馬鹿ばっか


 20

「お……」


犯す。その一言は冗談にしては笑えないほど生々しい。事実、一度岩片に組み敷かれたことがあるからこそ現実味を帯びるのだろう。
張り付いた空気。一瞬でも目を逸してしまえば本当に色々なものを失ってしまいそうだった。


「……ハジメ」


早くしろ、と催促されているようだった。
俺には、岩片の考えることがわからなかった。こんな風に脅してキスをされたところで岩片にとってそれはそれでムカつくのではないのかと思ったのだ。
ご機嫌取りなりして下僕の姿勢を見せろと言うことなのだろう。
だけど、俺は、岩片の親衛隊だ。性奴隷でもなければ都合のいいセフレになった覚えはない。


「……お前は……それでいいのかよ」


それが、岩片の答えなのか。俺も、周りのやつと同じなのか。身の程知らずといわれようが、少なくとも俺は、他のやつらとは違うと思っていた。……そう思いたかった。

岩片から表情が消えるのを、俺は確かに見た。瞬間、顎を掴まれる。


「……時間切れだ、ハジメ」


そう、岩片は掛けていた眼鏡を外し、畳んで胸ポケットに仕舞う。久し振りに見た、岩片の裸眼。その目には、言葉にし難い色が滲んでいた。


「いわ……」


岩片、とその名前を呼ぶ声は、掻き消される。噛み付くように唇を重ねられる。性急で、貪り尽くすような、余裕のないそれをキスと呼ぶのすら偲ばれる。


「っ、ん、ぅ……ふ……ッ」


胸を押し返し、離そうとするが、相変わらずこいつの力は馬鹿みたいに強い。顎に食い込む指先は固定されたまま離れない。唇を割って入ってきた舌は、咥内をくまなく舐る。脳髄をぐちゃぐちゃにかき混ぜるような舌の動きに、違和感、それ以上のなにかに胸が張り裂けそうなほど痛んだ。

壊されていく。一つ、一つと、丁寧に、岩片のその手で。
岩片に対する嫌悪感よりも、今まで見下していた岩片の犬と同じ位置に堕ちてしまう自分自身に何よりも吐き気を覚えてしまうのだ。


「……ッ、ん……ふ、ぅ……ッ!」


焼けるように、熱い。嫌だ、と目を瞑る。性器のように丹念に舌を愛撫され、腰が抜けそうだった。気持ちいいと思う自分が嫌だった。まだ、軽蔑された方がましだ。嫌われて、罵られて、「所詮そんなものか」と鼻で笑われた方がよかった。なのに、岩片は、俺から目を逸らさない。俺の手を離さない。「もっと見せろ」と言わんばかりに唇を重ねてくるのだ。

呼吸が浅くなる。
どれほどの時間が経ったのか、ここがいつどこで誰が来てもおかしくない廊下のど真ん中だということも忘れ、岩片に長時間唇を重ねられていた。
抵抗しても抵抗してもしつこく舌を絡み取られたお陰か、ようやく岩片が俺から唇を離したときには立ってることだけがやっとで。


「……これだけでへばってどうすんだよ、ハジメ」

「……っ、お前、正気かよ」

「俺はいつだって正気だ。……言っただろ?俺は、お前を犯すって。俺は約束を守る男だからな」


そう言って、岩片は笑う。それは、今まで見てきた笑顔と同じだった。それも俺に対してではなく、玩具に対する、それだ。本心とは違う、作り笑い。
あ、と思った。どこが演技なのか、分からない。けれど、ほんの少し、岩片の言動に違和感が生じたのは間違いない。……勘に等しいが、長い間岩片と付き合ってきたからこそ、分かってしまった。気付いてしまった。
岩片の本心が、そこにある。


「……やってみればいいだろ」


声を、振り絞る。汗が流れる。賭けだった。
どうせ、どうせ壊れてしまったんだ。積み上がったものも、全部。それならばここからどう転がろうが、関係ない。


「……勝手にしろよ、ほら、抱くんだろ。……俺を」


「お前の可愛い犬みたいに可愛く喘げる自信はねーけど、多目に見ろよ」岩片のネクタイを掴む。上手く、俺は上手く笑えてるだろうか。ふてぶてしく、岩片を馬鹿にできてるだろうか。鏡がない今、自分がどんな顔をしてるのか分からない。が、岩片の纏う空気が確かに変わる。肌に突き刺さるような、冷ややかな空気。


「能義は、見かけに依らずスタミナがあるやつだったな、蛇みてーにしつこかった。神楽は……あーあいつはねちっこいけど、たくさんのやつ相手にしてるだけあって上手かったな」


口喧嘩なら、俺だって負けていない。
煽り煽られなら慣れている。けれど、それが岩片相手となると、また違うのだ。……そう思っていたが、岩片の反応からするに、俺は上手く岩片の地雷源を探り当てることができたようだ。


「……それと、政岡。あいつは、誰よりも俺のことを見て、優しくしてくれ……」


た、と言い終わるよりも先に、ネクタイを思いっきり掴み、頭を下げさせられる。
最悪殴られることは想定していたので、これも範囲内だがやはり馬鹿力だ。無言で俺のネクタイを掴んだ岩片は、自室へと向かってズカズカと歩いていく。引っ張られる体。
「おいっ」と声をあげるが、岩片は俺の声なんて届いてもいないようで。
扉を開いた岩片は、そのまま鍵とチェーンを掛ける。え、と思うのもつかの間、部屋を過ぎり、ベッドまでやってきた岩片はそのまま俺をベッドへと放り投げた。

突然のことに受け身を取れず、顔面着地した俺は、おい、と慌てて飛び起きようとする。が、すぐに再度枕に顔を押し付けられる。


「ん、ぅ゛ッ、んん……ッ!!」


後ろ手に両腕を掴まれ、すぐにガチャガチャという金属音が響いてきた。両手首に冷たく、硬質な感触が嵌る。手錠だ。
血の気が引く。一先ず廊下で揉めるところを他人に見られないで済んだとか言ってる場合ではない。
岩片の表情が見えない分、恐ろしかった。


「そんなに男に慣れてんなら大事にしてやる必要ねーよな、ハジメ」


腰を掴む手に、ベルトを引き抜かれる。すぐ耳元で聞こえてくるその低い声に、背筋が震える。
正直に言おう。俺は、岩片が嫌気差して俺から手を退くと思ったのだ。他人の手垢がベタベタついてるような尻軽抱けるか!と軽蔑してもらいたかった。だが、実際はどうだ。やめるどころか、先程以上に事は悪化している。


「……俺が抱いてやるんだ、喜べよ」


「他の奴じゃイケねえ体にしてやる」俺は、少しは岩片のことを分かったつもりでいたが、それは気のせいだったようだ。俺が思っている以上にこの男は負けず嫌いで、無関心のように思えて案外執着心が強い。

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