……無理があると思うんだけど……」
「暴論だよね。それは解ってるよ」
「まあ、その辺を解明させないために奴らは恐らく被験体二体を殺したんだろうな。しかし、どこに諜報員がいるか解らない状況にしても、もう少しぐらい多くの兵に作戦を教えても良かったんじゃないか?内部の情報を把握している巨人の存在を知っていたらよ、対応も違っていた筈だ。お前のところの班長達だって……」

有り得ない方向に折れ曲がったネスの死体。右翼側から上がる多数の黒い煙弾。そして森の奥で地鳴りのように轟いている発砲音。
多くの仲間が戦い、死んで逝った。死に過ぎたと言って良い。

前方で何かが落ちた音がした。音の方へ目を向けると、先程木登りをしていた巨人が滑り落ちて尻餅を付いた音らしい。アルミンは眉間に皺を寄せ、顔を強張らせてジャンの言葉を否定する。アルミンの視線は尻餅を付いている巨人に注がれたまま。
「いや……間違ってないよ」
「は?何が間違ってないって?兵士がどれだけ余計に死んだと思ってんだ?」
「ジャン。後で“こうするべきだった”と言うことは簡単だ。でも……!結果なんて誰にも解らないよ。解らなくても選択の時は必ず来るし、しなきゃいけない。結果責任って言葉も知ってる。便利で正しい言葉だと思う。どれだけの成果を上げようと、兵士を無駄死にさせた結果がなくなる訳じゃない。確かに団長は非情で悪い人かもしれない。けど……、僕はそれで良いと思う」
アルミンの言葉にジャンとナマエは口を挟むこともせず、黙って聞いた。

結果を知った後で何かを選択することは容易い。しかし、壁の中の人類が直面している問題を解決するには生温過ぎる。敵は人知を超えた化物なのだから。
くるりと――、アルミンは下で這い蹲っている巨人からジャンとナマエへ顔を向ける。
「百人の仲間の命と、壁の中の人類の命。団長は選んだんだ。百人の仲間の命を切り捨てることを選んだ!大して長くも生きていないけど、確信していることがあるんだ……」
アルミンの瞳には強い意志が宿っていた。
「何かを変えることの出来る人間がいるとすれば、その人はきっと――大事なものを捨てることが出来る人だ」

トロスト区奪還作戦時のピクシスのように。人間同士の争いで無駄な血を流して自滅の道を辿るより、巨人と戦って死ぬことが壁の中に住まう人類を救う方法なのだと。
「化物をも凌ぐ必要に迫られたのなら、人間性をも捨て去ることが出来る人だ。何も捨てることが出来ない人には、何も変えることは出来ないだろう」

化物に対抗出来るのは化物だけ。
エルヴィンは化物を狩るべく人間性を捨て去って――その結果、死屍累々の上に立つことになろうとも――その道を選んだ。彼が選んだ選択をアルミンは間違っていないと言ったが、ナマエにはエルヴィンの選んだ道が正解かどうか解らない。他にも方法があるのではないかと思ってしまう。
非情で冷酷な判断をナマエが迫られたら、目的のためとはいえ――決断を下せるのだろうか。
「……そういえば、砲弾の音が止んでいる。女型を捕らえることが出来たのかもしれない」

森の奥から響いていた激しい音は止み、森は再び小鳥の囀りで満たされていることにナマエは気付いた。相変わらず木の根元には巨人が何体も群がっている。先程よりも少し数が増えているような気がした。
「ここでいくら敵について話していても憶測しか出て来ない。団長達が女型を捕らえたのなら、秘密の解明もされるだろう。まぁ……そう簡単に敵さんも口を割るとも思えねぇがな」
ジャンがそう言った時。

耳の奥が痺れる程の断末魔のような叫び声とも喚き声とも言い難い――まるで獣が自分の命を投げ打って仲間の奇襲を促すような――激しい絶叫が、森の奥から空気の振動で伝わって来た。
三人は青い顔をしてお互いの顔を見やる。規則性のない滅茶苦茶な断末魔は、鋭く耳の奥にまで響く。巨大樹の森全域に瞬く間に広がり、空に向かって高く生い茂っている巨大な樹々が絶叫の正体を覆い隠している。

不穏な空気が立ち込めた。暫くして獣のような叫喚が止んだが、まだ耳の奥にジンジンとした感覚が残っている。
一体何があったんだと、ナマエが疑問を口にする前に。木の根元に群がっていた数多の巨人達が急に人間に興味を失って一目散に森の奥へ走り始めた。
「え!?」
「何だ!?コイツら……一斉に森の中に!?何で急にオレらを無視すんだ!?」
「今の叫び声に共鳴でもしたの?」
大小様々な巨人達は大地を踏みしめて足音を森に中に響かせながら走る。まるで先程の叫び声に導かれるように、規律を乱さずに。

上官の焦った声が聞こえた。
「何でも良い!とにかくここを通すな!」
目の前の光景に動揺しながらもナマエ達は、グリップを握ってトリガーを引いた。目的は、森の奥に巨人を侵入させないこと。唐突に戦闘が開始された。


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