悔いが残らない方を自分で選べ

カラネス区を出発して、エレンはリヴァイ班と共に順調に馬を進めていた。陣形で最も安全な位置にいるせいなのか、壁外なのにエレン達の周囲には巨人の気配すら全くなくて、ずっと先まで草原が続いているだけだった。
巨大樹の森に入るまでは。

兵長、と前を走るリヴァイに呼びかけること二回。何だ、とゆっくりとした声が返って来た。エレン自身、予定になかった巨大樹の森に入った理由が解らない。何故、目の前を行く男は平素と変わらず落ち着いているのだろうかとエレンは思った。これぞ経験の差というものか。
「ここ森ですよ!?中列だけこんなに森の中に入ってたら巨人の接近に気付けません!右から何か来ているみたいですし……どうやって巨人を回避したり、荷馬車班を守ったりするんですか?」
「解り切ったことをピーピー喚くな。もうそんなこと出来る訳ねぇだろ」
リヴァイは前を向いたまま、エレンの質問はぴしゃりと跳ね除けられてしまった。事前に聞いた作戦では、こんな場所を通る予定は無かった筈。
「周りを良く見ろ、エレン。この無駄にクソデカイ樹を。立体起動装置の機能を活かすには、絶好の環境だ」
リヴァイの言葉にエレンは周囲を見渡した。

空へと高く伸びる樹々の幹は“巨大樹”という名に相応しい程立派だ。鬱蒼と繁っているため、太陽の明るい光が遮られて森の中は薄暗かった。樹々が密集するここで巨人に遭遇しても、瞬時に立体起動装置を発動出来る。確かに、理に適っている。
「そして考えろ。お前のその大したことのない頭でな――死にたくなければ、必死に頭回せ」
「――はい!」

例え新兵だとしても、何から何まで教えてもらえるとは限らない。時には自分の頭でしっかり考え、状況を見極めて、自分で学ぶことも新兵の大事な仕事なのである。それが出来る者が調査兵団の中で、歴戦の兵士になっていくのだ。
きっと先輩達もそうやって戦いを学んで来たのだろう。エレンはそう思い直し、先輩であるオルオやペトラ、エルドにグンタを見やった。
それぞれが、進路を外れて森の中を進んでいる状況を呑み込めていない。エレンは愕然とした。

まさか誰も。彼ら達でさえ、この状況を理解していないのか。エレンは、この道の先に何が待っているのか全く解らないまま森の奥へと進んで行く。
当初の予定では、シガンシナ区への試運転――兵站拠点作り――行って帰って来るだけだった筈だ。
右翼側が壊滅したという情報を考えると、“何か”の脅威に追い詰められてこの森に進路を変えたのではなかろうか。必死に頭を回してみたが、情報が少な過ぎて確信を持つことが出来ない。

いや、情報など殆どないと言って良い。エレン達が進む先に一体何が待っているのか。すると、煙弾の音が空気の振動と共にここまで届いた。音の発生源はどうやらここから近いようだ。
「右から来ていたという何かなのか……?」

エルドが警戒心を露わにする。するとリヴァイから剣を抜くよう指示が出ると、班員達に緊張が走った。リヴァイの言葉を一語一句聞き漏らさないように。指示通り、全員グリップを固く握り締める。
「それが姿を現すとしたら――一瞬だ」
ぞわりと悪寒がした。エレンは後ろを振り返ってみる。心臓の鼓動が早く、強く脈打つ。
右翼側を壊滅させた“何か”が迫って来ている。暗くて見通しの悪い森の中から徐々に響いて来る得体の知れない足音。“何か”は、一人の兵士を叩き潰して樹々の合間から唐突に姿を現した。

エレンもペトラも、オルオやエルド、グンタも突如現れた急襲者に目を見張り、息を呑んだ。
「――走れ!!」
リヴァイが鋭い声を上げた。猛スピードで迫って来る巨人はエレンを捕まえようと手を伸ばして来たので、寸でのところで躱して馬を走らせた。
後ろから迫って来る巨人とエレンの視線が合った。狙いはエレンただ一人だと言いたげな色を瞳に浮かべ、獲物エレンを発見出来たことの喜びを表すように口元を緩ませている。
「この森の中じゃ事前に回避しようがない!」
「速い!追いつかれるぞ!!」
「兵長!立体起動に移りましょう!!」
仲間が口々にリヴァイへ叫ぶ。
すると背後から鬼気迫る勢いで増援がやって来た。巨人は立体起動の動きを熟知しているかのような無駄のない動きで、増援に来た兵士達を身体全体で押し潰し、そして握り潰す。敵はエレンから視線を離すことなく、邪魔者をいとも簡単に全て片付けた。
「――兵長!指示を!!」
仲間が容赦なく瞬殺された様子を見たペトラは、半ば泣いているような金切声でリヴァイへ指示を仰ぐ。
「やりましょう!アイツは危険です!オレ達がやるべきです!」
オルオも必死にリヴァイへ乞う。
「ズタボロにしてやる……!」
エレンは後ろから追って来る巨人へ不敵に笑った。

自分から地獄へやって来た。この班は、リヴァイをはじめとした巨人殺しの達人が集められた謂わば精鋭集団でもある。
「リヴァイ兵長!?」
チラリと前を走るリヴァイへと目を向けると、巨人に目もくれないその姿にエレンは思わず声をあげてしまう。
「兵長!!」
「指示を下さい!」
「このままじゃ追い付かれます!」
大きな足音を響かせ、こちらへ迫って来る脅威。距離が狭まりつつある。少しでも手を伸ばせば、摘まれてしまいそうだ。
「奴をここで仕留める!そのためにこの森に入った、そうなんでしょ!?兵長!」

予定になかった巨大樹の森まで来た本当の理由が、後もう少しで解りそうだった。
班員が危機迫った声音で口々に叫んだ。リヴァイから攻撃合図が出れば、彼らはいつでも迎撃態勢が取れるのだ。しかし、リヴァイがこちらに応える様子は皆無である。あの巨人を見ても動揺する素振りも見せなかった。
今、まさに後ろから追って来る巨人が右翼索敵を壊滅に押しやった犯人に違いないと、エレンは漸く合点したが――リヴァイは初めから“それ”の正体を知っていたようだ。
「兵長、指示を!!」
エレンが叫ぶと、リヴァイが口を開いた。
「全員、耳を塞げ」
その手には煙弾を撃つ鉄砲が握られている。何をするのかとエレンが思ったと同時に、放たれたのは音響弾だった。

耳から手を離すと、音響弾の残滓は森の中に残っていた。あれだけ泣き喚いていた先輩達が静かになった。
「お前らの仕事は何だ?その時々の感情に身を任せるだけか?そうじゃなかった筈だ……。この班の使命は、そこのクソガキに傷一つ付けないよう尽くすことだ――命の限り」
リヴァイの切れ長の瞳とエレンの視線が一瞬交わったが、先頭を駆ける男はそのまま前方に視線を戻した。

リヴァイから放たれた言葉に班員は息を呑んだ。この班が結成された本来の目的。それは、エレンを殺すためでも、監視するためでもなかったのだ。
「オレ達はこのまま馬で駆ける――良いな?」
「了解です!」
漸くリヴァイから指示が出ると、すぐにペトラが反応した。他の者もリヴァイの指示に従う意を示すように、先程とは打って変わって何も言わない。
「駆けるって、一体どこまで……!?それにヤツはもうすぐそこまで!」
チラッと後ろを振り向くと一人の兵士が女型の前へ踊り出す。増援が来たのだ。早く援護をしなければまたやられてしまうとエレンだけが叫んだ。何も解っていない子供のようだった。
「エレン、前を向け!」
「歩調を乱すな!最高速度を保て!!」
「何故!?リヴァイ班がやらなくて誰があいつを止められるんですか!?」
女型が掌で増援に来た仲間を潰す。
「また死んだ!助けられたかもしれないのに……!」
エレンは喚いた。他の班員だって人間一人潰れた厭な音を聴いているのに。何故。どうして黙って前を見据えていられるのだろう。

解らない。突如現れた巨人にエレン自身が狙われている理由も、先程まで同じように喚いていた班員達が、リヴァイの言葉だけで指示に従える理由も。具体的な説明箇所なんて一つもなかったのに。
まだ一人残って女型の前を行ったり来たりしている仲間がいた。
「今ならまだ間に合う!」
「エレン!前を向いて走りなさい!!」
隣で走るペトラは手厳しい声音で、先程から一人で喚いているエレンを諌め続けている。
「戦いから目を背けろって言うんですか!?仲間を見殺しにして逃げろってことですか!?」
「ええ、そうよ!兵長の指示に従いなさい!」
「見殺しにする理由が解りません!それを説明しない理由も解らない!何故です!?」
「兵長が説明すべきではないと判断したからだ!それが解らないのは、お前がまだヒヨッコだからだ!解ったら黙って従え!!」
オルオが問答無用に強くエレンへ怒鳴った。

自分には何が足りないのか。周りとの差は何なのか。エレンは歯噛みした。まだ後ろで一人、懸命に戦っている。
いいや、一人でだって戦えるじゃないか。何で人の力にばっかり頼っているのか。助けられないのなら、自分で戦えば良いだろう。

エレンは己の親指の付け根を見た。ここを噛めば巨人になれるではないか。トロスト区が巨人に侵攻された時、何体もの巨人を殺したのだ。自分が巨人化して、後ろから迫って来る敵を殺せば良い。そうすれば、これ以上仲間が踏み潰されることはない。エレンは口を開けて自分の手を噛み切ろうとすると、ペトラがその気配を目敏くも感じ取った。
「それが許されるのはあなたの命が危うくなった時だけ!私達と約束したでしょ!?」
確かに約束したが、そう言っていられる場合ではない。このままでは一人で戦っている仲間も勿論、全員あの巨人に踏み潰されてしまうとエレンは思った。エレンは己の手に歯を立てる。

「お前は間違っていない。やりたきゃやれ」

リヴァイの肯定とも取れる台詞にエレンは一瞬目を見張り、手を噛み千切るのを止めた。
「オレには解る……コイツは本物の化物だ。“巨人の力”とは無関係にな。どんなに力で抑えようともどんな檻に閉じ込めようとも――コイツの意識を服従させることは誰にも出来ない」
不思議と周囲に漂っていた緊迫感が引いて行く。
「エレン。お前とオレ達の判断の相違は経験則に基づくものだ。だがな……そんなもんはアテにしなくて良い。選べ……。自分を信じるか、オレやコイツら、調査兵団組織を信じるかだ」
エレンは己の手を見た後、ペトラやオルオ、グンタにエルドを見た。そして、最後に前を行くリヴァイの背中を見た。ローブにあしらわれている調査兵団の象徴が、風に煽られている。
「俺には解らない。ずっとそうだ……。自分の力を信じても、信頼に足る仲間の選択を信じても……結果は誰にも解らなかった。だから、まあ、せいぜい……悔いが残らない方を自分で選べ」

悔いが残らない選択を。急に緊迫感が舞い戻り、後ろから迫る巨人の足音と駆け続ける馬の蹄が耳に入った。エレンは手を噛み付こうとする。
「エレン……信じて」
ペトラの――エレンを信じている瞳がこちらを見返している。彼女はエレンのことを信じている。いや、ペトラだけでなくオルオもグンタもエルドも。背中に彼等の視線をエレンは痛い程感じた。

巨人化実験が不発に終わったあの時。思いもしなかったところで一部巨人化してしまい、班員から刃を抜かれたことをエレンは思い出した。それぞれの瞳には恐怖と憎悪が混じった色が宿っていて、ここでも化物扱いなのだと痛感したのだ。

でも。エレンが仲間から頼られている証――ペトラの親指の付け根に残る痛々しい噛み跡を――エレンは見た。一人の力じゃ大したことは出来ない。だから組織で活動する。だけど、共に闘う仲間を頼ることは出来る。頼って欲しい。

私達を、信じて。あの時のペトラの言葉がリンクする。
「エレン!遅い!!さっさと決めろ!!」
リヴァイから射るような鋭い視線がエレンを貫く。
後ろから徐々に迫り来る脅威。孤軍奮闘している仲間。そして、エレンが出す結論を見守るリヴァイ班の仲間達。

自分自身の力か。それとも仲間の力を信じるか。エレンは歯を食いしばり、瞼を強く閉じて思いっ切り腹の底から声を張った。
「――進みます!!」
エレンは自分自身ではなく、調査兵団組織を――リヴァイ班の仲間を信じてみることを選んだのだ。

馬の速度を最高に保ち、ひたすら前に進む。後ろで孤軍奮闘していた仲間の命が散ってもエレンはもう喚くことも振り返ることもしなかった。その変わり、胸にチクチクと刺す痛みに耐えながら――散って行った仲間へエレンは口の中で“ごめんなさい”と、誰かに届くことがなくても謝ることしか出来なかった。
女型の巨人は最後の一人を片付け終えると、これで終わりだとでも言うように―――風の抵抗力を最小限にして腰を低く屈めて速度を最大に上げて迫る。
初めから狙いはただ一つ。エレンのみである。

地響きに似た足音が急にこちらへ近付いて来たので、グンタが叫んだ。
「目標加速します!!」
「走れ!このまま逃げ切る!!」
女型の巨人の脅威が迫る。恐怖に駆られておかしくなりそうなのを堪えて進む。逃げ切るなんて不可能だとエレンは思う。このまま背中を向けて走っていても、あの巨大な足でいとも簡単に踏み潰される。死んで行った仲間達と同じように。

それでも、仲間を見殺しにしても、皆前を進むことを選んだ。その選択が最良だと思ったからだ。
リヴァイはこの森に入ってから、ずっと前を見続けている。森の奥まで進んだのか、先程より一層薄暗くなる。

彼らも兵長信じて全てを託している。ならば自分も、彼等を信じなければいけない。彼等がエレンを信じてくれたように。ふと、エレンは上を仰いだ。後少しだと言いたげな目は鈍い色を称えて不気味に光っている。エレンの眼前には敵の手が迫って来ていた。少しでも敵が腰を屈めてしまえば、エレンの身体を掴むことなんて容易な位置に女型は着いている。

女型がエレンを掴もうと最後に足に力を入れて踏み出すと。エレンの視界に、突如大きな樽が幾つも現れた。
「――撃て!!!」
樹上からエルヴィンの号令が発せられると、砲撃音に似た爆発音が森に轟いた。樽から幾千もの大型ワイヤーが四方八方から発射されて火を吹いた。煙が辺りに充満しているのを眺めながら、エレン達は前へ進むのを止めなかった。
「少し進んだ所で馬を繋いだら立体起動に移れ。オレとは一旦別行動だ。班の指揮はエルドに任せる。適切な距離であの巨人からエレンを隠せ。馬は任せたぞ」

リヴァイは班員に簡潔に指示を出してから、立体起動を稼働させて女型の巨人が捕獲された方へ戻って行った。煙が風に流されてエレンの目に飛び込んで来たのは、数え切れない程のワイヤーを身体に身体を貫かれて動きを封じられた女型の巨人の姿だった。

目の前の光景を見て、エレンは漸く理解した。何人もの仲間の命を切り捨てて馬で駆けて来たのも、後ろから迫って来た脅威を生け捕りにするためだったのだ。
「どうだエレン!見たか!あの巨人を捕らえたんだぞ!?」
「これが調査兵団の力だ!舐めてんじゃねぇぞこの馬鹿!どうだ!?解ったか!?」
「――はい!!」
あの時仲間を信頼することを選んだ結果、見事に女型の巨人を捕獲することに成功したのだ。


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