天国か地獄


 28※

「っ、え、あ……」

 思考が停止する。何も考えられなくなって、向けられた眼差しに、自分がしようとしていたことへの後ろめたさからか体は石のように固くなる。
 逃げ出したかった。この場から、今すぐ。

「なんだよ、これ」

 起き上がる壱畝は不自由そうに上半身を捩り、そこで拘束に気が付いたようだ。その言葉に、俺はハッとする。ああ、そうだ、縁に頼んでいたのだ。『もしものことを考えて』壱畝を動けないようにしてくれと。
 そのことを思い出し、冷静にはなれたがやはり、壱畝が動いているというだけで頭の中はパニック状態に陥っていたようだ。
 とにかく、声を聞きたくなかった。
 咄嗟に壱畝の口を塞ぎ、ベッドへと壱畝の頭を押し付ける。

「っ、ん゛ぅ」

 何をするんだ、と掌の下、くぐもった声が響く。
 ああ、もう、後戻りできない。俺は、壱畝に手を出した。そう理解した瞬間、自分の中の箍が外れたようだった。
 殴らない、喋れない壱畝に、酷く安堵する自分がいた。
 ああ、そうだ。今までとは状況が違うんだ。
 今の俺は壱畝より優位な立場に立たされている。そう考えることで思考回路が麻痺し、何も悩まずにいられた。
 恐らく、俺はヤケクソになっていたのだろう。

 とにかく、早くしなければ。その一心で壱畝の下腹部、ベルトを弄った時、思いっきり壱畝に顎を膝で蹴られる。

「ッ……ぅ、ぐ……」

 顎が外れたかのような痛みに脳味噌が揺さぶられるようだった。
 痛みと焦りにより俺の頭の中で脳内麻薬が分泌されたようだ。恐怖よりも上回る『壱畝をどうにかしなくてはならない』という焦りに火がつく。
 力づくで壱畝を押さえ込み、もう蹴られないようにと俺は壱畝に背中を向けるような形でやつの腹部に座る。
 人の体の上に座るなんて考えられなかったが、その時の俺は壱畝に暴れられないようにすることで精一杯だった。

「……ッ何してんだよ、お前……」

 背後から聞こえてくる声すら俺の耳には届かない。
 無我夢中で壱畝のベルトを緩め、下着の中から萎えた性器を取り出した。
 流石に壱畝も察したのだろう、「やめろ」と声が聞こえてきた。
 壱畝の性器を見たことは初めてではない。中学の時、俺を『便器』に見立てて遊んでいた壱畝に何度か嫌がらせで咥えられそうになったこともあった。
 それでも、流石に時間が経っているということもあり中学生の時のそれとは色も形も違う。
 改めて、壱畝とこんなことになっている自分のことを考えると生きた心地がしなかった。
 それでも、俺は、止まるわけにはいかないのだ。

「……ッゆ、う君」

 掌に唾液を垂らし、それを絡めるように性器を握り込めば壱畝の肩が小さく震えた。
 こちらを睨む目は赤い、目だけではない、頬も、耳も、赤く染まって見えた。

「ッ、ごめん……壱畝君……」

 俺だって好きでこんなことをしているわけではない。そう思うが、混乱する壱畝を見てると、そう口にせずにはいられなかった。

 罵倒されるだろうと思った。殺すぞと罵られても仕方ないと思っていた。けれど、必死に唇を噛んで息を殺してる壱畝を見ていると少しだけ、優越感を覚えた。
 根本から先端まで、ぐちゅぐちゅと音を立てるように掌を上下すれば心無しか芯が出て来たような気がしてならない。けれど、完全な勃起とは程遠い、ましてや射精する気配すらないそれに焦れ、次第に手の動きが荒くなる。

「ッ、ぅ、ぐ……ぅッ」

 紅潮した顔を歪める壱畝、その額には無数の汗の玉が滲んでいた。
 強く擦りすぎてしまったのだろうか。そう思うが、こんな状況でゆっくり手コキする余裕もなかった。

「どうすれば……」

 壱畝だって、俺にこんな真似をされて喜ぶとは思わない。
 その気持ちは分かったが、それでは困るのだ。
 時計をチラリと見る。
 縁が出ていって、結構な時間が経っていた。

 ……時間がない。
 ここまでして、ゲームオーバーなんて真似、許せなかった。壱畝に手を出したのだ。後から壱畝から何されても文句は言えない。
 それならば、と俺は腰を上げ、壱畝の下腹部に顔を寄せた。

「っ、……」

 背に腹は変えられない。
 至近距離、持ち上がり掛けた性器から目を逸し、ゆっくりと口を開いた俺はそのまま亀頭部分をぱくりと口に含んだ。
 瞬間、体の下の壱畝が小さく反応したのを感じた。

「っ、お前、まじ、頭おかしいんじゃないのか……ッ!何してんだよ、おいっ!」

 あの壱畝の、裏返った声は初めて聞いた。
 体の下でジタバタと暴れるが、思いっきり腹部を踏み付ければその声もくぐもった呻き声に変わる。

 壱畝は怖い。与えられてきた苦痛が刻みついているためか、こうしているだけでも殺されるのではないだろうかと思って気が気でなかった。
 それでも、今の俺にはもっと怖いものがある。
 志摩が痛め付けられることだ。
 それを免れるためならば、壱畝の罵倒も殺意も受け止められる。そう思えた。

「ッ、く、ぅ……ッ」

 口いっぱいに広がるその味に未だ慣れない。
 唾液を絡めるように舌を這わせれば口の中でぐちゅぐちゅと嫌な音が響き、独特な匂いに咽そうになる。
 志摩だと思えばいい。そう頭で思ってても、背後から聞こえてくる声は壱畝のものだ。
 向けられたカメラのレンズが気になりながらも、俺は口で息をしながら咥内のそれを愛撫する。

「ん……ッ、ぅ、んん……っ」

 舌を使って全体を濡らし、滑りやすくなったそこを唇と喉を使って扱けば先程よりも硬くなる壱畝の性器に心臓が煩く響く。

 人前でオナニーをしろと命じていたあの壱畝が、俺の口で感じている。そう思えばなんだろうか、喜びとも付かない言葉にし難い感情が込み上げてくる。

「ッ、や、め……ろ……ッ」

 身動きが取れない壱畝だが、まだ諦めていないようだ。
 充血した目でこちらを睨み付けてくる壱畝だが、以前のような恐ろしさは感じなかった。
 それは、壱畝が動けないと分かっているからだろう。
 今この場で主導権を握っているのは間違いなく俺だ。そして、それは壱畝も気付いているのだろう。心無しか、その目から壱畝が弱気になってるように感じた。

「ッ、ぅ、ぐ……ッ」

 可哀想に、と思いながらも、俺は尿道に舌先を這わせ、尖らせた先端で窪みを穿り返す。
 瞬間、壱畝の腰が大きく震えた。

 身動きが取れないというのは、酷く恐ろしい。
 自由が利かないのだ。全部が相手の手の中にあり、相手によってはどんな酷い目に遭わせられるかもわからない。
 壱畝を見てると、同情の念が込み上げてくる。
 壱畝のことは苦手だ。それでも、あの壱畝のこんな姿を見てると、調子が狂うのだ。

「ッゆう、君……ッ」

 不意に、名前を呼ばれ、胸の奥がざわついた。
 なんで、このタイミングで俺の名前を呼ぶんだ。
 せっかく、意識しないようにと思っていたのに。

「……ゆう君……」

 やめろ、と音を立てて濡れた先端部を吸い上げれば、その声は途切れる。滲む汗。濃厚な匂いに頭がクラクラして、何も考えられなくなる。
 壱畝は、動けない。ならば、今、俺が何しても壱畝は逃げられないし逆らえないのではないだろうか。
 弱々しいやつの息遣いに、嫌な思考が過る。
 最初から、縁はこれを狙っていたのだろうか。
 俺にとって今までの憂さ晴らしをする最高の状況じゃないか。

「ッ、ぃ、やめ、ろ……ッ」

 ちょっと強く握っても、少し歯を立てても、いいのではないのだろうか。こんな状況だ、これを仕組んだのは縁だ。俺は何も関係ない。ならば。と、そこまで考えたところで口の中のそれが脈打ち、次の瞬間、喉奥に焼けるような熱が広がった。そして、粘ついた精液が絡みつく。

「っ、ぅ、ゲホッ、ぇッ」

 咄嗟に口の中のそれを吐き出し、濡れた口元を拭う。
 射精した、あの壱畝が、俺の口で。
 壱畝は、全く気持ち良さそうな顔をしていなかった。それどころか不快だと言わんばかりのしかめっ面で、赤くなった顔を歪め、息を整える壱畝に、俺は無意識の内に射精したばかりのそこに再び舌を這わせていた。

「っなに、してんだよ!おい……ッ!」

 縁とのゲームは、クリアだ。
 時間もまだある。ならば、と尿道に残った精液を吸い出せば、壱畝の口から苦痛の声が漏れた。
 俺には、男の性器をシャブって喜ぶ性癖はないはずだ。
 けれど、嫌だった。これだけで、壱畝を許したくなかった。嫌だって言っても、壱畝は止めてくれなかった。笑って、助けてもくれなくて。
 このままでは縁の思う壺だ、思っていたが、ここまでしてしまった今、引き返したところで俺のしたことは変わらない。それならば、と下着越しに玉に触れる。
 壱畝の顔が引き攣るのを見て、胸の奥が、脈が加速する。

「ゆう君……ッ」
「軽蔑した、よね。俺のこと……ずっと、あの頃から壱畝君は俺のこと、嫌いだったよね」
「……ッ」
「それなら、今更、何やったって一緒だよね」

 誰も見ていない。正確にはカメラがあるが、その存在すら忘れるくらい、俺は、その場に酔っていたのかもしれない。この状況に、絶好のチャンスに。
 復讐をしたい。そんなこと思ったこともなかった。だって絶対に無理だからだ。壱畝にやり返されると思ったら怖くて、ダメだった。今だって怖い。この後何やり返されるか分からないと思ったら心臓が震えそうだった。
 けれど、今は違う。

「頭、おかしいんじゃねえの……?気持ち悪いんだよ、このホモ野郎ッ」

 その言葉に堪えられず、俺は下着の中にあるそこを指先で潰した。瞬間、壱畝は声にならない悲鳴を漏らす。
 その目に滲む涙、いや、泣いてるのは俺の方かもしれない。
 前にも、壱畝に同じように罵倒されたことがあった。
 あれはまだ俺が中学の時だ。理由は分からない。けれど、友達が壱畝しかいなかった俺は、壱畝の言葉が酷く悲しくて堪らなかったのを覚えている。
 悲しい、というよりも、思っていた以上に俺はこの状況に精神的ダメージを受けているようだ。壱畝が痛がるのを見る度に、喜び以上にそのことに対して喜びを覚えている自分への嫌悪で胸が苦しくなる。

「そんなやつの口で射精したのは誰だよ」

 自分が自分でいなくなる。
 やめろ、と頭の片隅でもう一人の自分の声がした。
 これでは、壱畝と何も変わらない。ルールは守った。ゲームも勝った。これ以上手足出ない相手にとやかくする必要はない。
 もう一人の俺は叫ぶ。

「……ゆう君……ッ」

 縁の命令が壱畝を傷付けるものでなくてよかったと思う。
 この部屋にナイフが用意されていたならば、恐らく俺は堪えきれなかっただろう。
 このままではダメだ。俺がおかしくなる。そう思い、俺は、壱畝の拘束具に手を掛けた。
 それは簡単に外れるもので、フックを外せば、壱畝は驚いたように俺を見た。

「何、やってんだよ、お前」

 呆れたような声。無理もない。だって、このタイミングで壱畝の拘束を外すということは自殺行為に等しい。分かってる、わかってて俺は外した。
 壱畝が動けない状況は俺にとって毒だ。何しでかすか自分でも分からなくなる。それならば壱畝に殴られ、蹴られた方がましだと選んだ。
 だけど。

「……」
「おい、何か言ったらどうなんだよ」
「ハルちゃん……」

 名前を呼べば、壱畝は俺を見る。

「……俺を、殴ってくれ」

 俺は自分が許せなかった。一瞬でも惑わされた自分が。
 泣きながら懇願する俺に顔を顰めた壱畝は、問答無用で頬を殴った。それもグーで。
 鈍い音、骨同士が擦れるような、脳味噌を揺さぶる衝撃に堪えられずベッドに倒れ込む。
 その痛みに、軽蔑したような目で見下ろしてくる壱畝に、俺は目が覚めたようだった。

「……ありがとう、ハルちゃん」

 お礼を言えた立場ではないと分かっていたが、その言葉は思っていたよりもすんなり出てきて自分でも驚いた。
 壱畝は馬鹿をみるような目で俺を見ていたが、何も言わずに制服を整える。普段ならばベッドから蹴落とした上からジャンプして踏み付けてくるであろう壱畝が一発した殴ってこなかったことにも驚いたが、よく見れば壱畝の拳は包帯で巻かれていた。怪我もあっただろうし相当痛かったのではないかと思ったが、壱畝は何も言わなかった。
 馴れ合いをしたいわけじゃない。そんな状況ではないと分かっていた。けれど、拘束を解いたのに以前の恐怖を感じなかったのは俺の中の何かが変わったからだろうか。
 分からない。分からないが、俺は、カメラを動かし、そのレンズを覗き込んだ。
 ここから縁が見ているのだろう。軽く手を動かしてみる。早く来てくれないだろうか。このまま二人きりでいるのは辛いものがある。思いながら、俺は壱畝を盗み見た。
 なぜ、何も言わないのだろうか。逆に不気味だったが、罵倒されるよりましだ。じんじんと今になって痛み始める頬に触れながら、俺は時間が経つのを待った。

 ◆ ◆ ◆

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。恐らくそんなに掛かっていないだろう、扉が開いて縁が現れる。

「齋藤君、随分と早かったね。もう少し掛かるかなって思ってたんだけど」

「それとも溜まってたのかな?」と、笑う縁は部屋の隅にいた壱畝を一瞥した。
 その視線に、壱畝が顔を強張らせる。
 この二人の間でどんなやり取りがあったか知らないが、恐らく壱畝も縁の性格に気付いているようだ。警戒しているのがよく分かった。

「って、あれ、なんだ、外してあげたんだ、それ」
「勝負は俺の勝ちですよね。早く、あいつに会わせて下さい」

『勝負』と口にしたとき、微かに壱畝が反応した。
 怒りよりも、呆れよりも、信じられないといったようなその表情に、縁は「あぁ、遥香君には関係ないことだから」と笑う。
 けれど、壱畝が向いたのは俺だった。

「勝負って……なんのことだよ」
「……」

 俺は、何も答えなかった。縁のように無関係とは思わない、が、わざわざ言う必要もないと感じたからだ。
「ゆう君」と、壱畝がもう一度俺の名前を口にしようとしたとき、「でもさ」と縁が口を開き、被せてきた。

「本当齋藤君良かったの?このまま終わって」

「せっかく、用意したのに」と残念がる縁にカッと頭に血が昇る。これ以上の何かを期待していたのだろう、そういうやつだと分かっていたが、それでも面と面向かって言われてしまえば話は別だ。
 本当は、縁を喜ばせるような真似だけはしたくなかったのだ。意地でもだ。
 だから、俺は壱畝を開放した。

「余計なことをして事を荒立てたくないので」
「冷たいなぁ、そこはせめて『遥香君は俺の友達だから殺すわけがない』くらい言っておいた方が良かったんじゃない?彼、すごい傷ついたような顔をしてるけど」
「用は済んだんですよね?……早く、ここから出してください」
「せっかちだね、君は。俺は積極的な子も全然大歓迎だけど」

 壱畝は何も言わない。呆れて物も言えないのか、腸が煮え繰り返っているのか、恐らくその両方だろう。
 手を広げ、抱き締めるような素振りをしてみせる縁を突っ込む気になれなくて、無言で視線を送れば縁は肩を竦めてみせた。

「けど、いいの?もしかしたら遥香君とはもう二度と話せなくなっちゃうかもよ」

 その言葉に、全身が反応する。軽口だろうと思ったが、あまりにも笑えないジョークだ。本人を前にしてそんなことを言うのだ、何も言わない壱畝の代わりに尋ねられた俺は口を開いた。

「……だから何ですか?」

 その言葉は、思ったよりもすんなり俺の口から発せられた。
 壱畝のことは許していない。けれど、これ以上関わりたくないと思っているのは本当だ。
 俺が壱畝に無関心だと思わせれば、壱畝は解放されるだろう。
 助けたいわけではないが、これ以上関わりたくないのだ。
 だから、そう思って口にしたのに、縁は。

「そ、了解」

 ニコッと爽やかに笑ったかと思えば、縁は座り込んでいた壱畝の腕を掴み、引っ張り上げる。

「っなに、すんだよ…… 」
「んー君、少し細いよねぇ。もっと肉付けた方がいいよ」

 そう言って、壱畝を引き摺り向かう先は部屋の奥、カーテンに締め切られた窓の元だった。
 突然の縁の行動に戸惑い、咄嗟に俺はその背中に声を掛けていた。

「どこに、行って」
「なぁに?齋藤君はこれのこと興味ないんだよねぇ。ならさ、どこに行こうが何をしようが関係ないんじゃない?」
「……ッ」
「でもホント、君の早漏にはガッカシだよ。せっかく俺は齋藤君が負けるのに賭けてたのにさぁ、君が甲斐性なしなせいで俺は齋藤君を手に入れ損ねるし。……どうしてくれんの?どう責任取ってくれんの?」

 窓を開き、生暖かい夜の風が部屋に吹き込んでくる。その風を避けるように瞬きをした瞬間だった、壱畝の頭を掴んだ縁はそのまま窓の外へと壱畝の上半身を押し出そうとしていた。

「っ、おい、なんで」
「齋藤君は君が要らないんだって。俺も好みじゃないし、だから、少しくらいは俺たちを楽しませてくれないと。そうだね、例えばこの距離から落ちても動けたら見逃してあげるよ」

 俺を試しているのか。笑いながら壱畝の頭を押さえつける縁に、勿論壱畝が大人しくしているはずがなく。必死に窓の縁に指を掛け、落まいとする壱畝だがその指は怪我しているわけで、血が滲む指先に壱畝の手がずるりと窓枠から離れたときだった。
 気がついたら、俺は、動いていた。

「……齋藤君、離してくれなきゃ苦しいよ、俺」

 縁の襟首を掴み、全体重を掛け、縁を壱畝から引き剥がそうと試みる。けれど、首を締め付けられているはずの縁は苦しがるどころか寧ろどこか嬉しそうに笑っていて、寒気がした。それを堪え、俺は息を吐くように口を開いた。

「ゲームで勝ったのは俺ですよ。……それをどうするかは、俺に決める権利があると思いますけど」
「おかしいなぁ、そんなルールなかったはずだけど?」
「それなら、先輩にだってその権利はないですよね。元はと言えば俺が鍵を用意したんですから……鍵が無ければ壱畝君は手に入れられなかったはずです」

 庇えば庇う程縁が喜ぶと分かっていたが、それでも、黙って見過ごすことは出来なかった。
 例えその相手が壱畝だとしてもだ。壱畝を助けたいというよりも、縁にこれ以上好き勝手させたくないというのが本心だった。

「君、見かけによらず案外強欲なんだね。あれも欲しい、これも欲しいじゃ肝心なものを見失っちゃうよ?」
「……それは俺に言ってるんですか?」

 ピクリと縁のこめかみが反応する。
 それも束の間、すぐにその口元にはいつもと変わらない余裕の笑みが戻っていた。

「……本当、君には調子狂わされるよ。まさか自分の立場分かってないわけないだろ?」
「……」
「ま、別にいいけど。これくらいの我儘ならかわいいもんだしね。それに、正直それ、使い道なかったから君の好きにしてあげてもいいけど」

 そう言って、縁は壱畝を引き上げ、放るように手を離した。
 蹌踉めく壱畝を咄嗟に支えたとき、「その代わりに」と縁は俺の耳元に唇を寄せてくる。

「君の彼氏の指を遥香君と同じようにしてあげるよ」

 その一言に、息が止まりそうになった。
 目を見開き、言葉を失う俺に縁はくすくすと微笑む。

「なんで?元はと言えばあいつが遥香君をこんな風にしたって言うじゃないか。それに、遥香君は助けてあげるんだしあいつはただの自業自得。ほら、何をそんなにショック受けることがあるんだ?」

 まさか、壱畝のやつ、全部縁に話したのか。
 血の気が引いたが、縁の言葉に何も言えなくなる。それでも、それを許すことは出来なかった。縁の言う通り、俺は強欲なのかもしれない。

「志摩に手を出したら、俺は先輩を許しません」
「なら、遥香君を俺に頂戴よ」
「っ、何を……」
「落とすのもダメ、助けてもダメ、亮太には手を出すなってさぁ……俺になーんの得もないじゃないか。ま、可愛い齋藤君の願いだから叶えてあげたいのは山々なんだけど甘やかしちゃダメだって言うしねぇ」

「だから、折衷案だよ」この場で突き落とす真似はしないものの、縁の手に渡れば何されるか分からない。別れた途端突き落とされる可能性だってあるわけだ。けれど、もし、今の縁の行動が俺を試すだけのものだと考えれば壱畝に徒に危害を加えることはないだろう。……あくまで可能性の話だけれども。
 迷っていると、俺の手から壱畝が離れる。

「何を勘違いしてるのかわからないけど……俺は、ゆう君の物じゃないから」

 そう、壱畝は口にした。突き放すような言葉だが、それよりも、俺はやつが発した次の言葉に頭が真っ白になった。

「ゆう君といるくらいなら、この人と一緒にいた方がましだ」

 そう、続ける壱畝に驚いたのは俺だけではなかった。意外そうな顔をしていた縁だったが、すぐに嬉しそうなものに変わる。

「へぇー齋藤君よりかは男の見る目あるじゃん、遥香君」
「……」
「……ハル、ちゃん」

 本気で言っているのか。たった今殺されそうになった相手の元に自分から向かうなんて正気の沙汰てはない。
 それとも、余程俺に庇われるのが癪だったのか。
 どちらにせよ、意志を変えない壱畝に俺は何も言えなくなる。だってそうだろう、俺だって、壱畝を手元に置きたくはない。だが、だからってよりによって縁の手に渡すわけにはいかなかった。
 間違いなく縁は壱畝を利用してくるだろう。そう思うと、生きた心地がしなくて。

「先輩、決める権利は彼にないはずですが」
「んん?いいんじゃない?本人が俺がいいって言ってるんだからさぁ、それで」
「そんなこと……ッ」
「それに、君の手には余るんじゃないかな、齋藤君」

 その言葉に、ぞくりと背筋が震えた。
 読まれている。俺が壱畝に強い苦手意識を持っていることも、何もかも。

 何も言わない壱畝に、俺も、何も言えなくなる。勝手にしろ。勝手に利用されるだけされて、捨てられればいいんだ。せっかく俺が出した助け舟を無視する壱畝に怒りよりも諦めの方が強かった。
 それよりも、これ以上下手に駄々捏ねて志摩の身に何かがあったらと思うと、俺はこの状況を黙認することしか出来なかった。
 壱畝なりに考えがあっての行動だろう。狡猾な壱畝のことだ。俺が心配する必要もないだろう。そう思い込むことで精一杯だった。

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