天国か地獄


 29

 取り残された部屋の中。
 俺は、壱畝とともに出ていった縁の言葉を思い出していた。

『戻っていいよ』

 立ち尽くす俺に、縁はそう口にする。
 戻っていいよ、と言われてもはいそうですかと大人しく戻れなかった。だってそうだろう、知人が、明らかに間違えた道に足を踏み入れようとしているのに。

『ちゃんと、連れてきてあげるから』

 狼狽える俺に、縁はそう続けた。
 ……志摩のことだろう。
 全てを納得することは出来なかった。けれど、こうしている内に志摩が部屋に来ていたらと思うと、俺は嫌でも体を動かし、元阿賀松の部屋へと戻っていた。

「……」

 そして、相変わらず閑散とした部屋の中。
 この状況下、灘の存在が大きかったことを改めて知らされるようだった。
 一人でいると悪い考えばかりが頭の中を支配し、気分が鬱々としてくる。
 志摩は無事なのだろうか、そもそも本当に志摩に会えるのだろうか。俺はまた、騙されているんじゃないだろうか。
 そんなマイナスな思考ばかりが浮かんでは消え、脳内を埋め尽くしていく。
 忘れよう、今だけは、志摩が来ることを信じよう。
 そう、俺は目を閉じた。

「……」

 ……本当に、このまま縁の言う事を聞いていていいのだろうか。今のところは縁はルールを守っているが、今度こそ裏切られても文句は言えないわけだ。けれど、縁に付き合わなければ志摩と会えない。

 そんなことをぼんやり考えていたときだった。
 不意に、部屋の扉が開く。
 縁か。
 ガバッと頭を上げ、扉の方を見れば、そこには。

「……え……」

 一瞬、目を疑った。
 だって、そこにはずっと会いたかったそいつが当たり前のように立っていたんだから。

「し、ま……」

 縁はいない、志摩一人、部屋の扉の前に立っていて。
 言葉を失う俺を見て、志摩は薄く微笑む。

「どうしたの?もう、俺の顔忘れちゃったの?……齋藤」

 酷く懐かしい、聞きたかった柔らかい声に、全身が震える。
 志摩だ。誰が変装してるわけでもない、正真正銘の志摩がそこにはいた。
 そう理解した途端、気が緩んでしまい泣きそうになったがそれをぐっと飲み込み、俺は恐る恐る志摩に近付いた。

「……縁、先輩と、一緒なんじゃ……」
「なんか外で待ってるってさ、あの人自分勝手だから」

 そう、自分のことも棚に上げる志摩。間違いない、志摩だ。そう分かれば、今度込み上げてきたのは志摩に会えたという喜びと本当に志摩は無事なのかという不安だった。

「志摩、どこか怪我とかは」
「俺は大丈夫だよ。齋藤に心配されるほどヤワじゃないし」

 いつもと変わらない、余計な一言。
 その皮肉すら、俺にとってはただただ嬉しくて。

「……そう、良かった……」
「……」
「良かった、無事で」

 我慢していたものが、ぶわりと込み上げてくる。
 自分でも、どうしようもないと思った。志摩に気持ち悪いと引かれても仕方ない。けれど、それ程俺は志摩を欲していた。

「……齋藤」

 伸びてきた手が後頭部に回され、そのまま優しく志摩に抱き締められる。
 密着した上半身。緊張よりも、今は流れ込んでくる志摩の脈が懐かしくて、心地よくて、俺はされるがままになっていた。
 宥めるように俺の頭を撫でていた志摩は、そのままそっと俺の耳元に唇を寄せた。

「……時間がないんだ。手短に話すよ」

 そう、一言。
 俺にだけ聞こえるような声量で、志摩は呟いた。
 ただならぬものを感じ、俺は、顔を上げる。
 至近距離、志摩と目が合った。

「俺は今方人さんの部屋にいるんだ。とは言っても殆どほったらかしだし、逆に言えばこうして出歩くのも久し振りで正直まだ足が覚束無いんだ」
「先輩の部屋に……?」
「うん、だから、あの部屋に戻ったら今度はいつ出られるか分からない」
「俺が出すよ。今度こそ志摩を助けるから……」
「でも、負けたらどうするの?」

 志摩の語気が微かに強くなる。
 それよりも、俺が気になったのはその志摩の言葉の内容だった。

「齋藤はバカ真面目だからね、イカサマなんて考えないかもしれないけど方人さんはそうじゃない。自分が楽しむためならなんだって仕掛けてくるよ。そんな相手に勝ち続けることなんてあるの?それに、今度こそ無茶なゲームのルールを押し付けられてみろよ、俺が人質なんかになってたら齋藤のことだから受けちゃうでしょ」
「っ、待ってよ、志摩……なんでゲームのこと」

 志摩はあの場にいなかったはずだ。
 それなのに、俺と縁のゲームについて知っている志摩に今度は血の気が引いていく。
 志摩は少しだけ悲しそうな目をして、そして、笑った。

「知ってるよ、全部。さっきまで誰のものをしゃぶっていたのかも。中継で見せてくれたんだよ、方人さん。……ま、そのお陰で齋藤の元気な顔を見ることが出来たんだけど」

 変わらない口調、変わらない笑顔。それでも、志摩の吐き出した言葉は俺にダメージを与えるには充分なものだった。
 志摩は知らない、だから、なんでも出来た。
 けれど。
 志摩に聞かされた事実を理解すればするほど、目の前が真っ暗になる。全身が汗でぐっしょり濡れる。

「っ、ごめん、志摩……」
「なんで謝るの?言ってるでしょ、そのことに関しては俺はどうでもいいって。それとも、齋藤は俺に後ろめたさを覚える程良かったの?」
「違う、けど、そうじゃなくて」
「齋藤は俺のことが好きなんでしょ?」

「それならいいよ。齋藤は俺のことが好きなんだもん。誰に何されたって齋藤は俺のことが好きなんだから、それなら俺は齋藤が何をしても齋藤のこと……好きだから」志摩に手を握り締められる。変わらない、細い指が俺の指を絡み取り、きゅっと掌全体を包み込む。
 許す、そう言うかのように俺の耳朶にキスを落とす志摩に、今度こそ俺は泣きそうになった。

「……っ志摩……」

 俺は、志摩が見てないと思ってその気持ちを軽んじていた。その事実がただ恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて、そんな俺を包み込んでくれる志摩の優しい腕に罪悪感で押し潰されそうになっていたときだった。
 俺の髪に触れ、耳に掛ける志摩はそのまま耳元に唇を押し付ける。
 そして。

「縁方人を殺そう、齋藤」

 一瞬、志摩の言葉の意味がわからなかった。
 だってそうだろう、耳も疑いたくなる。俺がおかしくなったのだろうかとも思った。
 慌てて志摩を見上げれば、志摩の顔には笑みはなかった。

「チャンスは今しかないんだ。今を逃せば、お互いに自由に動くことだって出来ない。それに、俺達にはこんなことして遊んでいる暇はないだろう?」
「っでも、殺すって……本気で言ってるの?」
「俺が冗談を言ってるように見える?」
「っでも、流石にそれは……」

 おかしいのではないだろうか。
 そう言いかけ、志摩の目の色が変わるのを見て俺はその言葉を飲み込んだ。
 その目には不信感が滲んでいる。

「齋藤は方人さんの味方なの?」
「違う!そうじゃない、そうじゃないけど、だからってそれは飛躍しすぎだよ、だって他に方法が……」
「じゃあその方法ってなに?確実に俺と齋藤が無傷でいられて方人さんを黙らせる方法があるなら俺に教えてよ」
「……それは……っ」

 考えろ。とにかく、志摩を納得させなければならない。
 志摩が本気だというのは目を見れば分かった。
 ここで俺が引き止めなければ、今すぐにでも殺すと言わんばかりの志摩を前にすると頭がろくに回らなくて、焦れば焦るほど思考回路は雁字搦めになってしまう。
 それでも、何か言わなければならない。
 とにかく、志摩の気を変えなければ。
 そう考えた、俺は咄嗟に提案した。

「殺さなくても、捕まえたらいいじゃないか。ほら、前みたいに、安久とか、栫井みたいにさ」

 そうだ。志摩が恐れているのが縁だとすれば、やつの自由を封じ込めればいい。それこそ、今の俺達みたいに。
 けれど、志摩の険しい表情は変わらない。それどころか、眉間の皺は一層深く刻まれる。

「あの人はゴキブリ並だから捕まえても逃げ出すかもしれない。それに何を仕出かすか分からないよ、今の内に潰しとかないと今度こそ俺は殺されるかもしれない」
「殺すとか、殺されるとか、そんなこと……」

 志摩は何をそんなに怯えてるんだ。
 確かに、縁が俺には理解し難い思考の持ち主だとしてもだ、志摩がここまで切羽詰まる必要はないはずだ。
 けれど、確かに灘にしてきたことを考えると、危険人物であることには違いない。
 俺は他の言葉を探す。

「志摩、確かに捕まっていて不安なのかもしれないけどあまり思い詰めないで。俺を……俺を信じてよ」

 そう、志摩の背中に手を伸ばせば、志摩の体が微かに震えているのが分かった。怒りか、それとも別の何かか。
 大丈夫だから、とそっと志摩の背中を撫でようとすれば、志摩に腕を掴まれ、壁に叩き付けられる。
 強い力、ぶつけた背中に痛みが走った。

「……ッ齋藤は、脳天気過ぎるんだよ。どうしてこんな状況で脳天気でいられるわけ?俺は方人さんと齋藤が一緒にいるってだけで気が気じゃなくてもし齋藤の身に何かがあったらって思ったら頭がおかしくなりそうなくらい不安で不安で……俺はずっと、齋藤のこと考えていたのに……」
「志摩……ッ」
「齋藤は、そうじゃないの?俺のことなんてどうでもいいの?俺がいなくても齋藤は平気なの?……俺とは、違うの?」

 早口で続ける志摩に、俺は一瞬何も言い返すことが出来なかった。
 志摩の目は据わっている、なんだかんだ言いながらも余程不安だったのだろう。切羽詰まった志摩を見てると、自分の行動のせいでこうなったのだと思うと胸が痛くて、それでも志摩をこのまま放っておくことは出来なかった。

「落ち着いてよ、志摩、誰もそういうことを言ってるんじゃないだろ。ただ、軽はずみな行動は危ないって……」
「軽はずみだって?俺はずっと、ずーっと考えてきたのに、どうしたらあの男を殺せるか。どうやって殺すか。どうやったら苦しませることが出来るのかって、ずっと、それを軽はずみだって?」
「……ッ」

 額と額がぶつかり、骨が擦れるような鈍い痛みが走る。
 掴まれた手首は、骨が折られそうな程握り締められ、身動きが取れない。
 このままではいけない。そう思うが、抱き締めて宥めようようと伸ばしたもう片方の手すら取られてしまえば、今度こそ何も出来なくなってしまう。
 そして、志摩の暴走はエスカレートしていくばかりで。

「やっぱり、齋藤は俺のことなんてどうでもいいんだ。だからそんな悠長なことが言ってられるんでしょ?齋藤は俺のことなんて」
「志摩……ッ!」

 どうしたらいいのか、なんて考える暇もなかった。とにかく、志摩を正気に戻さなければならない。
 俺は、出来る限りの大きな声で志摩を呼ぶ。
 そのとき、手首を掴む志摩の手の力が緩まった。
 今だ、と志摩の手を振り解いた俺は、そのまま志摩の頭に手を伸ばし、自分の胸倉に抱き寄せた。

「っ、さいと……」
「俺は、志摩のことをどうでもいいなんて思っていない!俺だって、ずっと志摩のことが心配だったんだ……志摩が不安になって焦ってしまうのも、きっと縁先輩のせいだよ。だから、志摩、落ち着いて。罠なんだよ、これは!」
「……罠?」
「っ、そうだよ、ろくに話す時間も与えてもらえない分志摩は俺が気持ちを忘れてるかもしれないって不安になったんだろ?それだよ、先輩はそれを狙ってるんだ、だからこうしてわざわざ俺達を二人きりにしたんだよ!」

 我ながら適当なことを言っていると思った。けれど、何を考えているか分からない縁のことだ、あながちそれも間違いではないような気がしてならないのだ。
 瞬間、腕の中の志摩の体がピクリと反応する。

「……俺の気持ちが、全部方人さんに操作されてるって言うの?齋藤は」
「そうじゃなくて……ッ」
「なら、一刻も早くあいつを殺そう!そうすればいいじゃないか、俺も齋藤ももう離れ離れにならずに済むんだし!」

 背中に回された手に、強く抱き返される。
 俺の顔を覗き込む志摩の目は強い光は放っていて、その意志はちょっとやそっとじゃ曲げられそうにない。

「……志摩……ッ」

 まさに、堂々巡りだった。
 志摩は、俺と離れたことで強い不安を覚えたのだろう。
 このままでは本当に志摩はおかしくなってしまう。
 でも、だからといって志摩が殺人者になるのは許容できない。
 だって、そうなってしまえば志摩との約束が果たせなくなるではないか。志摩と一緒の大学に通って、一緒に、当たり前のように生活することが。

 ならば、と、俺は唇を噛み締めた。
 そして、肺の奥に溜まった空気を吐き出すように、声を捻り出した。

「っ、分かった、あの人を殺せば、志摩は落ち着くんだろう?」
「……齋藤、やっと分かってくれたんだね。嬉しいよ、俺、ようやく俺の気持ちが伝わっ……」
「俺が殺す」

 そう、口にした時、志摩の言葉が途切れる。
 そして、目を見開く志摩に、俺は、静かに続けた。

「だから志摩は……何もしないでくれ」

 本当に殺すつもりはない。

 ちょっと気絶させて、志摩には殺したと思い込ませればいいんだ。
 そうすれば、俺達は人殺しにはならずに済んで志摩も満足する。

 縁の報復が恐ろしいが、これ以上志摩を一人にするわけにはいかない。
 俺が殺したふりをして失敗しても俺が力が弱かったせいだと言えば志摩も納得するだろう。
 最悪、志摩と縁を引き合わせなければいい。
 そんなことが無理に等しいとしても、それでも、志摩を安心させるにはそれしか残されていないのだ。

「齋藤……」
「だから、大丈夫だから。……俺に任せて」
「任せてって、齋藤一人じゃ無理だ」
「志摩は本調子じゃないんだろ?……それに、志摩よりも俺の方が警戒されないと思う」

 それでも、志摩は納得できない様子だった。
 けれど、本当は分かっているのだろう。
 今の状況では、俺の方が動きやすいのは確かだと。
「だからって」と口籠る志摩だが、それ以上の言葉は出てこなかった。

 静まり返った部屋の中、相変わらず何もない。
 ならば用意しないといけない。

 恐らく、エレベーターを使って縁は上の階へ上がるだろう。
 そして、志摩を部屋に連れて行って、それかれ俺のところに来るのだ。
 常に鍵は持ち歩いているはずだ、志摩を助け出すのは縁が気を失ってから鍵を奪えばいい。

 どうやって気絶させる?殴る?下手したら殺し兼ねない。
 突き落とす?手っ取り早いが失敗する可能性も高い。
 薬を盛る?確実だが、呑ませるまでが困難だ。それに俺にはそんな薬を用意する暇はない。
 殺すまでとは行かずも、一時的に動けない状況にする。
 考えろ。
 どうしたらいいのか。
 普段使わない脳味噌をフル回転させる。
 こんなこと考えたことなかっただけに、良い考えはでてこない。
 そういえば、と俺は思い出す。
 テレビで見たことがある、人間の神経を傷付ければ動けなくなると。
 それも足首の腱を鋭利な刃で切断すれば確実だと。

 カッターなら俺の部屋に戻ればすぐに用意できる。
 けれど縁が簡単に足首を俺に見せてくれるとは思えない。
 それでも縁はまだ本調子ではないはずだ、俺の部屋へ来るため階を移動するその隙を狙い、少しの間エレベーターを止める。敢えて階段歩かせて、その背後から突き飛ばせば、流石の縁も受け身を取れないのではないだろうか。
 恐ろしい考えが次々に浮かび上がり、自分で自分じゃないみたいで、背筋が凍える。
 それでも、志摩が安心できるならそれでもいいと思った。

「……齋藤?」
「志摩、大丈夫、なんの心配もしないでいいから」
「そんなこと言われても、無理だよ、齋藤一人じゃ」
「一人じゃないだろ?……志摩も一緒だよ」

 志摩がいてくれるからこんなことしようと思えるのだ。
 俺一人だったら、縁を殺そうとは思わないだろう。全部、志摩がいたから。

 それから、俺は志摩にエレベーターを止めるにはどうしたらいいのかを聞いた。
 志摩は少し渋ったが、教えてくれた。
 学生寮一階にある管理室にブレーカーがあるという。
 そして、そのブレーカーを落とせばエレベーターだけではなく全ての電気が落ちるとも。
 他の設備の電気まで落ちてしまうのは忍びないが、その騒ぎの内に事を済ませればと考えると悪くない。

 ◆ ◆ ◆

 どれくらい時間が経ったのだろうか。
 扉が開く。

「どう?久し振りの再会は。一発くらいできた?」


 そして、空気も読まずにそんなことを言いながらやってくる縁に志摩の顔が引き攣る。

「せっかくのところ申し訳ないんだけど、そろそろこいつ返してもらうね」

 言いながら、志摩の髪を掴んだ縁はそのまま部屋を出ていく。
 そんな縁の態度にも何も言わない志摩に、俺は、気がついたら縁の手を掴んでいた。

「どうしたんだ?齋藤君」
「……志摩が痛がってます、やめてください」
「……齋藤」
「良いんだよ、こいつ、痛くされる方が好きだから。こうして君が心配してくれるんだもん、余計ね」

 前髪の下、今にも縁に殴り掛かりそうな気配すらある志摩に俺は「先輩」ともう一度声を掛ける。
 すると笑いながら縁は俺の顔に触れた。伸びてきた指先が目元を掠め、俺は咄嗟に身を引いた。

「酷い目をしてるよ、君。……俺を殺してやりたいって目だ」
「……ッ」
「なんてね。齋藤君って結構細かいんだね、っていうか所有欲が強いのかな。いいなぁ、俺もそんな風に思われてみたいよ」

 ほんの一瞬のことだったが、縁の纏う空気が変わるのを見過ごさなかった。
 見透かすようなその視線はすぐに外れ、縁は志摩のネクタイに持ち帰る。それでも、まるで犬の散歩でもするかのように「じゃあね」と部屋を後する縁と何か言いたそうにしてそのまま後をついていく志摩を俺は黙って見ていた。
 正直、俺は驚いていた。志摩が縁を前にして逆らわないことにだ。芳川会長にも食って掛かっていた志摩が、縁にあの様な扱い受けても嫌味の一つも言わないのだ。これを不思議に思わないで何を思うというのか。
 そういえば、阿賀松にも逆らえないでいた志摩だ。それでも縁に対するそれは阿賀松とは違う。

『縁方人を殺そう』

 ああ言っていた志摩だが、本当にこのまま志摩の言う通りにしていいのだろうか。
 ふとそんな疑問が過ぎり、俺は首を横に振る。
 俺は、志摩を助けるんだ。それなのに、志摩を疑ってどうするんだ。志摩は善人ではない。そんなこと分かりきっている。志摩に、俺に言えないような何かがあったとしても、俺はそれを含めて志摩を助けたいと思う。
 それが全てなんだ。
 縁たちが出ていったのを確認して、俺は下見のために部屋を出た。
 なるべく早く助けたい気持ちはあるが、焦って失敗しては元も子もない。
 逸る気持ちを抑え、俺は階段を使い一階へ降りた。

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