未知の領域で刃を交え

カラネス区を飛び出すように出発したエルヴィン・スミス率いる調査兵団は、自由の翼のエンブレムを翻しながら――荒れ放題の朽ち掛けている旧市街地――巨人の領域を勢い良く進む。
さっそく十メートル級の巨人と出くわしたが、旧市街地を抜けるまで援護班の支援範囲だ。援護班が巨人と戦っているすぐ真横を隊列を組んですり抜ける。サシャが泣きそうな悲鳴を上げた。
「怯むな!援護班に任せて前進しろ!」
隊列を乱すことなく前に倣って馬を走らせるジャンは、前へ着いて行くことに専念する。
旧市街地を抜けると、一行は訓練通りに長距離索敵陣形へ展開し始めた。

前方半円状に長距離だが確実に前後左右が見える距離で、等間隔に兵を展開し、可能な限り索敵・伝達範囲を広げて進む。新兵は荷馬車の護衛班と索敵支援班の中間で、予備の馬との並走・伝達が任務となっている。周囲の景色の見晴らしも良くなり、旧市街地を向けた頃合いで先頭を走るエルヴィンから、緑色の煙弾の合図が上がった。
「長距離索敵!展開!!」
各々が配置される場所へ展開を開始する。

ここから新兵達は一頭の馬を預かり目的地まで並走する。
「じゃあな、アルミン!」
「巨人に遭遇しても小便チビんなよ!」
「うん、ジャンもね!」
ライナーが持ち場へ向かい、ジャンもアルミンに軽く声を掛ける。アルミンから緊張した声音の返事を聞いてからジャンもその場を離れた。
ジャンの持ち場は右翼側から三列四・伝達である。一ヶ月間叩き込んだ通りに予備の馬と並走するだけだ。

暫く真っ直ぐ馬を走らせる。遮蔽物もなく、幸い巨人の姿も見えないが油断は禁物だ。ここは巨人の領域だからいつどうなってもおかしくない。そう思うと、自然と周囲の物音に敏感になってしまう。

馬の息遣い。鳥の囀りと羽ばたく音。風の音。
自分の心臓の鼓動すら聞こえそうだとジャンが思ったその時。右翼側から軽い破裂音と共に煙弾が幾つか上がった。
「赤の信煙弾……!」

主に巨人と接近するのは初列索敵班の兵士で、陣形の一番外側に配置されている。彼らは巨人を発見次第、赤の信煙弾を発射する。
落ち着け。心の中で三回唱えた。巨人が陣形に侵入して来た訳ではない。信煙弾を確認したジャンは落ち着いた手付きで、予行演習通り赤色の煙弾を詰めて、空に撃ち上げた。

長距離索敵陣形とは、信煙弾を撃ち上げ続けることで先頭で指揮を執るエルヴィンへ最短時間で巨人の位置を知らせることが出来るという。暫くすると前方から上がった緑の信煙弾をジャンは確認して、先程と同様空へ撃ち上げた。
エルヴィンから打ち上げられた緑の信煙弾は、陣営全体の進路を変えて新たな方角に舵を切るらしい。どうやら東側へ進路をずらすようだ。

この要領で巨人との接近を避けながら、目的地を目指す。大抵の巨人は馬の長距離走力には敵わないが、個体によって短時間の馬の走力を上回る巨人もいる。または、地形や障害物により発見が遅れ、陣形の内部に侵入を許してしまう場合もあり、陣形を分断もしくは破壊される恐れもあるのだ。
幾ら巨人との接近を避けるとはいえ、完全なる鉄壁な陣形ではないということだ。
何度も頭に叩き込んだネスの講義が頭を過ぎる。

またもや右翼側から信煙弾が上がる。今度は黒の信煙弾だった。つまり、陣形内部に奇行種が入り込んでしまった訳で、索敵班が右翼側で巨人と戦っているに違いない。
ジャンは黒の煙弾を撃ち上げた。
右側から名前が呼ばれたので振り返れば、一人の兵士が伝達しにやって来た。
「緊急事態だ!足の早い巨人が沢山来て、右翼索敵が一部壊滅したらしい!」
「な……、それは本当ですか?」
「ああ!今は何とか食い止めているようだが、索敵が機能していない!!」
「索敵が機能していないって……撤退はしないんですか?」
「団長から撤退の合図がない!そのまま進め!オレは一旦持ち場に戻るが伝達頼んだぞ!」
「――了解です!」
さっきから黒の煙弾が上がっているからおかしいとは思っていたが、やはり演習通りには行かないようだ。

それにしても、索敵班が壊滅してしまう程の損害が出てしまっているのに、このまま進むとは思わなかった。他の同期達は大丈夫だろうかと、ふと頭を過ぎったがジャンは他の仲間に今聞いたことを伝達するために馬の速力を上げる。このまま真っ直ぐ進めば次列四のアルミンに出くわす筈だ。

例えば、平地ここで巨人と戦闘になったとしたら。
アンカーを打ち込むための遮蔽物は殆どないから不利だ。この場合、成功率は非常に低いが巨人の身体めがけてアンカーを打つしかないが、正直それだけは避けたい。

馬を真っ直ぐ走らせていると、右翼側から黄色の信煙弾がいくつも上がったのを確認することが出来た。同じく黄色の煙弾を打ち上げると、前方にライナーとアルミンが並走していた。
「右翼索敵が一部壊滅したらしい!巨人がわんさか来たんだ。何でか知らねぇけど!足の速ぇ奴が何体もいる!今は何とか食い止めているが、もう索敵が機能していない!既に大損害だが下手すりゃ全滅だ!」
「……アイツが来た方向からだ。まさか……アイツが巨人を率いて来たのか!?」
「……アイツ?」
アルミンが大きく目を見開いて見つめている方へ、ジャンも目を向けた。

前方に、一体の巨人がこちらには見向きもせず走っている姿があった。
「何でこんな所に巨人がいるんだよ……奇行種か?」
アレが先程の伝達で聞いた元凶なのだろうか。
「いいや、違うんだ。アイツは巨人の体を纏った人間……エレンと同じことが出来る人間だ!」
「何だって!?」
「アルミン、どうしてそう思った?」

目の前を走る巨人の正体が人間だと断定したアルミンの言葉に驚くジャンとは対照的に、ライナーは冷静な口調でその意図を尋ねる。
「巨人は人を“喰う”ことしかしない。その過程として死なせるのであって、“殺す”行為自体は目的じゃない……。しかしアイツは急所を狙われた途端に、先輩を“握り潰し”“叩きつけた”。“喰う”ためじゃなく“殺す”ために殺したんだよ。他の巨人とはその本質が違う。“超大型”や“鎧”の巨人が壁を破壊した時に大勢の巨人を引き連れて来たのは、きっとアイツだよ……目的は一貫して人類への攻撃だ」
ジャンはアルミンの自論を聞きながら、目の前を走り続ける巨人の背中を一瞥した。
「……いや、どうかな。誰かを捜しているんじゃないかって気がする……。もし、そうだとすれば――捜しているのはもしかして……エレン!?」
「エレンだと?エレンのいるリヴァイ班ならアイツが来た右翼側を担当している筈だが――」
「右翼側?オレに配布された作戦企画紙では、左翼後方あたりになっていたぞ」
「……僕の企画紙には右翼前方あたりにいると記されていたけど……いや、そんな前線に置かれる訳がない」
ここに来て漸く三人共、エレンの配置位置が出鱈目に記された作戦企画紙が配布されていたことに気付いた。

何故作戦企画紙でリヴァイ班の位置がバラバラなのか。わざわざこんな手の込んだ真似をする理由が解らない。しかし、そう長く考えている時間もなさそうだ。
「じゃあ、どこにいるってんだ?」
「この陣形の一番安全な場所にいる筈。だとしたら、中央後方あたり……かな」
「アルミン!今は考え事をしている時間はねぇぞ。ヤツの脅威の度合いを煙弾で知らせるなんて不可能だ。その内司令班まで潰されちまう。そうなりゃ、陣形は崩壊して全滅だ!」
「何が言いたい?」
「……つまりだな」
ライナーの問いにジャンは今までの自分なら絶対に口にしないことを口にした。弱々しい語尾に少しの自嘲を交えて。
「この距離なら、まだヤツの気を引けるかもれねぇ。オレ達で撤退までの時間を稼いだり出来る……かもれねぇ。なんつってな」

今出来ることと言えば、これしかない。
「アイツには本当に知性がある。アイツから見れば僕らは文字通り虫ケラ扱い……。はたかれるだけで潰されちゃうよ?」
「マジかよ……ハハッ……そりゃあ、おっかねぇな」

巨人にとって人間をはたくことくらい造作もない。身体に恐怖が這い上がり、冷たいものが纏わりつく。
「お前……本当にジャンなのか?オレの知るジャンは自分のことしか考えていない男の筈だ」
ライナーが信じられない面持ちでこちらを見て来る。
「失礼だな、オイ……オレはただ――」

手綱を握り締める己の手はあの夜、煤けた骨を握り締めた手だ。恐怖こそあれど、あの時の決断から背くことは調査兵団を選んだ自分を裏切ることと同義だ。調査兵団に入団した瞬間から、こうなることは解っていた筈だ。
それが“今日”来ただけのこと。
「誰の物とも知れねぇ骨の燃え滓に、ガッカリされたくないだけだ……。オ、オレは……!オレには今何をすべきかが解るんだよ!そして、これがオレ達が選んだ仕事だ!力を貸せ!!」

ジャンは、アルミンからの視線を受け止めていた。
「フードを被るんだ!深く!顔がアイツに見えないように!アイツは僕らが誰か解らない内は下手に殺せない筈だから!」
「なるほど、エレンかもしれんヤツは殺せないと踏んでか……。気休めにしては上出来。ついでにヤツの目が悪いことにも期待してみようか」
ライナーは不敵な笑みを浮かべ、フードを被る。
「アルミン。お前はエレンとベタベタつるんでばっかで気持ちわりぃって思っていたけど……やる奴だとは思っていたぜ」
「え……?ああ、どうも。でも気持ち悪いとか酷いなぁ……」
ジャンもグッと目深にフードを被る。隣から戸惑いの言葉が漏れていた。

フードを目深に被った三人は頷き合い、打ち合わせした通りの配置へと馬を進める。前を走る巨人を改めて観察する。巨人は大きな地響きに似た足音を立てながら、前へ前へと大きな一歩を踏み出している。

皮膚はなく、全身を赤い筋肉で覆っているそれは、女のような身体つきをしており――十四メートルはあろうか。アルミン曰く、あの巨人の速度は最初に目撃した時と比べて大分遅くなっているらしい。

右翼索敵班を壊滅させたのも、あの巨人で間違いないと結論付けた。項の弱点も把握しているらしいから仕留めることは不可能だし、どうやらエレン同様、人間が相手らしい。普通の巨人と比べて相手をするのは厄介だ。
知性を持った巨人を斃す術など、三人は持ち合わせていない。陣形が撤退出来る時間だけ稼げれば良いから、二人が囮になってあの巨人の注意をなるべく長く引かせ、その隙に脚の腱を削ぐ。それだけでも十分以上だ。

ジャンは己のブレードの柄に唇を寄せる。お咒になるか解らないが――そもそも咒なんて、ジャンは信じていないけれど――無事に帰還出来ることを祈ってみた。
巨人の腱に狙いを定めてアンカーを発射させた。その気配を敏感に察知した敵は、足でアンカーを弾き飛ばして素早く方向転換すると重い風圧がジャンを襲う。目深に被っていたフードは、いとも簡単に脱げてしまう。巨人は方向転換した勢いを殺さず近くにいたアルミンの馬をはたき、彼は遠くへ投げ出されてしまった。何度も地面を転がり続け、そのまま倒れ込んで動かない。

巨人はピクリとも動かないアルミンの様子を確認するようにしゃがみ込んだ。
「アルミン――!」
急いでアンカーを巨人の背中へと打ち付けた。その勢いを殺さずか、立体機動のガスを蒸して飛び出すものの、敵は背中にアンカーが刺された痛みを感じたのか、直ぐにジャンの存在に気付く。
「うッ!?」

巨人は運動精度が普通の比ではなかった。内心舌打ちする。認識が――認識が甘かったのだ。ジャンは顔を顰めつつ、ガスを最大限に蒸しながら飛び、背中に打ち込んだアンカーを外してワイヤーを巻き取りながら、もう片方のアンカーを巨人の右の太腿に突き刺す。

同時に敵から猛スピードで拳が振り下ろされた。風圧に耐えながら寸でのところで躱して巨人の背後へと回るも、巨人は察知して項を手で覆い隠してしまう。空中でなす術がなくなってしまった。
既に巨人の瞳はジャンを捉えており、後は片方の拳が振り下ろすされるだけだ。ライナーの叫ぶ声がする。
「――ジャン!!」

もう逃げられない。ついさっきは運良く躱せたが相手の反応、攻撃スピードが速すぎて追い付かない。拳を振り下ろされて身体を潰されるところを想像して顔が歪む。
死んでしまう。ワイヤーを掴まれて、地面に叩きつけられるだけだ。

ドクンと、自分の心臓が死への恐怖に大きく震える。
「ひッ!!」
巨人の拳に力が入り、勢い良く振り下ろされて、ジャンは短い悲鳴を漏らした。
「――ジャン!死に急ぎ野郎の仇を取ってくれ!!」

突然、血塗れの状態のアルミンが叫んだ。その叫び声に巨人の動きが――ジャンに振り下ろされる筈だった拳も――止まった。
「ソイツだ!ソイツに殺された!右翼側で本当に死に急いでしまった!死に急ぎ野郎の仇だ!!」
巨人はアルミンが必死に叫んでいる内容を聞いているようだ。敵が気を取られている内に少しでも離れなければと、ジャンは片方のアンカーを木に打ち込んで離れた場所へ転がるように着地した。

木の陰からその様子を伺いながら、何故急にアルミンがあんなことを叫んだのか考える。
転倒した時に頭でも打って混乱してしまったのだろうか。絶体絶命の状況では、寧ろアルミンの行動はまずい。彼は今も巨人に向かって、必死に叫び続けている。
「僕の親友をソイツが踏み潰したんだ!足の裏にこびり付いているのを見た!!」
ジャンが木の陰から焦っていると、横から馬に乗ったライナーがフードを脱いで、巨人へと挑みに向かう姿が目に入った。

敵が気を取られている隙に、ライナーがブレードを振り翳す。いける、そうジャンが思ったのも束の間で。
「……オ、オイ!?」
女型の拳にすっぽりと収まっているライナーは口から呻き声を上げて――。

何かが潰れた厭な音と共に鮮血が舞った。ジャンは、目の前でライナーが握り潰されたと理解するのに数十秒は掛かった。
「ライナー……お前……」
終わった。もう何も手立てがない。

絶望の空気がジャンとアルミンを包み込む中。突如敵の掌が斬り刻まれて、血塗れのライナーが飛び出して来た。その光景に、ジャンは一瞬何が起こったか解らなかった。ライナーは潰されたのではなく、巨人の掌を中から滅多斬りにして脱出したのだった。そのままライナーは、手負いのアルミンを脇に抱えて巨人から距離を取り始める。

ミカサが強烈過ぎて霞んでしまっていたが、ライナーも百四期の中でずば抜けて優秀でとても頼れる存在だった。
「もう時間稼ぎは十分だろう!?急いでコイツから離れるぞ!人喰いじゃなきゃ、オレ達を追い掛けたりしない筈だ!!」
彼の言う通り、巨人はゆっくりと立ち上がり方向転換して再び走り出して行く。
「見ろ!デカ女の野郎め、ビビってお帰りになるご様子だ!」
先程の戦闘すら物ともしない様子で遠ざかる巨人の後ろ姿をジャンは目にした。ライナーのとんでもない離れ技でジャンとアルミンは窮地を脱することが出来たのだ。

「どうだアルミン、立体機動装置は?」
「大丈夫、留め具が正しく外れてくれたから壊れてはいないみたい」
「そうか……それは良かった。だがどうする?馬が一頭しかいないぞ」

巨人との死闘を何とか切り抜けたジャン達が次にするべきことは、本隊と合流することだった。
それには馬が必要だが、先の戦闘でアルミンの馬はやられてしまいジャンの馬は逃げ出してしまった。一体どこまで逃げてしまったのか。
己の馬が戻って来るよう、ジャンは指笛を何度も何度も吹いているが、だだっ広くて何もない平地に指笛が響くだけで、一向に馬が戻って来る気配も様子もない。

指笛を吹き過ぎて指がヨダレ塗れだ。今ここにいるのは、ライナーの馬一頭だけだ。これ以上、こんな所に留まっている訳にはいかない。いつ巨人がやって来てもおかしくない環境なのだ。最悪の場合、一人をこの平地に残さなければならないが、それをどうやって決めるというのか。
ジャンは後ろで手当を施しているライナーと、大人しく包帯を頭に巻かれているアルミンを見やった。

手負いのアルミンか。体格が良いから二人乗りがきつそうなライナーか。
それとも、自分が馬を探しに行くか。悪態を吐く。こんなことで頭を悩ませている場合ではない。
せっかく三人で死線を潜ったというのに、随分と酷い仕打ちではないか。諦め切れず、再び指笛を吹き始めた。
「……もう決めねぇとな。辛い選択だが、一人ここに残る必要があるようだ」
ジャンがどうしても言えなかった言葉を、ライナーはさらりと言ってのける。
「待って……その前に煙弾を撃ってみよう。陣形が直進していたら、四列三班あたりが近くにいる筈だ」
異を唱えたアルミンの意見で、ジャンは緊急事態用の紫の煙弾を空へ撃ち上げた。

紫色の煙が空気に流される様子を三人は無言で見上げる。
「……これだけじゃ意図が伝わるとは思えねぇが」
「アルミン、後三分だけ待つ。それまでにここに残る者を決める――」
「僕が残る。でも、その代わりに僕に代わって報告して欲しいことがある。出来ればエルヴィン団長にだけ……」
「いや、アルミン。それはお前が自分で報告しろ」
「え?」

遠くから誰かがこちらへ向かって来ている姿が確認出来た。ありがたいことに馬も三頭連れているようだ。
これで誰も欠けることなくこの場から移動出来る。
「あれは――」


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