天国か地獄


 02

「……」
「……」
「……」

 ひたすら沈黙。
 右脇に志摩、そして左隣には阿佐美。
 阿佐美は変わらない様子だが、志摩はもうそれは露骨な程だった。俺を通して阿佐美を睨む志摩からの無言の圧力に俺はなんだかもう、生きた心地がしなかった。
 そうだ、忘れていた、志摩と阿佐美の仲が芳しくないことを。
 会話が弾まないどころか会話の一つもない2人に俺はどうすればいいのか分からず、ただただ重苦しい空気がその場に流れた。

「……」

 そんな中、不意に志摩と視線がガチ合う。
 じとりとこちらを見ていた志摩を無視するわけにもいかなくて、「ど、どうしたの?」と恐る恐る尋ねれば志摩は「別に」とだけ応え、俺から視線を外した。

 せっかく、せっかく、また仲良くできるかもしれない。と思ったのに、軽率だった。
 けれど、だからってせっかく起きる気になった阿佐美をそのまま置いてくるような真似もしたくなかったんだ。

 といったところで志摩の機嫌が良くなるわけもないだろう。
 今回ばかりは、俺の思慮が足りなかったのが原因だ。
 ならばこの気まずさも受け止めるしかない。
 が。


「阿佐美、せめて制服ぐらい着ろよ。行くにしろ行かないにしろ」
「行かないよ、面倒だし。……それに、制服どこに仕舞ったか忘れたし」
「はあ?信じられないんだけど」
「……ま、まぁまぁ……」

 ギスギス感は拭えないが、こうやって、人と並んで歩くのは久しぶりで……こうして何を話したら良いのかって悩めることも、俺にとっては『楽しかった』。
 どうすれば相手が喜ぶ話題が出来るのか、口下手で話の引き出しも少ない俺にとってそれは難題だが、それでも、こうして誰かのために悩めることは俺にとって喜ばしいことなのだろう。懐かしいな、と、そんな考えが過ぎったとき。

『おはよう、ゆう君』

 脳裏に、声が響く。
 遠い記憶の奥の底、必死に塞いでいたそこから溢れ出すどす黒い感情と恐怖心に、浮かれていた心臓をガッと握り潰されるような感覚に陥る。

「……ッ」

 俺は、何を考えているんだ。滲む汗を拭い、必死に記憶を振り払おうとしたとき。
 志摩に腕を掴まれた。

「……齋藤、どうかしたの?酷い顔色だけど」

 心配そうな、優しい声。そこにいるのは、『あいつ』ではない。そうだ、もう、『あいつ』はいないんだ。あの時とは、違うんだ。

「ううん、ごめん……なんでもない」
「それならいいけど……目の前、柱あるから気を付けてね」
「え?……って、わあっ!」
「ゆ、ゆうき君!大丈夫っ?!」

 ここに来れば、新しい人間関係を結べば、時期に記憶も薄れ行くものだと思っていた。
 けれど実際は比べて、その明暗がくっきりと色濃くなるばかりで、度々思い返されるそれに俺はあいつとの思い出が確かに俺の中で大きいものであるという事実がただ、悔しかった。


 学生寮、一階。
 ショッピングモールには朝食に向かう生徒たちで賑わっていた。
 やっぱり、こういう風に一つの建物の中で赤の他人と朝から行動するのは新鮮だな。
 思いながら辺りを観察していると、「齋藤」と志摩に名前を呼ばれる。

「ね、何が食べたい?俺のオススメはモーニングセットなんだけどそのハンバーガーがとても……」
「丼かな」

 志摩の言葉を遮って答えたのは阿佐美だった。
 途端、志摩の顔がびきびきと引きつる。

「……俺は齋藤に聞いてるんだけど」

 ま、まずい。せっかく機嫌良くなっていた志摩にまた不穏なものが纏わりつき始めている。
 とにかく、その場を丸く収めるにはどうしたらいいのだろうかと約一秒悩んだ結果俺は、「俺も」と声を上げた。

「お、俺も……温かいご飯が食べたいな……なんて……」
「本当に?なんか言わされてるんじゃない?」
「お前と一緒にしてほしくないんだけど」
「どういう意味だよ」
「ふ、二人とも、落ち着いて……喧嘩はよくないよ……」

 志摩も志摩だが、阿佐美も阿佐美だ。
 二人に仲良くしろというのも無理なのかもしれないが、それにしてもこう、もう少し普通に話すことは出来ないのだろうか。それとも、それが『今時』というやつなのか。
 オロオロしてる俺に気付いた志摩は、打って変わってにっこりと柔らかく微笑んだ。

「大丈夫だよ、齋藤。別に喧嘩なんてしてないから。ただ、大人げない我儘なこいつに言ってるだけだから」
「………………」
「し、志摩……」
「コンビニでいいよね。俺、こいつの顔見ながらゆっくり座ってご飯とかしたくないから」
「そうだね、ゆうき君ならともかく礼儀知らずと相席は俺も勘弁してもらいたいし」
「し、詩織……」

 こういう時の意見は合致するんだな……。
 仲が良いのか悪いのかわからなくなりながらも、俺達は行き先を食堂からコンビニへと変更する。

 結局、コンビニで各々好きなものを食べるというなんとも簡素な朝食になってしまった。
 本当は食堂が楽しみだったが、この空気では仕方ない。

 学生寮、ラウンジ。
 沈黙が流れる中、なんとかおにぎりを食べ終えた俺に志摩は笑いかけて来る。

「じゃあそろそろ行こうか」
「そうだね。……あ」

 そこで、俺は阿佐美が制服を着ていないことを思い出す。
 まさか服装自由というわけでもないだろうし、どうするつもりなのだろうかと一人ハラハラしていると志摩も同じことを考えていたようだ。

「阿佐美、お前授業受ける気あるの?」
「……ないけど」
「なら大人しく部屋に戻れよ」
「……」

 ああ、また始まった。
 ギスギスとした空気に胃が痛くなる。

「……ゆうき君とお前を二人きりにしておくのが心配だから」
「……え?」

 そんな中、不意にぽつりと呟いた阿佐美。その言葉が引っ掛かる。
 志摩のことを言っているのだろうが、何故阿佐美がそんなことを言うのかが分からなかった。そこまで仲が悪いのか、と。
 そしてそんな阿佐美の言葉を志摩が快く思うはずもなく。
 バン、とテーブルを叩き、立ち上がる志摩に一瞬にして周りの空気が凍り付いた。そして、それは俺も例外ではない。

「……授業受ける気もない特待生様が、俺たち一般生徒に口出ししないでくれないかな」

 低い声。阿佐美を睨み付ける志摩に、俺はその場から動けなくなる。
 ただ一人、志摩に睨まれた阿佐美は然程気にした様子もなく、手元のジュースパックを飲み干した。

「あの、詩織の好きなようにしたらいいんじゃないかな……でも、俺達は授業があるから行かなくちゃいけないけど……」

 その場の空気に堪えきれず、思い切って俺は声を振り絞った。
 二人の視線がこちらを向くのを確かに感じたが、俺はまともに二人の顔を見れなかった。

「だから……その、喧嘩……しないで……」

 次第に声が小さくなっていく。
 もしかしたら「調子に乗るな」と志摩に怒られるかもしれない、そう思ったからだ。
 だけど、これ以上目の前で阿佐美が責められるのを見過ごすことも出来なかった。
 汗が滲む。笑っているつもりなのに、表情筋が次第に硬くなっていくのご分かった。
 小さな沈黙が流れる。そして、その沈黙を破ったのは志摩だった。

「……そうだね、齋藤の言う通りだ」

 志摩の言葉は怒声でも罵声でもなく、先程までと変わらない優しいものだった。

「けど、齋藤勘違いしないでよね。喧嘩してるわけじゃなくて、俺はこいつの我儘に呆れてるだけだから」
「……」
「あの、志摩……」
「ああ、そうだね、授業だよね。それじゃあ、さっさと行こうか、齋藤」

 そこまで言わなくてもいいのではないか、と言うつもりが志摩に遮られてしまう。
 手を掴まれ、強引に立たされればそのままラウンジから引き摺り出されそうになった。

「志摩……」
「じゃあね、阿佐美。特待生は特待生らしく時間を気にせずゆっくりしていきなよ」

 そう、満面の笑みを浮かべて阿佐美に手を振る志摩。
 とうとう阿佐美は何も言わなかった。
 そんな阿佐美に笑みを消した志摩は、「行こう」とだけ呟きさっさと歩き出す。
 志摩は、阿佐美を特待生だという。それはすごいことだと思うし、讃えられるべきなのだろうが、志摩の『特待生』という言葉はどことなく刺々しくて、まるでこちらまで胸が苦しくなるようだった。
 なんか、嫌だな……こういうの。
 阿佐美も志摩も悪いやつではない……と思うのだけれど、仲が悪い二人にどうすることも出来ないのだ。
 こういう時、自分の役に立たなさが浮き彫りになってしまい嫌になってくる。

「あの……志摩……」

 阿佐美と別れ、微妙な空気のまま学生寮を出た俺と志摩。
 居心地の悪さだけが残っていて、何かを話さないと。そう思い、その背中に声を掛ければ志摩はこちらを振り返る。その顔にはいつもと変わらない笑顔が浮かんでいた。

「ああ、手首、痛かった?……ごめんね?」
「そ、そうじゃなくて……あの、さっきのこと……なんだけど……」

「少し、言い過ぎなんじゃないかな、って……思って」いつもと変わらない志摩に、もしかしたら伝わるかもしれないと思って本心を口にすれば、ほんの一瞬、志摩の表情から笑顔が消えた。
 そしてすぐに、笑みが浮かんだ。
 人良さそうな、柔らかい笑顔。

「……ああ、あれね」
「あれって……」
「それは俺も言い過ぎたかなって思ってたんだ。齋藤にまで気を使わせちゃってごめんね?」
「俺は……別に、いいんだけど……」
「齋藤は優しいね」
「……そうかな」

 なんだろうか、いつもと変わらない志摩は、自分でも反省してると言ってるのに、なんだろう。釈然としない。
 志摩は本当に自分が悪いと思ってるのだろうか。俺が今まで見てきた人間とは違う、ほんの一瞬だけ見せた目は確かに『なんで自分が責められないといけないんだ』と、そう言いたげな色が滲んでいたのがやけに引っ掛かった。
 ……俺の考え過ぎなのだろうか。
 志摩が何を考えてるのかわからない。

「ほら阿佐美ってああだろ?からかい甲斐あるからさ、ついね」
「……からかい?」
「そうそう。ああいう反応されると言い過ぎちゃうっていうかさ」
「じゃ……じゃあ、本気で怒ってたわけじゃ……」
「そんなわけないだろ?」

 そう笑う志摩が嘘を吐いているようには見えなかった。
 俺にはからかうとかそういうのが分からないが、もしかしたら一般的にはああいうのもちょっとしたからかいに入るのかもしれない。……俺には言い過ぎのように思えたが、志摩がそう言うのならそういうことなのだろうか。

「でも、あんまりそういうのはやめた方がいいと思う……」
「齋藤は本当優しいね、あんなやつのことを心配するんだ」
「そんな言い方……」
「ごめんね、気に障ったなら謝るよ。俺、結構言い方キツイみたいだからね」

 志摩は笑う。
 自覚があることに驚いたが、相変わらずどこまでが本気なのかよく分からない。

「嫌いになった?」

 答え倦ねていると、志摩に手を取られる。びっくりして顔を上げれば、そこには微笑む志摩がいて。

「俺のこと、嫌いになった?」

 もう一度、同じ言葉を問われる。
 好きとか嫌いとか、簡単になるものではないだろう。少なくとも、なんでこのタイミングでそんなことを聞いてくるのか分からなかった。

「ぁ、あの……っ、志摩……」

 志摩の指が触れる箇所が、熱い。距離が近い。こんなものなのだろうか。俺には普通の距離感と言うのがわからなかったが、向けられた視線はチクチクとだ刺さるようだった。

「これくらいで、嫌にならないよ……」

 本当は、できることなら知りたくなかったが、志摩だって人間だ。嫌なところぐらいあっても可笑しくない。
 そもそも、志摩は俺にどんな返事を求めているのか分からなかった。けれど、俺の言葉に、志摩は確かに心から笑った。ような気がした。

「良かった。……まあ、口の利き方には気を付けるよ。齋藤が嫌って言うなら」

 軽薄で、どこまで本気か分からない。
 たった一日二日で分かり合えるとは思っていなかったが、それでも、少しでも仲良くなれればと思ったのに。……知れば知るほどその認識の差に躊躇する。
 喜べばいいのか、分からなかった。

「齋藤は随分とあいつが気に入ってるんだね」
「気に入ってるっていうか……その」
「どうして?」
「……どうしてって……普通、だと思うけど……」
「……普通ね」

 そう、志摩はどこかに目を向ける。
 なんだろうか。少しだけ、嫌なものを感じたが、気のせいだろうか。気が付けばいつもの志摩に戻っていて、俺達は他愛もない話をしながら学園へと向って歩き出す。
 志摩に阿佐美の話をしない方がいいだろう。二人の間に何があったのか知らないが、部外者である俺が突っ込んでいい問題だと思えないからだ。

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