天国か地獄


 13

「し、おり」

 学生寮裏口前。
 辺りに人気がなくなったのを確認して、俺は立ち止まる。俺の声に反応するかのように、同様立ち止まった阿佐美はこちらを振り返った。

「……ゆうき君」
「どういう……つもりだよ……」
「……」
「知ってたのか?……志摩がいるって……」

 その名前を口にすると、自然と声が震えた。
 阿佐美は目を細め、そして、小さく息を吐く。

「……正確には、知らないよ。だから、知りたかったんだ」

 俺を使って、誘き寄せるつもりだった。
 そう、阿佐美は言った。

「だから、わざとあんな場所で目立つような真似をしたのか。……そのために……」

 嘘だと思いたかった。
 ただ、阿賀松だと疑われないためにとった行動だと、そう思いたかった。
 けれど、阿佐美はそれを隠そうともしなかった。

「あいつは泳がせたままにしておくには厄介だからね」
「……」
「ゆうき君には悪いことしたと思ったよ、けれど、そうでもしないと対策の取りようがないから」

 対策、という阿佐美の言葉が引っ掛かった。
 まるで、志摩が何かをしようとしているかのような、そんな口ぶりで続ける阿佐美。

「対策って……なんのことだよ」
「……」
「詩織……っ」

 ここまできて、ダンマリは卑怯だ。
 煮え切らない阿佐美に焦れ、もう一度その名前を呼べば、阿佐美は少しだけ迷ったように目を伏せ、そして口にする。

「……ゆうき君は、志摩の味方なの?」

 阿佐美の問い掛けは純粋な疑問で、それでいて、俺の答えによっては何もかもが変わってしまう。そんな気迫を孕んだでいた。

「……っ、俺は……」
「ずっと言ってるよね。……志摩を信用しちゃダメだって」

「あいつは、ゆうき君のためにならない」今度ははっきりとした口調だった。
 確かに、阿佐美からは何度も忠告された。
 それどころか、栫井にもされたこともある。あいつを信用するな、と。
 それでも、やはり、今更誰に何を言われたところで気持ちは揺らがない。志摩のことを知っているのは誰よりもこの自分だという自信がそうさせているのかもしれない。

「だとしたら、どうするつもりだ?……もう、俺に協力するのは難しいということか」
「俺は、ゆうき君が少しでも幸せになるためにならなんでも協力するつもりだよ」
「……詩織」

 それは、暗に俺と志摩が一緒になっても俺が幸せにならないと言うかのような口振りだった。

「……幸せか不幸かどうかは俺が判断することじゃないのか?」
「そうだよ。それで言ってるんだ。……俺は心配なんだよ、不幸を幸せと思い込んでまで自分を追い詰めようとするゆうき君が」
「……そんなこと……っ」
「無いって言い切れるの?」
「……ッ」

 志摩と一緒に行動して、思い返せば色々なことがあった。
 それは確かにいい事ばかりではないのは事実だけれど、それでも俺と志摩にとっては必要なものだったのだろうと、今なら言い切れる。

「それでも……俺は、志摩を見限るつもりはない」
「……自分がどんな目に遭っても?」
「それはお互い様だ。……俺も、俺だって、たくさん志摩を傷付けてきたから……」

 志摩はいつだって俺の傍にいてくれた。
 口は悪いし手癖も悪いけど、それでも、何度も逃げようとした俺の傍にいてくれた。
 数少ない、友達だった。

「……そっか」
「……詩織……」
「残念だよ」

 そう、阿佐美は笑った。
 寂しそうな、それでいて、どこかスッキリしたような顔をする阿佐美に、俺は何も言い返せなかった。

「どこで間違ったんだろうね」
「……どういう……」
「ゆうき君の隣にいるのが俺だったらって思ってたよ、ずっと。けど、思ってばっかしだったからダメなんだろうね、俺は。……実際、ゆうき君の隣に這い蹲ってまでも残っていたのはあいつだけだ」

 阿佐美が何を言わんとしているのかが分からなくて、そんな俺を見て阿佐美はまた笑った。

「ゆうき君に教えてあげるよ。ゆうき君が知らない志摩亮太のこと」

「あいつがどんな奴なのかを」拍子に強い風が吹き、生温い風が全身を包んだ。

「志摩に……お兄さんがいるのは知ってる?」

 尋ねられ、頷く。阿佐美と阿賀松は、志摩のお兄さんと仲がよかったと志摩に聞いていたので阿佐美の口からお兄さんについてが出てくるのは然程驚かなかった。
 けれど、どうしてこのタイミングで。

「志摩のお兄さん……裕斗とあっちゃんと俺は、仲が良かったんだ」

 その話も、聞いていた。志摩の家に二人が遊びに来ていた時もあったと、いつの日か志摩は言っていた。

「裕斗君が入院してるってことも聞いてる?」
「確か事故でまだ目が覚めないって聞いたけど……」
「目が覚めない?……あいつがそう言ったの?」

 微かに、阿佐美の目の色が変わったのを俺は見逃さなかった。
 浮かんだ色は、怒りに似たもので。初めて見る、阿佐美の表情に少しだけ緊張する。
 何か俺はまずいことを言ったのだろうか。誤魔化した方がいいのかと迷ったが、つい、俺は頷いてしまった。……嘘は言っていないはずだ。
 けれど、やはりそれがまずかったようで、阿佐美の顔が引き攣るのを俺は見た。

「あの、詩織……?」
「……裕斗は目を覚ましたよ、時間は掛かったけど、確かにね」
「え……?」

 それは、初耳だった。志摩の話で、長い間眠っているのだから相当なのだろうと思っていただけに阿佐美の言葉は予想してなかった。
 けれど、そう告げる阿佐美の顔はどこまでも苦渋に満ちていた。

 阿佐美の話によると、志摩裕斗は確かに目を覚ましたらしい。病院に入れられて暫くして、様子を見に来た阿佐美の目の前で志摩裕斗は微かにだが目を開いたという。
 そのことを知らせようと阿賀松に連絡を入るため病室を出た間のことだった。次に阿佐美が病室に向かった時、志摩裕斗の病室はナースが青い顔して走り回ってたそうだ。

「……チューブがね、外れてたんだって」

 医師の話によると、目を覚まして体を動かそうとした際に命の綱でもあるチューブが絡まって、外れたという。
 それだけを聞いていたら、あまりの運の悪さに何も言えなくなった。けれど、阿佐美はそのことに違和感を覚えたという。

「目が覚めたばかりでさ、いきなりチューブを引き抜くほどの力が裕斗に残ってるとは思えなかったんだ」

 だから、病室前の廊下の監視カメラを調べた。そう、阿佐美は呟いた。
 どうやって、というのは野暮だろう。阿佐美の親族が経営してる病院だ。立場を駆使したのか、それとも別の方法を取ったのか判断は付かなかったが、病院のカメラを確認した阿佐美はあることに気付いたという。

「あっちゃんに知らせるため、俺が病室を出ていったあと、一人、客が来てるんだよ」
「……客?」

 もしかして、と嫌な予感に胸が締め付けられる。
『志摩のことを教えてあげる』そう、最初に阿佐美は口にした。
 ということは、必然的にその客が誰なのかが浮かび上がってきたが、それでも、認めたくなかった。

「俺のあとに、志摩……亮太が入ってきていんだ」

 ドクリ、と脈が大きく跳ねた。阿佐美が何を言わんとしているのかが分かった。
 それでも、そこまで言われても、俺は、俺は……。

「志摩が……チューブを引き抜いたって言うのか?」
「俺だって、最初は思いたくなかったよ。仮にも裕斗の弟だし……けれど、やっぱりそれ以外考えられないんだ」
「証拠は、あるのか?志摩が、そんなことをしたっていう証拠は」
「……ないよ」

 ハッキリとした口調だった。
 淀みない声、けれど、親友の弟を責めることに罪悪感を抱いているのだろう。阿佐美の顔は暗いままで。


「なら、志摩が犯人という確証はないんじゃ……」

「……ゆうき君、君はどうしても志摩を疑いたくないんだね」

「そういうわけじゃないよ……疑われる理由が志摩にもあるのは分かってる。けど、何も知らないままで一方的に悪者扱いしたくないんだ」
「……限りなく黒に近いグレーでも?」

 俺は、頷くことしか出来なかった。阿佐美の顔を見ることも出来なくて、それでもやっぱり、断言することは出来なかった。
 志摩は、お兄さんのことをよく思っていない。志摩のお兄さんも知らなければどんな兄弟かも分からない俺からしてみれば、俺よりも近い仲にある阿佐美の言うのとの方が確かだと分かった。
 それでも、俺は、この目で見ていないのだ。

「詩織が俺のことを心配してくれてるのは分かったよ、けど、やっぱり、俺は志摩を見捨てることは出来ない」
「そっか」
「ごめん」
「謝らないで。……ゆうき君は自分の信じてるものを信じたいんだよね。それなら、俺に謝罪は不要だよ」

 頭を撫でられ、息が詰まりそうになる。阿佐美の言う通り、志摩は黒に近いグレーだ。
 いや、もしかしたら黒なのかもしれない。けれど、それは俺だって同じだ。

「詩織……」
「ゆうき君が志摩の味方でいるっていうなら、……悪いけど、これ以上手助け出来ない」
「……」

 阿佐美の言葉に、俺は何も返せなかった。
 阿佐美の忠告を無視して、それでいても尚阿佐美を利用しようだなんて虫が良すぎる話だ。分かっていた、こうなることも。それでも、嘘でも、志摩を切り捨てることは出来なかった。
 これだから、俺はダメだろう。分かっていたけれど、不思議と悪い気分ではなかった。

「ありがとう、今まで俺の我儘に付き合ってくれて」
「ゆうき君」

 阿賀松の前に突き出されるかもしれない。
 それとも、また邪魔をされないようにどこかに閉じ込められるかもしれない。それも仕方ないと思った。
 殺されては堪らない、時間もあまりない、せめて、逃げ出せるくらいの自由があれば――……。

「志摩亮太は、壱畝遥香とつるんでるらしい」
「……え?」
「志摩亮太も、壱畝遥香も授業に出ていない。けれど壱畝遥香の部屋を出入りしてるっていう話を聞いた。……ずっと、ゆうき君を探して回ってるって」
「……ッ」

 そのことを聞いて、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。
 なんで壱畝遥香が出てくるのか分からなかった、それでも自分のことを探してくれているという志摩が嬉しくて堪らないと思ってしまうのは不謹慎なのだろうか。

「壱畝遥香の部屋だよ……ゆうき君の部屋だったんだ、場所は分かるよね?」
「……っ、詩織……?」
「俺は……最後まで止めたよ、だから、あとはゆうき君の好きなようにしたらいいよ」

 そう、皮肉げに笑う阿佐美に、早く行けと、暗に促されているようだった。
 阿佐美は、いつだって俺を見守ってくれて、そっと、道を示してくれた。
 志摩のような強引さはないが、それでも、その手は力強くて。
 実の兄である阿賀松に逆らってまで、阿佐美は俺に手を差し伸べてくれた。今度は、自分を踏み台にしろと言う。

「……ッ、詩織……俺は……」

 俺がいなくなったら、阿佐美はどうなるのだろうか。
 流石に阿賀松にどうこうされはしないだろうが、阿佐美を裏切るということは阿賀松も裏切るということになる。
 他人は一切関係ない、ここからは自分で選ぶ道だ。俺のとった行動によって起きたものも責任も全て、俺に降り注ぐだろう。
 俺にはやらないといけないことがある。そのためには何があっても歩みを止めてはならない。そう分かっていたけれど、隣にいるべき人間がいない。
 別に死ぬわけではないと高をくくっていたけれど、俺だけの問題ではないということを改めて知らされる。
 俺がいなくなった志摩がどんな気持ちなのかを、俺は甘く見ていた。

「……ゆうき君」
「っ…………詩織……」

 ごめん、という言葉は喉から出なかった。
 人を裏切ることがここまで苦しいとは思わなかった。心から人を信用したことがなかったから、余計。涙ぐみそうになる俺に、阿佐美は苦笑して俺を抱き締めた。

「ゆうき君……早くしないと、俺、このまま部屋に連れて行っちゃうよ」

「いいの?」と阿佐美は笑う。阿佐美だって、いい思いはしないはずだ。それなのに、それを我慢して俺に勇気を与えてくれる阿佐美の優しさが暖かくて、より、胸を抉る。
 ここまでさせて、最後の最後まで他人任せじゃ示しが付かない。俺は、阿佐美の背中に回しそうになった手をぎゅっと握り締め、阿佐美から離れた。

「……詩織、今までありがとう……っ」

 溢れる涙を隠すことは出来なかった。大きく頭を下げれば、阿佐美は笑う。

「いいよ、もう。別に一生のお別れじゃないんだから。……それとも、ゆうき君としては俺と一生お別れしたかった?」
「そ……そういうわけじゃ」
「……うん、わかってるよ。けど、俺にそんな気遣いは不要だよ」

「早く行って」と、阿佐美は俺から手を離した。
 その目が酷く悲しくて、その場から動けないでいると「早く」と阿佐美は語気を強めた。
 その口元が強張ってるのを見て、ああ、と思った。阿佐美だって何も思わないわけじゃない。人間なのだから。色々なものを必死に押さえ付けてるのだろう。曖昧な態度は余計阿佐美を傷付ける。

「……っ」

 さよならもごめんねも、阿佐美には届かないだろう。
 それならば、と俺は無言で歩き出した。歩いて、歩幅を縮めて、それから走った。
 向かう先は学生寮。
 壱畝遥香のことも気になったが、それよりも先に、志摩に会いたいという気持ちの方が強かったのだ。
 阿賀松の狙いも分かった、どうすればいいのかも、見えてきた。あとは、隣に志摩がいれくれたら。早まる気持ちに同調するかのように足取りが不思議と軽くなる。
 怒ってるだろう。殴られるかもしれない。それでもいい、志摩に謝りたかった。
 俺は、志摩のことを考えていたつもりで自分のことしか見えていなかった。だから、今度はちゃんと。
 ちゃんと、志摩と向き合って、それからまた歩きたい。
 そう、阿佐美と話して、自分の本心に気付いて……改めて思ったんだ。

 ◇ ◇ ◇

「……ありがとう、ね」

 ゆうき君がいなくなって、全身から力が抜けるようだった。

 臆病で、悪い方向へと向かうゆうき君を止めるどころか手放す俺が感謝されるなんて思ってもいなかった。
 あいつなら、力づくでも引き止めるだろう。
 自ら破滅の道を進むゆうき君を引き止めて、幸せにするはずだ。けれど、俺にはそれが出来ない。
 ゆうき君に嫌われると思ったら、強制することが出来ないんだ。

『お前が優しい?我が身が可愛いだけなんだろ?』

 いつの日かに、あいつに言われた言葉が蘇る。
 人に嫌われたくなかった、だから、極力人と関わらないようにしてきた。
 だからかもしれない、ゆうき君を見てると他人とは思えなかった。

「……」

 ゆうき君がいなくなったあとは酷く静かだった。
 俺がしていることはゆうき君のためにはならない。分かっているけれど、ゆうきの笑顔を見るとダメなんだ、何が良くて何が悪いのかがわからなくなる。
 制服のポケットに突っ込んでいた携帯が震え出した。
 伊織からだ。もう、俺があいつのフリをしてることが本人に伝わったようだ。けれど、もう遅い。
 通話を切って、俺は裏口の扉を開いた。向かう先は四階、縁方人の部屋。
 俺は静かに足を進めた。

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