馬鹿ばっか


 19

どうやって帰ってきたのか記憶が定かではなかった。間違いなく走って帰ってきたのだろうが、途中、何を考えていたのかも分からない。気付けば学園の前までやってきていた。
岩片に連絡しなければならないとわかってても、既に遅刻している今何を言っても手遅れなような気がしてできなかった。早い話、岩片の反応が怖かったのだ。情けないことに。

自室へと戻るまでの間、どうすれば岩片の怒りを少しでも軽減することができるのかということばかりを考えていた。
自室の扉を開けるまではなんとか、と思ったが、そんな時間すら俺には残されていないようだ。

学生寮、自室前。
そこには、見覚えのある人影が一つ。
壁に凭れ掛かっていたそいつは、ぐるぐる眼鏡をこちらに向けると「おかえり」と軽く手を上げる。


「い……っ、岩片……」


まさか、ここで待っているとは思っていなかっただけに、心の準備がまだ終えていなかった俺は足元から急激に冷えていく感覚に襲われた。一見いつもと変わらない、というよりも表情が分からないだけなのだろうが、岩片は腕時計に目を向ける。


「えーと、どれどれ……57分遅刻ねえ……あれ、おっかしーな、俺、30分で戻ってこいって言わなかったっけ?」


軽薄な声、言葉、だが、その纏う空気はいつものそれよりも遥かに重く、威圧感に押しつぶされそうになる。


「……悪かった。ちょっと、道が混んでて」


馬鹿だろう、俺も。嘘なんか吐いたところで自分の首を締めるだけだってわかってたのに、真っ当に岩片の言葉に返すことができなかった。なんとかして誤魔化したかった。
だから、岩片の反応には驚いた。


「ふーん、混んでてねえ。なら仕方ないよなぁ」


ぱっと手を離した岩片は笑う。一瞬その明るい声にほっとしたが、それも僅かな間だった。


「……なーんてな」


岩片の手が、伸びる。思いっきり襟首を掴まれ、顔を寄せられた。鼻先同士がぶつかりそうなほどの距離、分厚いレンズの向こう、凍てつくような冷めた岩片の目と確かに、視線がぶつかった。


「よくそんなクソつまんねえ嘘吐けたな。どうせあいつだろ、あの脳筋色恋馬鹿。あの少女漫画野郎に当てられたかよ?」


首元がきつく締まる。俺の服が破れようが伸びようが構わないと思ってるのだろう。細い指からは想像できなほどの力に、嫌な汗が滲んだ。
政岡の顔が浮かび、咄嗟に俺は「あいつは、関係ない」と声をあげた。なぜそんなことを言ったのか自分でもわからないが、多分、勘付かれたくなかった。岩片には、知られたくなかったのだろう。
けれど、岩片はそんな返事ではいそうですかと納得するような男ではないということは重々承知だ。

壁に叩きつけられる体。咄嗟に受け身を取ったので痛みはそれほどなかったが、強く壁に押し付けられるほど器官は押し潰され、息苦しい。多分それは体勢だけの問題ではないのだろう。


「……ッ岩片……」

「……ハジメ君、俺さぁ確か遅れたら罰ゲームって言ったよな……覚えてる?」

「……っ……」

「それなのに遅れてんだからわざとだろ?俺を怒らせたくてやっちゃうわけね?本当なぁ……可愛いよな、本当、あー可愛い可愛い」


「可愛くて……本当、憎たらしい」陰る表情、その下が歪むのを見て、ゾッとした。軽薄な言葉は感情を感じさせない。口元は笑みを描いているのに、全く笑っていないのだ。だからこそ余計不気味で、息が詰まりそうになる。


「……っ、岩片……」

「なぁハジメ、お前は誰の親衛隊だ?」

「……俺は、お前の……」


「じゃあ、お前は誰のものだ?」


「……ッ……」


その言葉に、心臓を鷲掴みされたような息苦しさを覚える。ああ、そうだ。岩片はいつもと同じだ。いつもと変わらない。それなのにこれほどまでに恐ろしく思えるのはきっと俺が以前と違うからだ。そう思えば思うほど、圧迫感は増す。息が、浅くなる。
「言えよ、ハジメ」こんなに近くにいるはずの岩片の声が遠くに感じるのだ。分かってる。岩片が何を求めているのか、以前の俺ならば間髪入れずに「お前のものだ」と答えられただろう。それなのにこんなにも躊躇ってしまうのはその言葉を口にしてしまえば今度こそ、俺は。


「……俺は……」


汗が滲む。深く息を吐き、呼吸を整える。
俺は、襟首を掴む岩片の手を掴んだ。細い、骨っぽい手首。冷たくて、体温を感じさせない手。


「ッ……俺は、物じゃねえよ」


答えは単純明快だった。それなのにこれほどまでに答えに詰まるのは、頭ではない部分が邪魔していたからだ。
今思えば長距離走ったせいでアドレナリン出まくって、どこかしらの器官が麻痺していたのかもしれない。それほどまでに俺はとんでもないことを言ってしまった。きっと、それも全部これも全て政岡とかいう男のせいだ。そうに違いない。岩片の額に青筋が浮かぶ。ぴくりと痙攣するこめかみを見て、あ、やばいと思ったときには最後。


「……やり直し」


思いっきり壁を蹴る岩片。その衝撃に建物全体が振動したかのような錯覚を覚えた。
思いっきり顎を掴まれ、無理矢理正面を向かされる。


「どうせなにも考えてないだろうハジメにはもう一度チャンスやる」

「チャンス……って……」

「今ここで俺にキスしろ」

「はっ……?」


理解できなかった。こいつが何言ってんのか。
「そうすれば今のはなかったことにしてやるよ」と、岩片は軽々しく口にする。岩片が何を求めてるのか俺には分からなかった。恐らく、岩片自身も俺との口付けを心の底からしたいと思ってるわけではないのだろう。俺が岩片にそれほどまでの忠誠を誓えるかどうか、それを再確認しようとしてるわけだ。この男は。
キスだけだ、唇くらいどうってことない。そう思うけど、さっきの今で男相手にキスなんてできるかというのが本心だった。


「嫌だ……っつったら?」


汗が滲む。なんとか時間稼ごうとして問いかければ、岩片は猫のように目を細め、笑った。


「ここで犯す」

 home 
bookmark
←back