馬鹿ばっか


 19

 いつの間にかに本格的に眠りこけていたようだ。

「だから、別に何もしねえから」
「とはいえ彼は安静中の身だからねえ、君のような子を会わせたくないんだよ先生としては。分かるでしょう?」
「し、静かにするし……負担も掛けねえ……だから……」

 遠くからぼんやりと聞こえてくる何か揉めてるような声に気付き、次第に意識がはっきりとしていく。
 どうしたのだろうか、と体を起こしてカーテンをそっと捲ろうとすれば、その向こう、よく知った男の姿を見つけて息を飲む。

「政岡……?」

 未来屋と向き合うように立っていたその人物の名前を口にすれば、二人は驚いたようにこちらを振り返る。

「お、尾張……っ」
「尾張君、すみません、起こしてしまいましたか」
「いや、別に大丈夫っす。それよりも……」

 ちらりと政岡をみれば、人の顔を見つめたまま政岡は苦しそうに顔を顰めるのだ。

「尾張……っ、悪かった。痛む、よな……」

 近付いてきては、恐る恐る顔に触れようとして、慌てて手を引っ込める。まるで叱られた犬のようだと思った。
 確かにすげー痛いけど、別にこいつは俺を殴ろうとして殴ったわけではないのだ。むしろこの場合、わざわざこいつに殴られた俺の方がおかしいわけで。

「別に、痛くねえから」
「でも、腫れて……」
「まあ、多少話しにくいけどな」

 ちょっとした仕返しに言い返せば、政岡はまじで気にしてるらしい。「悪い」と項垂れるその声にすら覇気はない。

「おや?もう戻られるのですか?」
「ええ、もう大分休ませてもらったんで流石にこれ以上は……」
「そうですか。私としては別にずっといてくれても構わないのですが……ああ、一応夜の分のガーゼと傷薬渡しておきますね」
「ありがとうございます」
「また足りなくなったりガーゼの貼り方がわからなければいつでもここへ来てくれていいんですからね」

 そう掌をひらひらさせる未来屋に、俺は「どうも」と笑い返した。殴られた頬が引き攣ってクソ痛い。

 というわけで、俺は保健室を後にする。当たり前のように、それでも気にしているのか俺の少し後ろからついてくる政岡は不意に「尾張」と俺を呼ぶ。

「なんだよ」
「荷物、一応……新しい部屋に運んでるから、その……すぐに眠れるようにしてる」
「……そりゃどうも」

 ありがとう、というのもなんだか腑に落ちなくて、冷たい言い方になってしまった。
 こいつもこいつだ、俺のことなんて放っておけばいいのに。誰もそこまでしろなんて言ってないのに。あんなことしておいて、こういう風に世話を焼かれるとどんな顔をすればいいのかわからなくなる。

 学生寮の新しい部屋まで政岡とともに戻ってきた。鍵はやつが持っていたらしい、それを受け取り、俺は政岡から逃げるように部屋に入った。
 ……つくづく不毛だ。こんなままごとみたいな真似して、あいつも楽しくないだろう。寧ろそろそろ俺に頭来てくれた方がいいのに。

「……あほらし」

 それから、俺はまとめたままになってた服をクローゼットに突っ込んだり部屋を片付けることにした。
 政岡のやつ、変なもの仕込んでないかと思ったが、岩片とは違うらしい。怪しげなものが増えてたり、逆に減ったりなんてことはなかった。
 本当に、ただ俺の代わりに荷物を運んでくれたというのか。
 その代わり、折りたたみ式のベッドはすぐに寝られるようにベッドメイキングまでしてあるのがなんだかおかしくて、その気遣いが余計俺の首を締めるのだ。


 部屋の片付けを終わらせ、ベッドに飛び込む。
 今日ほど一人部屋になってよかったと思う日があっただろうか。いつあいつが帰ってくるかも気にしなくてもいいし、好き勝手できる。けど、あいつはどうだろうか。
 俺がいなくなったらきっとすぐに散らかるだろう。そもそも、あのごちゃごちゃしたきたねー部屋から私物を持ち出すのだけでも時間がかかるはずだ。
 前回俺が運び込むのに頑張ったんだからな、少しは俺のありがたみってものを感じればいい。
 そんなことを思いながら天井をぼけっと見上げていると、不意に腹が鳴る。
 ……ああ、そういや昼飯、食ってなかったんだっけ。
 バタバタしてて忘れていた。時計を夜飯にはまだ少し早い時間だが……まあいいや、少し、飯食いに行くか。
 気怠い体を起こし、軽く伸びをする。食堂で食う気分じゃないから、売店で適当な飯買って帰るか。なんて考えながら鍵を手にして部屋を出た。
 そしてそのまま扉の施錠をしようとしたとき、丁度隣の部屋の扉が開いた。
 何気なく目を向けた俺は、そのまま固まる。

「えっ、あれれえ?……元君?どーしてここにいるのぉ?」

 それは、向こうも同じだった。
 どうやら丁度今部屋に戻ってきたらしい神楽は、俺の顔を見るなり驚いたように目を丸くする。
 それは、こちらのセリフだ……と思ったが、普通に考えて神楽がいるのは当たり前だ。というか隣だったのか。
 ……つくづくツイていない。

「ガタガタうるせーって思ったら……待って待って、何してんの?引っ越し?お隣さんなの?っていうかその怪我どうしたの?!」

 目をキラキラさせ食いついてくる神楽に、俺は正直対応を決め兼ねていた。
 あんな、喧嘩別れというか面倒な別れ方をしたにも関わらず以前と変わらなぬ調子の神楽に、俺は渋々「まあ、色々あって」と答えることにした。

「……前の部屋の天井が壊れたから、修理するまでの間ここで過ごすようにってさ」
「でもでも、それじゃあもじゃも……?」

 もじゃもじゃ……岩片のことか。
 このフロアに引っ越しという点となるとそういうことになる。頷き返せば、神楽は露骨に嫌そうな顔をした。

「ええ〜〜ッ!!最悪なんですけどぉー。けどけどっ、元君がいるのは嬉しいなぁー」

「てか、荷物運ぶの面倒でしょ〜?そんなら俺の部屋に来てくれたって全然よかったのにねえ」ねーっと同意を求めてくる神楽はあまりにも自然な動作で距離を詰めてくる。なんとなく、やばい、と思い後退れば伸びてきた手は俺の手を取るのだ。 

「っ、おい、神楽……っ」
「謙遜してるー?それとも、照れてるの?でも、非処女なんだからもう気にすることないでしょ〜?」

 するりと絡められる指先は指の谷の間を撫でるのだ。
 寒気が走り、咄嗟に手を振り払おうと腕に力を入れるが、それよりも早く神楽に手を握り締められた。恋人つなぎ。
 挙げ句の果て。

「……二本も咥え込んだクソビッチちゃんのくせに」

 底冷えするような、聞いたことのないその冷たい声。鼓膜に直接囁きかけられ全身が凍り付く。咄嗟に身じろぐが、それよりも早く腰を抱かれ、鈍い痛みに堪らず顔が歪む。

「っ、やめろ」
「やだなぁ〜、本気で嫌がってるじゃん?……傷つくなぁ。副かいちょーと書記はいいのに?」
「良くねえよ、お前も、あいつらも……ッ!」
「本当に?」

 股の間に差し込まれる膝小僧。下腹部を柔らかく押し潰され、冷たい汗が流れる。やめろ、と神楽の薄い胸板を押し返そうとするのに、俺が力が入っていないのか、それともこいつが馬鹿力なのか、びくともしない。

「っ、ふざ、けるな……いい加減にしろ……っ!」
「岩片凪沙とかいちょーは知ってるの?」
「……は?」
「だからぁ、生徒会室で3Pしてましたって」

 神楽の言葉に、思考が停止する。この男が何を言ってるのか微塵も理解できなかった、理解したくなかった。思考拒否。そんなもの、言うわけないし知られるわけがない。……あの二人が黙ってたらの話だが。

「あ、言ってないんだ」

 にやりと笑う神楽の笑顔に背筋が凍る。違う、と喉先まででかかって、唇をふに、と指先で抑えられた。息を呑む。

「ハジメ君は口よりも目のが正直者だよねえ、言わないでくれって目、してるよぉ」
「……神楽……っ」
「大丈夫大丈夫、言わないよぉ。だって俺、元君のこと好きだもん。優しくてかっこよくて」
「……何が言いたいんだよ」
「嘘、わかってるくせに」

 は、と聞き返すよりも先に、ネクタイを思いっきり引っ張られ、ぎょっとする。やつの腹立つニヤケ面が近付き、唇が触れそうになる寸前、咄嗟にやつの口元を手のひらで覆えば、神楽はにっと笑う。

「あ、キスはダメなんだ?」
「良いわけねえだろ……っ」
「じゃあエッチは?」

 まるで何でもないことのように口にする神楽に一瞬、反応が遅れた。不快値というのが可視化されるようになっていたのなら俺の不快値は限界突破してるに違いないだろう。
 会話するのもバカバカしくなって、俺は振り払うように神楽を押し退ける。

「人を馬鹿にするのも大概にしろ」
「馬鹿にしてないよ〜〜?けど、一番最初に元君に目ぇ付けたの俺なのにねえ、こんなのおかしくない?」
「おかしいのはお前の頭だろ」
「うえーん、ショックだなぁ。元君俺に冷たいよねえ?冷たくない?傷ついちゃうな〜俺」
「……悪いけど、そういうことなら他のやつらに付き合ってもらったらどうだ?」

 真に受けるのもバカバカしい。ここの奴らはそればっかりだ、他に考えることとかないのか。
 付き合ってられるか、と「じゃあな」とその場を後にしようとしたときだった。
 踵を返したその先でなにかにぶつかった。壁かと思ったが、違う。

「……おい、人の部屋の前で騒いでんじゃねえよ」

 内臓の裏側を擽るような低い声。俺はつい最近もこの声を至近距離で聞いていた。
 顔を上げれば、そこには五十嵐がいた。その細められた目は俺ではなく、俺の背後にいた神楽に向けられていて、背後からは「げっ」と神楽の心底嫌そうな鳴き声が聞こえてくる。
 救世主、なのか。なんだか余計ややこしくなりそうな気もしないでもないが……一まずは助かった。と、思いたいが前回が前回だ。俺は慌てて五十嵐から離れようとしたが、腕を掴まれてしまう。

「な……」
「……おい、コイツになんか用か?」
「なに?セックスしただけでも〜彼氏面してんの?さっすが書記、キモーイ」
「してねえよ、目腐ってんのか」
「じゃあ元君返してよ。俺、今元君を口説いてる途中なんだからお前いると邪魔なんだよね〜!」
「…………」

 ちらりと五十嵐の目がこちらを見る。行くか?とでも言うかのような目だ、行くわけねえだろと全力で首を横に振り×のジェスチャーをすれば、五十嵐は面倒臭そうに溜息を吐いた。

「コイツのことならもう諦めろ」
「何ソレ、どーゆーこと?」
「コイツはもうお手付きだ」
「それって……」
「直接政岡たちに聞けばいい」

 それだけを言うなり、五十嵐は俺の肩を掴んで歩き出す。待て、なんで俺までと思ったが、もしかして神楽が付き纏ってくることを心配してついてきてくれるのか。なんて、最早希望でしかない思考が過った。
 ……ここは五十嵐に合わせておくか。
 五十嵐のことを苦手らしい神楽から逃げるにはもってこいだ。……というわけで、五十嵐が行く先へとのこのこついていった俺だったが、背後、神楽が追いかけてきてないことに気付き、咄嗟に足を止めた。

「い、五十嵐……」
「なんだ」
「もう、ここまでで大丈夫だ……神楽、来てねえし」
「……」

 ありがとな、なんて言おうとしたが、それでも尚立ち止まろうとしない五十嵐にぎょっとする。

「お、おい……?!」
「アイツのことだ、隠れてお前が一人になった隙狙ってくるぞ」
「え……」

 五十嵐がくいっと顎で示す方を向ければ、確かによく見ると靴先がはみ出ている。隠れてる気あるのかあいつは。

「……いいから、着いてこい」

 そう、とある部屋の前で立ち止まった五十嵐は鍵を開けた。そして、入れよ、と目で促され、俺は一瞬立ち止まる。
 いいのか、こいつのことを信じても。つか、この前こいつは能義と一緒に俺にあんなことしたやつなんだぞ、いいのか。今更になってなんか自分が選択肢を間違ったような気がしてならないが、ここで気付いたところで遅かった。
 腕を掴む手のひらは、俺の意志なんか関係なく「早く入れ」と部屋の中へと引き摺り込むのだ。
 罪悪、逃げればいい。それに、神楽を撒くためだ。俺はこいつを許したわけではない。頭の中で色々言い訳を並べながら、俺は誰に向かって言い訳しているのだろうかとアホくさくなった。
 背後、扉が閉まる音を聞きながら、俺は五十嵐の部屋に踏み入れた。

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