天国か地獄


 02

 あれからどれくらい経ったのだろうか。
 引っ越しを終え、部屋の掃除をし、それも終わって休憩という名目でソファーに座り寛ぎいつまで経っても帰ろうとしない面々に痺れを切らした阿佐美は「ねえ、あっちゃん」と阿賀松に問い掛ける。
「あぁ?」とどこぞのチンピラのように返す阿賀松。

「まだいるの……?」
「なんだ、お前早くユウキ君と二人きりになりたいのか?」
「いや、ち、違うけど……」

 にやにやと笑いながらからかう阿賀松にギクリと緊張した阿佐美は慌てて否定する。普通に否定されてちょっと寂しい。

「いいだろ、じゃあ」

 そんな阿佐美に笑みを消した阿賀松はふんと鼻を鳴らす。

「なんか用あるんなら出ていっていいんだぞ?俺が留守番しといてやるから」
「伊織さんの留守番なんてレアなんだからな!ありがたく思えよ!」
「……やっぱいいや」

 阿佐美はこいつらに部屋を受け渡したらろくなことにならないと察したようだ。
 正しい判断だ。結局まだ帰る気がないらしい阿賀松は深く背凭れにもたれ掛かり、「そういやユウキ君」とこちらをみる。嫌な予感。

「お前、昨日生徒会の打ち上げ行ったんだってな」

「楽しかったか?」と、笑顔のまま尋ねてくる阿賀松に俺はビクッと体を強張らせる。

「え、あの……なんで」
「あんなに堂々と役員と買い出し回ってたら誰だってわかるだろ」

 目を丸くし、狼狽える俺は阿賀松の言葉に納得する。
 五味たちと合流して打ち上げにつかうものをショッピングモールで購入した。
 あそこを見られていたのかもしれない。絶対にバレないとは思ってなかったが、辺りには阿賀松側の人間らしき生徒がいなかったから安堵していただけにやはり動揺する。

「で、楽しかったか?」

 再度尋ねられ、俺は俯いた。
「……その、楽しいとかそういう感じじゃなかったというか……」嘘ではない。打ち上げというよりはあれは会議といった方が適切だろう。
 和やかな空気も流れたが、部屋を出る直前の芳川会長と役員たちのやり取りを思い出せばなにも言えなくなった。歯切れの悪い俺からなにか察したようだ。阿賀松は笑う。

「なんだ、あいつらまだ揉めてんのかよ。ガキの喧嘩じゃあるまいしいつまで臍曲げてんだか」
「伊織が副会長にちょっかい掛けるからっしょ」

 楽しそうな阿賀松に肩を竦めた縁は「あーあ、かわいそ」と呆れたように笑う。
「知るか。勝手にあいつらが揉めてんだろ」口許を歪め、嫌な笑みを浮かべる阿賀松。

「でもまあ、ボロが出てきたことには変わりねえ。あとちょっと衝撃与えることが出来れば勝手に自滅してくれんだろ」

 その言葉に息苦しくなる。別に会長たちは嫌いじゃないし、生徒会役員も悪い人たちばかりではない。
 それを知っている俺からしてみれば阿賀松の言葉は酷で、それと同時になぜ自分がこんなところにいるのか不思議になる。

「また栫井使うんですか?あいつ、伊織さんへの態度がなってないから嫌なんですけど」
「そうだな、栫井、あいつはもう無理だろ。あの失態じゃすぐに芳川に切られる」

 面白くなさそうに唇を尖らせる安久に阿賀松は続ける。

「どうせ崩すなら、あいつが信頼しているやつがいい。信用していた相手に裏切られたときのあいつを想像してみろ。堪んねえだろ」

 ピアスの重さでだらしなく緩んだ薄い唇に笑みを浮かべた阿賀松は楽しそうに笑った。
 相変わらずの悪趣味。なぜそこまでして芳川会長を追い込みたいのか不思議で仕方がないが、それを聞く勇気もない。にやにやと笑う阿賀松に引きつるような笑みを浮かべた縁は「信頼ねぇ」と呟いた。そして、阿賀松に目だけを向ける。

「あの会長さんが信頼してるやつなんている?俺的に友達いなさそうなんだけど」
「友達はいないだろうな、あの性格じゃあ」

 即答だった。
「でも、それ以外ならいる。例えば、そうだな、後輩とかどうだ?」続ける阿賀松はなにを企んでいるのか、小さく微笑み目を細める。勿体振るようなその口振りからして既にターゲットを決めているのだろう。
 そして、阿賀松はその名前を口にした。

「灘和真」

 聞き覚えのある名前。
「あいつなら潰し甲斐がありそうだろ?」そう軽薄に続ける阿賀松の目は獲物を見付けた獣のように楽しそうに嬉しそうに笑んだ。阿賀松の口から出た名前に反応したのは安久だった。

「灘和真って、会計の」

 目を丸くし、驚く安久の顔はなかなか新鮮で、いつも阿賀松の言葉に賛同する安久だっただけにその反応は意外だった。そして、安久同様呆れたような顔をする縁。

「やけに自信満々だけどあの会計が会長裏切るように見えないんだけどなぁ」
「だからだろ、面白いじゃねえか」
「まあ、確かに楽しそうだけど」
「なんだよ方人、お前が乗り気じゃねえって珍しいな。ビビってんのか?」

 なかなか反応が悪い縁と安久に目を向ける阿賀松は挑発的な笑みを貼り付けたまま口角を持ち上げた。
 そして、

「俺が口だけの野郎だと思うなよ」

「勿論、考えはある」そう言い切る阿賀松の声がやけに大きく響いた。
「へえ、どんな」足を組み直し、興味津々になって尋ねる縁に阿賀松は「芳川を裏切りそうにねーやつならそれを逆手に取ればいいだけだ」と当たり前のように答える。

「方法なら、いくらでもある」

 いいながら阿賀松はこちらに目を向ける。そして、にやりと嫌な笑みを浮かべた。嫌な予感に自然と背筋が伸びた。
 そして暫く話し込み、阿賀松たちは部屋を出ていった。灘和真をターゲットにすると宣言していた阿賀松だったが結局その詳細は解らずじまいで、なんだか肩透かしを食らう反面阿賀松がなにを考えているかわからず多大なる不安感ばかりが込み上げてくる。

「ごめんね、なんだかバタバタしちゃって……」

 ソファーの上で俯いていると、どこか遠慮がちに阿佐美は呟く。この間よりかは幾分和らいだがまだどこかぎこちなさが残る阿佐美の態度。志摩が妙な薬を盛り悪巧みをしたあのときからだ。

「や、いいよ、別に……俺の方こそごめん。いきなり来て」

 そんな阿佐美に感化されなんだかこちらまで緊張してくる。そう視線を泳がせれば阿佐美はぶんぶんと首を横に振り、強く否定してくれた。
 そしてまた沈黙。その沈黙を破ったのは阿佐美だった。

「……あの、遅くなっちゃったけど、またよろしくね」

 手探りで確認するような慎重な口振りだった。
 恐る恐るこちらの顔色を伺ってくる阿佐美にこれ以上気を遣わせるのも癪で、阿佐美を不安にさせないよう精一杯の笑みを浮かべた俺は「うん」と大きく頷き返す。
 まだ白々しさは残るものの気を取り直した俺たちは立ち上がり、阿賀松たちが食い散らかし飲み散らかしたものを片付けることにする。

「せっかく掃除したばっかなのに、なんか汚れてる……」

 テーブルの上のグラスを片付けながら呆れたように呟く阿佐美に「まあ、仕方ないよ」と愛想笑いを浮かべた俺は床に散乱したゴミを拾おうとしゃがみ込み、そしてテーブルの下を覗きそこにあったものに目を見開いた。

「……ひッ」

 そこには見覚えのあるやけに大きな袋が隠すように置かれていた。
 縁が用意したあのセクハラプレゼントだ。
 短い悲鳴を洩らす俺に何事かと背後から覗き込んできた阿佐美はそこにあるものを見て同様硬直する。そしてぼっと赤面。

「なんでこれ、ここに……!」
「どうしよう、これ」
「ど、ど、どうしようって、ゆうき君なに言って」
「え?あ、ちが、変な意味じゃないって!」

 縁のプレゼントを押し付け合いわーわーと騒ぐこと数十分。

「…………」
「…………」
「……先輩に返そう」
「……うん」

 ということで渋々それを手に取った阿佐美が縁へと持っていくことになった。
 阿佐美と阿賀松が兄弟。その事実には然程驚かなかった。
 もしかしたら薄々感じていたのかもしれない。だけど、改めて他人から聞かされ受けたショックはなかなか大きくて、それと同時に言い知れぬ不安が込み上げてくる。
 もしかして今まで阿佐美とのやり取りも全て阿賀松に筒抜けになっていたのだろうか。
 阿佐美に限ってまさかとは思うが、あの阿賀松と血が繋がってると知って俺は本当に阿佐美と相部屋になってよかったのだろうかと再確認せずにはいられなかった。
 阿佐美は優しいし、俺に気を遣ってくれているのもよくわかった。
 だからこそ、たかが阿賀松と血が繋がってるというだけでこんなことを考えてしまう自分が嫌で忌々しくて腹が立って堪らなかった。
 それでも、一度産まれた疑心暗鬼の念は拭えない。


Q.剥いだ化けの皮のその下にあるものについて

 A.【汚泥



「あ……?」

 カーテンから射し込む日差しに小さく目を開いた俺は視界に広がる見慣れない天井に目を見開き、慌てて飛び起きた。
 ここはどこだ。どこかで見覚えのある家具が置かれたその室内、きょろきょろと辺りを見回せばふと見慣れた背中が目につく。
 無造作に伸びた髪を肩に垂らしたその人物は目が覚ました俺に気付いたようだ。

「あ、ゆうき君おはよう」

 柔らかく、耳障りのよい優しい声。目元を隠すように垂れた前髪の下、こちらを振り返った阿佐美詩織はそうへらりと無邪気に笑った。
 その声に安心したと同時に昨日自分が阿佐美の部屋に引っ越ししたことを思い出した俺は「おはよ」とだけ返す。
 そうだ、俺は阿佐美の部屋に押し入ったんだった。
 まだ寝惚けている自分を落ち着かせるように小さく息をついた俺は改めて阿佐美に目を向ける。
 机の前、椅子に座りノートパソコンで作業してたらしい阿佐美は俺の視線に気付けば慌ててパソコンを閉じた。
 阿佐美がなにをしていたのかも気になったが気になることはもう一つ。
 ……阿佐美のやつ、今日はやけに起きるの早いな。いつもなら俺が起こすまで爆睡していたのに。もしかして一人部屋になったときに昼夜逆転直ったのだろうか。
 思いながら何気無く壁にかかった時計に目を向ける。そして、そのまま俺は硬直した。
 長い針の先には2の文字。

「え、ちょ、二時ってまさか」
「え?お昼の二時だよ?」

 目を見開きだらだらと汗を滲ませる俺に阿佐美はなんでもないように答える。

「ゆうき君ぐっすり寝てたから起こさない方がいいかなって思って……ゆうき君?」

 そしてみるみる内に蒼白になる俺に気付いたようだ。心配そうにこちらを見てくる阿佐美を他所に時計盤を見詰める俺は気が気ではなく。

「ど、どうしよう……遅刻だ……」

 そう世界の終わりのような顔をして呟く俺になにかを悟ったのだろう。
 慌てた阿佐美は「一日くらい大丈夫だよ、昨日荷物運んで疲れたんだから仕方ないって」と宥めるようにフォローを入れてくれた。

「一応、先生の方には俺から風邪気味って言っておいたから学校の方のことは気にしなくていいよ」

 そして、「だから今日はゆっくり休んでね」と阿佐美は小さく微笑んだ。
 まさかそこまで手を回してくれているなんて思ってもなくて、その気遣いに俺は逆に申し訳なくなってくると同時にようやく全身から緊張が抜けるのがわかった。

「……ありがとう、詩織」
「いいよ、これくらい」

 何度このやり取りを交わしただろうか。
 阿佐美には頭を下げても感謝しきれなかった。
 なんとなくしんみりした空気が部屋に流れ、もぞ痒そうにもじもじとする阿佐美は気を取り直すように「ねえ、ゆうき君」と小さく声を掛けてくる。

「今日のお昼どうする?
「俺は……別に……」
「昨日も食べる暇なかったし朝も食べてないんだから流石になにか入れなきゃダメだよ」

 いきなりの問い掛けに上手く受け答えが出来ず口ごもれば、阿佐美はそうやけに真面目に続ける。
 その様子がなんとなく気になった俺はまさかと思い相手を見上げた。そして尋ねてみる。

「もしかして詩織、お腹減ってるの?」

 そう恐る恐る問い掛ければどうやら図星だったようだ。
「う」と小さく洩らし、ぎくりと全身を強張らせる阿佐美。

「そっそれもあるけど、ゆうき君お腹減ってるんじゃないかなって思って……」

 焦った様子で言い足す阿佐美に全身の緊張を解いた俺は「うん、ありがとう」と頬を綻ばせる。

「そうだね、下にいってみようか」

 そしてそう提案すればぱあっと表情を明るくした阿佐美は俺の言葉に「うんっ」と元気よく頷いた。
 心配事はいくつかあった。学生寮内をうろつくことで壱畝遥香と遭遇しないか。
 志摩のことも気になっていたかやはり俺にとって一番そこが重要だった。
 壱畝遥香からしてみれば授業が終わって部屋を見れば俺が荷物もろとも消えているわけだ。
 嫌でも気付くだろう。俺が逃げ出したことに。
 それによって壱畝がどのようなリアクションをするかわからなかったが今はただ壱畝に会いたくなかった。いや、これからもずっと。
 しかしまあ、問題は今だろう。現在の時刻からして壱畝は教室で授業を受けているはずだ。まず遭遇する可能性は低い。そう判断した俺は授業が終わるより先に阿佐美と食事を済ませることにする。


 俺の心配を他所に何事もなくのんびり食事を済ませることが出来た。やはり時間帯は大きかったのだろう。
 そして腹いっぱい空腹を満たした俺たちは自室へと戻ってきた。

 授業が終わる時間帯になり学生寮全体が騒がしくなってきたときだった。先ほどまでパソコンと向かい合っていた阿佐美がそそくさと身支度を始める。

「詩織、どこか行くの?」
「うん、ちょっとね」
「一人で大丈夫?」

 そう恐る恐る尋ねる俺に小さく微笑んだ阿佐美は頷き「俺は大丈夫だよ」と優しい口調で続けた。
 そして必要以上に心配する俺からなにか悟ったようだ。
「すぐ戻ってくるから」と阿佐美は念を押すように呟いた。その言葉に僅かに全身の緊張が解れ、安堵する。しかし心細さはぬぐえない。

「気を付けてね」

 そう言って、なにに気を付けるんだよと自分の失言に恥ずかしくなって頷けば同様頬を綻ばせる阿佐美は「うん、ありがとう」と小さく頷いた。

 やはり、阿佐美と阿賀松が血の繋がっているようには思えない。いくら容姿が似てようが、中身は全く真逆だ。例えば、おっちょこちょいでどこか抜けているところとか。
 阿佐美がいなくなった部屋の中、テーブルの上に残されたこの部屋の鍵に目を向ける。ちゃんと持ち歩くように気を付けろと言ったのにまた忘れている。

「……まだかな」

 思いながら、そわそわと壁に掛かった時計の短い針を目で追っていたときだった。外側の方からガチャリとドアノブを捻る音が聞こえてくる。阿佐美が帰ってきたようだ。
 跳び跳ねるようにソファーから立ち上がり、俺は慌てて玄関に駆け寄った。そして、扉のロックを解錠した俺は安堵で頬を緩ませそこに立っている人影を見上げる。

「おかえ……」

 そう言いかけた瞬間だった。扉の隙間から伸びてきた生白い腕が肩に伸び、そのままガシッと二の腕を掴まれる。
 何事かと目を丸くしたときだ。

「ただいま、ゆう君」

 頭上から落ちてくるその声は帰りを待っていた人間のものではなく、最も聞きたくもない声だった。
 まだ見慣れない艶っぽい黒髪を無造作に流し、その下に薄い笑みを貼り付けたそいつは今一番俺が会いたくないやつ張本人で。

「はるちゃっ、うそ、なんでここに……ッ」

 いきなり現れた壱畝遥香に目を見開き、全身から血の気が引いていくのがわかった。
 ぎりぎりと食い込む指を外そうとした矢先、無防備になっていた腹部を膝で抉られる。

「ん゙ぐっ!」

 鈍く、腹を突き破られたような衝撃に体を丸めた瞬間伸びてきた長い足に払われ転ばされた。
 バランスを崩し、派手に尻餅をつけば壱畝はその股座にしゃがむ。そしてそのまま俺の胸ぐらを掴み、視線を合わせるようにそのままぐっと俺を引っ張りあげた。
 絞まる首に顔を歪めれば壱畝は口角を持ち上げ笑みをつくる。

「なんで?なんでだろうねゆう君。君の足りない頭で考えてみたら?はは、ここまで俺の手煩わせてくれるなんて流石だなぁゆう君は。俺から逃げようと思ったみたいだけど逃がすわけないじゃん。一度ならぬ二度までも同じ真似するんだもん、学習能力ないよね本当」
「は、ぁが……ッ」
「逃げるなら国外にしろっていつも言ってるのにね。あぁ、無理か。ゆう君にそんな行動力ないし」

「まあ、とろいゆう君がどんなところに隠れが追いかけて追い詰めて引きずり出してとっ捕まえてやるんだけど」喉元まで這い上がってきた壱畝の手のひらは首を鷲掴みし、ぐっと指先に力を込めてくる。
 片手とは気管を握り潰されるというのはかなりの苦痛で、皮膚に突き刺さる壱畝の長い爪先が与える裂けるような鋭い痛みに俺は縮み上がり、咄嗟に壱畝の細い手首を掴んだ。しかし無理矢理剥がそうとすればするほど爪は深く刺さるばかりで。

「っい゙、ぁッ、ごめんなさ、ごめんなさいっ」

 皮膚を切り裂かれ与えられ続ける痛みに堪えられず涙が滲む。
 訳もわからず、ただひたすら懇願するように何度も謝れば壱畝はにっこりと柔らかい微笑み皮膚に突き刺さっていた親指を皮膚から引き抜くように浮かせ、

「やだ、許さない」

 そして、喉仏を押し潰した。とうとう圧迫された気管からはまともに酸素が入らなくなり、壱畝の手から逃れるようにもがくが気付けば壱畝に押し倒されるような体勢になっていたお陰で床に固定するように首を手のひらで押されれば苦痛に喘ぐことすらままならず。

「酷いよゆう君、黙っていなくなるんだもん。俺死ぬほど心配したんだから。もしかしてゆう君、あはっ、自殺しちゃって、ふふ、どっかでのたれ死んでんじゃないかなってさぁ」

「でも生きてたんだもん。本当がっかりしちゃった」そうクスクスと笑う壱畝遥香は僅かに首を絞める手を緩ませる。
 大きく咳き込み慌てて酸素を取り入れようとしたときだった。
 再び伸びてきた壱畝の手に咄嗟に俺は避けようとする。が、間に合わない。

「ひぃ……っあ、や、はるちゃ……っ、やめてよぉ、はるちゃん…ん…っ!」

 やんわりと手首を掴まれ、もう片方の手で首筋に出来ているであろう爪痕をなぞられる。
 しなやかなその指の感触に全身が緊張し、寒気を覚えた。
 慌てて喉を守ろうと手で覆い隠そうとすれば、絡めるように指の隙間に指を滑り込ませた壱畝はそのまま喉仏に触れる。最初はこりこりと感触を楽しむように、そして次第にその指先には強い力が加えられるようになり、爪先で容赦なく潰された。

「苦しい?だろうね、痛くしてるんだもん」
「あ……くぅ……ッ」

 声も上げずにクスクスと笑うその目は少しも笑っていない。
 繰り返される酸素補給機能の遮断に思考回路はぐちゃぐちゃに乱れ始め、涙で歪む視界の中こちらを見下ろし楽しそうな壱畝のローアングルだけが映り込むばかりで。

「ゆう君魚みたい、干上がって今にも死んじゃいそうなお魚さん」

 可愛いね、と低く囁く温度のない声に全身から血の気が引き、ぞわりと皮膚が粟立った。
 判断力が低下した中、確かな薄気味悪さだけを覚えた。酸素が薄くなり抵抗する力が全身から抜け落ちる。ずるりと壱畝から手が落ちたとき、ぐっと首を引っ張られ無理矢理上を向かされた。
 そして次の瞬間壱畝の顔が近付いて、唇を塞がれる。

「っふ、ぅむ……ッ」

 空気を求めるように小さく開いていた唇にぬるりとしたものが触れ、そこでようやく自分が壱畝になにをされているのか気付いた。瞬間、全身が馬鹿みたいに強張り俺はぎょっと目を見開く。
 なんだ、なんなんだこれは。有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない。
 靄がかった思考回路に恐怖というただひとつの感情が浮かび上がり、防衛本能が脳を支配する。
「んぐ、ぅ……ッ!」

 慌てて顔を逸らそうとするが顎を掴まれすぐに唇を貪られてしまい、口の中に残った酸素まで相手に奪われる。足をばたつかせるが、壱畝は離れない。

「っふ、く……っ、んんぅッ!」

 伸びてきた手に服が裾から中へと滑り込み、全身が緊張した。
 なんで、どうしてそうなるんだ。わけがわからない。そんなに俺を引っ掻き回したいのか。なにを考えてるんだこいつは。怖い。
 脳裏に過る支離滅裂な言葉をまとめることも出来ずただひたすら込み上げてくる恐怖心を振り払うよう俺は覆い被さってくる壱畝遥香の肩を叩く。しかし、離れない。
 にゅるりと唾液に濡れた舌が上唇に塗り付けるよう侵入してきて、がむしゃらに壱畝の接触を拒もうとしていた俺は口の中のその肉に思いっきり歯を立てた。
 瞬間、壱畝に確かな隙が生まれる。その隙を狙って俺は壱畝遥香を突き飛ばした。あっさりと離れる手に感動する暇なんかなくて、そのまま慌てて立ち上がった俺は部屋から飛び出す。

「チッ」

 背後から聞こえてくる舌打ちから逃げるようにただひたすら壱畝から遠ざかるために駆けていく。咥内に残された鉄の匂いにたまらず俺は中のそれを固唾と一緒に飲み込んだ。
 本当にやばいと思ったとき、自分がなにしてるかわからなくなるらしい。それは本当なのだろう。事実、今現在俺はただ死に物狂いで震える足を動かし不格好ながらに廊下を走り抜けていた。

「は、ぁ……っはっ」

 呼吸の仕方すら忘れ、開いた口からただ酸素を取り入れる。幸いか不幸か、部屋の前に人影はない。
 そんな中、背後から足音が追い掛けてくる。

「待てよ、おいッ!」

 背後から掛けられる壱畝の声に「ひぃッ」と息を飲む。
 やばいやばいやばい。今月はよく人に追い掛けられるなとかそんな現実逃避をするが頭は真っ白になるばかりで。
 相手は壱畝遥香だ。確かに壱畝は足が速いが、あくまでも昨日今日やってきた転校生であり同じ転校生でも数ヵ月もここで暮らしている俺にはまだ地理に自信がある。

「はっ、ぁ、……っくぅ……ッ」

 無駄に広く、同じような道が続く学生寮三階。
 ひとまず壱畝を撒くことにした俺は入り込んだややこしい通路に入りそのまま駆け抜けていく。
 いくらか壱畝を引き離すことは出来たがやつの足音は確かについてきていて、口の中で舌打ちした俺はただひたすらやつを振り回すことにする。
 そしてそうとある扉の前を通り過ぎようとしたときだった。いきなり扉が開き、そこから出てきた人影と衝突する。

「ぅあっ」
「……ッ」

 大きくよろめく体。慌てて体勢を立て直そうと顔を上げた俺は目の前に立っていた人物に目を丸くした。
 それはそいつも同じで。

「お前……」

 汗をだらだらと流し蒼白した俺を見下ろす人影もとい栫井平祐は呆れたように目を見開く。
 なんで栫井がここに。そう動揺する俺だがよく考えたら一応やつもここの学生寮で暮らしている生徒だ。
 あまり会いたくない相手だったが、背に腹は変えられない。

「たすけ、栫井、たすけて……っ」

 そう、咄嗟に栫井の服を掴み懇願すれば僅かに眉を吊り上げた栫井は「助ける?」と訝しげにこちらを見据える。
 丁度そのときだった。遠くからしていた壱畝遥香の足音がだんだんとこちらへ近付いてきて、喧しいそれにビクッと肩を跳ねさせ青ざめる。瞬間、伸びてきた白く骨張った手に二の腕をぐっと掴まれた。

「かこ……っ」

 相手を見上げ、そう名前を呼ぼうとした瞬間栫井に思いっきり引っ張られそのまま部屋の扉へと放り込まれた。

 home 
bookmark
←back