16
一度部屋に戻るつもりだった。
けれど、政岡が着いてくるとなると少し気が進まない。
どうしても、嫌でも昨夜のことを意識せずにはいられなかったから余計。
けれど、部屋の引っ越しの件もある。こいつには部屋の外で待っててもらおう。それなら……まだましか。それに、少なくとも今やつに俺をどうこうする気はないように見えたのも事実だ。いつも通り……いや、昨夜の政岡が異常だったのか。
「おお、いたいた尾張」
学生寮、自室前通路。
考え事していると、不意に前方から見覚えのあるスーツのホスト……もとい宮藤がこちらへ向かって歩いてくる。
「……と、政岡も一緒か。珍しい組み合わせだな」
なんて、笑う宮藤だがなんとなく政岡を見るその表情は硬い。問題児代表みたいなやつだから教師側からしてみればなるべく避けたい相手なのかもしれない。というか、珍しいのか、宮藤からしてみたら。
「マサミちゃん……どうした?」
「ああ……部屋の件だが、丁度空いてた部屋があったからそっちに手配してるぞっていうのを伝えにきた。けど、空いてる部屋が丁度一人部屋しかなくてな……」
「一人部屋、って」
「ああ、そうだな。基本役職持ち専用の階になるんだが……」
「…………」
ちらりと政岡の方を見れば、やつは険しい顔をして宮藤の話を聞いていた。……神楽の部屋には一度行ったことあるが、あのフロアになるってことだよな。
そうなると、こいつとも同じ階になるのか。そう考えると、冷たい汗が背筋に流れる。
「大丈夫そうか?」
「俺は別に寝れればどこでもいいよ」
「そうか?なら良かった、あくまで天井の修理終わるまでの予定だが……元々うちの寮ボロだからな。補強やらなんやらも考えたら多分結構かかるかもしれねえから覚悟しろよ」
「りょーかい」
全然良くないが、今の岩片と同じ部屋のままでいるよりかは一人部屋の方が遥かにましだ。
問題点がないとなれば嘘になるが、それしかないのなら仕方ない。
俺の返事に宮藤はほっとしたような様子だった。
「ああ……それと、お前が移る予定の部屋、一応清掃してもらったんだが結構荒れててな。……まあ言うより見た方が早いな」
案内しよう、と宮藤は歩き出した。
分かってはいたが、どうやら政岡も着いてくるつもりのようだ。黙って俺の後ろから着いてくる政岡が気になって仕方ないが、宮藤もいるだけましだ。
学生寮上層階。
「ここだ」
そうとある部屋の扉の前に立ち止まった宮藤は持っていた鍵で扉を開いた。そのまま中を覗いた俺は、まず鼻を覆った。前の部屋では白かった天井がヤニで焼けて黄ばんでいる。つか、タバコ臭え。
「……うっわ……」
「ここが尾張の部屋になる。……匂いに関しては、まあ、俺もずっと消臭剤と換気繰り返してなんとかマシになった方だ。ほら、お前にもやっとくなこれ」
そう、消臭スプレーの入った袋を渡してくる宮藤。
「どうも」と中を覗けば新品含めて結構あるなこれ……。
確かにタバコ臭さは気になったが死ぬほど苦手というわけではない、というかそれ以前にここは確か学生寮のはずなんだけどな。宮藤のためにも二十歳以上の留年したセンパイが使ってた部屋と脳内補完しておくか。
「もう今日からここ使っていいから。ほら、これはこの部屋の鍵な」
「どうも」
先程宮藤が使っていた鍵を受け取る。
それを落とさないように俺はすぐにポケットに突っ込んだ。
「荷物は……まあ、政岡がいるんなら手伝ってもらえよ」
「別にそんなこと……」
「アンタに言われなくてもそのつもりだ」
ようやく口を挟んできたと思ったらこれだ。
何故だか不機嫌になってる政岡にぎょっとしたが、宮藤は「それなら良かったな」とへらりと笑った。
「こいつ結構苦労性みたいだからな、政岡も先輩として色々面倒見てやれよ」
「おい、マサミちゃん余計なこと言うなって」
「けど、そうだろ。岩片いなくなったらお前寂しくなるだろうしな」
「んなわけ……寧ろゆっくりできる時間増えて清々するよ」
「まあお前はそういうか」
なんだよ、と睨めばマサミちゃんは「冗談だろ」と肩を竦めて笑い、そして俺に向き直る。
「それじゃ、俺は次の授業の準備あるから。またなにかあれば言えよ?」
「ん……ああ、ありがとな」
「いいよ、一応元の部屋は明日の午前から工事入ることになってるからそれまでに荷物移しとけよ」
りょーかい、とだけ答える。
宮藤はそのまま部屋の前から立ち去った。
最後まで政岡は宮藤に対してムスッとしていたが、岩片の名前が出てからというものの黙ってるのが余計君悪かった。
「マサミちゃんはああ言ってたけど、本当、別に手伝わなくていいからな」
「ベッドとかどうすんだよ、一人じゃ無理だろ」
「別に解体して運ぶって手もあるし……」
「荷物全部解体するつもりかよ。そんなんじゃ日が暮れるぞ。それに……」
と、政岡に腰を掴まれそうになり、咄嗟に手を振り払った。身構え、やつを振り返れば、政岡は何を考えてるのかわかんねー顔で「そんな体じゃ辛いだろ」と言い出すのだ。憐憫の色を滲ませ。
「誰の……ッ」
誰のせいで、と言いかけたが、この男は分かってて、理解しててこんな顔をするのだ。そう思うと余計遣る瀬無くて、俺は言葉を飲んだ。真正面からこの男を相手していたらこっちの精神が持たない。そう思ったから、勝手にしろ、とだけ言って自室へと戻る。
政岡が何をしたいのか、何を考えてるのかまるでわからなかった。償いのつもりか、こいつにはもう俺に目を掛ける必要などないというのに。こんなことしなくてもお前に協力するって言ったのに、理解できない。なぜこうまでして俺に付き纏うのか。意趣返しのつもりなのか。
……だとしたら、効果覿面だ。
結局、部屋まで戻ってきてしまった。
政岡と密室に二人きりになるのは耐えられなくて、扉は開いたまま閉じないようにすれば政岡も察したのだろう。特に何も言わなかった。
新しい部屋にはクローゼットはあったが、肝心のベッドやテーブル、椅子などが欠けていた。
クローゼットの中に詰めてた自分の衣類だけを転校時に一緒に持ってきていたキャリーバッグに詰め込む。纏めてみれば案外荷物は少ない。
「尾張、尾張の荷物って……」
「そこに置いてある分だけだ。……あとは向こうの部屋にない……ベッドくらいかな。クローゼットはついてるみたいだし」
「お前のベッドってこれか?」
「違う、そっちは岩片の……」
と、言い掛けて、昨夜の記憶が蘇る。岩片のベッドで、この男に犯されたことまで思い出してしまい、熱が、ぶり返すようだった。
言葉に詰まる俺に、政岡も気付いたらしい。
ああ、最悪だ。なんで俺は口籠った。これくらいのことで、こんなんじゃ、まるで意識してると思われるじゃないか。
「……俺のじゃねえよ」
「そ、うなのか」
「…………」
……だから嫌だった。この男とこの部屋で二人きりになるなんて。どうやっても蘇る性行為の匂いに、感覚に、平常心であろうとすればするほど自分の首を締めるように苦しくなる。それでも、俺は全身に絡み付いてくるそれを無理矢理振り払いなんでもないように振る舞うことに徹した。
「そこにあるのも、触るなよ。あいつの私物だから」
「あ、ああ……って、このベッド折り畳めるのか。なら大丈夫そうだな」
「…………」
ぎこちなく笑う政岡の耳が赤くなっている。ああ、クソ、何してるんだ俺。この空気に耐えられず、俺は窓を開けた。ひらめくカーテンに、初夏特有の湿った風が流れ込んでくる。
余計蒸し暑いが、この空気を今すぐに換気したかった。
俺は窓から離れ、さっさと終わらせようと服を詰め込んだキャリーバッグを起こそうと腰を曲げ、そして、ずきりと痛む下腹部に堪らず舌打ちをした。
「……ッ、つ」
「大丈夫かっ?!」
「声、でけーよ。……これくらい、別に……」
つか、見てたのか。ハラハラとしながら駆け寄ってくる政岡を無視してそう再び抱え起こそうとしたとき、伸ばしかけた手をやつに握られ、ぎょっとした。
「……重そうなもんは俺が持つ。だから、お前は纏めるだけ纏めてくれ」
「別に、誰もそんなこと頼んで……」
「いいから、俺の言うこと聞け」
図らずしも背後から抱き締められるような体勢に、自然とやつの声も近くなる。宥めるような声とは裏腹に有無を言わせない圧があった。手を握り締める手に、肩を掴む手に、耳元に息が吹き掛かりそうなほどの近距離で囁かれ、全身がぞわりと震えた。冷たい汗が流れる。
「……ッ、いい加減、手、離せよ」
「っ、わ、悪い……!」
「…………」
慌てて政岡は離れてくれたが、それでも、手を握り締めていた感触も肩に触れる感触もこびりついたままだった。
キャリーバッグから離れ、俺は、政岡から逃げるように脱衣所に逃げ込んだ。ドッドッと大きく脈打つ心臓の音が、耳にまで聞こえてしまうようで。
……なんだよあいつ。わざとか。嫌がらせか。
そうでなければ、ふざけてる。俺をからかって遊んでるのか。
……最悪だ。
顔の熱は一向に引かない。いつまでもあいつから逃げてるわけにもいかない。俺は一旦熱を冷ますために冷水で顔を洗った。
ついでに脱衣所の俺の歯磨き粉だったり歯ブラシだったりを全部片付ける。そして、政岡に言われたとおり一旦荷物を分かるように纏めて置いていた。
案の定というか元々わかっていたが、部屋の私物大体余計なもの持ってきてるのは岩片だ。本当に最初から俺なんていなかったみたいに何も変わらない部屋を見ると、変な感じだった。
そしてようやく、全ての俺の荷物を纏め終わったとき。
「尾張、これで最後……」
だよな、と政岡が荷物を抱えようとしたときだった。
その背後、開きっぱなしの扉の向こうに人影を見た。
明るい茶髪の地味顔と、もう一つは、一度見たら忘れられないようなもさもさ頭のシルエットに分厚い瓶底眼鏡。
「あ、尾張君……っと、か、会長……?!」
岡部と、岩片がそこにいた。
今まさに荷物を出そうとしていたときだった。
最悪だ。口の中で思わず吐き捨てずにはいられなかった。
……本当に、最悪だ。
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