天国か地獄


 20

 芳川会長のいる病院は、学園からそう離れていない場所のようだ。
 まさかあの病院じゃないのだろうか、阿賀松の親族が経営しているという病院が脳裏を過ぎったが、名前を聞けば違うことが分かった。

「それじゃ、一回病院の様子見てくるよ」
「様子って?」
「一応物事は順序立てが必要だからね、いくらなんでもいきなり食堂に飛び込んで混入するわけにはいかないから」

 病院の構造、職員の動きを観察し、その隙を狙う。志摩はそう言った。
 ということは今今すぐすぐ手を出すつもりはないようだ。
 こういうことはもしかしたら俺よりも志摩の方が得意なのかもしれない。志摩は直感で動くタイプだと思っていただけに、考えている志摩を見てると余計居た堪れなくなる。

「すぐ、帰ってくる?」
「なるべくはそうしたいけど、どうかな。ちょっと時間掛かるかもしれないから齋藤一人になるけど……大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
「冷蔵庫になんか入ってるだろうから勝手に食べといていいよ。それと、クローゼットは開かないようにね」

 壱畝の姿が脳裏を過ぎる。
 志摩がいるから今までなんとか紛らせたが、二人きりになってしまうと思ったらやはり、怖い。が、我儘を言って志摩を困らせるわけにはいかない。

「わ……分かった」
「……」
「部屋から出ないようにするから、あの、なるべく早く……戻ってきてほしいな、なんて……」

 精一杯、俺なりに志摩にお願いをしてみた。しかし、志摩の表情は渋くなるばかりで。
 そして。

「……やっぱり、無理だ、齋藤を一人きりになんてできない」

 盛大な溜息とともに、志摩は俺の腕を掴んだ。

「本当は、病院であいつとばったり会ったらと思うと嫌で嫌で仕方ないけど、こんなところに齋藤を一人にするくらいなら俺と一緒にいた方がましだよ」
「……え?えと、俺も、一緒に行っていいの……?」
「いいとか悪いじゃなくて、来て。これ、強制だから」
「でも、俺、邪魔にならない……?」
「邪魔だよ、とろいし鈍いし余計なことしかしないけど、齋藤のことばっか気になってなんにもできなかったら元も子もないからね」

 正直、嬉しかった。
 危ないことをするときはいつも一人で動いていた志摩が、俺が隣に立つことを許してくれる。会長のいる病院、阿賀松たちがいないとも言い切れない危険な場所だが、志摩と一緒にいることが出来るというだけですごく、ほっとする。

「俺、志摩の足手まといにならないよう頑張るから……!」
「だからそれが余計なんだって。いいから、向こうに行ったら絶対俺から離れないでよね」
「わ、わかった」
「……本当に?」
「えと、志摩の傍から離れなければいいんだよね」
「……不安だけど、一人にするよりはましだからなぁ……」

 そこまで俺は志摩にとって不安要素なのだろうか。
 俺からしてみれば志摩も大概人のことを言えないと思うが、余計なことを言ったらまた喧嘩になりかねない。
 心外だったが、今までの行動を考えるとそう思われても仕方ないだろうし……俺は何も言えなくなる。そして、俺と志摩は部屋から出た。

 ◆ ◆ ◆

 学生寮外。
 そのまま校門を出ていこうとする志摩に思わず声を掛けた。

「志摩、あの、外出許可証発行しなくていいの?」
「……あのね、そんなことしたら俺たちの行動筒抜けになっちゃうでしょ」
「でも、大丈夫なの?」
「俺を誰だと思ってるわけ?勿論、抜け道は用意してるよ」

「と言っても、用意してるのは俺じゃないけどね」校門から出ていくのかと思いきや、校庭側に回る志摩に俺はあっとなる。
 ついこの間、学園に戻ってくるために志摩と栫井とこっそり開けた裏口。

「そっか、ここなら……」
「納得するのはいいから早く出てよ、もたもたしてると見つかっちゃうから」
「う、うん、分かった!」

 慌てて学園の外へ降り、歩道へと出る。
 丁度目の前を通り過ぎていく車にびっくりしていると、扉を閉める志摩に「何してんの」と笑われた。

「あ、そうだ、齋藤」
「え?……って、わ、ちょ……っ」

 いきなり志摩の手が伸びてきたと思いきや、今度は頭から何かを被せられる。
 驚いて後退ったとき、視界に再び光が戻った。
 こちらを覗き込む志摩と目が合い、志摩は笑う。

「無いよりはましでしょ」

 言われて、自分の頭に触れればそこにはニット素材の帽子が被せられていた。
 俺のものではないのだが、志摩が用意してくれたのだろうか。思いながらも、帽子を触っていた俺だったが、ハッとする。

「でも、志摩のは?」
「俺は帽子嫌いだからいいんだよ。それに、見つかって面倒なのは齋藤だからね」

 そう志摩はいうが、志摩も志摩で会長に目を付けられていることに間違いないわけで。
 何かないだろうか、とポケットを漁る。けれど、出てくるのはハンカチくらいしかない。
 こうなったら。

「……あの、志摩、これ」
「何?……ハンカチ?」
「えと、これ、よかったら使って」
「俺、汗掻いてる?」
「や、あの、そういうわけじゃないんだけど……その、いつも志摩にしてもらってばかりだから、何かお礼したかったんだけど……これしか手元になくて」

 ごめん、と項垂れる俺に、志摩は小さく吹き出した。そして、笑みを深くする。

「……本当、齋藤は馬鹿だよね。俺は物のお礼なんか興味ないって知ってるくせに」
「……そう、なの?」
「そうだよ、どっちかというと俺はキスとかそういう色気のあるお礼を期待していたんだけど……まあいいや、齋藤に色気を期待しても無駄だろうしね」

 なんでここまでボロクソ言われているのだろうか。
 酷く居た堪れなくて、お門違いな真似をしてしまった自分を恥じて手を引っ込めようとすれば、志摩にハンカチを奪われた。

「まあ、これは貰っておくよ」
「でも、いらないんじゃ」
「誰がいらないなんて言った?」

 ボロクソ言っていたじゃないか、と思ったが、言いながらハンカチを仕舞う志摩の顔はどことなく楽しそうで。
 俺は言葉を飲んだ。そして、代わりに俺は笑い返す。

「……ありがとう、志摩」
「それはこっちのセリフだと思うけど、まあいいや。どういたしまして」

「それじゃ、行こうか」炎天下。
 すっかり夏の気候に包まれた街には蝉の声がけたたましく響いていた。
 これから遊びに行くわけではない。それでも、志摩が一緒だからだろうか。心の奥に、わくわくしている自分がいた。


 病院は、俺が入院していた病院程大きくはなかった。
 年季は入っているものの、病院内の施設は真新しく、整っている。
 ここに、会長がいる。そう思うと、帽子をつい深く被ってしまいそうになる。

「受付してくるから齋藤はそこで待ってて」

 そう言って、志摩はカウンターへ向かう。
 少しの距離と分かってても、志摩が隣にいないというだけでひどく心がざわついた。
 そんな自分を落ち着かせるため、俺はマガジンラックに置いてある適当な雑誌を手に取った。それは経済雑誌だった。
 小難しい単語が並ぶ見出しをパラ見する。
 どこの企業が問題を起こしただとか、株価がどうとか、あまりニュースや新聞を読まない俺にとって真新しい情報ばかりが記載されていた。
 一瞬、阿賀松という単語が目に入ったような気がして、慌ててぺージを戻そうとした時だった。

「おまたせ、齋藤」

 志摩が戻ってきて、俺は慌てて雑誌を閉じた。

「何読んでたの?」
「えと、適当に……」
「へぇ、齋藤ってそういうの読むんだ。なんか意外」
「読んでみたのはいいけど、全然内容が頭に入って来なかったよ」
「だろうね、俺もだよ」

 志摩と話しながらも、俺は雑誌に載っていた『阿賀松』の文字が頭から離れなかった。
 きっと、見間違いだろう。それか、俺の知っている阿賀松とは違う人物だろう。
 気にすることでもないと判断した俺は、雑誌をラックに戻した。

「それじゃ、行こうか」
「うん」

 ロビーを抜けた俺たちは人気のない階段を使うことにした。

「見舞いの受付表を見た感じ、三時間前に五味武蔵が尋ねてきているみたいだね」
「五味……先輩が?」
「あとは見慣れない名前ばっかだったけど、もしかしたら俺みたいに偽名使って他の患者の見舞い客装ってるやつもいるかもしれないからなんとも言えないんだけど」
「……」

 志摩のやつ、偽名なんて使ったのか。
 それはどうなのだろうかと思ったが、そうせざるを得ない状況だ。敢えて俺は目を瞑る。

「要するに、気を抜くなってことだよね」
「ま、そういうことだね」
「会長の部屋は分かったの?」
「流石にそこまでは分からなかったよ。けど、怪我の状態からして部屋は限られてくるからね。プレートを確認していけば簡単だよ」
「……なるほど」

 つまり行き当たりばったりということか。
 けれどその行き当たりばったりでここまで来たわけだから、そんな志摩の背中も頼もしく思えてくるわけだ。
 あとは、会長とばったりなんてことにならないのを願うばかりだ。

 階段を昇り、二階へやってきた俺。
 ラウンジは見舞いに来たであろう家族や友達と談笑する入院患者で賑わっていた。
 そこに会長の姿はない。

「芳川のことだから部屋の中でじっとしてるとは思わないんだけど……」
「人が多いところは苦手だって言っていたからもしかしたら図書室とかにいるのかもしれないね」

 壁に掛かった病院のフロアマップを見ながら、俺は志摩に声を掛ける。
 他に一人になれそうな場所と言えば……中庭、だろうか。
 晴れている日は人が多そうだが、今日は特に暑い。
 散歩をしてる患者は少ないだろうし、けれど会長がいるかとどうかといえば怪しい。

「……図書室は、一階だね」
「……志摩?」
「先に、芳川の居場所を確認しておくべきかもしれない」
「えっ?それってわざわざ会長を探しに行くってこと?」
「そこにいると分かればある程度芳川の行動も読めるし動きやすくなるじゃん」
「確かにそうかもしれないけど……」

 あまりにも危険じゃないだろうか。
 怖気づく俺に、志摩はわざとらしく息を吐く。

「こう見えて隠れるのは得意なんだよね、簡単に見つかるつもりはないよ。まあ、誰かさんが余計なことをしない限りだけど」
「けど、危ないよ」
「なら、齋藤はここで待っててもいいよ」

 出た、これだ。俺が少しでも反論したらすぐこれだ。
 もう、俺が一人取り残されるのは嫌だと知っていて、こんな意地の悪いことを言うのだ。

「俺も……一緒に、行く」
「最初から素直にそう言えばいいのに」

 言いたいことはたくさんあったが、反論する気にもなれなかった。
 というわけで、もう一度階段を降りて俺たちは例の図書室へと向かう。
 幸いにも図書室はガラス張りになっていて、中の様子が見れるようになっていた。
 逆に言えば、通路側の様子も筒抜けだということなのだが。

「……見つけた」

 キョロキョロと内部を確認している俺の隣、不意に志摩は呟いた。

「二列目の棚の奥」

 あくまでも俺に聞こえるような声で、志摩は呟く。
 言われた方向に目を向ければ、後ろ姿だったが芳川会長らしき背の高い背中を見つけた。
 その奥にはもう一つ陰があり、それが誰なのかはすぐに分かった。
 特徴的な頭部のシルエット。

「……五味先輩だ……!」
「これなら丁度いいや、齋藤、戻るよ。今の内に芳川の部屋を確認しよう」

 腕を引かれ、図書室を離れる。
 志摩の足はいつもよりも早くて、芳川会長が五味先輩と一緒にいると分かったからだろう。もし目的が図書室の本ではなく話だとしたら、話が終わり次第二人は場所を移動する。
 急がないと。
 志摩に遅れを取らないよう、俺は小走りでその後をついて行った。

 芳川会長が入院している病室は相部屋だった。
 四人分のプレートが並ぶ中、見慣れた名前が記入されているのを見つけたのだ。

「ここか……」

 見つけたのだからもう戻るのだろう、そう思っていた俺の隣、部屋の中へと入っていく志摩にぎょっとする。

「ちょ……っ」

 ちょっと、志摩。そう、慌てて止めようとした時だった。志摩に口を背中を叩かれる。大人しくしろ、というサインだ。
 病室は、天井からぶら下がるカーテンで四つに仕切られていた。
 その内、閉まっているカーテンは一つ。病室にいるのは一人だけで、付属のテレビを見ていた中年の男は俺達をじとりと睨んでくる。それを無視して、志摩は奥のカーテンへ近付いた。
 躊躇いもなく中を覗く志摩に驚いたが、俺が止めるまでもなく志摩はすぐにそこから離れた。
 そして、

「あれ、芳川のやついないなぁ」

 わざとらしく声を上げながら、志摩は残り二つの空いたベッドに目を向ける。
 その内、荷物の少ないそのベッドに近付いた志摩。

「ちゃんと待っとけって言ったのに」

 最初、志摩がなにを言っているのか、しているのかわからなかった。
 けれど、簡易ベッドに腰を下ろす志摩が何かポケットから取り出すのを見て、察した。
 何かを仕掛けているのだろう。

「びょ……病院の中にはいるだろうし、他、探してみようよ」

 機転を利かせたつもりだが、変に声が上擦ってしまい怪しくなってしまっていないか不安になってくる。
 けれど、そんな俺とは対照的に「そうだね」と笑った志摩はあっさりとベッドから立ち上がり、そこを離れた。


 俺達が病室を出たとき、先ほどの中年の男がこちらを見ていたような気がしたが、怖くて振り返ることが出来なかった。

 ◆ ◆ ◆

 病室を後にし、一先ず他の階へと移動した俺達はラウンジで一休みすることにした。

「齋藤、喉乾いてない?」
「そんなに乾いてないよ……じゃなくて、どういうつもりなんだよ、さっきの」
「どうって?何が?」
「その……さっきの、やつだよ」

 恐らく、志摩が仕掛けていたのは盗聴器だろう。こんな人目がある場所でその単語を口にすることが出来ず、口籠る俺に志摩は「あぁ」と他人事のように笑う。

「なにかに役立つかなと思ってね。電池型だからそう長い間は使えないだろうけど、あいつが部屋にいるかいないかだけが確認できたら充分だからね」
「……ッ」
「けど、齋藤にしてはまともにフォローしてくれて安心したよ。俺の独り言じゃ流石に怪しいからね」

「良くやったね」とキャップ越しに頭を撫でられる。
 褒められた気がまるでしないが、バレて失敗するよりかはましだ。

「志摩、あまり長居は……」
「わかってるよ。あと幾つか下の階に仕掛けたら学園に帰るよ」

 囁く志摩に、俺はただただ気が気ではなかった。
 文化祭で、芳川会長は盗聴器に気付いていた。もし今回もバレたらどうするつもりなのだろうか。

「取り敢えず、残りは俺が行ってくるから齋藤はここで待ってて。……大丈夫、俺の予想ならここにあいつらはこないから」
「……早く、戻ってきてね」
「了解。そっちも大人しくしときなよ」

 笑い、志摩はラウンジから出ていった。
 志摩がいない間落ち着かなかったが、後をついて行ってナースたちに怪しまれても困る。
 ただ今は、志摩が無事に戻ってくることを祈るばかりだった。
 それにしても。楽しそうに話している入院患者たちを横目に、俺は居心地の悪さを感じていた。

 阿賀松の病院とは違う、温もりのあるそこにいるだけで不思議と息苦しくなる。
 病院は、あまり好きじゃない。
 薬の匂いもそうだが、生や死が関わってる場所は小さい頃から言い表せないような不気味さを感じて、怖かった。

 昔から、怪我をしても、保健室に行くのが精一杯だった。
 中学の時、一度からかわれて階段から突き飛ばされたとき、病院沙汰になったことがあった。
 血相変えた親が駆け付けて、実際はただの捻挫で済んだのだがその時の両親の深刻な顔を思い出すだけで息苦しくなって、それからだ。何があっても両親に連絡しないよう養護教諭に頼み込んだのは。

 今回、阿賀松たちの病院に連れて行かれたときも終わったと思ったが、隠蔽されたことで俺は酷く安堵していた。
 志摩に言ったら「馬鹿じゃない?」と呆れられそうだが、誰かに心配掛けるくらいなら誰にも伝えないまま一人でいたいのだ。
 けれど、停学沙汰になってしまったら、両親の方にも連絡が行くのは確実だろう。
 両親に面倒を掛けたくない、けれど。
 何も捨てずに、何かを貫くことは出来ない。
 それを知ってしまった今、俺は悩んでいた。

 不意に、窓の外に目を向ける。
 病院の出入り口、そこに芳川会長と五味らしき人影を見つけた。
 何を話しているのだろうか、五味は笑っていたが芳川会長の表情はこちらから見えない。

「……」

 芳川会長の家は、入院のこと、知っているのだろうか。
 だから入院しているのだろうが、先程、芳川会長の病院に行った時のことを思い出す。
 他のベッドの周りには見舞いの品で溢れていたが、芳川会長のベッド周りは片付いていて、何もなかった。
 大した怪我じゃないからか、分からない。
 それでも、俺だったら少し寂しいかもしれない、なんて考えてしまうのだ。

「齋藤、どうしたの?」

 不意に、背後から声を掛けられ、慌てて振り返る。
 志摩だ。志摩が戻ってきたのだ。

「おかえり……早かったね」
「齋藤が待ってると思ったからね」
「……そっか。……あの、志摩、今は外に出ないほうがいいかもしれない。……会長と五味先輩が、今外にいるみたいだから」
「……ん、本当だ。じゃあ、あいつが病室に戻ってからここを出ようか」
「……うん」

 それから、自販機で飲み物買って少しばかり休憩した俺達は頃合いを見計らって病院を後にした。
 こそこそ逃げることには慣れていたつもりだが、部屋にいると分かっていてもいつ見つかるか心配で、ハラハラしてしまう。そんなことも気にさせない志摩には尊敬に近い念を覚えつつ、俺と志摩は学園に戻ることにしたのだけれど。
 病院を後にし、学園最短のルートを歩いている時だった。
 嫌になるくらいの日差しの中、いきなりけたたましいブレーキ音が響いた。
 そして、道を塞ぐように雑に駐車される車。それを見た瞬間、志摩の顔が強張った。

「っ、齋藤」

 手を掴まれ、そのまま引っ張られそうになったときだった。
 派手なクラクションに志摩の言葉が遮られる。
 けれど、その唇の動きで何を言おうとしていたのかは分かった。
『逃げるよ』
 そう、確かに志摩の唇は動いていた。
 分かった、と応える代わりにその手を強く握り返した時だった。

「待ーて―よ、なぁ、待てって。……こんな暑い中徒歩じゃ辛いだろうなぁって思ってせっかく迎えに来てやったってのにさぁ、酷くね?」

 運転席から降りてきたのは縁だった。
 志摩に「齋藤」と名前を呼ばれる。
 逃げよう、逃げなければ。そう思って、来た道を引き返そうとした時、道を塞ぐように車が停まる。

「……ッ、志摩……」
「馬鹿、路地裏に道があるだろ!そっちに……」
「あ、先に言っておくけどそこ行ったら俺のお友達が待ち伏せしてるから」
「……ッ」
「つーかさぁ、亮太、久し振りに会ったっつーのに挨拶の一つもないわけ?酷いよなぁ、最後に会った時はあんなに情熱的に人の傷を穿り返してくれたってのに」

 絡みつくような縁の声に志摩の顔色がじわじわと青ざめていく。
 いつも飄々としている志摩のこんな顔を見たのは、阿賀松と対峙したとき以来か、それとも。

「……齋藤、隙を狙って車道を走り抜けて。そしたら撒けるから」

 肩を抱かれ、小さく耳打ちする志摩。
 無数の車が抜けて行く中、タイミングを測るのは安易なことではない。
 それ以上に。

「志摩……志摩も、一緒に」
「良いからもたもたすんなって、早く……っ」
「っでも」
「なに?俺が目の前にいるってのに内緒話?酷いなぁ」

「あと、逃げ出そうとするならその場でそっこー轢くから」冗談なのか、本気なのか、そう続ける縁に、志摩の動きが止まる。

「……ッ、なんの用ですか、わざわざこんなところまで」
「だから言ってんじゃん、迎えに来たって」

 もう、阿佐美から逃げたことが阿賀松に伝わったってことだろうか。
 だとしたら、阿佐美は。状況が飲み込めず、その場から動けなくなる俺の前、縁に立ち塞がるように志摩が立つ。

「なんのつもりだよ、それ。もしかして、庇ってんの?齋藤君のこと。庇ってるつもりなわけ?お前、すげー面白いね」
「……これは、あんたの出る幕じゃないだろ」
「お前の出る幕でもねえからな、亮太。俺が用があんのはそこの齋藤君だよ。邪魔するんだったらお前も一緒に連れて行くけど?」

 やっぱり、俺だ。俺のせいで。志摩に。
 また阿賀松のところに戻るのは、まだいい。けれど、志摩まで捕まってしまうのは耐えられない。

「……用があるのは、俺なんですよね」
「流石齋藤君、どっかの誰かさんよりか物分りがいいね。……そうだよ、俺は齋藤君がいたらそれでいいんだけどなぁ」
「なら、志摩を、見逃して下さい……」
「齋藤、何馬鹿なことを……ッ」
「だって、これは、俺が勝手に先輩たちから逃げただけで……志摩は関係ないから……」
「今後に及んでまだそんなこと言ってるわけ……ッ?どんだけ平和ボケしてるんだよ!」
「でも……っ」
「はぁー……っ」
「……ッ!」

 縁の盛大な溜息に、俺も志摩も固まった。
 黙って傍観していた縁だったが、うんざりしたように髪を掻き上げる。

「そういうのはいいからさ、本当」

「面倒だから二人共連れて行こっか」笑う縁、いきなり背後に立つ男に志摩の口をハンカチで塞がれる。
「志摩っ!」と慌てて助けようと手を伸ばせば、生白い手にその手を握り締められる。
 ひやりとした感触に、背筋が凍り付いた。

「安心して、伊織はまだ気付いていないから」

「齋藤君が詩織を利用したことも、亮太のところに逃げたことも」耳朶に触れる唇の感触に、吹き掛かる生暖かい吐息に、その言葉に、全身から血の気が引いた。

「これ以上騒いだら警察呼ばれちゃうかもしれないし、早く車に乗ってよ」

 別の車に押し込められる志摩を見て、足元がぐらつくような不安感に襲われる。
 もし、逆らったりでもしたら志摩の身が危ない。そう思うと、この場から逃げ出すことなんて出来なかった。

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