馬鹿ばっか


 34

岩片のことを考えるだけで頭が痛くなる。
ずっと一緒にいることが当たり前になっていた俺にとって、こうやって岩片に会いたくなくなるのは致命的にも等しい。

晴れない気分のまま、教室の扉を開けば、いつもの見慣れた席に岩片はいた。


「腹、治ったのかよ」


席に着こうとしたとき、岩片に声を掛けられた。
怒ってる、わけではなさそうだ。
眼鏡のせいで表情はわかり辛いが、その声はいつものような軽薄なそれとは違う。
低い声に昨夜を想起させられ、つい、目を反らしてしまう。
「お陰様で」皮肉を込めてそう返せば、岩片は「そりゃ結構」と鼻で笑った。


「尾張君、体調は大丈夫なんですか?」


椅子に腰を下ろせば、続いて岡部に声を掛けられる。
岩片から俺のことを聞いていたようだ。
心配そうな顔をする岡部に「ああ、もう大丈夫だ」と返せば、岡部はほっとしたように頬を綻ばせる。


「でもタイミング良かったですね、さっきまで大変だったんですよ、なんか尾張君を探してるって人たちが来て……」


何気ない世間話のような軽い調子で切り出す岡部に、俺は思わず「え?」と聞き返した。


「俺を探してるやつって、何だよ、それ」

「多分あれ、生徒会長さんの舎弟ですよ。尾張君がいないってわかったらすぐどっかに行ったんで良かったですけど、あの調子じゃまた来そうですね」


……政岡。
あいつが俺を探してるのか。
嫌な汗が滲む。ちらりと、岩片の反応を伺うが、岩片は何も言わずに岡部の話を聞いていた。
相変わらず何を考えてるのかわかんねえ……。
いつもの岩片ならなふてぶてしく笑うだろう、だからこそ余計、岩片の無反応が不気味に思える。
何か変なこと考えてないよな。そう、岩片の横顔を盗み見ていたとい、不意に岩片がこちらを向いた。
そして、


「腹いてーんなら大人しく部屋で寝てた方がいいんじゃねえの」


椅子の背もたれに肘をかけ、体全体をこちらに向けてくる。相変わらず偉そうな座り方だと思ったが、それよりも珍しく心配してくるような発言する岩片にぎくりとした。


「別に、腹はもう大丈夫だから」

「……」


そう一言返せば、岩片は何も言わずに俺を見た。
分厚いレンズからはどんな顔をしてるのかわからないが、恐らく不躾な目を向けてるに違いない。絡みついてくる視線がなんとなく嫌で、俺は敢えてそれ以上何も言わずに顔をそらした。暫く感じていた岩片の視線も、すぐに離れる。沈黙。

……なんだよ、この空気。
余所余所しいその場の空気に耐えきれなくなったときだった。そばにやってきた岡部にそっと制服を引っ張られる。


「……尾張君、岩片君と何かあったんですか?」


そして、小声で尋ねてくる岡部。
単刀直入。核心を抉られ、口から心臓が飛び出しそうになる。俺は動揺を誤魔化すように咳払いをした。


「何かって、別に……どうしてそんなこと聞くんだよ」

「なんか、岩片君の様子がおかしいんですよ。別に機嫌が悪いとかじゃないし、寧ろいいのかなー?って感じてはあるんですけど……生徒会長の名前出すと雰囲気が怖いっていうか……」


残念ながらそれは機嫌が悪いんだよ。
言いたかったが、そんなこと言えば余計勘繰られそうだ。
岡部は変なところで目敏いから下手に悟られるような真似はしたくなかった。
俺はやつの心配を解消するため、取り敢えず笑った。後ろめたいことがあっても朗らかに笑っておけば大抵の人間を騙すことができる。経験上、そう知っていた。


「……悪いな、心配かけて。あいつならほっといても大丈夫だから、そういうときは無視しといていいから」

「そうですか……?」


励ましてみれば、それでも不安そうな岡部だったが渋々納得してくれた。
触らぬ神に祟りなし。
あいつは神でもなんでもないが、面倒なあいつに近寄らないのが正解だ。
そう、次の授業の確認をしようとした矢先だった。


「おい、ハジメ」


いきなり、岩片に呼ばれる。
肩を掴まれびっくりしたが、なるべくそれを顔に出さないようになんだよ、と答えれば岩片は「便所」とだけ短く答えた。


「はあ?」

「お前もこい」

「それくらい一人で……っ、て、おい、引っ張るなって!」


無理矢理椅子から立たされ、引っ張られる。
こいつ、なんでこういうときだけ力強いんだよ。
本気で振り払うこともできず、引き摺られる俺を見て岡部は『頑張ってください』と口パクする。
岡部、確かにほっとけとは言ったけど、こういうときは助けてくれてもいいと思うぞ。

結局、教室を出て廊下まで引っ張られる俺。
何も言わずに歩いていく岩片だが、当たり前のように便所を通り過ぎて歩いていくやつに「おい、トイレじゃないのかよ!」と思わず声を上げた。


「なんだよ、ハジメお前本気で俺と連れション行きたかったのか?」

「っ、そ、そいうわけじゃねーけど……」


別に本気にしてたわけではない。
あの場にいたくなかったのだろう、じゃなければこんなに強引に連れ出す理由がない。……と思うのだが、気まぐれで自分勝手な岩片が俺の常識通りなはずもない。


「目的を離せよ。お前、何考えてるかわかんねーからこっちも困るんだよ」

「本当に分かんねえの?」

「……はぁ……?」


何を言って、と言いかけた矢先だった。
岩片に腕を掴まれる。
そのままぐっと引っ張られ、やつの顔がすぐ鼻先に迫った瞬間、全身の筋肉が緊張した。
心臓がドクドクと警報を鳴らす。


「お前、俺に隠し事してるだろ」


たった一言。
その一言に、思考停止する。
何か答えなければならない。そう咄嗟に判断するが、至近距離、岩片の目にじっと覗き込まれると何も考えられなくなる。
絡みついてくるそれを振り払い、俺は慌てて口を開いた。


「別に、隠し事なんてして……」

「嘘つくな。……顔色悪いし、唇の色も良くない」


「腹、治ってねえんだろ」するりと伸びた親指に唇を触れ、咄嗟に後ずさりそうになるが、逃れられない。
バレたのか、と身構えたが、そうではなかった。
岩片、こいつは俺の顔色が悪いのを腹痛のせいだと思っているらしい。
一先ずほっと反面、原因は違えど異変をすぐに察する岩片に心の底から安堵することはできなかった。


「虚勢張るのは勝手だけど、今のお前、隙だらけ過ぎて見てるこっちがヒヤヒヤすんだよ」

「それは、お前が勝手にそう思ってるだけだろ。……俺はいつも通りだよ」

「いつも通りのお前なら、こんな簡単に俺に捕まんねえだろ」


その鋭い指摘にハッとする。
距離を詰められたまま、そのまま岩片の腕に収まっていた自分が恥ずかしくなり、慌てて俺は「退けよ」と岩片の肩を押し返す。
けれど、岩片はびくともしない。それどころか、益々冷えたその視線にぞっとする。


「……やっぱ無理だわ」

「は……何言って……」


「帰るぞ」


そう一言、俺の二の腕を掴んだ岩片は、そう言ってまた歩き出した。
突拍子なくて、自分勝手で、おまけに馬鹿力。
最悪じゃないか。


「なんだよ、それ、おいっ」

「本調子じゃねえお前放ったらかしにしてたら使い物になんねーどころか余計なことになりそうだしな、今日はサボる」

「なら……巻き込まれたくねーならお前だけ部屋に戻ればいいだろ。お前に迷惑かけなきゃいいんだろ」


このまま休むなんてとんでもない。
おまけに岩片の目があると能義たちとも連絡取りようがない。
どうにかしてそれだけは免れなければと抵抗してみるが、返ってきたのは「はぁ」というクソでかい溜息一つ。


「……人がお前のため思って言ってやってんのに分かんねえのかよ」

「……は?」

「……俺がここまで言っても分かんねえのか、ここまでくるとお前の鈍感クソ野郎っぷりもすげえな」

「っ、誰が……」


誰が、鈍感クソ野郎だよ。
あまりにも勝手な言い分に流石に温和な俺もカチンときたときだ。視界が何かに覆われる。陰った視界の中、唇に何か柔らかいものが触れた。
ちゅ、と小さなリップ音とともに離れる岩片の唇に、自分がキスされたのだと気付いた瞬間、今度こそ脳味噌が活動を止めた。


「いいから来い。……体調も万全じゃねーんだろ」


文字通り思考停止する俺に、岩片はそれだけを言って歩きだす。手を離さないあいつは俺を大人しく解放させるつもりは鼻からないらしい。
さっさと歩く岩片に、言いたいことは色々あった。ふざけるなとか、何様なんだとか、あまりの横暴にそう文句言ってやりたい気持ちになるがそれよりも、それ以上に、あの岩片が私利私欲のためではなく俺のことを気遣ってくれてるということが未だに信じれなくて、思わず抵抗するのも忘れてしまう。
今更優しくして何を企んでるのか。
それも気まぐれなのか。俺の反応見て楽しんでるのか。
考えれば考えるほど未だにこいつの言葉が信じれないが、手首の傷に触れないように傷のない箇所を掴んでくる岩片の手が熱くて、何も考えられなくなる。
こんなことしてる場合ではないのに。
そう思うのに、こいつに逆らえないのは既に体の芯まで染み付いてるこいつの犬だと擦り込まれたせいだろう。
……考えたところで埒があかないので、そう思うことにした。

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