天国か地獄


 05

 暫くして、教室に取り付けられたスピーカーから休み時間終了のチャイムが流れる。
 引き続き行われる文化祭の準備で賑わう教室の中、後列の席に座る俺は机の上に広げた参考書を睨むように見つめていた。
 とにかく今はもう余計なことを考えたくなかった。
 そう思って参考書に並ぶ文字を目で追うが、不思議と文字が頭に入ってこない。
 多分それは、隣に座る志摩の存在があるからだろう。

 休み時間でのやり取りで変なスイッチでも入ったのか、拗ねたように机の上で頬杖をつく志摩は、参考書とにらめっこをする俺の横顔をガン見してきた。
 なにか言いたいことがあるのなら直接言ってきてくれた方が気持ち的にも楽なのだが、どうせ志摩のことだ。
 先程みたいに揉めるくらいなら、いまみたいに黙ってた方がいいかもしれない。
 まあ、隠しもせずにガン見されるこの状況も気持ちがいいとは言い難いのだけれど。
 おかげさまでさっぱり集中力が持たない。いや、元々か。
 なんてくだらないことを思いながら参考書を流し読みしていると、不意に志摩の席に一人の生徒が近づく。
 どうやら文化祭の実行委員のようだ。
 項垂れるように俺を見詰めていた志摩に恐る恐る声をかける実行委員に、志摩は無言で頷き席を立つ。
 なんの内容かはよくわからなかったが、どうせ文化祭絡みのことだろう。
 そのまま教室を後にする志摩の後ろ姿に目を向けた俺は、小さく息をつき持っていた参考書を閉じた。

 文化祭の準備という名の午後の授業が終わるまでまだ時間がある。
 どうやって時間を潰そうか。
 志摩がいなくなった教室で、俺は忙しく働く生徒たちの中一人そんなことを考えていた。

 結局、その日俺はクラスメートたちの準備の邪魔にならないよう図書館で大半の時間を潰した。
 時間割りに載っている大体の授業が終わり、教室で簡単なHRが行われる。
 担任の文化祭の意気込みを最後に短いHRは終わり、時間は放課後へと切り替わった。
 HRのため作業を中断させていた殆ど生徒たちは再び作業を再開させ、静かだった教室内に活気が蘇る。
 そんな中、俺は一人鞄を取り出し寮へ戻る用意を始めた。

「齋籐、帰るの?」

 鞄の中に教材を詰め込む俺を見て、隣の席に座っていた志摩はそう声をかけてくる。
 他の生徒たちが放課後も教室に残って準備をしているというのにさっさと帰宅する用意をしている俺が気になったようだ。
 まさか一緒に帰るとか言い出さないだろうな。
 思いながらも、俺は志摩の言葉に頷いて答える。

「なら俺も……」

 予想的中。そう思い付いたように続ける志摩だったが、なにか思い出したのか開いた口を閉じた。
 クラス委員も暇ではないようだ。
 言いかけて黙る志摩を一瞥しに、席から立った俺は机の上に置いていた鞄を肩にかける。

「準備、頑張ってね」

 俺はそう小さく言えば、面白くなさそうな顔をしていた志摩は苦笑を浮かべた。
 教室に残って文化祭の準備に取り組む志摩と別れた俺は、そのまま教室を後にする。

 教室前廊下。
 確か昼間の芳川会長たちとの話では江古田が迎えに来てくれるということだったが……。
 思いながら、俺は廊下を見渡す。
 忙しそうな顔をして通りすぎていく生徒たちの中に江古田の姿は見当たらない。
 もしかしてまだ来ていないのだろうか。
 ……なら、先にこっそり帰っても怒られないよな。
 廊下の奥に目を向けながらそんなことを思い付いた俺は、そのまま足を進める。そのときだった。

「……どこに行くんですか……?」

 側から、いまにも消え入りそうな声が聞こえてくる。
 ビクッと肩を震わせた俺は、慌てて声のする方に目を向けた。
 俺が立っていたその脇に、大きな荷物を抱えた江古田は虚ろな瞳で俺を見上げている。

「……え、あれ、いつ来たの……?」

 てっきり江古田がいないものだと思っていた俺は、いきなり現れた江古田に目を丸くした。
「……最初からいましたけど……」そうボソボソと続ける江古田は、少し不機嫌そうに顔を強張らせる。
 どうやらただ俺が見落としていただけのようだ。

「……ごめん、気付かなくって」

 自分の一言に気を悪くする江古田に、慌てて俺は謝った。
「……いいですよ、別に。存在に気付かれないのには慣れてるんで……」江古田はそう呟けば、とぼとぼと歩き出す。どうやらまた俺は余計なことを言ってしまったらしい。

「……ご、ごめん」

 なんて言い返せばいいのかわからなくなった俺は、ただそう謝ることしかできなかった。
 江古田はそれ以上なにも言わず、ただ先を歩いていく。
 見失う前に俺は慌てて江古田についていった。

 校舎を後にし、学生寮までやってきた俺と江古田。
 お互いの間に会話という会話はなく、栫井や灘たちとは違う気まずさがあった。
 後輩相手にまで遠慮してしまう自分って……。
 思いながら、学生寮のロビーを通り俺はエレベーターの前に立つ。
 文化祭前だからだろう。いつもなら賑わっているはずの寮一階にはあまり人がいなかった。
 エレベーターの横に取り付けられた機械のスイッチを押し、俺は扉が開くのを待つ。

「……そういえば、この前はありがとう。本当に助かったよ」

 エレベーターが降りてくるまでの間、俺は思い出したように江古田に話しかけた。
「……?」いきなり声をかけてくる俺に、江古田は不思議そうな顔をして俺の顔を見上げる。
 俺の言葉が少なすぎたようだ。

「……えっと、ほら、体育倉庫に閉じ込められたとき……確か、助けてくれたんだよね」

 一ヶ月前の記憶を掘り返しながら、そう俺は江古田に問い掛ける。
 櫻田との余計なことまで思い出してしまい、俺は慌てて思考を振り払った。
 あのときは酷い目にあった。
 俺の言葉に、江古田は少し戸惑ったような顔をする。

「……僕は、ただ櫻田君の尻拭いをしただけなんで……お礼を言われるようなことはしてません」

 両腕に抱えていた荷物をぎゅっと抱き締めた江古田は、そう言いながら俺から視線を外した。
 尻拭い。尻拭いか。
 益々二人の関係性がわからなくなってくるが、もしかしたら今回のことも尻拭いのため俺に付き合ってくれているのかもしれない。
 そんな思考が脳裏を過り、俺は素直に聞いてみることにした。

「……じゃあ今回のも、櫻田君の尻拭いってこと?」

 そう尋ねる俺に、江古田は少し困ったような顔をしてうつ向く。
 そんな答えにくいような質問をしたつもりはなかったが、まさか江古田を困らせてしまうとは思ってなくて、俺は慌てて「答えにくないなら言わなくていいよ」と付け足した。

「……今回は、尻拭というより……その……僕がやりたくてやったことなので……」

 俺の見張りなんてあまり楽ではない役割を自分からやるなんて、江古田は相当の物好きのようだ。
 仏頂面でしどろもどろと続ける江古田に、俺はその意外性に驚く。
 てっきり会長に言われたから渋々受け持ったのかと思っていただけに、江古田の言葉はあまり悪い気がしなかった。
 それが江古田の本心かどうかはわからないが、わざわざ問い詰める必要もないだろう。
 答えにくそうな江古田に、俺は「そうなんだ」と言って適当に会話を切り上げることにした。
 すると、暫くも経たないうちにエレベーターの扉が開く。勿論、機内には誰も乗っていない。
 機内に乗り込んだ俺たち。扉付近に立った江古田は、目的地を三階に設定する。
 静かに動き出すエレベーターの中、俺は三階につくのを待っていた。
 暫く、エレベーター機内の中に沈黙が流れる。
 相手が後輩だからだろうか。こういうときは話題を持ち掛けた方がいいんじゃないかとか妙な使命感に駆られた俺は、適当に江古田に話し掛けることにした。

「そう言えば、その荷物どうしたの?」

 沈黙を紛らすよう、俺はなるべくフレンドリーな感じで江古田に話し掛けるが、さっきまで黙っていたせいか変に声が裏返ってしまう。恥ずかしい。
 いきなり話し掛けてくる俺に、江古田は抱えていた紙袋に視線を落とした。

「……さっき遊んでたら獲れたので……」

 そう言いながら、江古田は紙袋の中から大きなキャラクターもののぬいぐるみを取り出す。
 どうやら、俺の迎えにいく前まで江古田は寮一階のゲームセンターで遊んでいたようだ。
 大中小様々なぬいぐるみが入った紙袋を見せてくる江古田に、俺は「すごいね」と目を丸くする。
 というか、よくあのゲームセンターに入ることができたな。
 思いながら、俺は感心するように江古田に目を向ける。

「……あの、これ、あげます……」

 褒められたのがそんなに嬉しかったのだろうか。
 江古田は言いながら持っていた紙袋を俺に押し付けてくる。

「え?いいの?」

 いきなりの江古田の言動に、俺は素で驚いた。
 江古田はこくりと小さく頷いてみせる。
「そんな、悪いよ」紙袋丸ごと渡そうとしてくる江古田に、俺は慌てて断ろうとした。
 そう言い出す俺が嫌がっていると勘違いしたようだ、ハッとした江古田は「……ごめんなさい」としょんぼりしながら持っていた紙袋を俺から離す。
 小さく項垂れる江古田に、俺は酷い罪悪感に苛まれた。
 これは、あれか。素直に好意に甘えていた方がよかったのだろうか。表情そのものはあまり変化はなかったが、あまりにも落ち込む江古田に俺は内心冷や汗を滲ませる。

「いや、あの……じゃあ、一つだけ貰ってもいいかな」

 エレベーターが三階につくまでの間は長く、その間ずっとしょんぼりした江古田といるのは俺の良心が耐えられなかった。
 根負けした俺は、そう笑みを浮かべながら江古田に声をかける。
 俺の言葉に顔をあげた江古田は、何度か頷いた。
 差し出してくる紙袋の中に手を突っ込んだ俺は、一番小さいと思われる熊のキャラクターのキーホルダーを貰うことにする。

「ありがとう、大切にするね」

 そう言いながらキーホルダーを制服のポケットに入れた俺は、江古田に笑いかけた。
「……」江古田はなにも言わずに小さく頷く。
 なんとなくぎこちなかったが、先ほどよりかは幾分表情が和らいでいた。ような気がする。

 目的地である三階についたエレベーターは停止し、俺と江古田は開いた扉から廊下へと出た。
 相変わらず人気のない廊下に目を向けた俺は、隣に並ぶ江古田を一瞥する。
 校舎から学生寮まで何事もなく戻ってくることができた。
 もしかしたらと一応覚悟はしていたが、ここまでやってくることができれば、もう後は部屋に戻るだけだ。

「あの、あとはもう俺一人で大丈夫だから」

 江古田に向き直った俺は、そう江古田に声をかける。

「……だめです……」俺の言葉に、江古田は小さく首を横に振った。
 エレベーター前で別れた方が江古田にとってもいいと思ったが、俺が思っているより江古田は頑固なようだ。

「……僕、会長に部屋まで送れって言われましたので……送ります」

 そう見上げてくる江古田に、俺は「わかった」と小さく頷いた。
 これ以上言ってもきっと江古田は言うことを聞かないだろうと判断した俺は、言われた通り自室に向かって歩き出す。
 早く江古田を解放してやりたかったが、本人がこの調子じゃ俺がごねてもただ時間が無駄になるだけだ。
 歩く俺の後を、江古田は無言でついてくる。
 俺は自室に向かってただ歩いた。何度か道に迷ったりもしたが、なんとか俺は333号室の扉前まで辿り着くことができる。

「ありがとう、ここまででいいよ」

 自室の扉前で立ち止まった俺は、後ろからついてきている江古田の方に目を向けそう言った。
 不意に足を止めた江古田は扉にかかったプレートを確認し、俺の言葉に小さく頷く。

「……わかりました、お疲れさまです」

 そう呟いた江古田は俺に目を向け会釈をすれば、そのまま踵を返し来たばかりの廊下を戻っていった。
 一人で大丈夫だろうか。
 もう何ヵ月かここで暮らす俺でさえたまに道に迷うというのに、下級生の江古田がすぐにエレベーター前まで辿り着けることが心配になってきた俺は離れていく江古田の背中に「江古田君」と声をかける。
 まだなにか用があるのかとでも言いたそうな顔をした江古田は、首だけを動かし俺の方を見た。

「……部屋まで送ろうか?」

 そう恐る恐る尋ねる俺に、江古田は無言で俺を見据える。
「……本末転倒って知ってますか……」呆れたようにそう呟いた江古田は、それだけを言い残し再び歩いていった。
 恐らく江古田は、江古田を送った後誰が俺を見張るのかということをいっているのだろう。
 素っ気ない態度だったが、江古田なりに気を使っているようだ。いや、違うかもしれないが。
 江古田と別れ、自室の扉と向かい合った俺はドアノブに手を伸ばす。
 結局、今日一日学校で阿佐美と顔を合わすことはなかった。
 そうなれば、部屋の中にいるとしか思えない。
 昨日のことがあるだけになんとなく阿佐美から避けられているような気はしていただけに、なんとなく扉を開くことを躊躇ってしまう。
 俺は小さく息を吐き出せば、そのままドアノブを掴み捻った。
 ガチャリ。金属が擦れるような音がし、そのまま扉を開こうとするが肝心のドアノブが動かない。ガチャガチャとドアノブを動かすが、扉はビクともしなかった。
 どうやら部屋に鍵がかかっているようだ。
 てっきり開いているものだとばかり思っていた俺は、渋々ドアノブから手を離し制服の中から自室の鍵を取り出す。
 扉の鍵穴にそれを差し込み解錠すれば、そのまま俺は部屋の扉を開いた。
 扉を開き、そのまま部屋の中に目を向けた俺は、思わず硬直する。
 不自然なくらい綺麗に片付けられた室内に、広い部屋。
 無駄に物が多かった汚い部屋が、いまは見違えるくらい殺風景なことになっていた。
 なにかがおかしい。鼓動が早くなり、俺は玄関口で靴を脱ぎそのまま部屋に上がった。
 いまこの部屋に置いてある家具は、最初から用意されていたクローゼットに勉強机、ベッドとテレビとテーブル。
 テレビとテーブル以外、どれも二つずつ置かれている。
 それと、阿佐美の私物であろうソファー。それだけが部屋に揃っていた。
 そこまで考えて、ようやく俺はこの部屋の違和感に気付く。
 阿佐美のものがないのだ。ソファー以外、この部屋からは阿佐美が溜め込んでいた雑貨や本や電化製品全てがなくなっていた。
 全身から力が抜け落ちるような、そんな奇妙な感覚が全身を襲う。
 嘘だろ、いや、まさか、そんなわけがない。阿佐美が本気で部屋を出ていくなんて。
 昨日の志摩と阿佐美のやり取りを思い出し、俺はいてもたってもいられなくなった。
 嘘だと思いたかった、けど、嘘にしては質の悪すぎる。
 嘘ならそれでいい。それがいい。
 気付いたら勝手に体が動いていた。玄関口へと引き返した俺は、そのまま扉を開く。
 とにかく、職員室だ。
 職員室にいって先生に話を聞けば、なにかわかるはずだろう。
 そう自分に言い聞かせるよう頭の中で繰り返しながら、俺は扉から飛び出した。
 開いた扉の前には人影が一つ。
 俺がそれに気づいたときにはもう全て手遅れだった。
 派手に人影にぶつかった俺は、その反動でバランスを崩しそうになり、伸びてきた腕に腰を支えられる。

「っぶねーなあ、いくら俺に会うのが嬉しいからってはしゃぎすぎだろ」

 俺の腰に腕を回す阿賀松は、いきなりぶつかってきた俺を見て可笑しそうに笑った。

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