天国か地獄


 19

「それ、本気で言ってるの?」

 静かな声、それでも、孕んだ怒気は隠しきれるものではなかった。
 志摩のこの反応も、予想は出来ていた。

「本気……だよ」
「齋藤がここまで馬鹿だとは思わなかったよ。話にならないね。……芳川を助けるなんて」
「だから、助けるってわけじゃないよ。ただ、芳川会長の根本を取り除けば芳川会長は自分から降りるんじゃないかと思って」
「だから、芳川を養うって?」
「そ……そんな言い方は……」
「そうだよね、だって、あんなやつのためにわざわざコネを用意してあげるなんて馬鹿じゃないの。いくら自分の親でも、いや、親なら余計でしょ」

 やっぱり、ダメか。正直、自分でもどうかと思った。
 芳川会長の未来の安泰のため、親が経営している会社を紹介する。その代わり、芳川会長には生徒会長を辞めてもらう。という旨の作戦を志摩にしたのだが……見ての通りの反応だ。

「でも、いい線いってると思うんだけど……」
「齋藤の言ういい線は全く良くないからね、自覚した方がいいよ。というかあんなろくでもないやつをご両親に紹介するってどうかしてるよ、俺なら息子があんなクソメガネ連れてきたら張っ倒すだろうね」
「……ぅ……」

 一体志摩はいつから俺の父親になったのか知らないが、確かに、志摩のいうことももっともだ。
 もし、芳川会長に親まで領されたらと思うと……。
 浅はかだったなと反省する。

「そんな面倒なことしなくても芳川知憲は入院してるんだよ、絶好のチャンスじゃないか」
「……チャンス?」
「なに、トドメを刺してあげるんだよ。別に殺さなくてもいい、社会復帰が難しいような後遺症が残る程度にしてあげるんだ。そうすれば、生徒会長という役職にしがみつく必要はない。そんなもの持ってたって役に立たないようにしてやればね」
「……そ、れは……」
「まさかやり過ぎだとは言わないよね。齋藤だって分かってるんでしょ?これは、あいつのやり口だよ」

 当たり前のように、当たり前のような口振りでそんなことを口にする志摩に俺は何も言えなくなる。
 確かに、芳川会長の手口は志摩の言うように卑劣なものだった。
 それを今度は自分がされる。
 そう考えれば理に適ってると思わなくもない……が、同様にそれでは俺達も芳川会長と同じになるのだ。
 それは違うのではないのだろうか、と疑問が沸く。

「後遺症とか、そういう暴力的なのは……」
「何今更甘ったれたこと言ってるの、齋藤。こうやって俺たちがぐずぐずしてる間にもあいつは元気になっていくんだよ」
「他にも方法はあるだろ」
「方法?あるなら教えてよ」
「……ええと、その……」

 咄嗟に反論してみたはいいが、方法と言われて何も出てこない。
 考えろ、なるべく平穏に、解決する方法を。
 穏便に、芳川会長の立場を剥奪する方法を。
 となると、鍵になってくるのはやはり『生徒会選挙』だろう。

「会長が動けない間に選挙を開催して、新しい会長を決めてもらうっていうのはどうだろう」
「芳川が入院してるって言っても一週間も時間はないと思うよ。最悪、明日にも退院する可能性だってあるし。それに……生徒会選挙ってなったら準備だって時間が掛かる。そもそも現時点で開催されるかどうかも危ういのに」

 志摩の言葉は当然の疑問だった。
 阿賀松もそれを企んでるという噂もあるけれども、阿賀松に頼っていてもどうしようもない。それに阿賀松のことだ、どうせ手荒な真似をするに違いない。
 それならば、と俺は思考を働かせた。

「なら、今すぐにでも生徒会選挙を開催しなきゃならない状況を作ったらどうだろう」
「なに?生徒会全員女の子妊娠させちゃってましたーってやるの?それもそれで面白そうだけどね」
「……」
「……齋藤?なに、まさか本当に……」
「確かに……そうだよね、生徒会役員全員に問題があったら選挙は行われるかもしれない」
「……本気で言ってるの?それ」

 志摩の顔が引きつった。
 俺だって、生徒会のことは嫌いではない。芳川会長はともかくとして、五味も十勝も灘も……栫井も、皆、良くしてくれていた。
 だからこそ、手荒な真似はしたくないのは事実だが、この際俺の感情は置いておいてだ。『生徒会選挙を今すぐ開催する方法』として、生徒会全員に何かしらの問題があれば実現する可能性は高い。
 そして、阿賀松も同じことを考えているだろう。暴力的な方法で生徒会を陥れると。
 それなら、俺は。

「そもそも、他の役員は生徒会についてどう思ってるんだろう。……会長みたいに固執してるように見えないけど」
「さあね、あいつらのことなんか興味ないけど。……少なくとも『役員を辞めて下さい』ってお願いしても門前払い食らうのがオチだと思うけど」

 俺の考えてることに気付いたのだろう。皮肉げに笑う志摩に、俺はやっぱりかと息を吐いた。
 けれど、と、脳裏に先ほど会った十勝の顔が浮かぶ。
 話したら、わかってはくれないだろうか。
 根拠もなくそう考えてしまうのは志摩の言うとおり、俺が日和っているからだろうか。

「……うーん……」
「何をそんなに悩む必要があるわけ?簡単な話じゃんか」
「志摩にとってはそうかもしれないけど……」
「なあに、それ、俺が単細胞だっていいたいわけ?」
「そうじゃないよ、そうじゃないけど……俺は、志摩みたいにそんなに割り切れないから」
「……」

 志摩の黒か白かという性格は羨ましくもあると同時に、虚しくないのだろうかと気になるときもある。
 誰に対しても情が沸かない。物事を損得でしか見られない。それを言ってしまえば芳川会長も同じだったのだろう。
 志摩みたいになれたら、こうして悩む必要もないのだろう。
 とっくに遅いとわかってても、まだ平和な道を手探りで探してしまうのだ。

「……別に、俺だってなんでもかんでも割り切ってるわけじゃないよ」
「……え?」
「でも、あれも欲しいこれも欲しいじゃ、本当に大切なものは手に入らないから……本当に必要なもの以外は切り捨てるしかないでしょ」

 つい、志摩の顔を見上げてしまう。
 志摩は、笑っていた。
 目があえば、更に目を細める志摩はそのままゆっくりと俺に顔を近付けてきて、そのまま頬にキスを落とす。

「っあの、志摩……」
「齋藤は、俺と一緒に平穏に過ごしたいんだよね?なら、悩む必要なんてないでしょ」
「……え……」
「不穏分子は皆切り捨てればいい。別に殺すわけでもない、ただ、一時的に再起不能にすればいいだけだ。それだけで、俺達の一生は確定される。……どう?単純明快でしょ?」

 それは、十勝たちを襲うと言ってるのだろう。
 言葉の響きは柔らかくなった、というよりもただ無機質なものになっただけで、その内容はなんら変わりない。
 確かに、深く考えてしまうから余計やりにくくなるのかもしれない。殺すわけではない。ただ、ほんの少しだけ選挙に出れないようにすれば、生徒会存続を危ぶまれるようにすればいい。

「……でも、それでも、やっぱり……暴力は、ダメだよ……」
「……はぁ、本当に齋藤はいい性格をしてるよね。この期に及んで暴力反対だなんて」

「それなら、壱畝遥香にはどうして干渉しないの?」志摩の言葉に、ドクリと脈が打つ。
 至近距離、こちらを見据える志摩の目が、奥の奥を覗き込んできた。

「自分に都合の良い人間には『傷付けないで』、都合が悪い人間は『何されても自業自得』。それじゃ辻褄が合わないよ、齋藤」
「……ッそれ、は……」
「本当は気付いてるんでしょ、自分でも。……自分の言動行動が矛盾してるって。……認めなよ、齋藤。本当は齋藤の方が割り切ってるんでしょ、俺よりも。……使える人間と使えない人間を選り好んでる余裕があるんだから」

 志摩の言葉が、深く突き刺さる。
 ずっと、見てみぬふりをしていた心の奥底を真っ直ぐ突き破る志摩の言葉に、得体の知れないものがどろりと溢れてくるのを感じた。

「俺はね、馬鹿なんだよ。誰が良くて悪いのかも分からないから誰も信じないようにしてるんだ。だから他の奴らに特別何を感じることも出来ない。けれど、齋藤はそうじゃないんだよ。……齋藤は分かってる上で選んでるんだ、自分に利益になる人間を」
「……今は、こんな話をしてる場合じゃ……」

 聞きたくない、と、耳を塞ごうとするが、志摩に手首を掴まれ、制される。

「この際だからハッキリ言わせてもらうよ。俺は齋藤のことを信じてるわけじゃない」
「……そんなこと、言われなくてもわかってるよ」
「けれど、齋藤には俺が必要でしょ?」

 汗が、滲む。
 何故こんな風に責めれなければならないのだろうか。
 酷く息苦しくて、気分が悪い。けれど、志摩の言葉に逆らえなかった。逆らう気も、なかった。
 頷き返せば、志摩は笑った。

「それじゃ、十勝も俺と同じなの?」
「……違、う」
「五味は?」
「……同じじゃ、ない」
「灘は」
「……」
「……栫井は?」
「……ッ」

 志摩と同等の人間なんて、いない。いるわけがない。生まれも育ちも違う誰かと誰かを比べるなんて無理だ。けれど、皆必要な人で、それはいい人だから。……いい人だから?

「それってさぁ……ただ、自分がぬるま湯に浸かりたいだけの人ってことでしょ?甘やかされて、無償にちやほやされたいだけなら俺がしてあげるよ」

「だから、齋藤にはいらないよね」志摩の言葉が、開いた傷口を大きく切り裂いた。溢れるものはもう何もない。
 知りたくもなかった、自分の思考に。自分の本心に。

 無条件に誰かを愛せるような人間が羨ましかった。
 立場も、家柄も関係なく、ただ一緒にいて楽しいからというだけで仲良くしている同級生を見て、羨ましかった。否、羨ましいかどうかすら怪しいが、俺は、少しだけ憧れていたのかもしれない。打算のないごく自然な関係に。

『ゆう君って、なんで俺といる時緊張してるんだ?』

 中学の時、まだ、虐められる前。クラスメートの壱畝に尋ねられた。
 派手な金髪頭が無性に怖かったのもあるが、やはり、一番は壱畝の親とうちの親が関わりがあったからだ。
 とは言えそこら辺にゴロゴロ転がってるようなビジネス上の付き合いだ。それでも俺の言動行動で両親の顔に泥を塗ることになると思うと下手なことが出来なかった。それが壱畝には見抜かれていたのだろう。

『壱畝君みたいな人は初めてだから』

 田舎の中学校、周りの同級生は下流家庭ばかりで一々気にすることもなかったし気が楽だった。
 けれど、そこに現れたのが壱畝だったのだ。
 両親は壱畝のことを特に気にしてるわけでもないが、俺は常にプレッシャーを感じていた。
 何より、似たような境遇だというのに俺よりも秀ている壱畝にコンプレックスを感じていたと言っても過言ではない。

 前は家がでかいからだとかメイドがいるからというだけで周りが一目置いてくれていたが、壱畝が来てからは違う。
 壱畝の家にも使用人はいて、そして本人は文武両道。壱畝は仲間意識を持っていたのかもしれないが、俺は違った。壱畝といるだけで自分が惨めで苦しかった。
 壱畝が嫌なやつだったらまだ良かった、けれど、壱畝は何かことあるごとに俺を気に掛けてくれて、それで、それに応えるのに俺は必死になっていた。
 本当の話、俺は壱畝に憧れていた。堂々としていた壱畝が眩しかった。壱畝に話し掛けられると苦しくなると同時に、こんな俺を気に掛けてくれているのが嬉しかった。
 当時、それが一種の自己満足からくる優越感なのかわからなかった。
 そんなコンプレックスと優越感に板挟みになる日々もそう長くは続かなかった。
 きっかけは、覚えていない。けれど、壱畝の態度が豹変したのだ。いつものように一緒に帰ろうと話し掛けたところ、突き飛ばされた。『馴れ馴れしいんだよ』、と、一言。『調子に乗るな』と、二言。

『……お前、鬱陶しいんだよなぁ。俺がいつお前の友達になったんだよ、勘違いすんなよ』

 混乱する俺の腹部に一発、それは肉体にも脳みそにも大分効果てきめんだった。
 どうして、という気持ちが大きかった。けれど、その気持ちの奥にこちらを見下ろしてくる壱畝に得体の知れない感情が沸いたのも事実だった。
 壱畝も、完璧ではないのだと。八方美人で人当たりのいい壱畝でも、人にムカついたりするのだと。そして、その相手が俺なのだと思った瞬間、肩の重荷が外れるようだった。
 全ては自己保身のための感情だと分かっている。それでも、俺にも純粋に人を信じることが出来ると思っていた。
 けれど、志摩に見抜かれてしまった今、肩から力が抜け落ちた。
 俺は、何一つ変わっていない。
 物事を純粋に見れない。
 どれだけ人らしく振る舞おうとしても、根底のそれまでは変えることが出来なかった。
 悲しさも、情けなさもない。
 ただ、得体の知れない虚無感が襲い掛かってくる。
 そんな俺を抱き締め、志摩は笑う。

「俺なら、どんな齋藤でも受け入れてあげるよ。他の奴らみたいに今更失望したりもしない」
「……」
「もう、無理しなくてもいいんだよ」

 それは、優しい声だった。
 誰かの幸せを願うのは、幸せになった誰かが俺のことを認めてくれるためで、誰かが傷付くのが嫌なのはそれを知ってしまった俺が何も出来ないことに嘆くのが嫌だからで、皆仲良くしていたいのはあわよくばそこに俺を仲間に入れてくれたりしてもらえないだろうかと願うからで。
 一つ一つ、全身を雁字搦めにしていた良心という枷が音を立てて外れていくのが分かった。

「……俺は、人のことが言えないね」
「今更だよ、齋藤」
「……そっか、今更か」
「それに、俺は齋藤のそういうところ、嫌いじゃないよ」
「志摩は、変わってるよ。……変だよ」
「それはお互い様でしょ」
「……そう、かもしれない」

 ありのままの自分を人に受け入れられるのがどれほど心地良い物か、今までは考えたこともなかった。
 受け入れてもらえないと分かっていたからこそ、固めて作り上げた自分を見事にぶっ壊された気分だった。
 けれど、砕け散った破片の奥、剥き出しになったものを抱き締められるだけで、感じたことのない温かいものが溢れ出す。
 ずっと、誰かに肯定されたかったのかもしれない。
『お前はそれでいい』と、ただ一言、言ってもらいたかったのかもしれない。

 俺には、志摩がいればいい。
 俺を、俺自身を受け入れてくれる志摩がいれば、もう、無理をしなくてもいいんだ。
 強張っていた全身の筋肉が和らぐ。

「……ありがとう、志摩」
「スッキリした?」
「うん、なんだか……目が覚めたみたいだ」

 そう答える口元は、無意識に弛んでいた。

「齋藤、落ち着いた?」
「俺は落ち着いてるよ……ずっと」
「そう?それならいいけど」

 志摩に頭を撫でられる。それがなんだか小さい子供でも宥めるような優しい手付きみたいで、なんとも言えない気分になる。
 俺には志摩しかいない。わけではない。けれど、俺のこと
 をここまで考えてくれるのは志摩しかいないというのは分かっていた。きっと、最後まで俺の隣に居てくれるだろう、志摩は。だからこそ、俺も志摩のことをここまて近く感じてしまうのだろう。
 髪を撫でる志摩の指先が気持ちよくて、つい目を閉じてしまう。

「齋藤、もう少し寝たら?」
「……いや、それはやめておくよ」
「時間がないから、とか考えてる?」
「まあ……そうだね」

 阿賀松たちが動き出す前に、生徒会をどうにかしなければならない。
 とはいえ、阿賀松たちのように手荒な真似はやっぱりしたくないというのが本音だ。それは生徒会のためだとか云々というのは置いておいて、そこまでする必要性がないからだ。
 眠らせて数日、姿を消してもらうということも出来る。現に、実質ここ数週間姿を現していない灘も審議に掛けられているというのだから。
 ならば、先にすべきことは睡眠薬の調達か。それよりもやはり、まずは安全な場所を確保することか。この部屋も壱畝がいないというだけで大分気楽だが、壱畝が脱走した時のことを考えれば気が気ではない。

「壱畝君は、本当に大丈夫なの?……逃げ出したり、しない?」
「へぇ、俺のことが信じれないって?」
「そういうわけじゃなくて……念には念を、って意味だよ……」
「俺は大丈夫だと思うけど、齋藤が心配なら足の腱も切っておこうか」

 冗談か本気かわからない、笑う志摩に微かに遠くで物音が聞こえたような気がした。
 恐ろしいことを口にする志摩だが、確かにそちらの方が確実だ。

「……そこまでしなくていいよ」
「あ、いいの?」
「いいよ」

 そのために出した隙を狙って逃げられたら堪ったものではない。首を横に振る俺に、志摩は「了解」と頷いた。

「それと……志摩、芳川会長の入院してる病院って聞いてる?」
「もしかして会いに行くなんて言わないよね?」
「……言うよ。どちらにせよ、俺達は芳川会長に会いに行かなきゃいけないから」

「入院してるなら、延期してもらわないといけないだろ」流石にこの日数は危険だから、と続ければ、意外そうな顔をして、すぐに微笑む。

「そのことなら齋藤が気にする必要はないよ。俺の方から手を回しておくから」
「……志摩が?」
「延期してもらえばいいんだろ?任せてよ」

 ニコニコと嬉しそうに笑う志摩。その笑顔からどうせろくでもないことを考えていないだろうということが読み取れた。

「あんまり……大騒ぎにしてほしくないんだけど」
「心配ご無用だよ。要するに自然に見せかけたらいいんでしょ?」
「……本当に任せていいの?」
「俺が信じられないの?」

 信じてよ、と言わない辺りが志摩なのだろう。
 こころなしかいつもよりもその目は活き活きしているように見えた。例えるなら、水を得た魚。

「一応、なにをするつもりか聞いていい?」
「別に、あいつの口にするものに毒でも入れてやろうかなって思ってるだけだよ。ほんの少し腹が痛くなって何日か熱が続く程度の毒をね」

 それくらいなら、と思ってしまう俺も志摩に毒されているのかもしれない。志摩の言葉がどこまで本当か分からないが、それが成功すれば有り難い。

「その薬はどうするの?」
「やだなぁ、齋藤。それは企業秘密ってやつだよ」
「……」
「……これでも、顔は広い方なんだよ。大丈夫、学園とは関係ないから足は着かないよ」

 そんなことを心配しているわけではないが、「任せて」と笑う志摩を見てると何も言えなくなる。
 確かに、志摩は学園の外でのツテが多いようだ。
 いつも制服に身を包んだ志摩を見ているからか、学園外での志摩のことが気になった。
 この学園に来る前のこととか、そういえば俺は志摩のことをあまり知らない。
 それは、志摩から見た俺も同様なのかもしれないが。

「……そんなに不安?」

 押し黙る俺に、志摩は微かに表情を固めた。

「違うよ。ただ、志摩って色んな友達がいるんだなって思って……少し、羨ましいよ」
「うーん……友達、ね」
「違うの?」
「そんなもんじゃないよ、用があるときしか連絡取らないのが大半だし。そもそも、向こうも俺のことを友達なんて思ってないだろうしね」
「そうなんだ」
「何?もしかして妬いたの?」
「……」
「それは、肯定と受け取っていいのかな?」
「……いや、なんか、俺の知らない志摩がいて、その人たちは知ってるんだと思ったら少し……なんだろ、なんか、変な感じだ……」

 頭で理解してても、心に凝りのような違和感を覚える。
 自分で言ってて恥ずかしくなったが、そんな俺を見て志摩はもっと恥ずかしそうに顔を強張らせた。

「でもさ、齋藤の方が俺のことよく知ってると思うよ」
「……そうなの?」
「そうだよ……俺の好きな体位とか」
「え、いや、知らないけど……」
「なら教えてあげるよ。……俺は立ってやるのが好きなんだ」
「き……っ、聞いてないし、いいよ、そんなことは……」
「そんなことってことはないでしょ。齋藤が知りたいって言ったから教えてあげたのに」

 そんな変態じみたことを聞いた覚えはないが、あまりにも志摩が嬉しそうに笑うものだから反論し損ねてしまう。

「あと、好きな食べ物はすぐに食べられるもの。色は……黒と紫かな。誕生日は十月三日、家族構成はクソ兄貴一人と父親と母親。そんで趣味は……」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりそんなこと言われても……」
「何?」
「メモ、するから……一つずつ言ってよ……」
「……齋藤、キスしていい?」

 なんで、と言い終わるより先に唇を塞がれる。
 ちゅっと音を立て、唇から離れる志摩に「待って」と言いかけたところをまた塞がれた。

「ん、っちょ、し……ま……ッ」

 何度も角度を変え、唇を吸われる。
 あまりの不意打ちに対応し切れず、押し切られるような形で行われる口づけをなんとか受け入れるので精一杯な俺は志摩の胸を叩き、なんとか止めさせた。

「なに」
「なに、じゃなくて……聞いてからすぐしないでよ……っ、質問の意味がないだろ……」
「質問じゃなくて事前報告だから問題ないでしょ」

 無茶苦茶だ。横暴だ。
 言いたいことはたくさんあるのに、トドメにちゅっとキスをされれば何も言い返す気になれなくなるから不思議だ。

「し、志摩……」
「俺も、齋藤のことたくさん知りたい」
「え?俺?」
「うん、齋藤のこと」

 いきなりそんなことを言われても、何も考えていなかった俺の頭の中はテンパるしかないわけで。

「俺は……普通だよ、特に、いう事なんか……」
「好きな食べ物は?」
「え?ええと、その……魚料理が好き、かな」
「兄弟はいるの?」
「いない……一人だったから、ずっと兄弟いる人が羨ましかった……」
「趣味は?」
「……勉強、というほどしてたわけじゃないけど、何をしたらいいのか分からなくて、言われるがまましてたのがそれかな……」
「俺のどこが好きなの?」
「……っ、あの、志摩……」
「教えてくれないんだ」
「……志摩は、俺一人じゃできないことを簡単してくれて……驚いたこともたくさんあるけど、それ以上に、助けられた」

「だから、俺には志摩が必要なんだと思う。……必要なんだ」尋ねられるがまま、拙い言葉ではあったが、それでも思ったことをそのまま口にする。
 恥ずかしさを感じる暇もなかった。
 そんな俺を見て、志摩は微笑んだ。

「どうせなら『運命だと思う』とか『愛してる』とかもっと情熱的な言葉が欲しかったなぁ」
「……嫌?」
「……でもまぁ、齋藤にしては頑張った方かな」

 どこまでも偉そうな志摩だが、嬉しそうに微笑む志摩を見てると嫌な気持ちはなかった。

「志摩は?」
「ん?」
「……なんで、俺の傍にいてくれるの?」
「なんでって、言ってるじゃん、俺は齋藤が俺の味方でいる限り……」
「だから、そうじゃなくてさ」

「初めて会ったときから、志摩は俺に優しかったよね」ずっと気になっていた、志摩のこと。
 思い切って尋ねてみれば、予想していたよりも志摩が難しい顔をした。

「俺が?……優しい?」
「だって、右も左も分からない俺に校内案内してくれたり……」
「まぁ先生に言われたし」
「それでも、いろいろ気遣ってくれていたよね」
「……」
「……?志摩?」

 もしかして、気付いていなかったのだろうか。
 余計なことを聞いてしまっただろうかと、恐る恐る志摩の顔を覗き込んだとき、真っ赤になった志摩と視線がぶつかった。

「……思い出した」

 そして、わなわなと微かに震えるその唇から小さな声が漏れた。

「え?……何を?」
「……言わない」
「な、なんで……?」
「言わない、絶対言わない」
「だから、どうして」
「…………絶対齋藤、笑うもん」

 珍しく取り乱す志摩に既に笑いそうなのだが、そんなことを言ってしまえば本当に何も言ってくれ無さそうな雰囲気がある志摩に、慌てて俺は首を横に振った。

「そんなこと、絶対しないよ」
「……本当に?」

 じとりとこちらを見てくる志摩に、俺は精一杯頷き返す。
 それでもまだ何か文句を言いたそうだったが、やがて志摩の方が先に折れた。

「……似てたんだよね」
「何が?」
「齋藤の髪の色が。……昔、飼ってた犬に」
「え?」

 犬?
 というか、全く予想していたものと違った答えに笑うどころか反応に困ってしまう。

「犬って、志摩、動物嫌いだったんじゃ……」
「嫌いだよ。その犬だけ、なぜか俺に懐かなくてすごいムカついて……それで、齋藤の髪も一緒だったから最初ムカついて、適当に遊んでやろうと思ったんだけど……なんか、必死に俺の後ろついてきてるの見てたら、なんかあの犬に懐かれたみたいで……ちょっと、嬉しかった……っていうか」
「……」
「ほら、その反応だよ、笑いたかったら笑えばいいじゃん!人には愛だとか運命だとか言ってたくせにって笑えよ!」
「……笑わないよ」
「……嘘だ、少し口角上がってるし」
「え?あ、ホントだ」
「……ッ」
「あ、ごめん、冗談だから。……でも、正直嬉しいよ、そういう風に思ってくれてたんだって」
「どこに喜ぶ要素があったの?犬と一緒にされて嬉しいの?」

 確かに犬というのは驚いたが、少しでも俺と一緒にいて同じ気持ちを抱いてくれた、そのことが何よりも嬉しかったのだ、俺は。

「へへ……教えない」
「は?何それ」
「いたたたっ、頬引っ張らないで……!」
「齋藤のくせに可愛くないこと言うからだよ」

 志摩だっていつも企業秘密だとか言うくせに理不尽だ。
 涙目の俺に志摩は相変わらず釈然としない様子だったが、俺の心は不思議と晴れ晴れとしていた。
 些細なことでもいい、少しでも、志摩と共有できる感情がお互いの中に芽生えていたというなら。
 ……けれど、犬というのは予想外だった。それも、恐らく志摩の動物嫌いに影響を与えたであろう犬とは。

「齋藤の髪質とかも、なんかふわってしてて似てるんだよね。……だから、ぐしゃぐしゃにしてやりたくなるのかな」
「もうしてるよ志摩……」
「ホント、思い出してきたら段々ムカついてきちゃった、あのクソ犬」

 せっかく忘れてたのに、と呟く志摩は言いながらもぐしゃぐしゃと俺の髪を掻き回してくる。
 言葉とは裏腹に、その言葉は、その目は、どことなく楽しそうだった。
 志摩は動物が嫌いだと言っていたが、本当は好きなのではないのだろうか。ふと、そんな考えが脳裏を過る。

「ねえ、志摩、その犬はどうなったの?」
「死んだよ」
「……え?」
「俺がここに来る前に死んだよ。ろくに家に帰ってなかったから最期は知らないけど、元々年取ってたしね」
「……ごめん」
「ちょっと何しんみりしてんの?……言ったでしょ、別に俺はその犬嫌いだったって」

 けれど、と俺は口を噤んだ。
 犬が死んだと口にした時、微かに志摩が目を伏せたのを見逃さなかった。
 志摩がお兄さんの話をするときも、悪態をつきながらもその目は微かに下を向いていた。
 声にも言葉にも出ない志摩の部分が、その目にはしっかりと現れているのだろう。そんな気がした。

「……はーあ、やっぱり余計なこと話すんじゃなかった。齋藤って本当すぐ凹むんだもん、面倒臭い」
「……でも」
「でももだってもいらないよ、齋藤。……こう見えて、俺は結構今の状況に満足してるんだから。齋藤とこうして仲良くなれたんだから、あの犬もたまには役に立ったってことだよ。ほら、万々歳だ」

「だから、本当、齋藤は気にしないで」と、志摩は俺の頭を叩いた。
 その声は、その手は、どこまでも優しくて。
 ずっと、気になっていた。志摩の撫でる手が心地良く感じるその理由を。
 嘘八百を平然と並べる志摩の口よりも、常に貼り付けた笑顔よりも、素直に志摩の心が現れる部分。それが、手なのだろう。
 もしかして、志摩はその犬を可愛がりたかったのではないだろうか。そんな気がするのだ。

「……志摩の手は、気持ちいいね」
「なに?他のところも撫でてほしいの?」
「……うん」
「はいはい、冗談だって……え?」
「……」

 自分が相当なことを言ってるという自覚はあった。
 けれど、今だけは、少しでも志摩の欲が満たされればいいと思ったのだ。
 押し黙る俺に、暫く呆けたような顔をしていた志摩だったがすぐに笑った。
 それは、『仕方ないな』というような、慈しみを込められた優しい目で。

「……今は、そんな場合じゃないでしょ、齋藤」

 ぽん、と頭を叩いて、志摩の手は離れた。
 確かに俺を見ていたはずなのに、その目は俺を通して別の何かを見ていたのかもしれない。
 羨ましかった。それでも、不満はない。
 志摩のことをまた一つ知れたようで、嬉しかった。

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