馬鹿ばっか


 17

 ずっと部屋に戻ってこなかったくせに、なんでこんなタイミングで戻ってくるんだよ。

「なんだ、わざわざ雑用雇ったのかお前。流石、オヒメサマだな」

 岩片の声を久し振りに聞いたような気がする。
 いつもと変わらない偉そうな態度、口調なのに、その言葉の端々から感じるその棘に気づかない程俺も愚かではない。
 岩片が怒ってるのがわかった。俺に対して、なのだろう。あんな別れ方をしたあとだ、岩片からしてみればあんなこと言っておいて他の野郎を部屋に連れ込んでるように映ってるのかもしれない。そう思うと屈辱で、咄嗟に言い返そうとしたとき。俺と岩片の間、そこに、政岡が割って入る。

「……俺が手伝うって言ったんだよ、テメェには関係ねえだろクソモジャ」

 庇ってほしいなんて一言も言っていないのに、岩片に突っ掛かる政岡に頭が痛くなる。火に油を注ぐとはまさにこのことだろう。
 部外者の存在に目を向けた岩片は、その唇に嫌な笑みを浮かべる。そして、

「……俺はお前に話しかけてねえんだわ。……ハジメ、お前自分で答えることもできないほど甘やかされてんのか?」

 やつから外れた視線はすっと俺を捉えた。レンズ越し、細められた冷たいその目に見据えられ、息が詰まりそうになる。それを誤魔化すように、咄嗟に笑った。きっと、引きつった笑顔になっただろう。それでも、狼狽えてると思われることが何よりも嫌だった。

「……なんだ。お前、俺に答えてほしかったのかよ」
「い、岩片君っ、尾張君も……落ち着いて……!」
「安心しろ、岡部。俺らの用事はもう終わったから……あとはゆっくりしてけよ」

「行こうぜ」と、咄嗟に政岡の肩を叩く。
 相手にするだけこの男は厄介だ。それをずっと近い位置から見てた俺は知ってる。だからか、納得いかなそうな政岡だったが渋々俺に従ってくれた。
 荷物を抱える政岡、その後を追い掛けようと、扉を通り抜けて岩片たちの前を通り過ぎようとしたときだった。
 擦れ違いざま、腕を掴まれる。

「っ、な」

 何事かと思い、顔をあげれば鼻先がぶつかるほどの至近距離。首筋に近付いたやつの鼻がすん、と鳴った。そして、

「臭えな」

「安っぽい香水の匂いがする。……お前、そいつと寝たのか」全身から血の気が引いた。
 笑みの消えたやつの口から出たその言葉は、俺にしか聞こえない声量だった。

「……ッ離せ!」

 近くにいた岡部には聞こえなかったのが幸いだ。その手を振り払おうとすれば、青褪めた岡部が「あわ、あわわ」と右往左往してるのが見えた。それでも、腕を掴むやつの手は離れない。それどころか、ぐっと引き寄せられそうになり、既のところで堪えた。軋む関節、クソほど痛いが、それでも意地でもされるがままにはなりたくなかった。

「だったら、なんだよ。……お前には関係ないだろ」
「ある」
「ねえよ……っ」
「あるだろ。だって、お前は俺の――……」

 岩片が何かを言い掛けたときだった。

「……っ、いい加減にしろ、コイツに絡んでんじゃねえぞ!」

 政岡が、岩片の胸倉を掴む。拍子に岩片の手は俺から離れ、俺を向いていた目は目の前の政岡に向けられる。そして、やつの唇が冷たく歪む。見覚えのある、嫌な笑みだ。ろくなことを考えていないときの、笑み。

「一回寝たくらいで彼氏面かよ、相変わらずおめでたいやつだな。言っとくけどそいつ、俺が言えば誰とでも寝るぞ」
「……テメェ……ッ!」

 俺が反応するよりも先に、政岡が動いた。
 政岡が、握り締めたその硬い拳を岩片の顔面に向かって叩き込もうとした瞬間、気が付けば体が勝手に動いていた。
 無意識だった。肉が潰れ、骨と骨がぶつかるような音ともに脳味噌が、視界が、大きく揺れた。それから左耳から音が聞こえなくなる。
 白ばむ視界の中、青褪めた政岡の顔が映っていた。

「尾張君ッ!!」

 右耳から聞こえてくる、岡部の悲鳴にも似た声が頭に響いた。やべえ、今のは、久しぶりに来たわ。膝が震え、それでもあの馬鹿みてーなクソ重いパンチで踏み止まった自分を褒めたいくらいだ。
 つか、なんで、俺殴られてんだ。

「……っ、おわり」

 癖というのは恐ろしいものだ。色を失ったような政岡に、俺自身も狼狽えていた。どろりと鼻から溢れる血に、口の中に広がる鉄の味。

「お、尾張君!!……血が……!!」
「悪い、尾張、俺……っ!」

 駆け寄る岡部と政岡。そして、政岡が俺の頬に触れようとしたときだった。

「コイツに触るな」

 聞いたことのないような、ゾッとするほど冷たい声だった。政岡の手を振り払った岩片に、何を考えてるのかと振り返ろうとした矢先。足が地から離れた。正確には、岩片に抱き抱えられたのだと気付くのにそう、時間は要いなかった。

「っ、おい……岩片……ッ!」

 顔をあげればすぐそこには瓶底眼鏡、薄っすらと透けたやつの目と視線がぶつかる。つか、細っこい体でやすやすと人を抱き上げるこいつにも驚いたし、なによりも、何を考えてるのか全く読めない。降ろせ、とバタつくが、腰と膝の裏に回された腕はがっしりと俺を抱き抱えて離れない。

「悪いな岡部、お前は部屋に戻っていいから」
「おい、待て!そいつをどこへ連れて行くつもりだ……っ!」

 突然のことに政岡も動揺してるらしい、咄嗟に人を抱き抱えたまま部屋を出ようとする岩片を呼び止める政岡に、視線だけを向けた岩片は冷たく言い放った。

「お前がいないところ」

 ◆ ◆ ◆

「な、にしてんだよ、本当っ、お前……っ!」
「あの殴られ方、後から酷くなるぞ。だからさっさと見てもらう方がいいだろ」
「っ、そうじゃなくて、いい加減降ろせよっ」
「降ろしたら逃げるだろ」
「……ッ」
「いいから大人しくしてろ。それとも、騒いで誰かに見られたいのか?だったら好きなだけワーギャー言ってろ、止めねえから」

 こいつ、本当に勝手なやつだ。
 わかっていたはずなのに、それでも、しっかりと抱き締められる腕は本当に俺を離そうとしない。振動も少なくて、うっかり落ちそうになることもないその安定感が嫌だった。わざわざ人気のない廊下を選んで保健室までやってきた岩片は、俺を抱えたまま保健室に入ろうとしたので咄嗟に「ここから先は大丈夫だ」と胸を叩けば渋々降ろしてくれた。けれど、手は掴まれたままだ。
 扉を開けば、見覚えのある怪しげな養護教諭の男が目を丸くした。

「おや、これはこれは珍しいお客様だ。……っと、その顔は……」

 養護教諭の未来屋は、俺の顔を見るなり目を細めた。
 そんなに酷い顔をしてるのだろうか、鼻血は止まったが、確かに頬は熱を持ち始めて焼けるように熱い。

「センセー、こいつの顔見てやって」
「……おいたわしや。どこの誰に殴られたんですか、せっかくの男前にさらに磨きがかかってるじゃありませんか」
「猿山のボス猿から俺を庇って下手な殴られ方したんだよ」
「……別に大したことないって言ってんですけどね、コイツが勝手に大袈裟にして」
「おや、大袈裟ではないですよ。取り敢えず、腰を降ろしてください。ベッドでいいですよ、鼻血は……止まってるみたいですね」

 言われるがまま、一番近くのベッドに座らされる。横になってもいいですよと未来屋に促されたが、断った。岩片の前で横になりたくなかったからだ。

「吐き気は?」
「……ないっす」
「目眩もですか?……私の手は正常に見えますか?ぶれて見えたりはしてないでしょうか」
「一本すね」
「口を開けれますか?」
「あ」
「噛み合わせに違和感は?」
「……ん、ちょっともごつくくらいで……けど、これくらいなら大丈夫っす」
「……骨は折れてないみたいですが、念の為処置しておきましょうか」
「……っす」

 未来屋が養護教諭らしく見えたのは初めてかもしれない。はんてぼんやり思いながら、一旦ベッドから離れる未来屋を目線で負う。
 岩片はベッドの側に椅子を置き、そこに腰を掛けた。
 一発殴られただけで大袈裟な、と思うが、確かに頭に血が上ったときはそんな感じなかったのに段々痛くなってきたのも事実だ。下手したら全部持ってかれそうなパンチだった、思い出しただけで、手が震える。
 なんで、俺は政岡の前に出てしまったのか。我ながら馬鹿なことをしたと思う。岩片なんか、一発くらい政岡に殴られろと思うのに。
 未来屋はすぐに戻ってきた。それから、テキパキと応急処置を受けることになるのだが……。

「……先生、大袈裟すぎません、これ」
「多少大袈裟にしてた方がいいんですよ、貴方を殴った相手に罪悪感を植え付けてやるためにも」
「流石センセー、いい性格してるね」

 いつの間に仲良くなってんだ、というツッコミをする気にもなれなかった。
 塗るタイプの湿布を傷口の周辺、腫れた頬に塗られ、擦れた傷にバイキンが入らないためのガーゼで覆われる。ヒリヒリして痛いが、剥き出しにしてるよりかは確かにましだろう。

「取り敢えず、今は大丈夫でも目眩や吐き気があとから出てくる場合もあります。この時間は安静にしてた方がいいと思いますよ」

 そういう未来屋に言われれば従うしかない。
「それじゃあ自分は仕事に戻りますのでまた何かあればすぐに呼んでくださいね」とだけ言い残し、カーテンを締め切る未来屋。
 真っ白な天井に真っ白なカーテン、真っ白なベッドとシーツ。それから、真っ黒なまりも。

「……なんでお前まで居るんだよ」

 当たり前のように椅子に腰をかけたままの岩片を睨めば、やつは表情を一つも変えずにこちらを見るのだ。

「お前、俺がいなかったらすぐ帰るつもりだろ」
「……別にこれくらい大したことない」
「なんでそう言い切れるんだ?」
「自分の体のことは俺がよくわかるからだよ」
「なら尚更信用ねえな」

 溜息混じり、足を組み直す岩片に思わずカチンとくる。

「お前は自分のことすら全然理解できねえだろ、そんなやつの言うことなんて宛にもなんねーわ」
「このやろ……ッ痛ぅ……」
「下手に動くなって言われただろ。つか、あんま喋るな、口ん中も腫れてるだろ、お前」

 ……岩片の言う通りだった。
 殴られた拍子に血の味がしたのは覚えてるが、どうやら頬の内側の肉が歯にぶつかって切れてしまったらしい。頬の表面と裏側、両方が熱を持ち始めた今、こうして話す度に痛みが顔面の左半分に走る。
 あまりの痛みからか、次第に感覚すら麻痺し、違和感があった。
 悔しかったし、なにより、恥ずかしかった。
 あんなに会いたくなかったやつを助けてしまって、おまけに、こんな風に看病されることが。
 それでいて、こいつはいつもと変わらない。それどころか、いつもよりも冷静で、より自分が一人でテンパってはから回ってる気がしてならなくて。

「…………笑いてえなら笑えよ」
「あ?」
「どうせ、俺がお前の言うこと聞かなかったからこうなるんだって思ってんだろ」
「……ああ、よく分かってんじゃねえか」
「っ、なら……」

 と、顔をあげようとしたとき、ベッドが軋む。視界が陰る。鼻先同士がぶつかりそうな至近距離、椅子から立ち上がった岩片がすぐそこにいて、思わず俺は呼吸をすることを忘れていた。

「笑えねぇよ」

「つうか、俺以外のやつに簡単に傷付けられてんじゃねえ」少しでも動けばキスしてしまいそうな距離だった。それでも、覗き込んでくるやつの目から視線が逸らせなかった。殴られた頬が更に熱を帯びる。

「……意味、わかんねえ」

 辛うじて喉の奥から絞り出した声は、みっともなく震えてしまった。ああ、意味なんて理解できるものか。この男はいつだってそうだ、俺の気持ちなんて理解しようともせず、自分が満たされることしか考えてないやつなのだから。理解できるはずなんて、ない。そう、やつを引き離そうとしたとき、「だろうな」とやつは見たことのない顔で笑った。
 まるで、可哀想なものでも見るかのようなその目に思考すらも奪われた瞬間、視界が黒で塗り潰される。
 唇に押し当てられる熱。
 世界からこのベッドだけが隔離されたかのように、全ての音が遠くなった。

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