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あれは一体、何だったんだろう…
時計を見れば午後七時。授業が終わり、比較的すぐ教室を出て運ばれたと記憶しているから、そう考えるとかなり長い時間眠っていたことになるな…
「汗が、気持ち悪い…」
これでもかってほどベタベタする。あの時点で変な汗が吹き出ていたのに、きっとあの強力な薬の副作用もあるのだろう。一刻も早くシャワーを浴びたい衝動に駆られた。とりあえず今すぐ服を脱ぎたい…
…先生に、報告した方がいいのだろうか。あんな経験は初めてだった。香りに誘われ動悸が激しくなった。自分の体が誰かに操られているような、制御が効かないような…凄く凄く、怖かった。
困ったな…結局何が原因かわからなかったし、またこんなことがあっては…いくらあの薬があるにしても、一日一錠と決められているし、理由もわからないままこうして気を失っていては、ひとたまりもない。周りにも迷惑かけるし…どうしよう…
「…とりあえず、帰ろう…」
『…あっ、!起きました?!』
「…っ、?!」
遠くからバタバタ、と音が聞こえたと思えば、突然ガッと開かれたカーテン。よかった…なんて呟いたのは、髪が肩にかかるほどの長さの女子生徒で、俺と目が合うなりニコッと笑って見せた。
『あの、薬、飲ませちゃったんですけど、大丈夫でしたか…?』
「…くすり、?」
『はい。倒れる前に「くすり、くすり…」って、ポケット漁ってたので…記憶、ないですか…?』
まったくもって覚えていないが、俺、ナイスだったよ…よかった、先生の言う通りしっかり所持しておいて……って……ん……?
「……っ、?!」
『…えっ、どうかしました…?』
また、だ…!
な、んだ、この香り…また、だ…またこの、匂い…うわっ、…ダメだ、意識が朦朧としてくる…なんだ、何が原因でー…
『神先輩っ?!大丈夫ですか?!』
「…っ、!」
この子、だ…
『神先輩?!聞こえてますかっ?!』
この子が、この子が…
俺をこうさせる、原因…
『どうしよ…先生呼んでこなきゃっ…!』
触れたい、壊したい、吸いたい
吸いたい、吸いたい、吸いたい…
めちゃくちゃに、吸いたい…
『ちょっと呼んできますね!ここにいてください!』
ガシッと掴まれて揺さぶられていた俺の肩から彼女の手が離れた。どうしようもなく鼻にまとわりつき、「吸いたい」という吸血欲を駆り立てるこの子が、確実にああなった原因だと思う。爆音で響き渡る心音。ガタガタと手が震えてくる。吸いたい、触れたい、ぶっ壊したい…
本能のままに…その首筋に…
首筋…?
白い首筋…その綺麗で汚れのない肌に、今から自分が噛み付いて、めちゃくちゃに血を吸うのかと思うと腹の奥深くがゾクッとした。感じたことのない高揚感が俺を支配した。噛み跡がついて、真っ赤に傷がついて、痛いだのやめてだの泣かれるのかと思うと、途端に下半身が疼くような感覚がして…
「…待って、」
『…えっ…?!』
離れていく腕を追いかけるようにして掴めば、彼女は不思議そうな顔で俺を見つめた。何か自分にしてほしいことがあるのかと理解したらしく、俺の要望を聞こうと必死に問いかけてる。黙り込む俺を見るなり「また薬飲みますか?」「汗拭きますか?」「気持ち悪いですか?」など、正解が見つかるまで次々と質問が飛び出した。
触れる手に熱がこもるのが自分でもわかった。震える手、汗ばむ手、その全てが彼女に伝わっているのかと思うと、それもまた俺を高揚させるのだ。
『じん、せんぱい…?』
「………」
吸わせて…?
その血、俺にちょうだい
ゾクゾクと全身を震わせるたびに、彼女は俺の顔を覗き込む。「大丈夫ですか?」と必死な姿が次第に近づいていく。
あ、ダメだ…それ以上近づいたら俺は…
俺は、君のこと…
「…っ、はぁっ、はぁっ…」
『こ、呼吸が…!神先輩っ!』
「ハァッ…、ハァッ、……」
この子の香りは、刺激が、強すぎる…
やばい…本当に、襲う、……
『神先輩!しっかりしてくださいっ!』
ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ
「…っ、な、……」
『…え、?!』
「…なまえ、は…?」
『…えっ…、わたし、ですか…?』
「…てことは、そんな危険な状態の中、その子に危害を加えることなく…名前だけ聞いた、と…」
「はい……」
「…それはちょっと、…………驚きだね。」
花形先生はそう言って頬杖をついた。一点を集中して見つめながら「うーん…」と何度も呟く。椅子に座りながらがっくりと項垂れた俺。すっかり落ち着いて心音も正常を取り戻した。
どうしてかはわからない。吸いたい対象が目の前で、そして無防備にも俺の顔を覗き込んだ。血を吸う、なんてことは、あの状態ならあまりにも簡単すぎたはずだ。力の差だって著しい。相手はか弱い女の子だったんだから。それなのに俺ときたら、その限界のところで何故か血が出るほどに拳を握りしめて、痛みに気を紛らわせながら、彼女に名前を問う、なんて、そんなことをしてみせたのだ。
どうしてか…?そんなの知らない。もうあのレベルでは本能のままでしかいられないから。
問題は、彼女が一体何者で、どうしてあそこまで俺を魅了してくるのか…
俺はどうやってあの凄まじい吸血欲の中、本能でしかいられないような自我を見失った場面で、自分のその欲を抑え込むことが出来たのだろうか。
そして、
どうして名前を、聞こうと思ったのか…
「…ひとつひとつ、解決していくよ。」
先生はそう言うと椅子を回転させ俺の方を見た。真っ直ぐに見つめられると、瞬時に何かを見抜かれたような気がしてドキッとした。
「前回は言わなかったけれど、吸血鬼にとって絶対的に” 相性のいい人間 “ってのが存在するんだよ。」
「相性の、いい…?」
「その人の香りに体が反応し、瞬時に吸血欲を掻き立てられる。その対象の血は圧倒的に効き目もいい。栄養価が群を抜いてるんだ。」
「そんなの、知らなかった。」
「まぁ、神にはさほど吸血欲がなかったし、知らなくてもいいことだったから、変に言うべきことじゃないかと思ったんだ。」
「じゃあ、俺にとってのあの子は…」
「そうだね、出会ってしまったね。」
いくら吸血欲が低いとはいえ、身近にその対象がいるとなると話は別だから…と先生は眼鏡の位置を直しながら真剣にそう言った。
「頻繁に顔を合わせるとなると…取り返しのつかないことになりうる可能性が大いにある。けど、気になるのは…神がその膨大な吸血欲を、外的な何かを一切使わず自分自身で抑え込んだ、ってところだよ。」
たしかに…それ、だ。自分の中からこれでもかと沸き上がる吸血欲に勝ったのは、他でもない。俺自身の力…
「…先生、俺…どうしたらいいですか…?」
「うーん…」
「学校…やめたほうがいいですか?」
何が起きているのか、自分はもちろんのこと先生だってわからないんだ。彼女に危害を加えないこのままの状態をいつまで保てるかなんてわからないし、またあの壮絶な吸血欲に自分自身が勝つとも限らない。そもそもあんなに心臓をバクバクさせ、呼吸も荒くして変な汗が吹き出て、しまいには倒れ込むなんて状況を二度と作りたくない。
吸わなかったとはいえ、あの吸血欲は本当に尋常じゃないレベルで俺を苦しめたんだ。
「その子に会わないでいる…それ以外、今のところ対処法はないな。」
「ですよね…どうしよう…」
「とりあえず、一日二回まで飲める制御薬、処方してみるけど…飲める回数が一回増えたところで、だよな。」
その薬は今までのよりも強く、一日に二度飲むことによって副作用も強く出ると先生は言った。俺自身もたかが一度増えたところで…という率直な感想もあるけれど、一度しか飲めない状態よりかは幾分か安心できる気がした。
「ありがとうございます…本当にまずいと思った時は早退するようにします。」
「うん。…それと、神。」
「はい。」
花形先生は俺の名を呼んだ後、動きを止めた。
ピタリと微動だにしない先生。背を向けられている為顔が見えず、俺に見えるのはその大きな背中を包む白衣。しばし黙り込み動きを止めた後、先生はゆっくり俺の方へと振り向いた。
「…せんせい、?」
「…これを、渡しても、いいかな。」
「…なんですか?これ…」
短い針と長い針…腕時計…?と俺が首を傾げれば先生は「うん」と弱々しく呟いた。その妙な様子に俺は瞬時に察する。
これは…
「腕時計型の…」
「そう。腕時計型の心拍計だよ。」