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「…あ、みょうじさん。」

『あれっ、牧さん…まだいらっしゃったんですね。』


定時を迎え、ほんの少しだけ残業をした。それはもちろん午後の業務が片付かなかったからで。

ようやく業務を全て終え、さぁ帰ろうかと歩いていた時だ。聞き慣れない声に呼ばれ後ろを振り向くと、軽く右手を上げてからこちらに歩いてくる牧さんがいた。


「あの後部長に呼ばれてしまって…」

『そうだったんですね…お疲れ様でした…』

「みょうじさんこそ、遅くまでお疲れ様。」


午後、たっぷりと時間を使って社内を隅々まで案内させていただいた相手、牧さん。先程よりも少しだけどんよりとした表情から、この数時間の間に色々と仕事を押し付けられたんだろうなと察しがつく。初日は明日だって言っていたのに、皆して期待しすぎでしょう…


「よければ、一緒に帰りませんか。」

『あ、えぇっと…駅へ向かいますけど、方向合ってますか?』

「合ってます。」


社員証をかざし外へと出る。まさか牧さんがこんな時間まで残っているとは…ましてや一緒に帰ることになるとは思いもしなかったからなんだか変な感じだなぁ。

彼氏もいなければ男友達もいない私にとって、男の人と並んで歩くのはどうにもこうにも慣れなくて。あるとするなら健司だけど、まぁ健司は「男友達」の枠には入らないような気がするし…


「ところで、先程から思っていたのだが…」

『…はい。』

「同い年だとわかったのにいつまで互いに敬語を使うのだろうと思って。」

『…あ、確かに…』


思い返せば同学年だと判明こそしたが、同い年なんですか?!エリートすぎませんか?!わぁ、びっくりです…で、年齢に関する会話は終了していたような気がする。一応牧さんは私の上司となる立場だから、敬語はあながち間違いなわけではなさそうなんだけど…でも、上司だということと距離があるということは必ずしも比例しないか。いつまでも他人行儀なわけにはいかない。


「立場とかは関係ないから、あまり深く考えなくていい。」

『あ、はい……いや、うん。』

「うん、そうしてくれ。好きに呼んでくれていい。」

『えぇっと……牧くん、かな。』

「わかった。改めてよろしく、みょうじ。」


偶然にも最寄駅も同じだった為、揃って駅の改札を出た。時折抜け切れない敬語により「牧さん」と呼んでしまう私に牧くんはクスクスと笑ってくれた。見た目はとっても大人っぽいけれど、笑うとなんだか幼く見える気がした。


『そっか、じゃあ、今は一人暮らしなんだね。』

「あぁ。ここらはあまり来たことがないからまた案内してくれると助かるよ。」

『いつでもなんでも聞いてね。』


なんせここは生まれ育った街だからね、と鼻が高くなる私に牧くんは「頼もしい」と笑った。学生時代、縁があって神奈川にいたけれど元々は都内出身らしい。就職にあたり実家へ戻ったがまた縁があり神奈川へ異動となったようで。

学生時代は親戚のお宅に居候していたようだけど、今は一人暮らし。聞けば私の実家とさほど離れていない距離にマンションを借りているようで…


「そういえば、課長のことなんだが…」

『うん、課長がどうかした?』

「あの人の………」


ふと、辺りを見渡す。なんてことない会話の最中。あれっ…と思い左を向けば、ガラスの向こうで何かの作業をしている健司を見つけた。もう健司のお店まで来てたのか…全然気が付かなかった。

今朝もらったバウムクーヘンが頭をよぎる。明日から店に並べると言っていたし今日中に話をしたい気持ちはあるのだけれど…


「…みょうじ、聞いてる?」

『……えっ、あっ、ごっごめん……』


今は牧くんと一緒だから…と彼を見上げたらバッチリと目が合った。よっぽどマヌケな顔をしていたらしい。牧くんは「やっぱ聞いてない」とクスクス笑う。どうしようかと判断がつかずにその場に立ち止まってしまった私。「何かあった?」と今度は少しだけ心配そうに聞いてくる牧くんの声を耳にしながらも体は健司の方へと向いた。

こちらが見つめても、健司が振り向くことはなかった。

牧くんを待たせて、美味しかったことと値段も悪くないことを伝えにいくのも、なんだかなぁ…それなら帰ってから連絡すればいいか。


「どうした?大丈夫か?」

『…うん、ごめん。大丈夫、行こう。』

「おう。」


後で、ちゃんと連絡する。そう心で呟き、一歩また一歩と歩みを進める。今度はちゃんと聞いてくれよと困ったように笑う牧くんはなんだか大人っぽい雰囲気を纏っていて、時折見せる幼さとのギャップが凄いような気がした。笑うってだけでも、こんなにいろんな顔をする人…なんだなぁ…


『えっ、本社にいた頃課長と会ってたんだ…』

「あぁ。理由はわからないが気に入られていたみたいでな…よく飲みに誘われて…それで今回の異動に繋がったのかもしれない。」

『うわぁ…課長と何度も飲むなんて私には無理だね…』

「凄いよな、あの飲みっぷりは…」


私のことをやたらと「エース!」と呼びたがる課長はとんでもない酒豪で有名だ。牧くん、課長に気に入られてたんだ…確かに出張だのなんだので課長はよく本社や都内の支社に足を運んではいたけど…お気の毒すぎる…


「まぁ、またサーフィンも出来るし、嬉しさもあるんだが。」

『サーフィン…?やるの?』

「あぁ、昔からやってる。」


神奈川の湘南地区に生まれた私にとって「海」とは身近なものすぎて言わば空気とあまり大差ないものなのだが。もしかして少しだけ色黒なのって…サーフィンによる日焼けだったり…?


『そうなんだね。じゃあ、波に乗り放題だ。』

「あぁ、休みの度に海に行くかもしれないな。」


そっか、そんなに好きなんだ…いずれ本社に戻るかもしれないけれど、牧くんにとってこの異動は嬉しいものでもあったのかな…といらん事を考える私が口を開こうとした時だった。


「…なまえっ、!」


背後から大声で名前を叫ばれる。耳に届いた瞬間、脳内が瞬時に判断した。見なくてもわかる、声の主。


『健司…?』


振り向くのと彼の名を呼ぶのはほぼ同じタイミングだった気がする。もちろん外すはずもなく、振り返れば駆け足でこちらに寄ってきている緑色のTシャツを着た人物。フワフワと茶色い髪の毛を靡かせて…うん、健司だ。


『どうしたの?』

「いやっ…帰り通る時に…寄ってくれるかと、思ったからよ…」

『あぁ、ごめんね…後で連絡しようと思ってた。』

「いや、いいよ。それより、お疲れ様。」


ゼェゼェとした呼吸を瞬時に整えた健司は私の目の前でニコッと微笑み、「おかえり」と言った。


『ただいま。健司もお疲れ様。』

「おう!……そっ、それで、こちらの方はっ……」


こちらへ駆けて来た時からジッと私だけを見ていた健司がゆっくり、ゆっくりと目線を上へとあげていく。そのスローモーションのような動きを眺めていた私。あぁ、そうだ。牧くんが一緒だから紹介しなきゃ…と思った矢先。目線をあげた健司が一点集中、無表情で固まり何も発しないのだ。


あれ、健司…?と声をかけようとした時だった。


「藤真…だよ、な?」

『…えっ、牧くん、健司と知り合いなの?』


あれっ、偶然…?私の方を見て牧くんが何かを言おうとした瞬間、右腕をグッと掴まれ引き寄せられた。ドカッと何かにぶつかり、それが健司の体だということを理解するのにさほど時間はかからなかった。


『痛ッ…』

「…なんっ、…なんで、牧が…ここにいんの…?」

『…ふたり、知り合い…』

「なんで、牧がなまえと…歩いてんの、?」


距離が近いせいですぐそこから聞こえる健司の声はなんだかやたらと低い気がして。私の腕を掴んだまま、微動だにせずジッと牧くんを見つめている。


「なん、で……?」

「…あ、あぁ…俺、都内から異動になって…」

「い、異動…?」

「みょうじと同じ企画部で働くことになったんだ。」


ギュッと掴まれていた腕に力がこもった。健司を見つめても一向にこっちを向いてくれる気配は無い。少し痛いくらいだ…牧くんから目を逸らさず「どういうことなんだよ」と呟いた。


「なまえと、同じ会社だった、ってこと…?」

「あぁ。支店は違ったがな。」

「……そう、かよ。」


パチッと目が合った牧くんが柔らかく微笑んだ。「藤真とは高校時代のライバルだったんだ」と一言。サラッと出てきた「ライバル」という単語に引っかかっていたもやもやが消えていく。

…あっ、!


『そうだ、牧紳一って…聞いたことあるような気がしてたんだ。』

「…そう、だったのか?」

『うん…!海南大附属の牧くん…だよね?』


私がそう問うと牧くんは「あぁ」と頷いた。続いて彼の口から「二人は…」と聞こえ簡潔に自分達の関係性を示す。


『幼馴染だよ。家が近所でね。』

「そう、だったのか…!」

『すごいね、こんな偶然あるんだね…!』


世界は狭いなぁ…としみじみ考えている私に「送るよ」と声がする。顔を上げてハッとする。そこには私を見下ろす真顔の健司がいた。商店街の街灯がちょうど彼を照らしているからか、健司は息を呑むほどの美しさを纏い私を見つめてくるのだった。


「俺もうすぐ店閉めるから、中で待っててよ。帰り送るし、話したいこともあるから。」

『えっ、えぇっと……』


突然ペラペラと喋る健司と、長年共に過ごしても完全に慣れたわけでは無いその美貌に圧倒され、牧くんと別れて健司に従うべきかどうかを判断がつかず悩み始める私。掴まれた手に再び力が入る。


『えぇっと……』


その時だった。


「健ちゃーん!」

「……!」


大きな大きな声が聞こえ思わずそちらに視線をやる。見れば健司のお店の前でこちらに向かって両手を振っている人物がいた。


「…どうしましたか…?」

「急にお茶菓子必要になっちゃって!まだお店やってるかしら?!」

「あ、えぇっと……」


焦った様子で健司にそう問うのはご近所のおばさまで。健司は一瞬困ったような顔をして私の方を見たが、彼の口からは何か諦めたような口調で「明日でいい」と言葉が漏れた。


「明日、ゆっくり話そう。」

『わ、わかったよ…早く行ってあげて!』

「おう…気をつけて帰れよ。」


ゆっくりと離された腕はまだ熱がこもっているような感覚で。健司は牧くんへ視線をやると「頼んだぞ」と一言残していった。


「おう…藤真、またな。」


牧くんと帰る道中も、掴まれた腕はずっと熱かったような気がした。

















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