天国か地獄


 07

 寮一階、ショッピングモール。
 消灯時間が近付いているせいか、いる生徒は少ない。
 ショッピングモールを横目に、俺たちはエレベーターの前にやってきた。
 行きよりも格段に雰囲気が悪い。もっとも、そう感じているのは俺だけかもしれない。
 暫くするとエレベーターの扉が開き、扉の近くにいた志摩はそれに乗り込んだ。

「二人とも、乗らないの?」

 志摩は入り口の前で動こうとしない俺に怪訝そうな視線を向ける。その言葉は確実に俺に向けられた。
 明るい照明の下だからだろうか。乗り込むことになんとなく躊躇ってしまう。志摩に視線で促され、渋々俺はエレベーターの中に乗り込んだ。続いて、阿佐美がエレベーターに乗り込み、俺と志摩の間に立つように並ぶ。

「……」

 志摩は阿佐美を一瞥し、エレベーターのドアを閉め目的地を設定した。
 妙な沈黙。さっきまでとは違う、明るい場所でまともに志摩と顔を合わせれる自信がなかった。
 だけど、志摩との間に阿佐美が入ったお陰で随分気が楽になる。
 俺は心の中で阿佐美に感謝しながら、エレベーターが三階につくのをただ静かに待っていた。

 ◆ ◆ ◆

「じゃあ、また明日」

 エレベーターを降りた志摩は、そう言って笑った。
「……うん」俺はどんな顔をすればいいのかわからず、目を泳がせながら頷く。
 そうだ、また明日もあるんだ。そんな当たり前のことすら忘れて、それを思い出した今億劫で堪らない。

「……」

 バツの悪そうな顔をする俺に、志摩は少しだけ目を細めればそのまま廊下を歩いていく。
 もしかしたら俺、ものすごく嫌なやつなんじゃないだろうか。今さらになってそんなこと考える。
 志摩みたいに、何事なかったように相手と接することができるならどれだけいいか。
 無理だとわかっていても、そんなことを思ってしまう。自然と口からは溜め息が漏れた。
 志摩の姿が見えなくなって、ようやく俺はほっと安堵の胸を撫で下ろす。

「……志摩となにかあったの?」

 ふと、阿佐美が口を開いた。
 まさかそんなことを聞かれるなんて思わなくて、俺は顔を上げ阿佐美に目を向ける。

「……なんで?」

 阿佐美に核心を突かれ、俺は露骨に動揺した。
 なんでってなんだよ。意味わかんない。自分で言って、言葉をしくじったと思った。

「なんとなく」

 阿佐美は、俺の方を見ながらそう呟く。
 目が見えないから本当はどこを見ているかわからないけど、多分いま目が合った。
 なんだか見透かされているようで、居心地が悪くなった俺は阿佐美から目を逸らす。

「本当に、なんにもないから」

 俺は、そう強く阿佐美に念を押す。
 微かに声が震えてしまい、俺は気まずくなって阿佐美に背中を向けた。

「佑樹君……」
「消灯時間になる前に早く部屋に戻ろうよ」

 これ以上阿佐美と話しているとボロを出してしまいそうで、俺は強引に話題を変える。
 阿佐美はなにか言いたそうにしていたが、俺の言葉を聞くと「うん」と頷いた。
 俺と阿佐美は廊下を歩いて自室へと戻っていく。
 静まり返った廊下は不気味だったが、隣に阿佐美がいるだけで心強かった。

「さ……さっきは、変なこと聞いてごめんね」

 自室の前にやってきたところで、阿佐美はそんなことを言い出す。
『変なこと』とは志摩とのことだろうか。
 俺は阿賀松から貰った鍵を手に、横目で阿佐美の方を見た。
 項垂れた阿佐美は、恐る恐る俺の方を伺っている。目が合うと、慌てて顔を逸らされた。

「詩織、悪くない。謝らなくていい」

 なにを返せばいいのかわからなくて、俺はしどろもどろと呟く。
 カタコトになってしまい、俺は恥ずかしくなって阿佐美から顔を逸らし鍵を鍵穴に差し込んだ。入らない。

「ゆ、佑樹君……俺……っ」

 阿佐美は顔を上げ、なにか言いたそうに俺の方を見た。
 それと同時に無理矢理鍵穴に鍵を入れようとすると、俺の手から鍵が落ちた。

「ごめん、後ででいい?」
「あ……うん……」

 俺が阿賀松から貰った鍵が333号室の鍵じゃないと気がつくのに数十分弱かかった。

「……」

 どこの鍵だよ、これ。俺は掌の上の鍵を睨みながら、なんともいえない気分になる。
 阿賀松は違うとわかってて俺にこの鍵を渡してきたのだろうか。だとしたら幾分質が悪い。

「あ、俺、鍵なら持ってるよ!」

 阿佐美は思い出したように部屋の鍵を取り出し、俺に見せてくる。
 どうせ阿佐美は鍵を持ち歩いていないだろうと決め付けていただけに、少し意外だった。
 どことなく嬉しそうな阿佐美に、俺は「よかった」と安堵の胸を撫で下ろす。

「佑樹君に言われてから俺、ちゃんと鍵持ち歩いてるから」
「……そうなんだ」
「うん!」

 まあ、持ち歩いて当たり前なのだけれど。
『褒めて、褒めて』と言わんばかりの阿佐美に、俺は「詩織は偉いね」と自分なりに目の前の男を褒めてやる。
「……えへへ」阿佐美は頬を赤くしながら、嬉しそうに口許を緩めた。

「じゃあ、ドア開けてもらおうかな」
「うん、わかった!」

 いつもの調子に戻った阿佐美は、にやにやしながら扉の前に立つ。
 少し気味が悪かったが、せっかく機嫌がよさそうだったし俺はなにも言わず阿佐美を眺めていた。
 開いた扉から、俺たちは自室に足を踏み入れた。部屋から出る前となにも変わらない眺めに、俺は安心する。俺はフラフラとベッドに近付けば、そのまま布団の上にダイブした。

「あぁーっ、柔らかい」
「布団だもんね」

 校舎を歩き回ったおかげで、全身が酷くだるい。
 阿佐美はベッドでうつ伏せになった俺を横目に、自分の机に近付いた。

「勉強するの?」
「ち、違うよ。明日の準備っ」
「明日?」

 明日、なにかあっただろうか。
 椅子に座り机でなにかしている阿佐美を横目に、俺は少し考えてみる。
 俺の記憶によると、特に目立ったことはなかったはずなのだが。
「なにかあったっけ?」俺は上半身をベッドから起こしながら、阿佐美に問い掛ける。

「がっこーの準備」

 ……がっこー?
 一瞬阿佐美がなにを言っているのかわからなくて、俺は阿佐美を見た。
 学校。確かに、阿佐美は学校といった。

「学校って、勉強するところ?」

 自分で言って、意味がわからなくなってくる。確か、阿佐美は引きこもりというか不登校じゃなかったのか。
「……佑樹君」お前はなに当たり前のこと言ってるんだと言いたそうな眼差しを俺に向ける阿佐美。面目ない。

「詩織、明日学校行くの?」

 あまりにも顔を出さないもんだから呼び出しでもくらったのだろうか。有りうる。
「……明日から、ずっと」なにか癪に障ってしまったのか、急に阿佐美はぶっきらぼうに呟いた。阿佐美の一言に、俺は更に驚く。

「もしかして、なんかあったとか」

 驚きのあまりに、いらん心配までしてしまう。不登校児がいきなり毎日登校だなんて、なにかあるはずだ。俺が心配そうに阿佐美に目を向けると、阿佐美は俺から顔を逸らす。

「……志摩もいるんだろ。学校」
「え?」

 阿佐美の口からいきなり志摩の名前が出てきて、不意に体が強張った。
 そりゃあ、志摩もここの生徒なのだからいて当たり前だろう。それとこれと、どう関係あるのだと言うのだろうか。
 そこまで考えて、俺は阿佐美から目を逸らした。もしかして、校舎でのことまだ気にしているのだろうか。

「とにかく、俺も行くから」

 黙り込む俺の心情を察したのか、阿佐美は俺に背中を向けたままそう言い張った。

「……でも、いいの?」

 不登校児が学校に行くと言っているのを怪訝に思うのはおかしいと充分に理解しているつもりだが、やっぱり腑に落ちない。
 というより、自分が気を遣わせているようでなんとなく気分が悪い。
 伺うように阿佐美の背中に話しかけると、阿佐美は「なにが?」なんて聞き返してきた。

「なんでって……」

 まるで俺がおかしなことをいったみたいな阿佐美の反応に、俺は口ごもった。
 阿佐美に返せるようなうまい言葉が見つからないのだ。

「佑樹君、もう寝たら?」

 納得のいかないまま、ベッドの上で踞る俺の方に向き直りながら阿佐美はそう言った。
 話を上手く逸らされたようでやっぱり納得がいかなかったが、わざわざ掘り返すような勇気もない。
「……阿佐美は?」俺は阿佐美に目を向け問い掛ける。

「俺は、もう少し起きてる」
「遅刻しても知らないからな」
「その時は起こしてよ」
「……やだよ」

 今朝のことを思い出した俺は、いやいやと頭を振った。阿佐美は露骨に残念そうな顔をする。
「わ、わかったから」あまりにも落ち込む阿佐美が見ていられなくて、俺はついそんなことを口にした。
「ほんとっ?」パアッと顔を明るくする阿佐美に、俺は渋々頷く。

「なるべく、自分で起きるよう頑張れよ」
「わかった!」

 元気よく頷く阿佐美。
 俺は自分の意思の弱さにうんざりしながら、布団の中に潜っていく。
 少し照明が明るかったが、ここは脱不登校を目指す阿佐美に免じて口を閉じることにした。目を閉じて暫くもしないうちに、俺は意識を手放す。

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