18
唇は、すぐに離れた。キスというよりも、唇と唇がただ触れ合うような接触にも関わらず、唇の感触は残ったままで。
「な、に……してんだよ……っ」
声が情けなく震えようが、頬が痛かろうが、どうでも良かった。目の前の黒まりも瓶底眼鏡野郎を睨めば、やつは、何も言わない。
「な、んなの、まじでお前……ッなんで……なにが、したいんだよ……っ」
たかがキス一つ、唇と唇がぶつかっただけだ。流せばいいと頭で思ってても、真っ白になった頭では何も考えられなくて。咄嗟にベッドから降りようとすれば、岩片に手を掴まれた。焼けるほど熱い手のひらの感触に、あの夜のことを思い出す。
けれど、あのときとはまるで状況が違う。
まばゆいほどの白い部屋の中、あのときとは違い、あいつの表情は見えるのだ。
――あいつは、困惑していた。言葉に詰まり、何かを言いかけようとしては、言葉の代わりに俺の手を握り締める。
「っ、い、わかた」
「……まだ、わかんねえの?」
「……っ、なにが……」
「俺が、何をしようとしてるのか……わかんねえの、お前」
失望とも違う、まるで未知の生物を前にしたかのような岩片の反応だった。なんでそんな顔をされるのかわからなかった。というか、何故俺がおかしいみたいな扱いを受けなきゃいけないのか。
「わかるわけねえだろ、お前のことなんて……っ、」
「……っ本当に?」
「だから、意味、わかんね……っ」
わかんねえから、と言い掛けて、岩片の指が、掌を重ねるように絡みついてくる。息を飲んだ。顔を上げればすぐ目の前には岩片の顔があって、先程のキスを思い出し、咄嗟に押し退けようとすれば、伸ばした手すらも取られた。
両手をやつによりベッドに押し付けられる。振り払おうと思えばできたのかもしれない。けれど、できなかった。
「ハジメ」
名前を呼ばれれば、条件反射で体が反応してしまうのだ。顔を逸したいのに、こちらを真正面から覗き込むその目から逸らせなくて。
「……ハジメ」
心臓の音が膨れ上がる。耳のすぐ裏側から聞こえてくるその心音に、全身が恐ろしいほど熱を帯びる。
なんだよ、と言いたいのに、その先を聞くのが怖くて、それなのに、言葉が出ない。
時間が停まったかのような感覚だった。
握り締められた手から岩片の鼓動が流れ込んでくるようで、もしかしたら俺の心臓の音かもしれない。もう、わけがわからなかった。
「俺は――……」
「尾張君!大丈夫ですか!」
「……っ!!」
開くカーテン、現れた真っ青な岡部に俺は咄嗟に目の前の岩片を押し退けた。
「あ、す、すみません……岩片君も一緒だったんですね……あ、も、もしかして僕お邪魔しましたか……?」
「い、いや、大丈夫だ、大丈夫だから全然。お、俺は……大丈夫だ、まじで全然平気だから……」
危ねえ、心臓の音がバクバクと響く。なんとかギリギリ誤魔化せたが、思いっきり突き飛ばしたせいで眼鏡が飛んでいってしまったらしい。無言で眼鏡を掛け直す岩片だが、明らかに怒ってるのがわかった。
「あ、あの……岩片君……?」
「便所」
「あ、はい……便所ですね、いってらっしゃい」
そのままカーテンの外へと出ていく岩片に、俺は心底ほっとした。それにしても、助かった。
岩片に掴まれた手首はまだ熱い。トクトクと脈を打つ心臓を必死に落ち着かせながら、俺は岡部に「心配かけたな」と謝罪する。
「いえ、僕の方こそもっと早く止めるべきでした……会長も、すごい心配してるみたいでしたよ、可哀想なくらい落ち込んでて……」
「そうだ、あいつは……」
「一旦尾張君の荷物を新しい部屋まで届けると言ってました。……それからは詳しく聞いてないですけど……それにしても、痛そうですね」
「……まあ、少しな。けど、死ぬほどじゃねーから、本当」
「そうですか……」
そう、安堵するように頬を緩める岡部。
だがそれも束の間、岩片が出ていったカーテンの外にちらりと目を向け、声をひそめる。
「あの……すみません、岩片君のあの反応……やっぱり邪魔しましたよね」
「や、寧ろ岡部が来てくれて助かったっつーか……気にすんなよ、あいつはいつもああだから」
ああ、っつーか自分勝手っつーか。
そうですかね……とやっぱり不安そうな岡部だが、俺の言葉を聞いて幾分かは安心したようだ。
「そういや、岡部たちも聞いたのか……部屋のこと」
「はい、宮藤先生と寮で会って話を聞いたんです。それで僕も手伝わせてもらおうかと思ったら丁度尾張君たちがいて……」
それで、あの最悪なタイミングか。本当にたまたまだったんだな。なんて間の悪さだ。
「というか、その……なんか、意外でした」
「なにが?」
「会長って、もっと怖そうな人と思ったんですけどこう人の手伝いとかするんですね」
さらりとそんなこと言う岡部に少しだけ笑いそうになってしまった、確かにあの男の見た目からしてそんなタイプには見えないだろうが、最初俺も意外だと思った。自分の後輩とかは結構可愛がるし、気遣いとかもするタイプなのだ。……だからこそ、現状のあいつとの関係は余計おかしなものだと思う。
「……尾張君?傷、痛むんですか?」
「いや、大丈夫だ。……それよりも、岡部、お前も疲れたんじゃないか。……昨日からあいつに付き合わされてたんだろ」
「まあ、徹夜にはなれてるので……って、あれ、僕、その話しましたっけ?」
「あー……いや、聞いたんだ」
五条に、というのは黙っていた。
五条のことをよく思っていない岡部がまさか五条に嗅ぎ回られてると知れば怒髪天突くことになりそうだからだ、障らぬ神に祟りなしとは言ったものだ。
「……あいつ、大丈夫だったか?なんか迷惑とか……掛けてないか?」
沈黙がいやで、咄嗟に話題を投げかけるがなんだか余計なことを聞いた気がしてならない。というか、俺はなんの心配をしてるんだ。あいつのことなんてどうだっていいと思うのに、母親みたいな心配をしてしまう自分に呆れてしまう。
「……はは、お母さんみたいですね、尾張君、大丈夫ですよ、僕の方こそ岩片君にはいい練習相手になってもらってますから」
「れ……練習?」
「はい、今度ゲームのオンライン大会の予選があるんです。なのでそれの」
……なんだ、ゲームか。
紛らわしい言い方をする岡部にぎょっとするが、すぐに安堵する。……いや、何をホッとしてるんだ。別にあいつがどこで何をしようとどうでもいいと決めたばかりではないか。そう思うのに、妙に落ち着かない。
「……それにしても岩片君、トイレにしては長いですね」
「多分あいつならもう部屋に戻ってるぞ」
「え」
「岩片の常套句なんだよ、都合悪くなったらトイレっつってそのままバックレるの」
「そ、そうなんですか……?」
「悪いな、先に言っておくべきだったわ。……俺のことは気にしないで追いかけてもいいんだぞ」
「いえ、大丈夫ですよ。きっと、岩片君も一人になりたかったのかもしれませんし……それに、尾張君のことが心配だったのも事実ですから」
なんか、こう、ストレートに優しくされるとじわりと熱くなるものがあるな。いいやつだな、岡部は。だからこそあの岩片と付き合えるのかもしれない。
「けど、せっかくのお休みのところ長居するのも申し訳ないので僕も失礼させてもらいますね。……また教室で」
「ああ。……ありがとな」
岡部は控えめに会釈だけして、そのままカーテンの外へと出た。
ようやく一人になって俺はそのままベッドに横になった。くそ、顔が痛い。せっかく休めるのだ、少しだけ眠るか。
昨日今日で疲弊しきった体を労るため、俺はそのまま目を瞑る。
瞼裏に蘇るのは、何かを言いかけようとした岩片だった。
……何を言おうとしたのかなんて、知らなくてもいい。聞きたくない。自分でもなにを恐れてるのかわからなかった。
これ以上、何を恐れる必要があるのだと。
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