22
「いいから、病院に行くぞ」
「だから、これくらい大したことねえって」
「駄目だ、刺されたんだぞ。ちゃんと治療してもらわねえと菌でも入ったりでもしたら……」
「これくらいの怪我なら自分でなんとかできる」
「なんとかって……」
どれくらいそんなやり取りをしていたことだろうか。
あれから政岡は自分の舎弟を呼んで気絶した能義たちを保健室へとまとめて運び込ませていた。なのに、自分はというと『なんとかなる』の一点張りだ。
政岡の部屋。
保健室も嫌がるので流石に後が怖すぎるだろと口を酸っぱくして言えば、政岡は自室に薬とかがあるから自分で手当するという。助けてもらっておいて怪我人を自分で手当させるなんて真似できない。だからこうして政岡の手当をするために部屋へとやってきたのだが……。
「……信じらんねえ」
最悪散らかってようがそこら辺にエロ本が転がってようが別にそんなの人それぞれだしバイブ転がしてる神楽や、ほったらかしていたら汚部屋にする天才である岩片を知ってる俺は今更大抵のことでは辟易することもないと思っていた。けれどだ。
『薬とかがある』そう言って政岡が持ってきたケースから出てきたのは徳用傷口薬一本だ。つかこれいつのだよ。色がくすんでるように見えるんだが。
「つーか包帯は?ガーゼは?」
「あれ、邪魔だからすぐ剥がして使わねえし……」
「…………」
なんのためのガーゼだ、包帯だ、というツッコミはもう口にするのも馬鹿馬鹿しくて言葉にならなかった。ただ頭が痛い。まさかこいつ本当に傷口にこのいつのかわかんねー謎の沈殿物すら見える薬をじゃぶじゃぶ掛けて放置して治してきたんじゃねえだろうな。
頭を抱えていたときだ。
「あ、包帯あったぞ尾張!」
「それはテーピングテープだっ!」
…………。
それから暫く、傷口を清潔にして取り敢えず政岡の免疫力を信じてあるもので手当をしていく。
脱ぎ散らかした服がそのままになってるベッドの上。大人しくちょこんと腰を下ろした政岡と向かい合うように椅子を持ってきた俺は政岡の額の傷に消毒液をかける。
「……っ、つ……」
「痛むんだろ?ちゃんとしたところで見てもらった方が……」
「っい……ったくねえって言おうとしたんだよ」
どんな誤魔化し方だ。
強がりもここまでくると一層清々しい。思いっきり顔顰めたくせに、手当してる俺だって痛そうだと思うのに何に対して強がってるんだ。
政岡らしいといえば政岡らしいのかもしれないが。
「知らねえからな、どうなっても」
血は止まってるようだが、そろそろ脳内麻薬も薄れて痛みがもろに来る頃だろう。よく見れば、顔もところどころ腫れてるし、それなのに政岡は「こんなの余裕だ」なんて踏ん反り返るのだ。
……本当に、弱音を吐かないやつだ。
「後ろ、背中向けろよ」
「お、おう……!」
政岡は少しだけたじろぐように俺に背中を向ける。そして、上に着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
別に男の肌を見たところで何を感じることもなかったが、政岡の背中を見た瞬間息を呑んだ。
刺し傷や痣もだが、それ以上に背骨から肩甲骨付近にかけて引っ掻くような無数の爪痕があまりにも痛々しかったからだ。
「これ……」
どうしたんだ、とそっと触れたとき、指先の熱に思い出した。あの日、あの夜、覆い被さってくる政岡の下、わけわからずその背中にしがみついたことを。まさか、とじわじわと込み上げてくる熱に、俺は見なかったふりをする。
熱い、触れただけでもわかるほどの政岡の熱とその心臓の音。鋼かなにかのような硬い筋肉に覆われたその体は見てもわかるほど頑丈だ。目立つほどの大怪我はない。刺された箇所は出血が激しかったが、傷自体は浅いようで安堵する。こうしてみると一番痛そうなのが爪痕だったが、敢えて俺はそのことを口にしなかった。
それから、俺たちの間に妙な沈黙が流れる。ソファーの上、胡座を掻く政岡の背中に消毒液をかける。持っていた絆創膏でなんとかできそうな傷は手当していくが、きりがない。大きな怪我はないが、細かい怪我は多かった。
……というか、なんだよこの沈黙。向かい合わずに済んだのが幸いか、やつの裸くらいで狼狽えてる自分が嫌で、俺は咄嗟に口を開いた。
「なあ、どうしてあそこに来たんだよ」
「どうしてって、そりゃ……聞いたからだよ。あいつの舎弟連中が尾張を捕まえたとか話してるの聞いて、それで……後着けたらあのザマだ」
「でも、だからって無謀過ぎんだろ。あの数……普通逃げるだろ、それに……」
それにお前、俺のことムカついたんじゃないのかよ。
少なくとも、政岡からしてみれば俺は騙そうとしてきた相手なわけだ。それに、最初はどうであれ政岡の好意も全部蔑ろにしたのも俺だ。
「……なんだよ」
「それに、俺のこと助ける必要なんてないだろ」
もう、俺達にはそんな小細工なんて必要ないはずだ。
それでもこうして怪我してまで無茶する政岡のことが理解できなかった。……否、理解したくなかったのかもしれない。
「……必要とか、必要じゃねえとかそんなの関係ねえよ」
「やっぱり、政岡って……変だ」
「へ、変だとっ?どこが……」
「……全部。俺が政岡なら、俺のことなんて放ったらかしてさっさと逃げるよ」
そう、返したときだった。いきなり政岡がこちらを振り返った。手首を掴まれ、心臓が大きく跳ねる。
「おい」と、思わず声をあげたとき。抱き締められた。そう気付いたのは背中に回された腕と、温もりに包まれる体に気付いたからだ。
「っ、……おい、政岡……」
「お前は逃げねえだろ」
離せ、と抵抗するより先に聞こえてきたその声に体が硬直した。怒ったような気配すら感じる、真剣な声。
「……俺みたいに勝手に怪我したやつを心配して、手当してくれんだ。……そんなやつの方が、俺からしてみりゃよっぽど変わり者だな」
「……っそれは……」
放っておけないから。俺のせいだから。
……お前だから。
深い意味なんてない、はずなのに。そう指摘されれば何も言い返すことができなかった。
心臓の音が煩い。胸の内側で無数の虫が這い回るような気持ち悪さ、落ち着かなさに全身がぞわぞわした。
顔が熱くなるのがわかったからこそ、俺はあいつの顔を見ることができなかった。
「……いい加減、離れろよ」
いつまでこのままでいるつもりだとやつの胸を押し返せば、政岡も気付いたらしい。気恥ずかしそうに、視線を外した。
「っ、わ、悪い……ありがとな、その……」
「別にいい。借りは返す主義なんでね」
……自分でも、甘いことを言ってると思う。
口も利きたくないと思っていた相手を、こうして手当してやること自体自分でもおかしな状況だと思った。
政岡零児――全部、この男のせいだ。
この男といるだけで、調子狂わされるのだ。
このままここにいるわけにも行かない。
「それじゃ、邪魔したな」と立ち上がろうとすれば、政岡が驚いたような顔をしてこちらを見上げた。
「帰るのか?……危ないんじゃないか?」
「能義はアンタらが見てくれてんだろ?それに――」
……アンタといる方がよっぽど。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
絆されるな、と自分を叱りつける。こいつにされたことを思い出せ。今回は、こいつに借りをつくりたくなかっただけだ。
そう自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返す。
そのまま政岡の部屋を出ていこうとしたときだ。
「何かあったら、すぐ呼べよ」
「……そうならないことを祈るしかないな」
最後の最後まで、政岡は変なやつだった。
何もなかったかのように、というわけではない、あいつ自身意識してるのは丸わかりだ。それでもきっと、政岡は今回のことで俺が許したのだと思ってるに違いない。
俺も、俺だ。……助けてもらったとはいえ、元はといえばこいつらのせいだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は部屋を出た。
やけに体が熱いと思いきや、後頭部、殴られた頭がズキズキと痛みだした。汗まで流れてきたと思えば、指先に血がべっとりとついてるのを見て思わず「げ」と口から漏れた。
昨日の今日で保健室のお世話にはなりたくない。
ぶっ倒れる前に、大人しくしておいたほうがよさそうだ。
ふらつきそうになる体を引きずりながら、俺は自室へと帰った。そしてそのままシャワーを浴びて、汗と血を洗い流し、倒れるようにベッドへと飛び込んだ。
一人になってからどっと疲れがやってきたようだ。俺はそのまま気絶するように眠りについた。
◆ ◆ ◆
次に目が覚めたら変な時間だった。
飯もろくに食わずに寝たせいか、腹がめちゃくちゃ減っている。
「岩片、飯……」
食いに行くか、と口にしながら起き上がったところでこの部屋に自分以外の人間がいないということを思い出した。
「……」
……そうか、あいつとは部屋変わったんだった。
寝過ぎたせいでそのことをすっぽりと忘れてしまっていたようだ。返って虚しくなる。
……アホらし。
ベッドから降りた俺は、そのまま眠気覚ましに顔を洗いに行く。
岩片がいないというだけでここまで静かになるものなのか。寝てるところを叩き起こされることもなければ、散らかることもない。
一人部屋がこんなに快適だとは思わなかった。
濡れた顔をタオルで拭っていると、部屋の扉がノックされる。
咄嗟に携帯の時刻を確認する。もうそろそろ夜中の二十三時になる頃だ。
誰だよ、こんな時間に。この非常識っぷりからしてまともなやつではなさそうだが……。
ふいに岩片の顔が脳裏に浮かび、慌てて思考を振り払った。んなわけがあるか、そう思うのに無視することもできなかった。
念の為だ、念の為。もしかしたら岡部や馬喰の可能性だってある。
「はい」と、渋々扉を開けた瞬間だった。
「元君っ、副かいちょーに虐められてかいちょーに助けられたって本当なのぉ〜?!」
俺は無言で扉を閉めた。
『ちょっとちょっと〜!なんで閉めるの元君〜!』
こんな時間にやってきたのがよりによってお前だからだよ。と言うツッコミすらする気になれなかった。どんどんと扉を叩きながらわざとらしく泣きわめく神楽。このままでは近所迷惑もいいところだ。
クソ、無視しようとしても絶対に粘るだろうしな……。
仕方なく扉を開けば、「元くーん!」っと子犬みたいな顔をした神楽が抱きついて来ようとして、寸でのところで避けた。
「……それ、誰から聞いたんだよ」
「えー?なにが?」
「能義のことだよ」
「うーんとねぇ、俺の後輩?」
なんで疑問形だよ、というツッコミは飲み込み、俺は神楽から距離を取る。
「とにかく、別にもう済んだことだから気にすんなよ。あと近所迷惑だから大声出すなって」
「もーっ、そんなことばっか言っちゃってさ〜〜?怪我は大丈夫なのー?痛いの痛いの飛んでいけーってしてあげよっかぁ?」
「気持ちだけ貰っておく」
「悪いけど、今日疲れてるからまた今度な」また会うつもりなど毛頭もないが、ここはこう言わなければこいつが引き下がらないことはわかっていた。
やたら部屋に上がろうとしてくる神楽をとにかくやんわり追い返そうとするが、この男、やんわりした忠告はまるで効果がない。
「まあまあそんなつれないこと言わないで……あっ、そうだ、俺が添い寝してあげよっか〜?」
もっといらねえよ。
「おい、神楽いい加減に……」
帰れよ。そう、しつこさに痺れを切らしかけた矢先のことだった。
通路の奥から響く硬質な足音。
そして、
「……相手にされねえからってとうとう押し掛けかよ」
鼻につくような上から目線。そして、傲慢さが滲み出るその声。顔を上げた視線の先――そこには、会いたくない男がいた。
「流石モテるやつの行動はスマートだな、色男さんは」
隠す気もない皮肉たっぷりなその言葉に、俺も、神楽も言葉を飲み込んだ。通行人A、もとい岩片凪沙は変わらない余裕綽々な態度でそう冷たく笑うのだ。
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