06
「そいつって誰?もしかして俺のこと言ってんの?」
阿賀松はにやにや笑いながら、志摩に目を向けた。志摩は仏頂面のまま、阿賀松を無視して俺の腕を掴む。志摩の指先に力がこもり、鈍い痛みが腕に走った。
「え、あ……ちょ……っ」
そのまま阿賀松から離れるように歩き出す志摩に、俺は戸惑って足を止める。
「詩織は?……詩織はどこにいるんだよ」
立ち止まった俺は、とっさに志摩に問い掛けた。志摩は無言のまま、俺を見据える。
なんで志摩がそんなに怖い顔するんだ。
「齋籐を探しにいったよ。随分前にね」
「ご……ごめん」
どうやら、志摩たちもはぐれたらしい。俺はなんと言えばいいのかわからなくて、とっさに謝った。
「おいおい、俺完全に無視?相変わらずつめてーなあ、亮太は」
「……」
暗闇からぬっと伸びてきた阿賀松の腕が俺の肩に置かれる。俺は少し驚き、阿賀松の横顔に目を向けた。志摩に向けられた可笑しそうに笑う阿賀松の目は、笑っていない。
知り合いなのだろうか。友達のようには到底見えないが、阿賀松の口振りからすると赤の他人のようにも見えなかった。
「……齋籐になんの用ですか」
志摩は俺の背後に立つ阿賀松を睨み付けた。いつもの笑みはそこにはない。
「勘違いすんじゃねーよ。ユウキ君が、俺に、用があるんだって。な」阿賀松は変に強調しながら、俺に目を向けた。薄暗い視界の中、阿賀松と目があい俺は慌てて逸らす。
「齋籐」
本当なのか。そう言いたげな志摩の目に、思わず俺は顔をうつ向かせた。
「……ごめん」他にも色々言いたいことはあったのに、俺の口からは謝罪の言葉が漏れる。
なんで謝ってるんだ俺。謝ることしかできない自分の口が憎たらしい。志摩はなんにも言わなかった。
「ちょっと亮太くーん。俺のユウキ君苛めんのやめてくんない?可哀想だろ?」
阿賀松は場を茶化すように笑いながら俺の頬を指の腹で撫でる。
「……苛めてんのはどっちだよ」
志摩はコメカミをひくつかせながら、低く吐き捨て俺の腕を引っ張った。阿賀松から無理矢理引き剥がされたのはいいが、志摩はそのまま歩き出す。
「おい、置いていくなら懐中電灯くらい渡せ」
背後から阿賀松のつまらなさそうな声が投げ掛けられた。
志摩は俺の手に握られた懐中電灯を取り上げれば、阿賀松の方へそれを乱暴に投げる。
「物は大切に扱えよ」不満そうな阿賀松の声が聞こえたが、志摩はそのまま廊下を歩いた。
半ば引き摺られるような形で志摩に連れられる俺は、どうすればいいのかわからずただ志摩についていく。
「し、志摩……っ」
「なんで阿賀松と一緒にいるんだよ」
痛いから、手を離して。そう言おうとして、志摩に遮られる。
どっかの教室の前、強制的に阿賀松と別れた俺たちはそこでようやく足を止めた。
「なんでって……その、校舎を追い出されちゃって、それで……っ」
俺はしどろもどろとこれまでの経緯を志摩に説明をする。説明を続ければ続けるほど、志摩の顔は険しくなるばかりだ。
どうしよう、志摩怒ってる。
「……それで」
俺は志摩から目を離し、言いかけて口を閉じた。
なんだか言い訳しているつもりじゃないのに、言い訳をしているみたいで俺は黙り込む。
「……急にいなくなってごめん」
「なんで謝るの」
俺が項垂れながら謝ると、志摩はそんなことを聞いてきた。なんでと言われて、俺は返事に詰まった。
「……志摩が怒ってるから……?」
疑問形で返すと、志摩は更に眉間にシワを寄せる。いまのは俺が悪い。
「ごめん」
「いちいち謝らないでよ」
志摩の手が伸びてきて、俺の前髪に指を絡ませる。前髪を掻き上げるように、志摩は俺の顔を上げさせた。困惑する俺は志摩の顔を見上げる。
「イライラするから」
志摩は小さく笑いながら、そう吐き捨てた。
どうな暴言にも聞き慣れていたつもりだったが、頭を殴られたような衝撃が走り、俺は目を見開く。
思ったよりもショックを受けている自分が可笑しくて、俺は苦笑しながら「ごめん」と呟いた。
いまさっき志摩に言われたばかりだというのに無意識に謝っている自分が恥ずかしくて、とっさに俺は志摩から顔を逸らす。目頭が熱くなって、鼻がつんとして、視界がグニャリと歪んだ。
「……っ」
まさか、自分がこんなしょうもないことで泣いてしまうほど感受性が豊かとは思っていなかった。
「ほんと、ごめ……っ」
呆れたような顔をする志摩と目を合わせるのが辛くて、志摩に背中を向ける。
嫌われた。確実に嫌われた。というか絶対ドン引かれた。
考えれば考えるほど涙で視界が揺らぎ、俺は歯を食い縛り溢れるのを必死に堪える。
「……なんでそこで泣くの」
志摩は不思議そうな顔をして、俺の顔を覗き込む。
「な、泣いてない……っ」
涙声で志摩から顔を逸らす俺に、志摩は「嘘」と即答した。というかわかっているなら人の泣き顔を見ようとしないでほしい。
「どうして?」と執拗に聞いてくる志摩に、俺は自暴自棄になった。
「……とっ友達に、嫌われたくないから……っ」
言ってから急に恥ずかしくなって、俺は顔を腕で覆う。
なんでこんなことわざわざ言わなきゃいけないんだ。耳が熱くなって、俺はもうなんだかとても死にたくなった。
「へえ」
志摩は俺の腕を掴み上げ、無理矢理俺の顔を見ようとした。一瞬でも耐えられないのに、志摩はまじまじと俺の顔を見る。
俺は「離して」と顔を横に振った。
流石に、恥ずかしい。というより情けなくて、自分が恥ずかしくて堪らない。
「……別に俺、嫌いとか言ってないんだけど」
「……」
まさか泣かれるとは思っていなかったのか、志摩はバツの悪そうな顔で呟く。
それを聞いて、慌てて俺は志摩から離れようとした。カアッと顔が熱くなって、涙腺が一気に渇く。
確かに、志摩はそんなこと一言も言っていない。自分の酷い被害妄想と目も当てられないほどの醜態に、俺は穴があったら入りたくなる。
「……離してっ」
なのに、手を振り払おうとしても志摩は腕を離してくれない。
「齋籐って、そんなに俺のこと好きなの?」
志摩は、俺の腕をぐいっと掴み顔を近付けてくる。
俺は目の前の志摩を見据え、どんな顔をすればいいのかわからず酷く困惑した。
好きかと言われたら好きの部類に入るだろう。じゃなかったら、友達と言われてあんなに喜ばない。
「……す、好きだけど」
俺はおずおずと志摩を見上げ呟く。
志摩は少しだけ驚いたような顔をして、微笑んだ。
いつもの志摩に戻った。志摩の笑顔を見て、緊張の糸がほどけたように心が軽くなる。ほっと胸を撫で下ろす俺。
「し……」
志摩。そう名前を呼ぼうとしたとき、志摩の顔が近付いて唇を塞がれた。
なんで俺、キスされてるんだ。
あまりにもいきなりのことで、思考回路が追い付かない。
気が付いたら、俺は志摩の頬に向かって拳を振り下ろしていた。
「……なんで殴るの」
俺の拳が志摩の頬に触れるより先に、志摩に手首を掴まれる。
前に、阿賀松にキスをされたときのことを思い出した。
志摩がしたのは触れるだけの軽いキスだった。なのに、あの時よりいまの方が気分が悪かった。
「どうして、キスなんか」
自然と声が震える。志摩と目を合わせるのが怖くて、俺は目を伏せた。
「齋籐が俺のこと好きだから」
「俺が言ったのは、そういう意味じゃない……っ」
平然としていう志摩に、俺は呆れたように呟く。
「離して」俺は志摩の肩を強く押すが、手首を掴まれているせいで思うように自由が効かない。
「じゃあ、俺が齋籐を好きだから」
「それは……」
友達としてじゃないのか。俺がそういいかけたとき、遠くから複数の足音が聞こえた。
「志摩……っ」俺は志摩の腕を掴み、ぐいぐいと押す。
「んん……っ」
壁に押し付けられ、再び唇を重ねられる。
人が来るとか、好きってどういう意味だとか、色々なことが一度に起こりすぎて俺の頭はパンクしそうになった。
『ゆーきくーん、ゆーきくーんっ』
遠くから阿佐美の声が聞こえる。なのに、志摩は俺を離そうとはしなかった。
志摩がどういうつもりかまったくわからなかったし、わかりたいとも思わない。
「……っ」阿佐美の声と足音が近付いてくる度に、全身の血の気が失せていく。
「佑樹く──……」
阿佐美の声がしたとき、志摩は俺から唇を離した。
「……志摩?そこにいるの?」
俺の手首から手を離した志摩は、「いるよ」と答える。辺りが暗くてよかった。
一番にそう思ってしまう自分は、少なからず阿賀松に感化されているのかもしれない。
俺は志摩の肩を押し、無理矢理志摩を退かした。
どんな顔をすればいいのかわからず、俺は俯いたまま黙り込む。
「あれっ?ゆ、佑樹君?」
「さっきそこで会ったんだよ。生徒会に捕まってたんだって」
何事もなかったように話す志摩に、阿佐美は「そうなの?」と驚いたような声を出す。
「……佑樹君?」
何も喋ろうとしない俺を不審に思ったのか、阿佐美は心配そうな声を出して近寄ってくる。
「急にいなくなってごめん」これ以上阿佐美を心配させるのが嫌で、なにか言おうとして口から出たのは先ほど志摩に注意されたばかりの謝罪の言葉だった。
思ったより自分が落ち着いているのに驚く。もしかすると、まだ脳みそが追い付いていないだけかもしれない。
「……どうしたの?」
なのに、阿佐美は心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
なんでどいつもこいつも人に見られたくないときに限って顔を見ようとしてくるんだ。
「別に、なにもないよ」俺は言いながら阿佐美から顔を逸らす。
「本当に、なんにもないから」
俺は、念を押すように強く阿佐美に言った。少し、強く言い過ぎたかもしれない。言ってから後悔してもどうしようもないのだけれど。
「……ごめん」阿佐美は少し寂しそうに項垂れ、それ以上はなにも言ってこなかった。
なんで阿佐美が謝るんだ。俺はそう言いかけて、口を閉じた。
志摩が俺たちのやりとりじっと見ているのに気が付いたからだ。
「……もう、寮に戻ろう」
俺は志摩から目を逸らしながら、そう呟く。
「齋籐が言うなら」志摩はそう笑いながら俺たちに背を向け歩き出した。
俺と阿佐美はその後ろをついていく。どことなく空気が重い。その原因が解っているだけに、俺はどうすることもできなかった。
好きだって言われてキスをされて、何事もなかったように接してきて。俺には志摩が考えていることがわからなかった。それ以上に、志摩にキスをされても嫌悪感を覚えなかった自分がわからなかった。
好きだと言われたからだろうか。嫌われていないからだろうか。
わからない。わからないことばかりが増えて、わかることが霞んでいく。
気にしたところでどうにかなるわけじゃないとわかっているのに、わかっているつもりなのに。
女々しい自分に嫌気がさして、俺は一人自己嫌悪に陥った。
人気のない廊下。
初めに入ってきたあの空き教室へやってきた俺たち。
後半から幽霊どころじゃなくなってしまった肝試しはようやく終わる。なにかもう一つ大切なことを忘れているような気がしたが、思い出せない。
「まったく、幽霊なんて言い出したの誰だよ」
言いながら、志摩は窓を開いた。
見回りの人たちに、教室の鍵を閉められていなかっただけましなのかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、ぼんやりと床の模様を見つめていた。
「齋籐」
「……」
「齋籐?」
志摩に肩を掴まれ、ようやく俺は自分が呼ばれていることに気付く。
自然と体が強張り、俺はとっさに志摩の手を振り払った。
空き教室に乾いた音が響き、志摩が驚いたような顔をする。
しまった。無意識にしてしまった自分の行動に、俺は青ざめる。
「ご、ごめん。……なんだっけ」
俺はなるべく志摩に動揺を悟られないように続ける。
自分が意識しているなんて、知られたくもないし思われたくもなかった。
「いや、齋籐から降りさせようかと思って」志摩はいつも通り笑みを浮かべる。
どうやら、気にも留めていないようだ。
俺は内心ほっと胸を撫で下ろし、「俺は最後でいいよ」と笑う。頬が引きつり、うまく笑えなかった。
志摩、阿佐美の順番で二人は窓枠から外へと降りる。
よくそんな軽々といけるな。俺は近くにあった椅子を窓際に添え、その上を上がった。俺はなるべく下を見ないように窓枠に片足を乗せる。
そこでようやく思い出した。阿賀松とやってきたとき、職員用の玄関に靴を脱いできたことを。
「うわ……っ」
その瞬間、窓枠を掴んでいた手が不意に緩み、俺は前のめりになる。
危ない。軽いデジャヴを感じながら、俺は慌てて窓枠に手を伸ばした。
「ゆ、佑樹君!」
窓枠を掴み損ねる。一階から転落とかちょっと情けなさすぎるんじゃないだろうか。
前倒れになりながらそんなこと考えてると、なにかに鼻を打った。
「……っ」
痛みはない。慌てて顔を上げると、間近に阿佐美の顔があってかなり驚く。
どうやら俺は阿佐美に向かって飛び込んだようだ。
「あ……ありがとう」
両脇を支える阿佐美の手に気付き、俺は慌てて阿佐美から離れる。
やけに心臓の音が煩い。
「あ、手、ごっ……ごめん」阿佐美は慌てて俺から手を離し、項垂れる。
地面に飛び込むよりかは幾分ましだったが、これもこれでバツが悪かった。突き刺さるような志摩の視線が痛い。
「ていうか、なんで裸足?」
志摩は俺の足元に目を向け、呆れたような声を出す。
一応靴下は履いているつもりだが、そういう問題ではないのはよくわかっていた。
「昇降口の所に忘れてきちゃった……」俺は苦笑を浮かべながら、気まずそうに目を逸らす。
「俺の靴片方貸そうか?」
「……いや、そんなの悪いし」
「別に気にしなくていいよ」
志摩はそんなことを言いながら笑う。
さっきあんなことがあったばかりだと言うのに、気にしない方が無理だ。
俺は志摩の好意を受け取ろうとはしなかった。
「じゃあ、おぶろうか」
ヘラヘラ笑いながらいう志摩に、俺は顔を強張らせる。
冗談にしては、やけに目が据わっていた。
「だから、いいって」俺は志摩から顔を逸らし、壁際のコンクリートの上に移動する。
もう一度取りに戻ろうか迷ったが、関係のない二人を巻き込むのも一人であの校舎に戻るのも嫌だった。
どうせ朝コッソリ取りに戻ればバレないだろう。思いながら、俺はコンクリートの上を歩き出した。
「……本当にいいの?」
そう伺うように聞いてきたのは、阿佐美だった。俺の隣にやってきた阿佐美は、俺の足元に目をやりながら聞いてくる。
「別に死にはしないから」俺は冗談めいたことを口にした。我ながらつまらない冗談だと思う。案の定阿佐美は納得のいかなそうな顔をしていた。
昇降口の前を通りかかったとき、俺の前に二つの何かが飛んできた。
ビックリして思わず足を止めると、昇降口前に人影が立っていたことに気付く。
「ほらよ、忘れ物」
「……先輩」
地面の上に転がっているのは、俺の靴だった。
壁に凭れていた阿賀松は、俺の隣にいる阿佐美を一瞥すれば俺に近付いてくる。
「まだ居たんですか?」
「別にお前に用はねーから安心しろよ」
面白くなさそうな志摩に、阿賀松は「おー怖い」と茶化すように肩をすくめる。
「ついでにこれも」阿賀松は俺の前までやってくれば、なにかを俺に差し出してきた。
それを受け取った俺は、恐る恐る手の中のそれに目を向ける。鍵だ。
「昇降口に落ちてたから。いちおー渡してやってあげとこうかと」
「あ……ありがとうございます」
かなり上から目線の言葉が引っ掛かったが、俺は素直にお礼を言う。
わざわざ探してきてくれたのだろうか。想像できない。
「でもまー、詩織ちゃんがいるなら大丈夫そうだな」
言いながら、阿賀松は阿佐美に目を向ける。
「……なんの話?」阿佐美は自分だけ蚊帳の外なのが気に入らなかったのか、少しムッとした顔で俺に聞いてきた。
説明すると無駄に長引きそうだったので、俺は「大したことじゃないよ」と笑って流す。
「じゃあ、亮太が怖えーから俺はここで退散させてもらうよ」
「……」
阿賀松はにやにや笑いながらそんなことを言い出した。
阿賀松の余計な一言で、さらに場の空気が重くなる。志摩は何も言わずに阿賀松に目を向けた。何が面白いのか、そんな志摩を見て阿賀松は可笑しそうに笑いながら俺に背中を向け歩き出す。
「……」
もしかして、鍵を渡すために俺を待っていてくれたのだろうか。
闇に紛れる阿賀松の背中を眺めながら、俺はそんな都合のいい思考を働かせる。
あまり阿賀松に貸しはつくりたくなかったが、今回ばかりは仕方ない。俺は困ったような顔をして、手の中の鍵をポケットの中に入れた。
「なんなの、あれ」
「さ、さあ」
苛ついたように志摩は俺に目を向けた。
機嫌が悪くなった志摩から、俺は慌てて顔を逸らしながら答える。
「とにかく、戻ろう」
「……そうだね」
俺はこれ以上志摩が不機嫌になる前に、強引に話を変えた。
志摩は何か言いたそうな顔をしていたが、俺の言葉に小さく笑いながら同意する。
阿賀松が見えなくなったのを確かめ、俺たちは再び寮に向かって歩き出した。
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