馬鹿ばっか


 51

神楽は本当に俺に鍵を手渡し、そして部屋の外で待っていた。

正直言えば半信半疑だったし油断してはならないとわかってるものの、少し見直したというのも本音だったりする。


相変わらず乱雑に散らかった神楽の部屋を通り抜け、シャワールームを借りることにした俺。
気にしてる暇もない。さっさと汗諸々を流して帰ろうという気持ちの方が強かった。

シャワールームを出て、神楽に使っていいよと言われていたタオルを借りる。

再度制服に着替えたときだ。
丁度、玄関の扉がノックされる。
神楽からさっさとしろという催促だろうか。
慌ててタオルで髪から落ちる雫を拭った俺は、タオル片手に部屋の鍵を外した。


「悪い、遅く……」

なったな。
そう言いかけて、凍りついた。

扉の向こう側、そこに立っていたのは神楽ではなく。


「悪い?……それは誰に対してだ?こいつか?それとも……俺に対してか?」


聞き間違えようのないその声。
顔半分を覆い隠す瓶底眼鏡と癖の強く重たい黒髪。
その下から覗く笑顔は冷たい。

神楽のネクタイを掴み、引っ張り上げて笑う岩片凪沙に俺は文字通り言葉を失った。


「っ元君、こいつ……」


神楽も神楽で突然現れた岩片に対処できなかったらしい。
露骨に嫌悪感を顔に出した神楽は岩片を引き離そうとする。咄嗟に、「神楽」とやつの名前を口にすれば、岩片の口角が更に持ち上がる。
そして、更に自らにネクタイを巻き付け、まるで犬のリードか何かのように神楽の頭を下げさせた。


「っぐ、この……」

「随分とうちのハジメ君がお世話になったみたいだな。……正直気に入らねえけど、礼だけは言っておいてやるよ。ありがとな、ハジメを見つけ出してくれて」


「んじゃ、サヨナラ」そう岩片がネクタイを握り直すのを見て、考えるよりも先に体が動いていた。


「岩片!」


ネクタイを掴む岩片の手を掴み、止める。
こいつが何をしようとしていたのか分かったし、別に止める義理もないと思ったけどそれでも、神楽には一応助けてもらったのも事実だ。


「……用があるのは、俺だろ」


正直、驚いた。自分にもだが、それ以上に素直に動きを止める岩片にもだ。
俺振り払ってまでも一発殴るくらいはするのかと思っていただけに大人しく耳を傾ける岩片に呆気に取られる暇もない。
その隙を狙って岩片から神楽を引き離せば、こちらをただ見ていた岩片のその口元からはすっかり笑顔は消え失せていた。
辺りの温度が一、二度ほど下がったんじゃないかと思うほどのその冷え切った空気の中、冷や汗が背筋を流れる。


「……わかっててやってんだから本当、お前はいい性格してるよな」

「……お前が心配してくれてたの無視して出てったのは悪かったけど、別にそれだけだろ。こっちもこっちで色々やることあったんだよ、わざわざここまで来ることなんて……」

「……それで、言いたいことはそれだけか?」


呻くように吐き出されるその言葉に、思わず「は?」と聞き返そうとしたときだった。胸倉に伸びてきた岩片の手に思いっきり襟首を掴まれる。
額を思いっきりぶつけられ、一瞬目の前に火花が散った。
そして、その火花が消えたあと視界に写り込んだのは分厚いレンズから薄っすらと覗く細められた目。


「……言いたいことはそれだけかって聞いてんだよ」


昨日も相当岩片が怒ってるのは分かったが、今日は昨日以上かもしれない。
聞いたことのないような低い声にゾクリと背筋が震えた。
殴られるのか、俺は。
それほど怒らせるような真似をした自覚はあったが、岩片の力で殴られたときの想像をすると酷く体が熱くなった。
「ああ」とその目から視線を逸した瞬間だった。襟首を掴んでいたやつの手に更に力が込められる。


「おい、モジャ!元君に今乱暴な真似は……」


そう、見兼ねた神楽が仲裁に入ろうとした矢先だった。
思いっきり胸倉を引っ張られ、そして、唇を塞がれる。


「乱暴な、真似は……って…………へ?」


どうして、なんで、こいつは馬鹿なのか。何を考えてるのかわからない。
咄嗟に突き飛ばそうとするが伸ばした手ごと壁に押し付けられ更に深く唇を重ねられ舌を捩じ込まれる。
呆気取られる神楽、きっと俺も同じような顔になっていただろう。
ぐちゃぐちゃに口の中を舐め回され、唾液で濡れる咥内からは更に唾液が溢れ出し、響く生々しい音が一層大きくなるのが聞いていられなかった。やめさせたいのに絡め取られた舌は痺れ、昨夜の熱が一瞬にして蘇り脳髄は溶けたように火照りだす。
やめろ、馬鹿が、この。頭の中で罵倒したところで叶わない。とうとう両腕に力が入らなくなったとき、岩片は俺から舌を抜いた。太い糸が唇同士を繋ぎ、それもやがて落ちる。
言い返す気力すら残っていなかった。呼吸をするので精一杯な俺を捕まえ、岩片はぽかんとしていた神楽に向き直る。そして、その面に指を突きつけた。


「おい、他の馬鹿生徒会の連中に言っておけ。……コイツが誰かに惚れるわけがねえ。惚れさせねえ」


「つーか、誰にも渡さねえから」人を抱きしめたまま恥ずかしげもなく馬鹿みてえな大声でそう宣言する岩片に、俺は、熱やらなんやらで何も考えることができなかった。
これは、悪い夢なのだろうか。
いっそ殴られた方が良かったなんて思ったところで何もかも遅い。
何を考えてるのかわからない。俺の目の前にいるこいつは本当に俺の知ってる岩片なのか。宇宙人か何か得体の知れない化物のように思えて仕方ない。けれどよく考えたらそれは前から、俺とこいつが出会ったときからずっと遭った違和感と同じだ。

そもそも、俺が一度でもこいつを理解できたことなんてあっただろうか?

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