作戦の表裏、見えない脅威

三年振りに故郷に戻ったナマエは美しい街並みを懐かしむ余裕も、感慨深さを感じる暇もなくカラネス区を出発した。旧市街地を馬で駆け抜け、長距離索敵陣形へ展開する。ナマエは陣形の後方である四列三・伝達に配置されている。
馬を一頭預かって前へ進んで行く。

生まれて初めての壁外領域は――五年前は正真正銘の壁内であるが――とても穏やかなものだった。どこまでも続く草原に点在する家屋。この家や木々の陰に紛れて、巨人の発見が遅れてしまうとネスの講義を思い出す。穏やかだとしても、気を抜いてはいけない。

一人馬の上で気を張り、陣形展開してから早々赤の信煙弾がいくつも上がった。巨人と遭遇した証である。すぐに緑の信煙弾が東側へ上がる。エルヴィンによって陣形の進路の伝達である。
「行こう、」
進路を確認し、そのまま馬を走らせた。

進路を変更してから少し進むと、先程と同じ右翼側の空に黒い煙弾が撃ち上がる。壁から外に出てまだ三十分も経っていないのに、奇行種が陣形内に入り混んでいるようだ。緊急事態ならここにも伝達に来る筈だが、一向にその気配がない。
伝達さえままならない程の状況なのだろうか。不審に思っていると、前方に何かが転がっているのに気付いた。急いで馬の手綱を引くと、馬が一声上げてスピードを落としつつ進む。やがて草原に転がっている物体を確認したナマエは息を呑んだ。

トレードマークの白いバンダナが血で汚れている。この一ヶ月間長距離索敵陣形の講義や演習担当だった者。震えた唇から漏れる名前は。
「……ネス班長」
それは、普通ならあり得ない方向に身体が折れ曲がったまま事切れている上官の姿だった。
「一体何で、こんな……ことに……誰が、何で」
ナマエは譫言のように繰り返す。数分前まで、生きていたのに。命は一瞬で散る。当たり前の事実を否応なく突き付けられた。
周囲を見渡すと原型を留めていない立体機動装置の残骸が散らばっていた。そして、ネスの死体の近くに巨人のものと思われる足跡がくっきりと残っていることに気が付いて、ナマエは息を呑む。

先程から上がる黒の信煙弾。そして巨人のものと思しき足跡。考えるまでもない、正にここでネスは陣形に侵入した巨人と戦闘になったのだ。元凶の足跡は、ずっと先まで――ナマエが直進する予定の方へ続いていた。頭の中で浮かんだ悪い予感を振り払うように頭を振り、馬の腹を軽く蹴って先に進むことにした。このまま直進すればジャンかアルミンあたりに合流出来る筈だ。とにかく、早く彼らの安否を確認しなければ。

馬のスピードを上げて駆ける。この先に足跡の主がいる筈で、戦闘になる可能性が高い。ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「――ナマエ!!」
不意に聞いたことのあるソプラノボイスで名前を呼ばれたので急停止する。急に手綱を強く引いたから馬がびっくりしたようで、主人に抗議するかのように鳴いた。
「――クリスタ?平地で何しているの?」
ナマエの名前を呼んだのはクリスタだった。しかも、あろうかとか彼女は馬から降りて、もう一頭の馬を宥めているところだった。
「この子がついさっき向こうの方から走って来て……。とても怯えていて。漸く落ち着いて来たところなんだけど」
そう説明するクリスタは、馬が走って来た方向へ指さす。

それはナマエが向かおうとした方角と一緒だった。クリスタは馬の頬を優しそうに撫でながら心配そうに顔を歪めた。
「この子、多分ジャンの馬だと思うの。ねえ、さっきから煙弾が引っ切りなしに上がっているのに伝達も来ないし一体何が起こっているの?」
不安そうな表情を浮かべたクリスタの質問に、先程目にした光景を説明すれば彼女は蒼い大きな瞳に不安の色が浮かばせる。そして、言葉短めに痛ましそうに呻いた。
「そんな、ネス班長が……」
「私のところにも伝達が来ていないから確かな情報は解らないけれど、黒い煙弾と巨人の足跡を考えると、陣形内に巨人が侵入している可能性はある。伝達が来る気配もないから相当混乱してて、それどころじゃないんじゃないかな……。取り敢えず、予定通り進もうと思うんだけど――」

上空から乾いた破裂音がすると、紫色の煙がここから直進した方角から上がった。
「――緊急事態の煙弾!もしかして、ジャン達に何かあったのかも!きっと私達が一番近くにいる筈だから!行こう、ナマエ!」
そう言ったクリスタは、くるりと軽やかに馬に飛び乗る。二人は三頭の馬を連れて、煙弾が上がった方角へ急いだ。

クリスタと共に馬で走っていると、三人の人影が見えて来た。それはナマエもクリスタも良く知る者達だった。
「みんな!大丈夫!?」
遠くに佇む三人へ大きな声で呼び掛けると、三人共こちらへ手を振っている様子に、ナマエは安心して息を吐いた。クリスタの言う通り、どうやら逃げて来た馬はジャンの馬だったようだ。馬が無事だったことにジャンは嬉しそうに馬を撫でていた。
「オレの馬じゃねぇか!ブッフヴァルト、どうどう!」
「その子、酷く怯えてこっちに逃げて来て……。アルミン、その怪我は大丈夫なの?」
アルミンの頭に巻かれた包帯を見てクリスタは心配そうに声を掛ける。
「うん、何とか」
アルミンはそう言って馬に乗った。
「向こうの方に巨人の足跡があったからクリスタと一緒に心配していたんだけど……皆無事で安心した」
ナマエは三人を見てホッと息を吐いた。アルミンは怪我をしているものの、命に別状はないようだしライナーとジャンも無事のようだ。

周囲を見渡してみても巨人らしき姿はどこにもなくて、寧ろその気配すらなかった。
「ああ、巨人ならここから逃げて行ったぜ。一時はどうなるかと思ったが何とか切り抜けられた。それにしても……良くあの煙弾でこっちに来る気になったな」
「ジャンの馬を宥めている時にナマエに会ったの。その時に煙弾が上がって丁度近くにいたから」
「お前は馬にも好かれるし不思議な人徳があるようだな。……お前達のお陰で命拾いした。助かった」
クリスタは涙目を手で軽く拭う。
「でも良かった。皆、最悪なことにならなくて……本当に良かった」
慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべた女神の姿。巨人との戦いで死線を潜った同期三人は、息を呑んでぼんやりと見つめることしか出来なかった。

太陽の光でクリスタの金髪は美しく映える。涙で潤んだ蒼色の瞳は、純真さを引き立たせる。長い睫毛に付いた小さな涙の水滴が綺麗に光り、より一層彼女を女神足らしめる。女神は同性のナマエでさえ、感嘆してしまう程美しかった。

女神は微笑んだ後、颯爽と馬は飛び乗った。
「さあ、急いで陣形に戻らないと!」
「……そうだ!撤退の指令が出る筈だ」
女神の一声で一気に現実に戻されたジャンは急いで馬に飛び乗って、五人は配置に戻るために馬を走らせた。

「しかし、壁を出て一時間足らずでとんぼ帰りとは……見通しは想像以上に暗いぞ。奴は何故か先頭の指令班とは逆の方向に行っちまったしな」
「奴?それってナマエが言っていた足跡の?」
ジャンの言葉にクリスタが反応するとアルミンが答えてくれた。
「僕達は陣形の撤退時間を稼ぐために女型の巨人と交戦していたんだ」
「女型の巨人?」
アルミンによるとその巨人は女のような身体つきをしており、もの凄い速度で陣形に侵入して来たという。

女型の巨人は、歴戦のネスとシスを瞬時に握り潰し、叩きつけて殺したことが解った。先程見つけたネスの死体も、謎の足跡の正体も女型の巨人で間違いないようだった。巨人が人間を握り潰したり、叩き付けて殺す。その殺人行為に、ナマエは違和感を感じて仕方がない。
「運動精度が半端じゃねぇ。アルミンの機転がなかったらオレは今頃叩き潰されていただろうな」
「機転?」
ジャンの言葉にナマエが疑問を投げ掛けると、東側から緑の煙弾が幾つも打ち上がった。
「な……!?緑の煙弾だと!?」
「陣形の進路だけを変えて作戦を続行するみたいだね」
「そんな!撤退命令じゃないの?」
「エルヴィン団長は一体何考えてんだ?」
「作戦続行不可能の判断をする選択権は全兵士にある筈だが……まさか指令班まで煙弾が届いていないのか?」

上空に示された緑の煙を見てジャンもクリスタもライナーも苦い表情をした。伝達も機能していないと仮定すると、陣形は女型の巨人の急襲で分断さらているのかもしれない。ライナーの言う通り、指令班まで情報が届いていない可能性がある。
「そもそも目的地は南の筈なのに、さっきからずっと東に進んでるけど……」
ナマエは少し不安そうに言った。
「解らなくても今の状況じゃやることは決まっている――判断に従おう」
アルミンは通常通り緑の信煙弾を撃ち上げた。



「こっちを向け!この……化物!」
猛スピードで迫って来る巨人の正面へ煙弾を撃つ。少しの隙を突く瞬間を見逃さずに、三ヶ所から立体機動を操った仲間が勇ましく飛び出す。相当頭の回る奇行種だが、三ヶ所同時攻撃なら脊椎に腱、どこからでも削いでしまえば歩みは止められるだろう。
これ以上、陣形の奥に入れてはならない。
「余計な損害くれやがって!」
「嬲り殺しにしてやる!」
ブレードの切っ先が巨人へと迫る瞬間。

敵は突然高く跳躍した。
その姿に驚いている仲間に狙いを定めて着地と同時に一人を踏み潰し。二人目を容赦なく蹴散らし。
「は……離せ!!」
ワイヤーを掴まれて、宙に浮かんでなす術もない三人目へ敵は不気味な表情を浮かべ。
クルクルと、まるでおもちゃで遊ぶように立体機動装置のワイヤーを回し続ける。目を凝らせば、三人目は遠心力に耐えられず身体が折れてしまっていた。
「あ、あぁ……」
仲間が瞬殺された光景を目にして、口から吐息が漏れた。

馬の手綱を握って急いでその場を離れる。掌が汗ばんで手綱が握りにくい。あんな奇行種は生まれて初めてだ。まるで立体機動の動きを読んでいるかのような動きと、相手を確実に仕留める技。
「報告が先だ!あんな奴がいるなんて!オレが知らせなければ――!」
背後から耐え難い重い衝撃が身体中を駆け巡り、自分の身体が馬と共に空へ舞った。最期に目にしたのは憎らしい程の青い空だった。



本体と合流したナマエ達はそのまま馬を進め、当初の兵站拠点作りでは来る予定になかった場所に来ていた。八十メートル近くの高さを誇る巨大な樹々が密集するそこは、ウォールマリア領が放棄される前までは人気の観光スポットとして有名だった。

ナマエは子供の時、両親と共に一度だけそこを訪れたことがある。あまりにも樹々が高く聳えていたから、全貌を仰ぎ見ようとして首を痛めたことを思い出した。幼い頃の記憶と寸分違わない巨大樹の森が目の前に広がっていた。ジャンもアルミンも、ライナーもクリスタも、何故こんな場所に来たのか測り兼ねている。

何故中列の荷馬車護衛班だけ森に入ったのだろう。索敵も機能していないのに、森の中で巨人に遭遇でもしたらそれこそ終わりだ。おまけに、中列だけ別の行動を取る様子が不思議でならない。
ジャンの言う通り、女型の巨人の急襲の影響で陣形が崩れてしまったようだ。巨大樹の森を外側から迂回後、森に入った中列と合流して当初の目的地へ向かうのだろうか。
一旦態勢を直すのかもしれないと、ナマエは心の中で言い聞かせていた。

先頭から馬を止めろと指示が飛ぶ。
「いいか新兵供、良く聞け!我々はこれから迎撃体態勢に入る。抜剣して樹上で待機せよ!森に入ろうとする巨人がいれば、全力で阻止するのだ!」
「え、あ、あの班長、それはどういう……」
「何故迎撃態勢を取るのですか?」
ナマエの質問に答えることなく――まるで理由は聞くなとでも言うような口調で――ひと蹴りした上官は既に樹上にいた。こちらからの質問には一切答えるつもりがない男へ、苦々しい視線を投げた。

小鳥の囀り。周囲には巨人の気配すらないから壁外にいることを忘れてしまう程、巨大樹の樹上から見える景色は穏やかそのものだった。あれから命令通り抜剣して周囲を見渡している。
それが返って異常事態であると物語っていた。
「当初の兵站作りの作戦を放棄……その時点で尻尾を巻いてズラかるべき所を、大胆にも観光名所に寄り道。その挙句、唯突っ立って森に入る巨人を食い止めろと。アイツ――ふざけた命令しやがって」
「聞こえるよ」
アルミンが諌めるがジャンは苛立ちを隠そうとしなかった。
「それに、碌な説明もないってのが斬新だ。もっとも、ヤツの心中も穏やかではない筈だがな」
「と、言うと?」
「極限の状況下で部下に無能と判断されちまった指揮官は、よく背後からの謎の負傷で死ぬっていう話があるが……別に珍しい話でもねぇってこったよ」
ジャンはグリップに装着されているブレードをじっと見る。アルミンが少し心配したような口調でジャンに、どうするのかと問えば彼は溜息交じりに胸の内を吐露する。
「少しこの状況に苛付いただけだ。どうするってそりゃあ……命令に従う。巨人を森に入れない。お前もそうするべきだと思うんだろ?アルミン」
「え?」
「何やら訳知り顔だが?」
ジャンの呼び掛けにアルミンは、胸につっかえているものを我慢するかのように吃る。
「……えっと――ナマエ、君はこの状況、どう見ている?」
急にアルミンから名前を呼ばれて、少し戸惑った。
「どうって……、陣形が壊滅されたのなら撤退するべきだと思う。ここで迎撃態勢を取る理由が解らない……。中列と合流する様子もないし、何よりアルミン達が戦った女型の行方も気掛かりだよ……。私には解らないことだらけだけど、アルミンは何か思い当たることがあるんだよね?」
正直に言えば、この状況にお手上げだった。

当初の兵站拠点作りを放棄しても尚、壁外に留まる理由とは一体何なのだろう。
「……女型はエレンを追っている、そして団長もそれを知っている――そう仮定する……」
「エレンを追っている?アルミン、女型の巨人は逃げたんじゃないの?」
「アルミン、お前――」
アルミンの意味深な言葉にナマエとジャンは何か感じた時、草原の彼方から大きな足音が聴こえて来た。
「五メートル級接近!!」
草原の方へ目を向けるとわ一体巨人が一定の速度を保ちながら森に向かって走って来る姿が見えた。巨人は樹上に人間がいることに気付くと、卑しい表情でこちらに目を向ける。
「何よ、これ」

眼下の光景に目を疑った。地上には何体もの巨人が集まって、人間が下に落ちて来るのを待ち構えているかのうように、木の幹に手を這わせこちらへと手をこまねいている。
「命令は巨人を森の中に入れるな、だったよな?つまり交戦する必要なんかない、筈だよな……?」
巨人に下から見上げられる光景は忘れもしない、トロスト区攻防戦での囮役と同じだ。彼の言う通り、今まで自分達は巨人の囮役として樹上で待機していたのだ。

すると、森の奥から何やら大きな大砲のような音が何発も轟いてここまで空気の振動が伝わって来た。
「何なんだ、この音は?」
大砲に似た爆発音は、止むことなく何度も轟く。
ナマエは胸が騒ついた。荷馬車に積んでいるのは兵站拠点作りに欠かせない物質だと聞いているし、大砲を持って来た様子などなかった筈だ。だが、実際は荷馬車の積荷を目にした訳ではない。荷物を積み込んだとは一部の限られた上官達だけで、ナマエを含めた殆どの兵士達は指一本も触れさせて貰えなかったのだから。

もしかしたら。兵站拠点作りの作戦など最初からなかったのかもしれない。森の奥から響いて来る爆発音と別行動を取っている中列の班。女型の巨人の存在。
「一体、森の奥で何をしているの……?」


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