天国か地獄


 18

 腹が減ったという志摩の要望に答えるため、部屋にあったもので軽い食事を済ませる俺たち。
 なぜ俺の部屋の冷蔵庫に志摩のものが詰め込まれているのか理解し難いが、ここを拠点にしていたことは間違いない。今更聞く気にもなれなかったが。
「誰かさんがいない間ろくに喉を通らなかった」とぶつくさ口にする志摩だが、その食べっぷりからして本当のようだ。
 阿佐美もなかなかの食いっぷりをしていたが、腹を空かせた志摩も同じ……いや、それ以上かもしれない。
 その姿を見てるだけでこっちの腹まで膨れるようだった。

「齋藤は食べないの?」
「俺は大丈夫だよ……志摩の食べてるところみただけでお腹いっぱいになったから」
「そんなこと言っちゃって……後からお腹減ったって言っても知らないからね、俺」

 腹が満たされ、大分イライラがなくなったようだ。
 内心ほっとしながらも、俺は志摩が食べ終わるのを待った。

「あー、食べ過ぎたかも……なんかムカムカする」
「だ……大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。どうせ、胃がびっくりしてるだけだろうし」

 何日もろくに食べてない状況で一気に流し込んだら誰の胃だって驚きそうなものだが、平然と笑う志摩に俺は何も言えなくなる。
 たくさんの量を一度に摂取してしまうとすぐに腹が痛くなる俺からしてみれば志摩のタフさは羨ましいところだが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 そろそろ、本題に入らなければ。

「あの、志摩……」
「何?また聞きたいこと?」
「志摩のことを聞きたいんだ。……俺がいない間、何してたのか」
「……」

 また、嫌がられるだろうか。
 口にしてから少しだけ後悔したが、言葉を選んだところで何も変わらない。
 それならばとストレートに口にしてみたが、志摩の表情は変わらない。
 微笑みを浮かべたまま志摩は押し黙る。

「……志摩」
「嫌だ」
「えっ?」
「……って言いたいところだけど、齋藤も教えてくれたしね。構わないよ、そんなに俺のことを知りたいのなら教えてあげる」

 そして、笑みを深くした志摩。

 それから、俺は志摩のことを聞いた。
 俺が居なくなってから壱畝の元へやってきたこと、その後、芳川会長の部屋に行ったが会長はいなかったということ。
 その数日後芳川、芳川会長が入院しているということを知ったのだという。
 会長の入院のことは一般の生徒たちには伝えられてないようだ。志摩はそのことを知ったのは風紀委員たちの会話を偶然聞いたからだといった。

「表向きは事故らしいよ。ステージを見回っていたら落下物が芳川に直撃したってね。何が落ちてきたのかまでは聞いていないけど、アンチの仕業だろうって言われてるよ」
「……」

 十勝もそのようなことを言っていた。
 もし打ち所が悪かったらと思うとゾッとした。

「それで芳川もいないし齋藤もいないし壱畝は使えないしやることないから色々調べながら齋藤を探していたんだ」
「他に、何かあった……?」
「そうだね、あったといえばあったかな」
「本当?」
「学校の前で、齋藤が誰かさんとキスしてた」
「……っ、そ、れは……」

 まさかこのタイミングで掘り返されるとは思ってなくて、まさに不意打ちを食らってしまった。
 ごめんと謝るのもおかしいし、けれど、後ろめたさで志摩の顔が見れなくなってしまう。
 俯く俺に、志摩は笑った。

「本当は腸が煮え繰り返りそうなくらい腹立つけど、齋藤にも何か考えがあったんでしょ?ろくでもない考えが」
「……ぅ……」
「俺は齋藤のことばっかり考えてなんの収穫もなかった。はい、おしまい。今度は齋藤の番だよ」
「……」
「聞きたいことが沢山あるんだよ、齋藤と会えるときまでずっと溜めていたのが沢山。……全部、洗いざらい話してもらうから」

 人が断れない状況を作り上げ、一気に畳み掛ける。
 相変わらずの志摩の誘導尋問だが、元より、話すつもりだった俺からしてみればきっかけをくれるだけ有り難い。

「最初は……阿佐美から手紙を貰ったんだ」

 阿佐美の名前が出た瞬間、志摩の表情から笑みが消える。
 志摩の機嫌を損ねてしまうのは予め分かっていたことだ。それを無視して、俺は言葉を続けた。

 阿佐美が志摩を渡せと言ってきたこと。志摩に濡れ衣を着せて阿賀松を誤魔化せば俺だけは無事でいられるということ。
 けれど、俺はそれは出来なかった。
 だから、志摩を眠らせて俺は自分の体一つで阿佐美の元へ向かた。

「阿佐美には、見なかったことにするから帰れって言われたんだ。……けれど、縁先輩が居合わせて……」
「……方人さんが?」
「阿佐美を疑ってたって言ってた。だから、後を着けたって」
「……」

 それから、阿賀松が迎えに来て、車に乗せられた。
 車中でのことを口にすることは出来なかったが、その時のことを話す俺から察したのだろう。志摩は何も聞いてこなかった。
 阿賀松の私物らしきマンションに連れて行かれて閉じ込められたこと。
 そこを、阿佐美に助けてもらったこと。
 そして、阿佐美に阿賀松と交渉してもらい、『阿佐美を裏切らない』ということを条件に自由に動くことを許してもらったということ。
 そんな阿佐美に協力してもらい、阿佐美に阿賀松のフリをさせてアンチたちの様子を探ったこと。
 話している間、志摩の表情がみるみるうちに険しくなっていくのが分かった。

「それで……阿賀松のフリした阿佐美とキスしたってわけ」
「……ごめん、でも、最初は作戦だと思ってたんだ。……まさか、志摩を誘き出すためだって思ってもなくて」
「作戦だったら、齋藤は好きでもない相手とキスをするの?」
「それは……」

 志摩が怒ってる意味も分かった。
 それでも、自分の浅はかさは俺が一番知っている。
 取り繕ったところで、隠せないほどに。

「するよ、状況が状況なら」

 返事の代わりに、志摩は盛大な溜息を吐いた。

「そうだよね、するよね、齋藤なら。人を庇って自分の体壊しちゃうやつだもんね、齋藤は」

 言い返すことも出来なかった。
 咎められているようで、申し訳なくなって頭を上げられなくなる俺に志摩は「はーぁ」とまたわざとらしく溜息を吐いた。

「そして、まんまと俺が釣られたってわけね」
「……」
「本当、全部あいつの思惑通りになってたって思うとムカつくなぁ」
「……けど、俺は志摩の顔を見れて良かったよ」
「もういいよ、これ以上そんな甘いこと言われたらブチ切れそうになっちゃうから」

『ならなんで俺から逃げたんだ』と、志摩の心の声が聞こえるようだった。
 逃げたつもりもないが、志摩にとっては俺が志摩の元から離れたのは事実なのだからこれに関しては言い訳することが出来ない。

「けど、あいつも誤算だったんだろうね。まさか、齋藤がここまで単細胞だとは思わなかったんでしょ」
「……単細胞、なのかな」
「俺に会いたいってだけでせっかく積み上げたもの全て振り払ってきたんでしょ?単細胞だよ、殴られ損の大馬鹿単細胞」

 志摩の言葉は遠慮なく痛い所をグサグサ突き刺してくる。
 確かに、そうだけど。そうかもしれないけど。得られたものは確かにある。

「……聞いたんだけど、もうすぐ生徒会選挙があるんだって」
「選挙?こんな時期に?」
「うん、多分……栫井のことが一番大きかったんだろうね。芳川会長も入院してるっていうし……灘君も、その……まだ戻ってないから」
「阿賀松がそれを狙ってるってこと?」

 頷き返す。
 そして、もしそれが本気だとして、阿賀松の性格からするに次に狙うのは『生徒会選挙の実現』だろう。そのために生徒会をバラバラになるよう仕向けてくるに違いない。

「けど、開催したところで阿賀松は三年だ。選挙には出られないはずでしょ」
「でも、待ってよ。……今は阿佐美の籍を借りてるんだよな。それなら、可能なんじゃないの?」
「……あぁ、そうか、阿佐美か。あー、本当だ、最悪だ……」

 それに、阿佐美は主席だった。
 ろくに授業に出ないということから素行に問題あるだろうが、それでも可能性が全くないわけでもない。アンチを使って組織投票で当選なんてこともあるかもしれない。

「けど……選挙ね。本当思い切ったことするよね、俺だったら芳川脅して自分を推薦させる方がよっぽど効率いいと思うけど」
「会長なら、阿賀松先輩を推薦するくらいなら死んだ方がましだって考えると思うよ」
「間違いないね」

 そこまで考えて、ふと閃く。
 芳川会長に、推薦してもらう。それなら阿賀松を好き勝手させずにいて、それでいて芳川会長からも権限を奪うことが出来る。

「ねえ、齋藤。もしかしてろくでもないこと考えていないよね」
「そ……そんなこと……少しだけ考えた、かも」
「……素直なところは評価するよ」

 自分でも言ったばかりだ、あの会長が誰かを推薦するはずがないと。何より、会長の立場が無くなるからだ。あれ程しがみついて、他人を蹴落としてまで奪った立場だ。
 それを自ら誰かに捧げるなんて。
 そこまで考えて壱畝の顔が過る。なんの接点もなく、ろくに仲がいいわけでもない、そんな壱畝が生徒会に入るなんて噂されていたのは何故だろうか。
 俺はそんな表面上の噂にばかり気を取られていたが、元はと言えばなぜそんな噂が立ったのだろうか。
 会長に目をつけられたから?それならば、俺の方が壱畝よりも会長に近い立場だったはずだ。
 会長の真意、その根本に全ての鍵が隠されている、そんな気がした。

「志摩、あの……聞きたいことがあるんだけど……」
「……なぁに?」
「前、俺が生徒会に入るかもしれないって噂、立ってた?」
「え?齋藤が?……初耳なんだけど」

 俺もだ。と思ったが、志摩の反応を見て確信した。
 あくまで俺と芳川会長の関係は阿賀松を欺くための恋人だ。けれど、壱畝はそうではない。

 考えろ、考えろ、考えろ。会長はまだ何かを隠しているはずだ。なんで芳川会長は『会長』という立場に拘るのだろうか。
 この学園に来てから、いや、多くのものを視野にいれろ。
 補導され、前科すらある芳川会長が何故この学園に入学したのか。そして、誰一人会長の素性を知らなかったその訳を。
 伊東知憲という人間が、芳川知憲になってから何が変わったのか。

 いくら考えたところで証拠がなければ全ては卓上の空論でしかない。
 それでも、いくつもの可能性を捻り出す。
 会長が芳川の姓になり、この学園に入ったその理由を。
 栫井はそんな会長を追い掛けてここまでやってきたという。
 会長は、『会長』という立場でなければならなかった。なんとしてでも。
 それは会長だけの問題ではないのかもしれない。会長が家を離れ、この全寮制学園へ編入したことに関係あるのだろう。

 誰かと約束しているのか、それとも脅されているのか、それとも自分が建てた目標だからか。いくら考えても分からない。
 けれど、ただ分かることといえば生徒会長という役職は内申書にも大きく響く。これからの未来、誰しもが欲しがるものだ。それが芳川会長の欲してるものだとしたら、芳川会長の目的は『安定した未来の実現』ではないだろうか。
 ある程度の家庭ならばそう実現させるのは難しくないが、身寄りもなく、過去に何度も傷害事件を起こし、補導されている芳川会長からしてみればそれは喉から手が出るほど欲しいものだとしても、不思議ではない。

『……君なら、分かってくれると思っていた』

 蘇る、中庭に響く会長の声。
 会長は、俺のことを知っていたのかもしれない。イジメられて、不登校になって、逃げるためにここに来たことを。
 ここに来れば、新しい自分としてやり直せると思っていた。その、つもりだった。
 芳川会長も、やり直すつもりだったのかもしれない。
 芳川知憲として、別の人生を。そのためには、絶対的なものが必要だったのかもしれない。
『生徒会長』という立場が、なんとしてでも。

「……会長は、人並みに幸せになりたかったのかもしれない」
「は?どうしたの、いきなり」
「考えてみたんだ、どうして会長はここまで生徒会長という立場に拘るのかを」
「それで?なんであいつの幸せとか出てくるの?」
「会長には、内申書が必要だったんだよ。多分だけど……どこでも通用出来るレベルの内申書が」
「……だから、人をダメにしてまで成り上がったって?」

 志摩の言葉に、微かに怒気が含まれていることに気付いた。
 志摩のお兄さんのことを考えてるのだろう。そうだ、会長は生徒会長になるために、志摩のお兄さんまでも手に掛けたのだ。
 阿佐美の言葉が脳裏を掠めたが、俺は目を瞑った。

「多分、芳川家に引き取られてから何かあったんだと思う。……全部推測だけど、だとしたら、壱畝に近付いたのもなんとなく理由が分かるよ」

 壱畝の父親は、大手会社の社長だ。
 もしかしたら、こんな考え方はしたくないが壱畝に入れ込んでコネを手に入れようとしたのかもしれない。
 そして、転校してきたばかりの俺に優しくしてくれたのも、それがあったのだろう。
 そう考えれば、会長があそこまで俺に尽くしてくれたことに納得出来た。

「……安定した将来ね。馬鹿馬鹿し」

 ぽつりと呟く志摩。その言葉には、侮蔑も、毒も含まれていない。
 ただ冷たくその声が耳に響いた。

「俺には理解出来ないな。いつ死ぬかも、いつダメになるかも分からないのにそんなもののために必死になるのは」
「……でも、俺は会長の気持ちも分かるよ」
「齋藤が?」
「成功も何もなくていいから、少しでも平和に静かに暮らしていたい。……そう考えるときはあるよ」
「……ふぅん」

 何を考えているのだろうか、そう呟く志摩に何とも言えない気持ちになる。
 平穏、それは誰もが望むものではないのだろうか。
 少なくともそう思っている俺にとって、いい顔をしない志摩の反応は不可解で。

「志摩は……そうじゃないの?」
「俺?……うーん、どうなんだろ。少なくとも、そんなもののために自分の命を縮めるのは本末転倒だと思うけどね。それに、特別幸せになりたいわけでも長生きしたいわけでもないし」
「……それって」

 志摩の言葉はまるで死んでも構わないと言っているようで。
 自殺を示唆しているわけではないのだけど、それでも、志摩の言葉はあまりいいものではない。そう思った。
 人それぞれ、ということは分かっている。それでも、やっぱり直接聞いてしまうと悲しくなる。

「志摩……自殺とか、しないよね」
「……え?俺が?」

 恐る恐る尋ねれば、少しだけ驚いたような顔をした志摩はやがて、吹き出した。
 いきなり笑い出す志摩に、今度は俺が驚く番だった。

「本当、齋藤ってば馬鹿だよね。俺が自殺?それこそ有り得ないよ」
「ほ……本当?」
「俺が言ったのはいくら頑張ったって死ぬときは死ぬんだってこと。それと俺の自殺は関係ないでしょ」

 クスクスと笑う志摩に、ホッとする。
 けれど、もやもやが完全になくなったわけではない。
 志摩の言葉も理解できたが、まるで自分の命を軽視するような志摩に胸が痛む。
 確かに、そうだ。だけど、志摩が死んだらと思うと遣る瀬無くなる。
 そんな俺に気付いたのか、志摩は「ああ、でも」と口を開く。

「その平穏な生活ってのが、齋藤と一緒にいることっていうんだったら分からなくもないよ」
「……俺と?」
「卒業して、ここから出てさ、一緒に毎日遊ぶのとかさ……楽しそうだよね」

 卒業してから、という言葉に心臓が跳ねた。
 卒業してからのことなんて、考えてなかった。
 ここ最近、目の前の起きたことを処理することで精一杯だったからか。
 卒業して、大学に入って、それから会社に務めることになって……。
 ずっと、そんな自分を想像することが出来なかった。
 けれど、隣に志摩がいてくれるのなら。

「卒業しても、俺と……一緒に居てくれるの?」
「え?もしかして卒業したらそのままバイバイするつもりだったの?齋藤は」
「そ、そうじゃないけど……考えもしなかった、志摩が一緒にいてくれるって」

 今でも信じられなかった。志摩がはそういう風に考えてくれていたなんて。
 驚くと同時に、嬉しさが込み上げてくる。
 そんな俺を見て、心外だと言うかのように志摩は眉間を寄せた。

「俺は最初から齋藤を離すつもりはないよ。約束したんだから」
「……そっか」
「嫌?」
「違うよ、その、嬉しくて……すごく、嬉しくて」

 そう思ってくれている人間が傍にいるというだけで、俄然未来に希望を抱くことが出来るのだ、我ながら単純だと思う。
 けれど、これからただ淘汰していくだけの日々を過ごしていくのだと思っていた俺にとって志摩の言葉はそれほど影響力が強くて。

「あの、志摩」
「なに?」
「……頑張ろうね」
「ふふ、何をだよ」
「えっと……色々」

 まずは卒業しなければならない。そして、勉強もたくさんして、同じ大学に通うんだ。
 夢も希望も持てないと思っていた。なのに、今度は次から次へと沸いてくるのだ。
 芳川会長には、そんな相手が出来なかったのだろうか。
 夢と希望を約束して、一緒に歩ける人間がいなかったのだろうか。
 いや、居たはずだ。栫井は、ずっと芳川会長が真っ直ぐ歩けるように支えてきたはずだ。それが間違った方法だとしても。
 それに、生徒会の皆だって、会長のことを。

「……」

 分かり合うことは出来ない。会長はそういった。
 本当に、そうなのだろうか。

『どうして……どうして、俺を信じてくれなかったんだ……っ!』

 悲痛な芳川会長の声が頭の中に木霊する。
 裏切ったのは、俺だ。会長の優しさに、堪えられなくなったから俺は会長から逃げ出した。
 だったら、俺が会長を信じていれば、会長は変われたのだろうか。
 どちらにせよ、もう手遅れだ。芳川会長を正すことも出来無ければ、権利もない。
 相容れることも出来ないだろう、正当法では。

「あの、志摩」
「今度はどうしたの、齋藤」

「少し、考えてみたんだけど……聞いてもらっていいかな」
「それは……ろくなこと?」
「……いや、多分、ろくでもないと思う」

 偽りだとしても、尽くす芳川会長も芳川会長だ。そんな忠義的な会長を信じるならば、利用するならば、この方法しかない。
 会長の理想と夢を利用した、非人道的な作戦。
 志摩の顔付きが変わっていくのをみながら、俺は考えたことを口にした。

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