夜明け前に溶けた邂逅

夜明け前に目が覚めてしまったジャンは、ゆっくりと上体を起こした。同室のコニー、ライナー、ベルトルトはまだ寝ているようだ。彼らの気持ち良さそうな寝息が聞こえている。
時計を見るとまだ集合時間までいくらか時間があるので、もう一度目を閉じてみること数回。
どうも駄目なようだ。
気が張っているのか目が冴えてしまって眠れそうになかったので、ジャンは仕方なく隊服へ着替えることにした。周りを起こさないよう、慎重に着替えて部屋を出る。

本日行われる壁外調査についてジャンの頭の中は忙しなかった。
新兵が壁外調査で生き残る確率は七割だという。果たして自分は生きて壁の中に戻って来れるのだろうか。昨夜から、そればかりが頭を堂々巡りである。

夕飯が喉を通らないと、泣きベソをかいていたコニーとサシャをジャンは慰めた。これではラチが明かないと思い、ジャンがコニーを引き摺るように寝室に連れて行き――クリスタとナマエにサシャを任せ――無理矢理寝かし付けた。
ベソをかいていた張本人は今、まるで嘘のように眠りこけている。その図太さがあれば、今日の壁外調査は大丈夫だろう。寧ろ、コニーを元気付けた自分がこのザマである。心配して損した気分だった。ジャンは一人で自嘲する。

外の空気でも吸えば、少しは落ち着くかもしれない。寝静まった兵舎内から外に出ると、満月の青白い光が外を照らしていた。
少しだけ肌寒くて、ジャンは身を縮こませる。ローブを羽織ってきて正解だと思った。冷たい空気を胸一杯に吸い込んで吐き出す。
「……ジャン?」

ふと名前を呼ばれた方へ目を向ければ、近くのベンチに月明かりに照らされたナマエが一人でぽつんと座っていた。手にはランタンを持っている。ジャンと同じように既に着替えを済ませていていたが、いつも三つ編みに編まれている髪は下ろしていた。
「何だよ、お前も緊張してんのか」
そう言ってジャンはナマエの隣に腰掛けた。
「うん、そうみたい。だって生まれて初めて壁の外に行くんだよ?エレンをシガンシナへ送る兵站拠点作りで巨人と遭遇しない訳じゃないから」

この一ヶ月、新兵は班長であるネスの元で調査兵団の理念と長距離索敵陣形を座学で叩き込んだ。実際に馬に乗って陣形を展開して不測の事態――陣形に巨人が入り込んだ場合、平地での巨人との戦闘――を仮定した演習を行って来た。
一つでも選択を間違えれば、即巨人の餌食になり兼ねないのだ。あと数時間すれば、巨人の世界へと飛び出して行く。果たして、無事に七割の内に入れるのだろうか。
「巨人に遭遇するのは怖いから……」
ジャンは彼女の言葉に、意外だと思った。

エレンと同じように調査兵団を希望していたから、ナマエも巨人なんて怖くないと思っているんだろうと、勝手にそう思っていた。
本部を巨人に占拠された時も、ミカサの提案に真っ先に賛同したし、何より――。
「奪還作戦でオレの立体機動が壊れた時、自分を囮にして巨人に向かって行った奴がよく言うな」
「あ、あの時はジャンを助けることに必死で、それしか頭になくって――」

口籠るナマエの様子にジャンは少しだけ笑った。見た目に反して、意外と肝が座っているのかもしれない。
「あの時は助かった、ありがとうな。今更だが……きちんと礼を言ってなかったような気がする」
「えっと……、どういたしまして」
そう言ったナマエは頬を緩ませて笑った。その姿は、年相応の少女だった。ランタンの優しい灯りが二人の周囲を照らし出す。

ざぁっと少し冷たい風が抜けて、少女の長い黒髪が靡いた。ナマエは両肩を抱えるように、寒そうな仕草をする。そんな彼女の様子に、知らぬ振りは出来なくて、ジャンは自分が着ているローブを乱暴に渡した。
「これ、羽織ってろよ。ていうかジャケットだけじゃ寒いだろ」
「でも、ジャンだって寒いでしょう?」
「別に構わねぇよ。寧ろ、隣で寒がってる方が気になる」
「……ふふ、ありがとう」
ナマエは小さく笑った後、差し出されたローブを素直に受け取って、すぐに羽織った。
「そもそも、ローブ羽織って来なかったのか」
「さっき馬に乗って周りを軽く走ってたら、暑くなっちゃって。そのまま置いて来ちゃった」

ナマエは何てことない風に言うが、本当は心穏やかではなかった筈だ。松明も灯さず、月明かりを頼りに馬を走らせる何て狂気の沙汰だ。それくらい彼女は緊張してたのだろう。
「お前、何時に起きたんだよ」
「うーん、一時間前かな。馬に乗って走ったら頭の中スッキリしたよ」
本当にスッキリしたような笑顔で彼女は言った。

これからウォールマリア領――旧市街地に出る。歴戦の調査兵ならいざ知らず、今期の新兵にとって生まれて初めての壁外調査な訳だから、心中穏やかとはいかない。
実際、ジャンは集合時間より前に目が覚めてしまっているのだ。どんなに予行演習や訓練を積み重ねても、現場では何が起こるか解らない。歴戦の調査兵ならいざ知らず、ジャンとナマエは一ヶ月前に入団した新兵なのだ。
「温かい……」
「そりゃ良かった」
ジャンのローブを着込んだナマエは小さな声でそう言った。そう言ってくれるなら、貸した甲斐がある。
「まさかジャンが調査兵団に入るなんて思ってもみなかったよ。誰よりも逃げることを掲げて、憲兵に志願していたから」

ナマエの言葉には、軽蔑も侮蔑の色もなかった。隣に座る彼女は穏やかに微笑み、ジャンを見つめているだけ。深い夜を思わせる黒の瞳には、何の感情をも捉えることは出来なかった。

シガンシナ区が巨人の襲撃を受けてウォールマリア領全域が陥落してから、より内地へと志願する者が増えた。特に、ウォールマリアからの避難民が溢れ返った故郷は悲惨だった。食べるものも、仕事も、住む場所も追われた大量の避難民。彼らの行き着く先は、過酷な開拓地だった。その様子を間近で目にして育ったジャンは、壁の脆さと巨人の脅威を感じたのだ。明日は同じようなことが、我が身に降りかかってもおかしくない。

逃げなれば――そう思っていた。あの襲撃が起きる前までは。
トロスト区攻防戦で多くの仲間を亡くした。自分が採った指揮で、何人も死なせてしまった。彼らの死に場所を勝手に決めてしまった。親友のマルコも、自分の知らない所でひっそりと死んでいた。

だけどジャンは、現実を良く知っている。この世界に壁がある限り。逃げたところで何も変わらないということを。あんな陰惨な光景を目にした後でも“逃げたい”、“安全な暮らしをしたい”という思いをずっと持ち続ける程、開き直ることが出来なかったのかもしれない。
ジャンは自分のことをそう分析している。
「逃げる場所なんてどこにもねぇ。内地に逃げたとしても、まやかしだって解っていたがオレはそれでも構わなかった」
「それじゃあ、どうして?」
静かに話しを聞いていたナマエの問いにジャンは、さぁなと溜息混じりに言ってから、初めて己の気持ちを吐き出すことにした。
「勘違いすんなよ。オレは誰かがやらなきゃいけないならオレがやるなんて、自己犠牲で調査兵団ここを選んだんじゃねぇからな。
オレ達は何のために戦って、何のために命を使うのか、今まで不明瞭だったもんがエレンの巨人の力の存在ではっきりした。死に急ぎ野郎のお陰だなんて癪だが、命を賭けても良いと思う材料が揃ったんだ。アイツには人類全員の命が掛かっているから荷が重いかも知れねぇが……やって貰わなきゃならない。そのためにオレは、オレの仕事をする。そう――踏ん切りが着いちまっただけだ」

あの夜。
ミカサにエレンを責めるなと言われたが、ならば他に誰が現実を突き付けてやるのだとジャンは思った。エレンには人類の未来が――命運が掛かっているのだ。そのことを重く受け止めて貰わなければ、困るのだ。トロスト区で死んでいった仲間達の死に意味を持たせなければ、死んだ彼らが浮かばれないではないか。
重圧に感じる程、自覚して貰うために敢えて嫌味な言い方をするしかなかった。誰もそのことに触れないのなら。自分が憎まれ役を買ってでも、言うしかないじゃないかと思ったのだ。

元々エレンとは犬猿の仲で、今更気を使う相手でもなかったから。勿論、ナマエも含めて、他の同期達にも気を使うつもりなんてこれっぽっちもない。
「人類の未来だとか考えても途方もないものより、今何をするべきか……オレの頭にあるのはそれだけだ」
「今何をするべき、か――。ジャンが調査兵団を選んだ理由、何となく解った気がする。実は結構前から、ジャンってエレンのことが羨ましかったんじゃないかって、思ってたんだ」
「――は!?何でオレが死に急ぎ野郎のことを羨ましいなんて思わなきゃいけないんだ?勘弁してくれ」
隣に座るナマエから、さらりと聞き捨てならない言葉が出て来て、ジャンは不服だと言わんばかりに顔を歪める。彼女はお構いなく、更に言葉を続けた。
「語弊があるかもしれないけど、エレンと衝突するジャンを見て段々そんな風に見えたんだ。どう足掻いても巨人に勝てない……だから、巨人に立ち向かうことを掲げているエレンの強さを、羨ましいと思う反面……嫉妬していたんじゃないかなって」
「お前なぁ……!オレを観察するの止めろよ」

ジャンは溜息を吐いた。嫌味なくらいの憲兵団アピールだって、自分も皆と同じ臆病者なんだと声高に叫んでいただけ。
巨人に対して臆する様子がないエレンを死に急ぎ野郎と揶揄して、彼の意志の強い瞳がジャンは気に入らなかった。まだ諦めていない鈍い光が視界に映る度に、まるで腰抜野郎だと言われているようで不快だった。

勿論、エレンを恋敵として羨ましいと思っている一面もあるけれど。そう言えば、ある時いつもの如くエレンと言い争いをしていたら、サシャから“ジャンの愛情表現が始まった”と指摘されたこともあった。

要するにナマエだけでなく、側から見ていたら解りやすかったのかもしれない。それに気付かなかったのは、当の本人達だけだったのかもしれない。ジャンは何とも言えない気分になったので、話題を変えるように質問した。
「オレはずっと、ナマエは巨人に対して恐怖を感じているだなんて思いもしなかったぜ。最初から調査兵団志望してたし、だから巨人が怖いなんて聞いて意外……だったな」
「私もね、ジャンと同じだよ。エレンのことが羨ましかったの」
「お前が俺と、同じ?」
「私だって巨人が怖いよ。所属兵科決めの時も、身体の震えが止まらなかった……」

ジャンには解らなかった。何しろナマエは訓練兵の通過儀礼の時から、外の世界へ行くために入団したと宣言していた。あの時ジャンは、気が狂ってるとしか思えなかったのだから。己の心情を吐露した後、彼女はゆっくりとベンチから腰を上げてどこか遠くの方へ視線を向ける。

月が空の端へ沈もうとしていた。夜明けが近いかもしれない。
「巨人は私達が考えも及ばない力で襲って来るし、いつだって情報不足で圧倒的な力の差は埋まらない。この壁の中に未来があるか解らないけど、一つだけ言えるとしたら、色んな考えを持った人間が手を合わせないと勝てないんじゃないかな。
多分、今がその時なのかもね。戦わなきゃいけないって解ったから……もう夢だけ見ている子供のままじゃいられないんだ」

夢を見ていた子供は一ヶ月前の惨劇を見て悟ったのだろう。今こそ、夢を見るのを終えて旅立たねばならない。ナマエは、掌の中にあるエンブレムへと視線を移す。
そのエンブレムは一ヶ月前に自分も着用していたジャケットにあしらわれていたもので、何故だかジャンは酷く懐かしく感じた。それ共に、少しの違和感を感じた。
「ミーナとね、外の世界を見るって約束したんだ。だから何があっても戦わなきゃいけない。この先仲間が喰われようとも――私が死んでしまう時が来たとしても、後悔だけはしたくないんだ」
訓練兵の象徴であるエンブレムを大事そうに見つめるナマエの瞳は、優しい色を帯びている。だけど、どこか寂しげだった。そのエンブレムはきっと彼女の親友のものに違いない。
「大分長く話しすぎたな。そろそろ広場へ行くか、集合時間も近いだろ」

先程と比べて、西の空が少しずつ夜明けの雰囲気を醸し出していた。朝陽の薄いオレンジ色と宵闇の深い藍色のコントラストはとても美しかった。
ナマエも軽く頷いて、二人言葉少なめに肩を並べながら集合場所である広場へと歩を進める。ランタンの淡い灯りが足元を照らしている。
「ローブありがとう。温かかった」
「……おう」
ナマエから返されたローブを受け取ってジャンは羽織った。ランタンを手にして隣を歩くナマエは、自由の翼のエンブレムがあしらわれたジャケットを着ている。

そこでジャンは先程の違和感の正体が解った。
「お前……あのエンブレムは、いつ切り取ったんだ?」
「え?火葬する前に切り取ったものだよ」
そうだ。ジャケットを着ていれば、ジャンも同じこと・・・・をするつもりだったのだ。でも、それが出来なかった。
「……ちょ、ちょっと!?」
ジャンはナマエの襟倉を掴んで、胸ポケットにあしらわれたエンブレムを食い入るように見つめた。
「おかしい……あの時、アイツは着ていた筈だ。それならどうして……」

どろりとした不快なものがゆっくりとジャンの頭の中を這いずり回る。不思議なくらいにナマエの声が遮断された。
マルコの身に、一体何があったのだろう。
「――ジャン、苦しいってば!」
急に外の世界の音がジャンの耳に入って、苦しそうにナマエが何度目もジャンの名前を呼んでいた。
「わ、わりぃ!」
「顔色、凄く悪いけど――どうしたの……?」
「いや、大丈夫だ……。本当に何でもないからさ!いきなり掴み掛かってびっくりさせちまって済まなかったな」
ジャンは慌てふためきながら、本当に心配ない、大丈夫だと言うことしか出来なかった。尚も心配そうにこちらを見るナマエの視線を感じたが、それを無視することにした。

マルコの不審な死のことは、一旦頭の片隅に追いやる。今は別のことに集中しなくてはならない。
ジャンは、今日の壁外調査で己に落胆しないようしっかりしなければと思った。

夜明け前にエルヴィン率いる調査兵団は、ウォールローゼの調査兵団本部を出発し目的地である東側領土突出区・カラネス区に到着した。

朝陽がすっかり昇り切った頃合いだった。
カラネス区の住民達は調査兵団にあまり興味がないのか、外門へ続く道に見物人の姿は殆どなくて家の窓から小さな子供が物珍しそうな瞳で、こちらを見ているだけである。
ジャンが配置されている場所から外門は見えないが、開門三十秒前を告げる鐘が街全体に鳴り響き周囲は一層高揚する。緊張を抑え込むために、深呼吸をする。誰も彼もが緊張した面持ちで前を注視めていた。
ピンと糸を張ったような張り詰めた空気が、隊列を組んでいる調査兵全員を包む。緊張がピークになりそうな頃合いに、激励の言葉がこだまする。
「いよいよだ!これより人類はまた一歩前進する。お前達の成果を見せてくれ!」
呼応するように、歴戦の調査兵達の雄叫びが上がる。ジャンは馬の手綱を強く握った。
「開門始め!」
掛け声と共に、前方から重たい門が開く音がすると勢い良く前から順々に馬が前進する。
第五十七回壁外調査が開始した。


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