天国か地獄


 03

「え、ええと……」

 握手を無視されたショックで暫くその場から動けずにいると、部屋の奥、パソコン周りが片付いているのを見た瞬間阿佐美の目の色が変わった。

「……そこも、触った?」
「雑誌纏めただけだよ。あとゴミを拾っただけ」
「……悪いけど、これ以上触らないでもらえるかな」
「ご、ごめんなさい……っ」
「違うよ」

「志摩、お前に言ってるんだ」と、一言。
 長い前髪の下、色素の薄い瞳が志摩を睨む。
 ……なんだこの空気は、なんとなくピリピリしたものを覚え、やっぱり怒ってるのだろうかと不安になったとき。
 不意に、どこからともなく着信音が響き渡る。
 服から携帯端末を取りだした阿佐美はそれに出ること無く、そのまま部屋を出ていってしまった。

「ど、どうしよう……」
「気にしなくていいよ、多分、齋藤に怒ったわけじゃないだろうし」

 自虐めいたその言葉に、俺は志摩を見た。
 それって、どういう意味だろうか。
 そう、尋ねようとした時。

「これで、齋藤のスペースくらいは確保出来たかな」

 俺のバッグを手に取った志摩はそれをベッドの側まで運んでくれる。
 そうだ、今日からここで生活することになるんだ。
 先程の阿佐美の様子を考えると居た堪れないが、ここでくよくよしていても仕方がない。

「ここ、使ってもいいのかな」
「いいでしょ、別に。あっちのグシャグシャなのが阿佐美の使ってる奴だろうし」
「こっちもグシャグシャしてるけど」
「……まあいいよ」

 なんて、会話を交わしながら俺は荷物を出しベッドに付属してある棚やボードに並べていく。
 生憎荷物もそれほど無いのですぐに終わったが。

「これくらいでいいかな」
「多分」

 一通り片付けを終え、志摩はその場で伸びをしてみせた。
 一応阿佐美の私物らしい机の上や、棚などには一切触っていないが……。

「阿佐美君、怒るかな……」
「片付けてない方が悪いんだよって言ってやればいいよ」
「そんなこと……」
「ふふ、冗談だってば。それに言っただろ、あいつは俺が触ることが気に入らないんだって」

 まただ、あの笑い方。
 たまに志摩は自嘲めいた笑い方をする。
 その笑顔に俺はどう返せばいいのかわからなくなる。
 しかしまあ、志摩の言うことも最もだ。
 気にしたところで仕方ない。
 ゴミを纏め、ごみ捨て場なる場所へ捨てに行こうと廊下に出たときだった。

 三階、ラウンジ。自販機の前で佇む阿佐美を見つけた。

「阿佐美……君?」

 そっとその背中に声を掛ければ、微かに阿佐美の肩が揺れる。

「……君は、確か」
「ええと、あの、齋藤……佑樹です」
「……ゆうき君」

 名前を呼ばれると、少し、擽ったい。

「志摩は?……あいつと一緒じゃないの?」
「いや、志摩は部屋だと……俺はゴミを捨てにきただけで……」
「……」

 この場合は元々阿佐美の私物なわけだからゴミだとか言わない方がよかったのだろうか。
 不安になってちらりと阿佐美を伺えば、対する阿佐美は先程のような冷たさはなく、ただ緊張したような面持ちでこちらを見ていて。

「ええと、あの……」
「さっきはその、ごめん。……勝手に出て行っちゃって。……その、連絡が入ったみたいで折り返し連絡しないといけなかったんだ」
「えっ?いや、別にそんなの、いいよ。……俺だって、勝手に掃除してごめんね」
「いや、俺の方こそ掃除させてしまったんだし……ごめん」

 お互いにぺこぺこ謝って、その事に気付いた時、阿佐美と俺は顔を見合わせた。
 そして、どちらともなく思わず笑ってしまう。

「ごめんね、さっきから謝らせてばっかりで」
「え、いや、その……」
「ゴミ、俺、捨てておくよ」
「……いいの?」
「元はと言えば俺が出したゴミだから。……ありがとう、部屋の掃除は助かったよ」

「あの人たち、ちゃんと片付けないから」と笑う阿佐美。
 怒ってなかった、というよりも思ったよりも優しい人だなというのが印象だった。
 持っていたゴミをひょいと抱えた阿佐美は「それじゃ」とだけ言い残し、ごみ捨て場へ向かう。
 よかった。阿佐美の笑顔に全身の緊張が緩むのを感じた。

 ◆ ◆ ◆

 迷いながらも部屋に戻った時。
 既に部屋には阿佐美も戻っていた。

「お帰り」

 そう爽やかな笑顔で俺を出迎えてくれる志摩。
 ベッドに腰を掛けた阿佐美はさっきとは打って変わって不機嫌そうな色が濃く出ていた。
 言わずもがな、志摩の存在がそうさせているのだろう。

「こっちが齋籐佑樹で、これが阿佐美詩織。今日から同室になるからね」
「さっきは挨拶しそびれてごめんね。……阿佐美詩織。好きに呼んでくれて構わないから」
「ええと、俺は……」
「ゆうき君、だよね?」

 名前を呼ばれ、ぎくりと緊張する。

「……よろしく、ゆうき君」

 差し出された、白く骨張った手。
 それを、おずおずと握り締めた。

「なんかさあ、態度違うよね、阿佐美」
「……なんのこと?」
「別に」

 離れる指先。
 阿佐美の手は思っていたよりも冷たかったけど、気持ちよかった。

「そういやゆうき君、服の入れる場所分かった?」
「え、いや……」
「あんな汚い部屋で分かるわけないだろ」
「俺、あんま服無いからここ全部使っていいよ」
「本当?」
「うん、使ってもらったほうがクローゼットも喜ぶだろうし……」

 途中志摩の野次を無視し、笑う阿佐美は壁際のクローゼットを軽く叩く。
 俺も服はあまりないのだが、それでもそうして気遣ってくれる阿佐美が嬉しくて。

「ありがとう、阿佐美君」
「……うん」

 笑う阿佐美。
 志摩と話している時はなんとなく冷たく感じるが、本当は優しい人なのかもしれない。
 柔らかく笑う阿佐美にホッとしたとき。

「……つまんね」

 そう、いきなり志摩が立ち上がったかと思った時、そのまま志摩は部屋を出ていってしまう。

「し、志摩……」

 咄嗟に呼び止めるが、その時にはもう志摩の姿はなくて。
 どうしよう、何か気を悪くさせるようなことをしてしまったのだろうか。
 追いかける事も躊躇われ、その場で往生していると一部始終を見ていた阿佐美は小さく息をつく。

「あれは……気にしなくていいよ」
「だけど」
「志摩は、ああいうやつだから」

「変わってないな」と、小さく呟く阿佐美。
 でも、怒ってたよな。
 せっかくここまで着いてきてくれたのに追いかけなくていいのだろうかと不安になったが、阿佐美の言葉を信じるしかなかった。

「ええと、その……阿佐美君と志摩って……仲悪いの?」
「え?」
「いや、その……ごめん!気になって……」

 志摩がいなくなってから暫く。
 沈黙の末、俺は思い切って阿佐美に尋ねてみた。
 ……みたはいいが、明らかに阿佐美が困っているのが分かり、後悔した。

「……ごめんね、変な気、使わせたかな」
「え、いや、そういうわけじゃなくて……」
「あいつは前から俺のことをよく思ってないから」
「志摩が?」
「……合わないんだよね、色々と」

「ごめんね、志摩と仲が良いゆうき君に話すことじゃなかったよね」そう申し訳なさそうに項垂れる阿佐美。
 どうしてだろう、志摩が阿佐美を苦手とする理由がわからなくて。
 しかし、それは俺には関係のないことだろう。これ以上追及しても阿佐美を困らせてしまうだけだ。
「こっちこそごめん」と釣られて項垂れれば、慌てて阿佐美は「いや」と首を横に振った。

「俺も……ごめんね、って……ダメだよねさっきから、俺、君に謝らせてばかりだ」
「それは、阿佐美君のせいじゃ……」
「詩織」
「……え?」
「あ、いや……阿佐美君じゃなくて……詩織でいいから」

「そう、言おうと思ったんだ」そう、徐に目を逸らす阿佐美。
 長い黒髪から覗く耳が微かに赤くなっていて、阿佐美が照れていることに気付いたこちらまで急に恥ずかしくなってくる。

「し、詩織……?」
「……ゆうき君」
「……」
「……」
「……」

 なんだ、この沈黙は。

「ご、ごめん……あまり人と話すの、得意じゃなくて」
「あっ、ご、ごめんなさ……」
「違う、ゆうき君は悪くないよ。……俺が、悪いんだ」
「……詩織?」

 歯切れが悪い阿佐美に段々こっちまで萎縮した時だった。
「あの」と阿佐美が口を開く。

「こんなこと言った後じゃなんだけど……よろしくね。あいつみたいに面白いことも言えないけど」
「いや、そんな……こっちこそ、よろしく」

 そこで、ようやく阿佐美は笑ってくれた。
 その事が嬉しくて、俺も釣られて破顔する。

「部屋の片付け……大変だったよね、ごめんね」
「え、いや、そんなことないよ。志摩が手伝ってくれたから……」
「……そう」

 しまった、また余計なことを言ってしまったかもしれない。
 阿佐美の反応にドキドキしていると、

「そういや、ゆうき君はご飯食べた?」
「……ご飯?」
「うん、……昼飯まだじゃないかなって……思ったんだけど」

 段々語尾が消えかかっていく阿佐美。
 そう言えば、一度戻って志摩にモールを案内してもらって、それからと考えていたんだった。
 しかし、今は志摩がいない。

「そういや……まだだな」
「そう言えばゆうき君は食堂の場所分かる?」
「いや」
「俺で良かったら、その……案内するけど……どうかな」

 志摩とは打って変わって控えめな誘い。
 食堂、確かに腹が減ってきた頃だった。
 教えてもらえるのなら有り難い。
 けれど、と志摩の顔が脳裏を掠める。

「……あの、ゆうき君?」
「え?」
「どうかな……って、思ったんだけど」

「無理そうだったら断ってくれていいから」と恐縮する阿佐美に、慌てて俺は首を横に振る。

「そ、そんなことないよ!俺の方こそ……すごい、助かるし……」

 そう1人うんうんと頷けば、阿佐美は安堵したように頬を綻ばせた。

「よかった……それじゃ、早速行こうか」
「その、食堂って学生寮にあるの?」
「うん、一階にね」

 というと、やっぱりショッピングモールか。

「ゆうき君さえよければ、モールも案内するよ」
「……いいの?」
「うん。……俺も、本屋に行きたかったから」

 気を使ってくれているのがわかって申し訳なくなるが、それでも、その気持ちは有り難い。
 先程志摩にモールを案内してもらう約束を交わしたばかりだが、こうなったら仕方がない。
 阿佐美の善意に甘えよう。
 志摩は……恐らくあの様子じゃ案内してもらえないだろうし。

「ありがとう、詩織」
「……これくらいしか、俺には出来ないから」

 謙虚というか、ここまで来ると卑屈なものを感じずにはいられなかった。
 優しいからこそ、だからだろうか。そんなことないのにと思ったが、さっき会ったばかりの俺が何言ったところで信憑性もクソもないことには変わりない。

「ゆうき君」

 不意に、名前を呼ばれる。
 顔を上げれば、おずおずとこちらに向かって手を差し出してくる阿佐美がいて。
「ん?」と思いながらも何気なくその手を握り返した時。

 阿佐美は歩き出す。
 俺の手を引いたまま。

「ちょっ、阿佐美、待って!手!手!手!」

 流石に手を繋いでの移動はあれだ、危ない。
 必死に呼び止めるものの結果虚しく、手を繋ぐというよりも阿佐美に引っ張られるような形で俺は部屋を出ていくことになるのだが。

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