天国か地獄


 21

 志摩が、俺のせいで志摩が捕まった。一度ならず二度までも。俺のせいだ。俺が、モタモタしていたから。志摩は俺に逃げろと言ったのに。

「齋藤くーん、どうしたの?そんなに落ち込んで」
「……」
「あれ、無視なんだ?傷付くなぁ、せっかく二人きりになれたのに」

 ハンドルを手にした縁は笑う。
 そう、俺は縁と二人きりだった。半ば押し込む形で乗せられた車の中には誰もおらず、運転席に縁がいるくらいだろう。縁が車の運転ができたことに驚く元気もなかった。
 こうして離れている間にも、別の車に押し込まれた志摩の身が気掛かりで、生きた心地がしなかった。

「……どうして、縁先輩が、ここに……」
「やっと口利いてくれたね、齋藤君」
「……っ、ちゃんと、答えて下さい……」
「齋藤君の言う事を聞いて、俺に何か得があるのかな」
「……ッ」
「冗談。いいよ、可愛い齋藤君からの質問だからね。……別に大したことはないからな、伊織から言われて詩織を見張っていたって話」
「……え……?」
「詩織が伊織のフリして来た時も知ってたよ、流石に似てたから驚いたけどねぇ。伊織にとっちゃ、実の弟だって信じれないんだってよ。本当可哀想なやつだよなぁ、あいつ」

 全てが筒抜けだった。
 裏切ったら許さないと俺に言った阿賀松は、最初から俺が裏切るということを想定していたということか。
 血の気が引いていく。だとしたら、阿佐美は。

「さっきも言った通り、伊織にはまだ君たちが裏切ったことを言っていないよ」
「どうして……」
「そりゃ、面白そうだからに決まってるじゃん」

 窓の外の景色が矢のように飛んでいく中、縁の明るい声が響いた。
 嘘を吐いているようにも見えない、含みもなければ、ただ純粋な好奇心がその声には現れていた。

「齋藤君は知ってる?伊織ってすげーブラコンなんだよ、自分の半身以外は信じられないってさ。それなのにあいつ、そんな半身に裏切られてんの。すげー笑えるよな」
「……ッ」
「すぐにバラすのも愉しそうだけどさぁ、どうせならもっと楽しんだ方がいいだろ。こんな機会二度とないのかもしれねえし」

 あっけらかんとした調子で、まるで面白い映画でも見てるかのように、縁は続ける。
 阿賀松に肩入れをするつもりはない。けれど、縁の言葉はひたすら不愉快で、理解できなかった。
 理解したくもなかった。

「だったら、どうして、志摩まで……」
「言ってんだろ、あいつはついでだって。それに、齋藤君は随分とあいつのことに気に入ってるみたいだったからさ」
「……俺が……?」

 どうしてここで俺の名前が出てくるんだ。
 嫌な予感に、全身から汗が滲む。
 正面を向いていた縁の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
 そして、笑う。

「俺さ、結構齋藤君のこと舐めてたんだよね。少し虐めたらもうダメだろうなって思ってたんだけど、まさかあの会長さんも伊織も敵に回すなんて思ってもいなかったよ。本当、ゴキブリみたいで感動しちゃった」
「……」
「齋藤君を迎えに来たのは俺の独断。本当は学園に戻ったところを捕まえようと思ったんだけど、一分一秒でも早く齋藤君に会いたくて急いで準備して来ちゃったんだ、俺」

 準備?気になったが、聞き返すことは出来なかった。ただ、早くなる言葉や強まる語気に縁が高揚しているのは明らかで、次第に車のスピードが早まる。
 それでもハンドルを動かす指先は喋りながらも正確だった。

「俺、本当齋藤君みたいな子ってタイプでさ」
「……」
「顔もだけど、気が弱くて、うじうじしてて、人の目を見て話せないようなそういう子の自尊心をグッチャグチャにして二度と口を利けないようにしてやるのが好きで好きで堪らないんだけど……けどそういうのって大概すぐに使い物にならなくなってさぁ」

 何の話をしているのだろうか、この男は。
 饒舌に話す縁の言葉はただただ理解の範疇を超えていて、それでも話し続ける縁に逆に恐怖しか感じなかった。

「けれど、齋藤君ならきっと、俺を楽しませてくれると思うんだ」
「……先輩、を?」
「うん、俺を。ずっとさ、考えてたんだ。寝る間を惜しんで、どうやったら齋藤君が何も考えられなくなるんだろうかって。薬は簡単だけど、そんなの詰まらないだろ?……それなら齋藤君の大切なものを壊したらどうだろうと思ってね」
「な……ッ」

 そこで、ようやく縁の言わんとしたことが分かった。
 ついでだと言っていた、志摩の拉致。
 嫌な予感が的中し、目の前が真っ暗になる。そんな俺を見て、縁は口元を緩めた。

「……その顔、すごいいいね、齋藤君」
「志摩に、手を出したら許しません……ッ」
「へぇ、本当にあいつのことが気に入ってるんだ、齋藤君」

 笑う縁の言葉とともに、急ブレーキが掛けられる。
 思わず蹌踉めいたとき、運転席から乗り上げた縁に腕を掴まれた。

「っ、先輩……」
「怒ってるんだ、齋藤君。俺のこと、ぶっ殺してやりたいって思ってる?」
「……なんで、そんなことするんですか……っ、志摩は、先輩の後輩じゃ……ッ」
「は?……後輩?あいつが?ま、学年からしたらそうだろうけど……何、あいつから聞いてないわけ?俺のこと」
「……え?」

 どういう意味なのだろうか。
 驚いたような顔をする縁に、今度は俺の方が戸惑う番だった。

「え……先輩は、学園に来る前の知り合いだっていうのは……少しだけ」
「それだけ?……ふーん、敢えてなのか知らねえけど、だとしたら結構ムカつくなぁ」

 違うというのだろうか。
 先程までニコニコしていた縁が不満そうに頬を膨らませるのを見て、益々頭がこんがらがりそうになる。

「あの、違うんですか……?」
「何?齋藤君、そんなに俺のこと気になるんだ?嬉しいねぇ」
「……」
「否定しないところもかわいいよ」
「ご……誤魔化さないで下さい……っ」
「酷いな、ただ思ったことを言っただけなのに」

 志摩との関係を話すつもりはないようだ。
 のらりくらりと躱す縁に焦れたが、志摩が縁のことを話さなかったということを考えると、もしかしたら志摩は話したくなかったのかもしれないと思った。理由は分からない。それでも、そこに何かがあるのは一目瞭然で。

「まあ、これだけ教えといてやるよ。君よりも、伊織のことも、亮太のことも、俺の方が知ってるよ」
「……ッ」
「はは……齋藤君がそんな目するなんて驚いたな」

「妬いたのか?」と縁は笑う。「可愛いな」とも笑った。
 これが嫉妬かは分からない、けれど、明らかに俺の反応を見て楽しんでる縁の態度が、土足で上がり込んで人の心を踏み潰すような言動が、嫌なところばかりを突いてくるのだ。

「齋藤君、ゲームしようか」

 顎を掴まれ、無理矢理縁の方を向かされた。
 笑みを浮かべた瞳が、俺を覗き込んで更に細められる。

「齋藤君が負ける度に齋藤君の大切なものを壊していく。その代わりに、齋藤君が勝ったら君を助けてあげるよ」
「助ける……っ?先輩が、俺を?……そんな嘘、誰が……ッ」
「おいおい、そんなに怒るなよ。あれはちょっとした冗談みたいなものじゃんか」

 冗談、冗談と言ったか、この男は。死ぬほど怖くて、今でも夢に見るほどのあの出来事を、縁は、冗談だと。

「ごめんごめん、言葉を言い換えるよ。齋藤君の代わりに、俺が伊織を潰してあげるって言ったほうがわかり易かったかな」
「阿賀松、先輩を?」
「そう、伊織を。あいつ筋肉馬鹿だから拳じゃ無理だけど、それ以外の方法ならいくらでもあるし無理な話ではないだろ」
「……本気で言ってるんですか?」
「本気本気、大真面目だよ、俺はいつだって」

 掴みどころのない、それどころか実態すら見えない目の前の男にまるで自分が夢を見ているような錯覚に陥った。
 それは、縁の言葉が現実味がないせいだろう。縁の全てがマヤカシのような、そんな気がしてならないのだ。

「俺のことが信じられない?」
「……今の話で、信じられると思ってるんですか?」
「まあ無理だろうね、だけど、齋藤君は乗るよ」
「……すみませんが、お断りします。俺は、人を使ってゲームなんて……」
「灘和真だっけ?……齋藤君は気になってるみたいだね、あれのこと」
「……え?」

 ここで灘の名前が出てくるとは思わなくて、間抜けな声を漏らしてしまう。
 固まる俺を見て、縁は笑った。

「会いたくない?」
「っ、ぁ……」
「齋藤君が俺と遊んでくれるなら返してやってもいいけど」
「……っ、本当、ですか……?」
「俺が嘘吐いてるってんなら、針千本飲ませてくれても構わないぞ」

 下手したら、全てを失うかもしれない。そんな判断をこの場で即決することは出来なかった。
 ゲームと言ったが、その内容だって分からない。何より、灘に本当に合わせるつもりなのかも分からない。
 相手は、あの縁方人だ。食おうとしても逆に食われるのは目に見えている。それならば。

「……先に、灘君に会わせて下さい」
「へえ、何?俺に命令するつもりなんだ?」
「このゲームは俺が乗らないと意味がないんですよね。……それが出来ないなら、俺は参加しません」
「別に構わないけど。その代わり、亮太の指一本ずつ潰していくから」

 想像しただけで、血の気が引く。冗談じゃないとわかったからこそ、余計。だけど、ここで引くわけには行かなかった。縁の言いなりになってはダメなのだ、絶対に。

「……勝手に、して下さい」
「……へぇ。いいの?彼氏の指が使い物にならなくなったらなぁーんにも出来なくなっちゃうんだよ?」
「俺には指がありますので、あいつの代わりにはなれます」
「なら、俺が齋藤君の指を叩き潰すと言ったら?」

 至近距離、覗き込んでくる瞳。絡み付いてくる視線に、まるで全身が蛇に絡み付かれているようだった。
 少しでも間違ったら、首を締め付けられる。
 これでも、考えてる暇はない。一か八か、俺は、真っ直ぐに縁を見詰め返した。

「……その時は、舌を噛み切って死にます」
「っふ、ふは、なにそれ、本気?」
「本気です。……そうすれば、もう縁先輩を楽しませる必要もないし成り立たないですから」
「……」

 縁の目的は単純明快、自分が楽しむため。そのためなら他人がどうなっても構わないという質の悪い愉快犯だ。
 本人の言動はあっちこっちフラフラしていてもその根本は確かで、と、なれば縁への対処法は一つだけだ。

「自殺ねぇ……君にそんなことが出来るのかな?舌を噛み切って、肉が千切れるほど噛んで溢れる血が喉に絡む感触に耐えきれるのかい?」
「耐えれます」
「……困ったな、齋藤君には猿轡が必要みたいだな」

 呆れたように肩を竦める縁。
 そして、縁は満面の笑みを浮かべた。

「ハッタリにしては上出来だよ、齋藤君。それでこそ、俺の好きになった齋藤君だ」
「……」
「君の条件を飲んでやるよ。そうだよな、ゲームは楽しくなくっちゃ。イレギュラーも大番狂わせも醍醐味だからな、ただの出来レースなんてそんなもの詰まらない」

 興奮したように鼻息を荒くする縁は俺から手を離し、そして、助手席の扉が開いた。

「降りろよ、齋藤君」

 会場に着いたぞ、と、顎先で外をしゃくる縁につられてドアの外に目を向ける。そこには、見慣れた校舎が佇んでいた。
 いつの間に学園に帰ってきたのか気づかなかった。それでも、俺は、逃げるつもりはなかった。
 車から降りれば、続いて縁が降りる。日が落ち始め、微かに赤く染まった空がどことなく不気味に映る。
 引き返すことは出来ない。
 引き返す気もなかった。

「あの、どこまで行くつもりなんですか?」

 車を降りて、ぎこちなく歩く縁に着いていくこと暫く。
 学生寮へ向かう縁に、まさか以前のように待ち伏せしていた連中にとっ捕まえられやしないだろうかと警戒する。
 けれど、縁はただいつもと変わらない調子で笑うばかりで。

「言っても言わなくても君は着いてくるだろ?」
「……そう、ですけど」
「なら、齋藤君は俺の後を着いてきたらいいんだよ。それとももう愛想尽きちゃった?」

 愛想ならとっくに尽きている。
 それでも試すような物言いは、俺が縁についていくと分かっているからだろう。
 ごちゃごちゃ言ってないで黙ってついてこい、ということか。
 何も答えないでいると、縁は「そうきたか」と小さく笑って、また歩き出した。

 エレベーターに乗り込み、やってきたのは学生寮四階。つまり、三年生の部屋。
 阿賀松の部屋、ということはないだろうが、だとしたら縁の部屋に連れて行かれるのだろうか。今更逃げるという選択肢はないが、やはり平然でいろという方が難しい話だ。
 縁は灘に会わせてくれると言った。この階に灘がいるというのか。
 沈黙がただ息苦しくて、それでいて、俺を冷静にさせてくれる。
 灘が無事なことを祈るしかない。それと、志摩も、手荒な真似をされていないことを。

 もしかしたら、と思っていたが、俺の予想は当たっていた。
 学生寮四階。
 縁が足を止めたのは、阿賀松の部屋、もとい現空き部屋となった扉の前だった。

 取り出したカードキーを使い、扉を開いた縁は「どうぞ、お姫様」と笑った。その揶揄するような言葉がただ嫌で、俺は扉を開いてくれる縁の前を通り、中へ踏み入れる。

 阿賀松の部屋だったそこは綺麗に片付けられていた。
 ここ数週間、阿賀松の部屋に来てなかったがまさかここまで綺麗さっぱりになっているとは思わなかった。
 二つの部屋の壁をぶった切って繋げたような広い空間の中、悪趣味なインテリアもなければ香水の匂いもしない。

 本当に、阿賀松が退学になったのか。
 実感なかった俺にとって、阿賀松の痕跡が無くなっているということが何よりも衝撃で。
 まあ……本人はまだ出入りしているのだが。

「……なんで、先輩が鍵を持ってるんですか?」
「え?」
「って言いたそうな顔だね、齋藤君」

 確かにそりゃ、気になったが阿賀松の残したものをアンチの奴らが利用するのは必然のような気もしていた俺からしてみれば不思議ではなかった。

「三年の部屋は結構空いてるからね、ここも次の新入生が来るまで空いてるだろうし優しい俺が使ってやろうと思ったわけ」
「……阿賀松先輩は使わないんですか?」
「『ここにいるとユウキ君を思い出して苛々するからもう要らねえ』」
「え?」
「って言ってたよ、あいつ。変なところで繊細だからな」

 それは繊細と呼べるのだろうか。分からないが、事実か虚言かも分からない。
 けれど、阿賀松は利用していないということは。

「だから、俺が使わしてもらってんの。つっても、こっちじゃなくてこの奥だけど」

 そう、縁が指差したのは扉の奥だった。

「開けてみなよ」

 促され、俺は咄嗟にその扉に駆け寄った。ドアノブを掴む。
 鼓動が加速するのを感じながら、ドアノブを捻ろうとした時だった。
 ……鍵が掛かっているようだ。ドアノブは動かなかった。

「なんてね、普通に開いたら面白くないしな」

 分かってて『開けろ』なんて言う縁に、もう何も思わない。
 ただ、少しでも期待した自分が愚かだと。

「……それで、何をしたらいいんですか」
「おっ、齋藤君は話が早くて助かるねー。まあ大したことはないよ、ここにその部屋を明けるキーがある。齋藤君が俺に勝ったらこれをあげるよ。この部屋も、あいつも、好きにすればいい」
「……」
「いいねーその目、全く俺のことを信じてない目。けど、こういうことで俺、嘘を吐くつもりはないから」

 どこまで本気かまるで分からない。けれど、縁の遊び相手になるしか他はないようだ。

「……それで、俺はどうしたらいいんですか?」
「何もしなくていいよ、ただ、当てればいいん。『この扉の向こうに灘和真がいる』か否か」

「簡単だろ?」と、縁は笑った。
 なんでもかんでも賭け事にしようとする縁には呆れたが、ロシアンルーレットをやらされるよりかはまだましだ。
 けれど、ということはだ。

「もし、外れたら?」
「そうだな、じゃあ、俺とセックスしようか」
「……俺は真面目に聞いてるんですけど」
「酷いな、俺は真面目だよ。負けたら夜は俺の部屋で一緒に二人きりで過ごすってことでどう?」

 何も言ってることが変わっていないのだが、突っ込む気にもなれなかった。
 しかし、本調子ではない縁にそんなことが出来るはずがない。そう結論付けて、俺は「分かりました」と答えた。

「え?いいの?」
「いや、あの……負けたら、ですよね」
「なにそれ、まるで負ける気はないって言ってるみたいじゃん」

 笑う縁。
 所詮、二択問題だ。確率は二分の一。勝っても負けても『支障』はない。
 縁の言動から考えて、既に答えを決めていた。

「灘君はここにいます」
「どうしてそう思うんだよ」
「……そうじゃなければわざわざここに連れてこないと思ったので」

 そもそも、俺の中では縁は最初から俺を勝たせるつもりだったのではないのだろうかと思った。
 どちらにせよ灘に会わせるつもりだと言った縁、そして、この部屋を貸すという縁。この言動が重なった結果がそれだと、俺は思ったのだ。

「分からないよ?もしかしたらそう思わせるために俺がわざわざここに連れてきたのかもしれないし」
「でも、それなら罰ゲームは必要ないじゃないですか」

 縁自身が疑われるように仕向ければ、逆に誘導されていると感じるのが普通だろう。どちらにせよ、縁を疑えば墓穴を掘ることになるのは明白だ。
 これは、縁の小手調べだろう。ゲームとは言え、自分を信じるのかということを確認するための。

「本当、齋藤君はお人好しだね」

 呆れたように、それでも愉快そうに喉を鳴らした縁は「ほら」と俺の手にカードキーを握らせた。

「開けろよ、自分が当たってるのかどうかその目で確かめてみればいいだろ」

 俺はそれを受け取り、言われるがまま、扉に近づく。
 カードキーを使って解錠し、ドアノブに触れる。ひんやりとした金属の感触に、一筋の汗が背筋を流れ落ちる。
 確か、以前はこの扉の奥に寝室があった。ならば、と、意を決し、大きく扉を開いた。

 寝室だった場所は、他の部屋同様全て片付けられていた。
 ベッドも、サイドテーブルも全て。
 ただ、中央の椅子を除いて。

「灘、君」

 窓一つない、薄暗い部屋の中。
 特徴的な形をした椅子に腰を掛けたその人影の顔は陰でよく見えない。
 背後から縁の視線を感じながらも、俺は足を進める。
 一歩、また一歩足を進める。すぐにでも駆け寄りたいのに、そうできないのは部屋に充満した嫌な気のせいだろう。

「灘く……」

 近付いて、顔が見えないのは陰のせいではないと気付く。
 マスクだ。その目元と口元を覆う黒いレーザー製のマスクに、俺は息を飲む。唯一露出した鼻と、頭部。それでも灘だと分かったのは骨張った体格のお陰だろう。

「っ、……」

 なんだ、これは。
 両腕を椅子の肘掛けに固定され、ビクともしない灘が俺の声に答えない理由もすぐに分かる。
 無骨なヘッドホンを頭から被せられていた。
 それからは俺にも聞こえるほど不協和音が漏れていて、慌てて俺はヘッドホンを取り上げ、捨てた。

「……灘君……っ」

 マスクを外そうとするが、複雑に固定されたそれはちょっとやそっとじゃ外れなくて。
 その代わりに、耳を塞ぐものがなくなった灘に俺の声が届いたようだ。微かに、拘束された灘の指先がピクリと反応したのを俺は見逃さなかった。

「いやぁ、嬉しいな、齋藤君が俺を信じてくれるなんて」
「……ッ先輩……」
「会いたかったんだろ?そいつに。良かったな、会えて」

 なんでこんなことを、と言いかけて、言葉を飲んだ。
 縁の行動に意味を求めてはキリがない。
 俺は灘の後頭部側に手を回し、手探りでなんとか見つけた金具を外した。

「待ってて、もうすぐ、外れるから……ッ」
「あーあ、せっかく用意してやったのに外すんだ」
「当たり前です!っこんな、悪趣味な……」
「悪趣味ねぇ……」

 俺の勝手な行動に縁は怒るわけでもなく、ただ傍観する。
 それがなんとなく気になったが、それよりも灘だ。
 マスクを外せば、ようやく、灘の素顔が現れる。
 どれほどの間マスクを被せられていたというのだろうか、血の気の引いたその顔は相変わらず無表情で。

「……齋藤君」

 微かに、灘の唇が動く。
 その声は再会を喜ぶものではなく、『何故ここにいるのか』と咎めるようなものが含まれていた。

「残念だったな、灘。賭けはお前の負けだ。良かったな、お前みたいなやつでも思ってくれるやつがいて」
「……」

 賭け?賭けって言ったか?今。
 まさか俺みたいな賭けを灘にもけしかけていたということか。それで、俺の行動は灘を負けにさせたと。そう理解した瞬間、血の気が引いた。
 そんな俺とは対照的に、灘の表情は変わらない。その代わり、冷たい目で縁をじっと見ていた。……いや、睨んでいたと言った方が適切かもしれない。

「知ってる?齋藤君。俺も最近知ったんだけどこいつって何しても反応しねえんだよね。電気流しても爪剥がしても釘打っても泣きもしなけりゃ声も上げないんだよ。そりゃもう本当なんも楽しくねえし少しは弱音吐くかと思って放置しててもこれだよ。本当、つまんねーやつだよな」
「……つ、爪……?釘……?」
「ああ、ほら、それ」

 と、灘の手元を指差す縁につられて目を向けてしまう。先ほどまではマスクに気を取られて気にしなかったが、包帯でぐるぐるに巻かれたその手に思わず俺は顔を逸らした。

「な……っ、なんて、ことを……ッ」

 想像して、吐き気が込み上げてくる。
 縁を睨めば、縁は肩を竦めた。

「そんな心配しなくて大丈夫。だってこいつ、何も感じないから」

 そう言うなり、灘の手に触れた縁はその人差し指を掴もうとし、咄嗟に俺は縁の腕を掴んだ。

「……ッ先輩……」
「なんだよ、どうせまた俺のこと信じてないんだろ?だから、実演してやろうと……」
「止めて下さい……ッ、お願いだから、これ以上は……」

 想像しただけで、生きた心地がしない。それなのに灘はまるで他人事のように自分の体を見ていて。それが見ていられなくて、俺は、縁に懇願する。
 そんな俺を見て、縁はふっと微笑んだ。

「だから試すだけだってば」

 そして、俺の手ごと、灘の指を。曲がるはずのない方に。

「ッぁああ……ッ!」

 自分の口から出た情けない声に構ってる暇もなかった。嫌な音を立て、付け根から逆の方向へとへし曲げられた指に、溜まらず涙が滲む。

「や……ッ、も、止めて下さい、止めて下さい、先輩……ッ」
「これで俺の言うこと信じてくれた?」
「信じます、信じますから……っ、お願いだから、もう……ッ」

 見ていられない。灘から引き離したくて、縁にしがみつけば縁は笑いながら俺を抱き締め返した。

「本当、齋藤君ってば疑り深いんだから」
「……ぅ、うぅ……」
「なにもう、そんなに泣くなよ。ほら、顔上げて?……ほんっと、齋藤君かわいいな……」

 頬を挟まれ、撫でられる。その手が容易く灘の指を折った手だと思ったら気が気でなくて、必死に張っていた虚勢が根本からぶっ壊されるのが分かった。
 怖い、怖くて堪らないけど、この場を動くことができなかった。灘を一人にさせたくなかった。だって灘は、無痛症ではない。俺はそれを知っている。
 襲われて、殴られて、痛みに顔を歪めた灘を。灘にだって痛覚があるはずだ。そう思うと、灘の痛みを想像しただけで震えが止まらなくて、ダメだった。

「『それ』を見せ付けるために、今度は彼を連れてきたのですか」
「はぁ?違うに決まってんだろ。お前の反応にはもう興味ねえし。今度は、齋藤君が俺と遊んでくれることになったから」
「……齋藤君が?」

 灘の目が、こちらを向く。
 そうか、だから、縁は俺に近付いたのか。灘に飽きたから。
 それでも、構わない。寧ろ、少しでも灘の負担を軽くすることが出来ればと思った。縁は笑う。

「そ、そ。でも、お前は負けだもんな。このまま見逃してやるのもムカつくからなぁ」
「……っ、また、灘君に何かするつもりなんですか……?」
「そんな可愛い顔すんなって、齋藤君がどうしてもって言うなら灘和真には手を出さないでやるから」
「齋藤君」

 聞く必要はないですから、と灘の眼差しは語っているようだった。

「……ちゃんと、灘君を病院に連れて行ってくれますか……?」
「それは齋藤君の好きにすればいいよ。俺には用済みだからね」

 縁に腕を掴まれる。そのまま手首に向かって輪郭を確かめるようになぞる手の感触がなんかゾワゾワして嫌だったが、縁の言葉に今はただ安堵する。

「っ、じゃあ……」

 今すぐ灘を病院に連れて行こう。
 そう思い立ったときだった。

「ああ、勿論、齋藤君次第だけど」

 にたりと、目を細めた縁。その言葉の意味を理解するよりも先に、がシャリと手首に金属製の手錠が嵌められる。

「っ、え」
「齋藤君、つーかまえた」
「っ、なんですか、これ」
「だーかーら、言ってんじゃん。齋藤君次第だって。……いや、こいつ次第かな?」

『こいつ』という単語と同時に灘に目を向けた縁は笑う。
 どういう意味かと尋ねるのも恐ろしくて、灘に目を向ければ僅かに灘の目が細められる。

「……さっきご自分で仰りませんでしたか。俺は飽きたと」
「でもこのまま齋藤君の元に行かせるのも癪だとも言ったよな、俺」
「……」
「罰ゲームだよ、灘和真。齋藤君を犯すのと、俺に犯される齋藤君をじーっと見てるのとどっちがいい?」

 とんでもないことを言い出す縁に、俺は文字通り言葉を失った。
 だって、そうだろう。俺次第ってそういうことか。と納得しそうになる反面、そんな場合じゃないだろうと焦る俺がいた。
 寧ろ、どちらにせよ灘を巻き込むことには違いなくて。
 そして、俺にも灘にも拒否権はない。
 あらゆる方面に目を瞑れば後者の方が遥かに灘の負担は少ない。縁は怖いが、それでも、灘が自由になるためなら俺も腹を括るしかない。
 が。

「俺がします」

 当たり前のように即答する灘に、俺の決意は呆気もなく碎かれる。

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