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「悪いねぇ、閉店間際にこんなこと頼んで。」

「………」

「このバウムクーヘンも追加してくれる?」

「………」


どう、して……?

どうして、どうして、なんで…


「…健ちゃん!」


何も聞こえなかった俺の耳にスッと届いた声。突然の大きな声に慌てふためいた俺は座っていた椅子ごとひっくり返りそうになる。必死にバランスを保つと頭上から「申し訳なかったわ、あんな場面で…」とおばさんの声がした。


「なまえちゃんのことで大変な時に、ごめんなさいね…」

「えっ、……あ、いや……」

「あの大きな男の子、どこかで見たことがあるような気がしたんだけど…私の見間違いでなければ…」


俺とおばさんの声が重なる。「海南の牧」というピッタリと重なったその言葉がますます俺を不安にさせた。


「よくわかりましたね…あの距離で…」

「実は少し前から健ちゃんのお店に着いていたんだけど、男の人と歩いて来るなまえちゃんを見かけて思わず電信柱に隠れちゃって…」


申し訳なさそうに笑うおばさんと、息が苦しくなる俺と。幼少期から俺となまえを可愛がってくれたおばさんには、俺の気持ち全てお見通しなわけで。


「まさか、こんなことが起こるなんて思いもしなくて…俺、本当に情けないですね…」

「大丈夫よ。」

「…大丈夫、かな…」

「もう負けないでしょ、健ちゃんは。」


上を向かなきゃって思うのに、見られたくない…だなんて、そんな思春期のような考えのせいで結局下を向いたまま。俺の意思に反して止まることを知らない涙が俺のズボンを濡らしていく。おばさんはぽんぽんと無言で頭を撫でてくれた。俺は一体いくつなんだよ…と思いながらもその優しい温もりが余計に俺を泣かせてくる。あぁ、クソ…


蘇る恐怖。俺の前に立ちはだかる壁。どんなに壊そうと足掻いても足元にも及ばない。積み重ねた努力が粉々に砕け散るあの恐怖が鮮明に蘇った。あぁ、怖い…


怖気付く俺、かっこ悪い……


「ありがとうね、助かったわ。」


まだ途中だったラッピング。おばさんはやりかけのそれを持って店を出て行った。代わりに置かれたぴったりの代金。あぁもう……なんでだよ……


…負けないよ、俺はもう。絶対に絶対に負けない。


そう思うのに、どうしてこんなに……


「涙が、止まんねぇ……」




















藤真商店の朝は早い。


珍しくアラームより先に開いている目。のっそりと起き上がってから開口一番、漏れたのは大きなため息だった。


眠れなかった……


どれだけ考えたところで、悩んだところで、自分一人で答えなど出るはずもなく、もう一度ドサッと寝転んだ。


今までのなまえとの思い出がありえない速度で頭の中を駆け巡る。


あぁ、もう…あの時もこの時も、お前はいつも危なっかしくて、壊れそうで、放って置けなくて、守ってやりたくて、そばに置いておきたくて…どうしようもないくらい、可愛くて。


ずっと隣にいたいって、やっぱり強く思うんだ。


このまま何もせず、じっとしているわけにはいかない。








再び起き上がった時には幾分か頭が軽いような感覚だった。一睡も出来なかった影響で瞼こそ重いけれど、やるべきことはひとつに絞られたから。

散々迷いに迷って、今になって後悔もして、いよいよアイツが他の男のものになるんじゃないかって、そんな危機感に押し潰されそうだけど…


「…おはよう、爺ちゃん、婆ちゃん。」


アイツが、なまえが、ものじゃないことくらいわかってる。強引に俺のものに出来るわけじゃない。選ぶ権利はなまえにあるし、俺じゃない誰かを…牧を…選ぶ可能性だってあるわけだ。


それでも、俺はもう、絶対に負けない。


「頑張るから、見ててよ…」


爺ちゃん、婆ちゃん、俺に力をちょうだい。















「…んなわけっ、ねぇよな…」


えっ、違うよな…?そんなわけねぇよな…?


なまえのこと、絶対諦めないと気合いを入れ直した矢先、恐怖も混じった絶望が俺を襲っていた。いつも通りの朝…のはずが、彼女が店の前を通らないのだ。今日は平日。そしていつもなら駅に向かうなまえがここを通るはずなのに。


あぁそうか、体調が悪く今日は会社を休むってことも可能性としては十分ありえる…というか、それ以外納得出来る理由が無いのだけれど…


寝坊?アイツに限ってそれはねぇだろ…じゃ、やっぱり体調が悪くて寝込んでいるとか…いやむしろ、そうであってほしいしそうじゃなきゃ困るんだけど…


だって、だって…昨日の夜といえば…


「…まさかっ、んなわけねぇってば、!」


どうしちゃったんだよ、俺。後ろ向きなことばかり考えるタイプじゃなかっただろ。確かに俺が最後に見たなまえは牧と並んで歩いてたよ。でもだからなんだよ。牧はアイツをきっと家か家の近くまで送ったんだろうよ。


その後、ふっ、普通に…普通に解散するに決まってんだろ…なっ、流れで牧の家に…行ったとか…2人で朝を迎えたとか…それを俺にバレたくなくて裏道から2人で並んで出勤したとかそんなわけねぇし…!

絶対絶対違うし、うっかり寝過ごして寝坊しちゃうくらい昨晩は大盛り上がりだったとか…あぁぁぁ、悪い妄想が止まんねぇ…!


「絶対違う、アイツに限ってそんな…っ、」

『…どうしたの、朝から騒がしい…』

「…っ、なまえ…!」

『発注間違えたとか?大丈夫?』


何か力になれるならなんでも言って、と淡々と告げた彼女に思わず抱きついてしまいそうになる。おおっと、危ない…危ない…


俺が悶々と頭を抱えているうちにどこからともなくスッと現れたなまえはいつも通りの雰囲気で俺の顔をジッと見つめている。なぜ俺が頭を抱えていたのか知りたいらしい。誤発注という推理を捨てきれない彼女は俺の口から出てくる答えを待っているようだった。はい、可愛い。


…いや、違くて。


「まぁ、そんな感じ…気遣い感謝する。」

『困った時はお互い様だって言うしね。』

「おー…そういえば今日、随分ゆっくりじゃん。」

『うん、フレックスタイム制なんだ、今日は。』


たまにはのんびりする朝もいいかもしれない、とふと笑ったなまえの横顔にドキッと胸が高鳴った。


フレックスタイム制…なるほど、なるほど…


『仕事終わったら帰り寄るから。少し遅くなっちゃうかもしれないけど。』

「…え、あ…あぁ、わかった…」

『昨日ゆっくり話せなかったから。じゃ、行ってきます。』


ジェットコースターの如く感情が忙しい俺にひらひらと軽く手を振って駅へと歩いていく後ろ姿を見つめる。勝手に心配して勝手に不安になって…俺ってば心底情けない。


「…よかった…」


何はともあれ…なんともないみたいでよかった…俺の杞憂で終わってよかった…っていうか、帰り寄るって…


「あぁもうこんな時間…やっべ…!」
















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