27
縁方人の弱味が掴めないだろうかと思ったが、やはりそう簡単には見せないようだ。
すぐにいつも通りに戻る縁だったが、これ以上手を出してこないということは少なからず縁の気を削ぐ話題だったということだろう。
それに、あの目。
もう少し、何かを掴めれば。
思いながら、俺は縁に乱された制服を戻す。
「さぁ、なんとか遥香君はどこにいるのかなぁ?」
「……」
「ん?どうしたの?そんなに物欲しそうな顔しちゃって」
部屋の中を見渡す縁だったが、俺の視線に気付いたようだ。こちらを振り返るやつに、慌てて俺は首を横に振る。
「ち……違います」
「なーんだ、気のせいかぁ。残念だなー」
そう言う割には本気で残念がってる様子はない。
部屋の中を歩き回っていた縁は、壱畝がいるはずのクローゼットに近付いた。
やめろ、気付くな。頭の中で念じる。
しかし、俺はサイコキネシスもなければ神通力も持ち合わせていない。
そして、縁がクローゼットから離れようとした時だった。
ガタリと、クローゼットの扉の奥から何かが落ちるような音がした。
それは、部屋の隅にいた俺にまで聞こえるほどの大きな物音で、縁がそれを聞き逃すわけがなかった。
「お?」
クローゼットの前。
立ち止まる縁に、俺は顔を背けた。
そして、小さく戸を開く音を聞きながら、玄関に向かって歩き出す。
「見つけた」
そんな縁の無邪気な声を背に、俺は、その場から逃げ出すこともできないままただ、息を殺して時間が過ぎるのを待っていた。
あれからどれ程の時間が立ったのだろうか。
窓のない部屋の中、床の上に腰を下ろした俺は昼間壱畝と再会したときのことを思い出していた。
ガムテープで雑に拘束されたやつの顔は内出血を起こし、腫れた頬や瞼は変形していた。
そんなやつを直視することは出来なかった。
縁に腕を掴まれ、引き摺られるように部屋を出ようとしてすれ違った時、充血した壱畝の目が確かにこちらを見たのだ。
瞬間、背筋が酷く寒くなったのを今でも思い出す。
あんな傷ついた壱畝を見たことも少なからずショックだだたが、それ以上に俺は特に何も感じないでいた自分に衝撃を受けた。
可哀想だとか、痛そうだ、とか。そんなことも思えず、ただ壱畝が早くいなくなることばかりを祈っていた。
大分弱っていた壱畝は俺に何もすることもなく縁に連れて行かれたが、やはり、あの時の嫌な感覚はちょっとやそっとじゃ拭えなくて。
「……志摩」
流石に、やり過ぎだ。
目の前に本人がいないのでそれはただの呟きとなって霧散するが、正直、俺はやり切れない思いでいっぱいだった。
痛め付けられる壱畝を見たいわけではなかったが、それでも、志摩が少しでも俺のことを考えて怪我を負わせたのだと思えば全てを否定することも出来なかった。それどころか、嬉しいと思う自分がいたのも事実だ。
まるで自分が自分でなくなっていくような、嫌な感情に蝕まれていく。それでもいいかなと思っている自分がいるのだから、救いようがない。
一人ぐるぐると自己嫌悪に浸っていると、不意に扉が開いた。
薄暗い部屋の中、現れるのは一人しかいない。
「こんばんは、齋藤君」
「……縁先輩」
「今日はありがとね。齋藤君が部屋を開けてくれたお陰で伊織に怒られずに済んだよ」
無理矢理やらせたくせによくもいけしゃあしゃあと言えたものだ。
やっぱり阿賀松の命令だったんだ、と思いながらも俺は「そうですか」とだけ頷いた。
正直、今の俺にとって縁はろくなことを運んでこない疫病神も同然だった。顔も見たくない、というのが本音だ。
早くどこかへ行ってくれないだろうかと思っていると、そんな俺を見透かしたのか扉を閉め、部屋の中へ入ってきた縁は俺の正面に「よっこいせ」と座り込む。
そして、
「遥香君がどうなったのかとか聞かないんだ?」
「……」
俺が壱畝と関わりたくないのを気付いた上でこんなことを平然と聞いてくる縁には何も言えなくなる。
そもそも、縁がちゃんと答えてくれるがどうかすら怪しいというのに。
「……なんとなく、想像付くんで」
「どんな?」
「……」
「なぁに?もしかして口にするのも恥ずかしい想像なの?」
「……ッ」
やらしー、と笑う縁に不快感のあまりに顔がカッと熱くなった。
とにかく嫌だった。俺は、壱畝をそんな風に見たこともないし見たくもない。冗談でも、触れられたくないところにズカズカと踏み込んでくる縁が嫌で、嫌で。
伸びてきた手に顔を掴まれ、無理矢理正面を向かされる。
薄く笑んだ縁と目が合い、逸らせない。
「齋藤君って本当可愛いよね、すぐ顔に出てさぁ……俺、心配だなぁ。君が悪い人に利用されちゃわないか」
それではまるで自分は『そうではない』と言っているかのようではないか。
それを分かった上で言ってるのだと思ったら腹立たしくて、わざわざ突っ込む気にもなれなかった。
「遥香君はこっちで『保護』させてもらうから傷のことなら心配しなくてもいいよ」
「そう、ですか……」
「残念だって顔してるよ、君。あのまま死ねばよかったのにとか考えてるんじゃないの?」
「ッそんなこと、考えてません」
「随分と即答だね。さっきまで生返事だったのに」
見透かしたような笑顔に、腹の奥底から嫌なものが込み上げてくるようだった。
駄目だ駄目だ、どうやったところで縁に足元を掬われるだけだ。相手にしてはならない。
奥歯を噛み締め、俺はぐっと言葉を飲み込んだ。
否定も肯定もしない俺に、縁は満足そうに笑った。
「ごめんごめん、ちょっと意地悪だったね。許してよ。俺、好きな子はからかいたくなっちゃうんだ」
「……あいつを捕まえて、会長たちを脅すつもりなんですか」
「んー、半分正解で半分ハズレかな」
そう言って、縁は俺の頬を撫で、目を細めた。
「脅すのは君だよ、齋藤君」
そして、一言。
一瞬その言葉の意味が理解できなくて、目を見開いた俺は縁を見上げた。
嫌な汗が、ドッと溢れ出す。
「遥香君、君と同じ中学っていうのは聞いてたんだけど随分と仲良かったみたいだよね。どうして今はこんなになってんの?」
こんな、と縁の指先が唇をなぞる。
どこまで知られているのか、そう思えば思うほど言葉が出てこなくて、息が詰まりそうだった。
「こんなって……別に、俺は……俺達は……」
「ああ、言わなくてもいいよ。大体は知ってるから」
「知ってるって……」
「伊織たちが芳川のこと業者使って調べてるのは知ってんだろ?なにせ、そのデータを盗んだのは君なんだから」
明らかに、素人が調べられる範囲を超えている書類の数々を見た時も戦慄したが、このタイミングでそんなことを持ち出してきた縁に俺は強い目眩を覚えた。
「調べていたのが芳川一人だけだと思ってた?」
そして、その一言が、俺にトドメを刺す。
脈が乱れ、頭の中がグチャグチャに掻き乱されるような不安、不快感、恐怖、嫌悪諸々に何も考えられなくなって。
「ッ、どこまで……調べ……」
「あぁ……いいねぇ、その目、その狼狽えっぷり。そんなに怖い?……自分の腹の中も全て暴かれるのが」
「……ッ先輩」
はぐらかす縁に堪えられず、縁の胸倉を掴んだ時だった。伸ばした手を取られ、ぎゅっと握り締められる。
そして、
「齋藤君、ゲームしようか」
その言葉に、心臓が軋む。
「賭けるのはそうだ、思い出話なんてどうだろう。なんだかロマンチックじゃないか?俺と伊織のこと知りたがってたよな、齋藤君。教えてあげるよ、まあ、君が勝ったらの話だけど」
「その代わり、負けたれ俺に教えてくれよ。君のことを。齋藤君が歩んできた今まで、その全部を」甘く、優しい縁の声はじわりと鼓膜に染み込んでいく。
全部。その単語だけは俺に重くのし掛かった。
「……その内容は」
どうせ、断っても強制なのだろう。恐る恐る尋ねれば、縁はそっと俺の耳元に唇を寄せ、その内容を口にした。
そして、それを聞いた瞬間全身から血の気が引く。
「……ッ、何、言っ……」
「俺は本気だよ」
「……ッ」
「勿論、君に拒否権がないことは言わなくても分かってるよな」
ニコリと笑う縁が同じ人間とは思えなかった。
完全に、愉しんでる。俺の反応を。
分かっていても、平然としていられない。
本当だったら死んでも嫌だ、なんと罵られても俺は拒否していただろう。けれど、笑う縁の後ろには志摩がいると思ったら、逃げ出すことは出来なかった。
ぐっと拳を握り締め、肺に堪った空気を吐き出した。
「……志摩を……」
「ん?」
「俺が勝ったら、志摩を解放してください。……そうじゃないと、釣り合いません、こんなの」
「へぇ……俺と伊織の思い出を『こんな』ねぇ?」
縁の目が細められる。怒ってるのだろう。
それでも、俺だって譲れなかった。
だってそうだ、縁が告げたそのゲームの内容は俺にとって一番避けたかったものそのものだったのだから。
「悪いけど、これくらいであいつを手放すのは無理だ。精々会わせてやるくらいかな」
「……ッ!」
「不満そうだね。けれど、これでも俺なりに譲歩してあげたつもりなんだけど」
「これ以上我儘言うなら……残念だけど、君には立場を分からせないといけないようだね」据わったその目。いつもの軽口ではないのは縁の纏う空気で分かった。
俺が折れれば、志摩に会うことすら出来ない。
解放が無理でも、一目だけでも会わせてもらえるのならそこから志摩がどこにいるのかも分かり、助けることも出来るのではないだろうか。
「で?どうするの?」
押し黙る俺に痺れを切らした縁は再度尋ねてくる。
息を飲んで、俺は小さく口を開いた。
「……分かりました」
今までならともかく、今の俺は逃げることは許されない。一人ではないのだ、もう。
逆に考えて、志摩に会えるのならばこれくらいましだと思うしかない。
覚悟を決める俺に、縁は少しだけ驚いたように目を丸くして、そして嬉しそうに笑った。
「あっ?そう?良かった、君ならそう言ってくれると思ったよ!」
「……ちゃんと、……してくれるんですよね」
「勿論、悪いようにはしないよ」
そう言って、縁は笑って俺の顔から手を離した。
鼻歌混じり、楽しそうな縁とは裏腹に俺の気分は深く沈んでいくばかりで。
嫌だ、嫌で、嫌だけど。
志摩に会いたい。志摩に会えるなら。志摩を助ける手掛かりになるのなら。
それでも厭わない。そう思うのだ。
結局、一睡も出来ないまま迎えた翌日。
頭の中には縁の言葉がぐるぐると回っていた。
けれど、腹を括れば昨夜程の不安感はなかった。
志摩に会うためだ。そう思えば、大分気持ちが楽になる。
俺は、何をしているのだろうか。ことの発端である縁をどうにかすれば俺も志摩もこんな目に遭わずに済むのではないだろうかと危険な思考が芽生え始めた頃、扉がノックされる。
……縁だった。
「齋藤君、おはよう。よく眠れた?」
「……先輩……」
いつもと変わらない縁。その目は活き活きと輝いているように感じる。
「そろそろ行こうか」
そして、差し伸ばされた手を一瞥し、俺は立ち上がった。
落ち着きを取り戻していた心臓が再び弾み始める。
大丈夫だ、なんてことはない。そう言い聞かせながら、俺は先を歩く縁の後についていった。
◆ ◆ ◆
学生寮五階。
ここに来るのは俺は初めてだ。
そりゃそうだ、普通の学園生活を送っていたならば来ることもない場所なのだから。
普段、学生寮の五階は人が出入りすることはあまりなく倉庫扱いされている。
倉庫と行っても過半数は空き部屋で、俺は『特に用のない場所』と把握していた。
が、まさかここに来るとは思わなかった。
迷わず真っ直ぐにとある部屋の前までやってきた縁は、鼻歌混じりにカードキーを取り出し、扉を開く。
中は空き部屋だった。
三階にある俺の部屋と同じくらいではないだろうか、よく似た造りのそこは片付けられていて、それよりもだ、俺が目を引いたのはその部屋の中央だった。
まず目に入ったのは大きなベッドだった。
次は、そのベッドを囲うように置かれた数台のカメラ。
そして、そのカメラのレンズが向けられたその先には人影が一つ。
そいつの姿を見た瞬間、心臓が握り潰されるような衝撃が走る。
「……ッ」
壱畝。壱畝がそこにいた。顔上半分を覆う目隠しで表情は分からなかったが、恐らく眠っているのだろう。後ろ手に縛られ、ベッドの上で横たわる壱畝に俺は息が詰まるようだった。
壱畝がこの部屋で待っていることも予め縁からは聞かされていた。けれど、やはり本人を前にすれば話は別だ。
それよりもだ。
「……何なんですか、このカメラ」
「何?言ったじゃん。俺は別室で齋藤君を見守らせてもらうって」
ただでさえ目にしたくもないのにそれを電子媒体に残すなんて。
あっけらかんとした縁に俺は言葉を失った。
確かに、縁は何もしないと言った。
するのは俺だ。
壱畝遥香を制限時間内に射精させることが出来たら勝ち。出来なければ、負け。
それが今回縁が持ち出したゲームのルールだった。
完全に足元を見たような縁の態度には不愉快極まりなかったが、それでも、逃げ出すことは出来ない。
縁は『譲歩』として、壱畝にアイマスクを付けることと壱畝の身動きが取れないように拘束を施すことを約束した。相手が俺だと分からないように、ということなのだが俺にとっては相手が壱畝だというだけでなんの譲歩にもならない。
……最悪どころの話ではない。何が悲しくて、こんなことを。恐らく縁は俺への嫌がらせが目的なのだろう。悪趣味な内装にも、吐き気を覚えた。
「一時間後、戻ってくるから。それまでに齋藤君、頑張ってね」
そう、俺の肩をそっと撫でた縁は笑い、小さく手を振った。
変態野郎。という言葉は寸でのところで飲み込んだ。
何も返さない俺に何を言うわけでもなく、上機嫌のまま縁は部屋をあとにする。
外側から施錠されたのだろう。鍵が掛かる音を聞きながら、俺は壁に掛かった時計に目を向けた。
……一時間、それまでに射精させることが出来なければおしまいだ。
カメラをどうにかしたかった。全て壊してやりたかったが、それでは本末転倒だ。せめてと思い、俺はベッドを向いているカメラを一台へ減らした。
ベッドの上、心地良さそうな寝息を立てる壱畝を見下ろした。
まだ本調子でもないのにこんな遊びにつきあわされていると思えば壱畝にも同情せずにはいられなかった。
着ている制服からして、連れて行かれたあのあと、そのままこの部屋へと連れて来られているようだ。
ベッドにそっと腰を掛け、俺はどうしたものだろうかと息を吐いた。
壱畝に協力を乞うべきだろうか。壱畝だって俺にとやかくされることは癪だろう。話して、自分でしてもらえればそれが一番いいが、問題は壱畝がそこまで話が分かるかどうかということだ。そもそも腕が拘束されている時点で両腕は使えないわけだから難しい。
だとしたら、やはり。
ドクンと心臓が脈打つ。
息をし、息遣いで俺とバレてしまったらどうしよう。触り方や指の形で俺とバレてしまったらどうしよう。ここまで嫌われている今、失うものはないと分かっていても、怖かった。アイマスクの下で本当は壱畝は俺を見ているのではないだろうか。そう考えると頭の中が真っ白になって、全身の血液が焼けるように熱くなった。
「……ッ」
静まり返った室内。少し動いただけで衣擦れ音が響き、体が硬直した。
イカせる、と言っても、眠っている相手に意識があるのだろうか。今更ながら不安になってきて、それでも、制限時間のことを考えたらもたもたしてる時間もなかった。
目を細め、相手を壱畝だと思わないように、俺は壱畝の脚を掴んだ。
そのときだった。
「んん……」
壱畝の体が動く。寝返りだ、と思い、慌てて手を離した瞬間。
壱畝の目元を覆っていたアイマスクがずるりと落ちる。
「ゆう……君……?」
氷水をぶっかけられたような衝撃が全身に襲い掛かる。
まだ生傷の目立つ壱畝の顔、その目は、確かに俺を捉えていた。
「……何してんの、お前」
まだ寝惚けたような、呂律の回っていない声。
それでも、俺の思考停止させるには十分だった。
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