天国か地獄


 12

「おい、ゆうき君」

 腕を引かれ、適当な空き部屋に詰め込まれた。
 二人きりになるためなのだから別に構わないが、やはり、阿賀松の風貌をしている阿佐美に慣れないし慣れそうにない。

「……詩織」

 息苦しいゲームセンターの篭った空気から抜け出したことへの安堵よりも、縁に聞かされた無数の事実に戸惑いを隠せなかった。
 それは阿佐美も同じようだ。

「縁先輩が言ってたこと、本当なのか?……会長が入院してるとか、灘君が……その……」
「……」
「……詩織……」

 阿佐美の沈黙に不安を掻き立てられ、せめて何か答えてくれと名前を呼んだ時、阿佐美に手を取られる。

「……詩織」
「会長のことは本当だよ。灘君のことは……俺も初耳だった。あっちゃんの元にいるのは知っていたけど、方人さんが関わっているのは知らなかった」
「……っ」

 胸が抉られるようだった。
 大怪我をした灘を助けたくて、阿賀松の言う事を聞いたのに、それなのに。
『一緒に出よう』と持ち掛けても『自分の役目がある』と口にした灘を思い出す。
 少なくとも、灘の役目はこんなはずではなかったはずだ。そう思うとやるせなさのあまり胸が引き裂けそうで。

「ゆうき君」

 そんな中、阿佐美の静かな声が響く。
 強く握り締められた掌から、阿佐美の体温が流れ込んできた。

「この先は、俺一人で行くよ」
「……何、言って」
「情報収集なら俺一人で十分だし、これ以上は……ゆうき君にとってもキツイかもしれない」
「……っ」

 それは、阿佐美の気遣いだろう。阿賀松の立場を使っての情報収集、それによって深く立ち入った事情を確かめることを目的としている今、阿佐美の提案は悪くない、寧ろ俺が足手まといとなっている現在よりもマシなものになるのも明らかだった。

「だけど、俺は」
「俺に頼りっぱなしになるのが嫌なんだよね。……それに、情報を偽ってゆうき君に伝えるかもしれない」

 後者の自虐的な物言いが悲しくて、「そういう訳じゃない」と咄嗟に返そうとすれば阿佐美は人差し指を唇に押し付け、笑った。静かに、そう、申し訳なさそうに笑った。

「ゆうき君の言い分は分かるよ。だから、これ」

 そう、阿佐美がポケットから取り出したのは掌サイズの小型の機械だった。
 特徴的なその形を見て、それがなんなのかすぐに分かった。
 ICレコーダー。それでも、ドラマや映画でしか見たことなかったそれを実際に見たのは初めてで。そんなものを持ち歩いている阿佐美に戸惑いを覚えた。

「なんで、そんなもの」
「必要だと思ってね。……これなら、偽ることも出来ない、ありのままをゆうき君に伝えることができる」

 それを使って、阿佐美は色んな人から話を聞いてくるというのか。
 危険を伴うことは変わらない。それなのに、自分一人で充分だと口にする阿佐美が悲しくて、それ以上に反論する術を持っていない俺自身が悔しくて堪らなかった。

「でも、詩織一人にこんな真似……」
「気にしなくてもいい、って言ってもゆうき君は納得しないだろうね」
「それなら……」
「だから、これは交渉だよ」

 阿佐美の口から『交渉』という言葉が出るとは思わず、驚いた。

「俺はゆうき君の言う通りあっちゃんのフリをして情報収集するし提供する。その代わり、これ以上は俺一人で行かせてもらう」
「……っ」
「こんな言い方、ずるいってわかってるよ。……けど、ゆうき君に危険な橋を渡ってもらいたくないんだよ」
「……そんなの、ずるいだろ……っ」

 そんな言い方をされたら、何も出来ない。けれど、それ程阿佐美が俺の身を案じてくれているのだろう。
 その気持ちは切々と感じたし、それ程危険な真似を阿佐美にさせている自覚もあった。

「……ごめん」

 何も言い返せなくなる俺に、阿佐美は項垂れる。
 阿佐美を責めるのはお角違いだと分かっていた。
 それでも、やり場のない情けなさを見ない振りすることはできなかった。

「頼むから、無理しないでくれ」
「ゆうき君」
「俺も、ごめん。こんな嫌な役、詩織に押し付けて」

 阿佐美の優しさに甘えて頼って利用して、不平不満を言えるような立場ではないと分かっている。
 それでも、完全に阿佐美を利用するための道具と割り切ることは出来なかった。
 だからこそ余計中途半端な感情に自分自身が苛まれる結果になる。自業自得だといえばそれまでだ。

「俺は、嫌な役だとは思わないよ」
「……え」
「こんな真似、俺だけにしか出来ないんでしょ?だから、ゆうき君は俺を頼ってくれた。……それって、とても光栄なことなんじゃないかな」

「違う?」と当たり前のように、寧ろ俺がおかしなことを言っているのだろうかと思うくらいの真っ直ぐなその目に、言葉に詰まった。
 それと同時に、自分の卑屈さが阿佐美のプライドまでもを傷付けてしまっているのだと気付く。

「違……わない」
「なら、ゆうき君が気に病むことなんて何もないよ」

 阿佐美の真っ直ぐな言葉に、何度助けられたことだろうか。
 自分がくよくよ気にしていたことが馬鹿馬鹿しくなってきて、自然と、強張っていた全身の筋肉が綻ぶのを感じた。

「……詩織は、強いね」
「えっ?や、ええと、喧嘩とかそういうのはすごい苦手なんだけど……」
「そうじゃなくて……すごく、頼もしいよ」
「……ゆうき君……」

 けれど、阿佐美に甘えてばかりではダメだ。
 俺にでも出来る限りのことやろう。一人決心し、俺は、阿佐美の手を握り返した。

「ゆ、ゆ、ゆうき君……?」
「情報収集、詩織に頼むよ」
「……うん!」
「けど、やばくなったらすぐに中断していいから」
「うん、任せて!」

 と、なると問題は俺だ。
 どこで詩織を待つかとか、考えなければならない。そもそも阿佐美と別れて一番問題なのは俺なんだよな……。
 阿佐美の部屋には阿賀松がいるし、阿賀松の部屋もヘタしたら本人来るかもしれないし。

「俺が情報収集に行ってる間なんだけどさ、ゆうき君」

 そんな俺の不安を汲み取ったのか、唐突に口を開く阿佐美に内心ギクリとした。

「一人になる間、保健室に言ってたらどうかな」
「……保健室?」
「あそこになら先生いるし、あれなら念のため仁科さんに口裏合わせてもらって誤魔化してもらうから」

 保健室。それは、俺にとって盲点だった。
 確かに、一人でいるよりは誰か確実に人がいる場所に留まっておく方がましだろう。
 ……それが、阿賀松や縁に通用するかは分からないが。

「……と、思ったんだけど……どうかな?」
「いや、いいと思う……俺も賛成だよ。一人でいるより心強いしね」
「そっか、良かったよ」

 それに、少しぐらい俺の方でも情報収集出来るかもしれない。
 何度も頷く俺に、阿佐美は安堵したように笑う。
 ある程度の計画を立て、俺と阿佐美は空き部屋を後にした。
 相変わらず人前では阿賀松に成り切っていた阿佐美だったが、先ほどまでの不安感はなかった。
 恐らく、阿佐美と分かり合うことが出来たからだろう……というのは大袈裟だろうが、少なくとも俺の心は先ほどよりも晴れていた。

 阿佐美に保健室まで送ってもらった俺は、その場で阿佐美と別れた。
 気をつけて、と言いたかったが今の阿佐美は阿賀松だ。結局別れ際ろくに言葉を交わすことはなかったが、仕方ない。

「……すみません、具合悪くて、少し休ませてもらっていいですか」

 養護教諭は少しだけ驚いたような顔をして、「好きにベッドを使って良いよ」と笑った。
 その言葉に甘え、俺は一番隅のベッドを使うことにした。
 保健室には数人先客がいた。
 それも、本当に具合が悪い生徒とかばかりで、以前のように不良生徒が屯してる様子はない。

 居心地は悪くはないが、油断することはできない。ベッドの上、腰を下ろした俺は制服のポケットに手を突っ込む。そこには、携帯端末が入っていた。電源が切れたそれはうんともすんともしない。
 早く、充電しないとな。思いながら、ベッドの上に横になった時。

「……齋藤?」

 締め切ったカーテンの外、名前を呼ばれ飛び起きる。
 聞き覚えのあるその声。不意打ちを食らい、バクバクと騒ぎ出す心臓を抑えながらも俺は「はい」と答えた。

「俺、仁科だけど……阿賀松さんに言われてきたんだけど」

「開けてもいいか?」と控えめに尋ねる仁科。阿佐美、本当に仁科を呼んでくれたのか。少し迷ったあと、俺は「どうぞ」と答えた。
 そしてすぐにカーテンが開かれ、仁科が現れる。

「……よう」
「……こんにちは」

 顔を合わせた途端、お互いに謎の居た堪れなさに包まれながらも仕切り内に入ってきた仁科はカーテンを閉める。
 そして、一息。

「思ったよりも元気そうだな」

 言葉を選ぶように、仁科はそう口にした。
 仁科がどんな俺を想像していたのかわからないが、だとしたら阿佐美のお陰だろう。

「いえ……この前は、ご迷惑をお掛けしました」
「え?」
「志摩の無茶を聞いていただいて……ありがとうございます」
「あ……あぁ、気にすんなよ。あれくらい」

 慣れてるから、とでも言うかのような仁科。
 相変わらず、腫れ物を扱うような仁科の態度だが今の俺にとってはそれくらいが丁度よかった。

「阿賀松さんから言われてな、一応用意してきたんだけど」
「え?」
「飲み物。……あと、適当に食べるもの。お前がどういうの好きかわかんねーから俺の勘で選んだんだけど」

 そう言って、ベッドの上にペットボトルやパンを並べる仁科。
 阿佐美、そんなことまで仁科に頼んでいたのか。用意周到というか、細かいというか、気が利くというか。

「ありがとうございます……すみません、わざわざ」
「……いや」
「……」
「……」

 俺も仁科もあまりお喋りではないせいか、すぐに会話は途切れた。
 けれど、無視されるよりかは話してくれる気があるというだけ断然ましだ。気まずいとは思わない。

「あの、先輩……ここ座ってください」

 ずっと立っている仁科が気になって、ベッドに腰を下ろすよう促せば仁科は渋い顔をした。

「いや……俺は別にこのままでいいから」
「でも……」
「……具合、まだ本調子ってわけじゃないんだろ?」

「俺は適当に座るよ」と、仁科は壁に凭れ掛かる。
 ここまで気を遣わせてしまうと逆に申し訳ない。
 しかし、無理をいって困らせるのもあれだ。

「……すみません」

 項垂れる俺に、仁科は何も言わない。
 流れる沈黙。何を話したらいいのか分からず、話題を探していた時だった。
「お前さ」と、静かに仁科は口を開く開いた。

「お前、よく無事だったな」
「……え?」
「いや、やなこと思い出させたんなら悪かった。……つか、完全に無事ってわけじゃねえんだろうけど……よく、戻ってこれたな」

 どこに?学園にということだろうか。
 ばつが悪そうに髪を掻き上げた仁科は小さく息を吐く。

「なんだろうな、なんつーか……俺が言いたいのは……阿賀松さんの怒り買ってそれでも一緒に行動してるやつは珍しいから」

 確かに、と思った。正直、一緒に行動しているのは阿賀松ではなく阿佐美なのだが仁科にしたらそれが不思議で堪らないのだろう。

「それにお前、正気だろ?」
「……正気……」
「ああ、俺と話が出来るってことはそうだろ」
「……」

 どう応えることも出来なかった。
 褒められているのだろうが、なんとなく素直に喜べないのは自分が正気だと言い張ることが出来ないからだろうか。

「悪い……気を悪くしたんなら謝る」
「いえ、あの……一つ聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「阿賀松先輩を怒らせた生徒ってどうなるんですか?」

 それは、純粋な興味だった。本来ならば、阿佐美の手助けをもらえなかったら、俺はどうなっていたのか。

「……それは」

 歯切れの悪い仁科。その表情は心無しか暗い。
 仁科が阿賀松のことを恐れているのは知っていた。だからこそ、阿賀松のそういう一面を知っていると踏んでいたのだがどうやら俺の予想は間違っていないようだ。

「三者三様だよ、一概に言えねえ」
「……そうですか」
「あいつの家からして分かるように色々なところにコネを持ってる。だから、親の職を失わされたやつもいるし、学校を辞めさせられたやつもいる」
「そんな勝手なことされて、黙っているんですか?えっと……他の方たちは」
「口を挟めば次は我が身だぞ。……俺は分かるよ、そいつらの気持ちは。助けを求めれば、その相手まで巻き込んでしまう」

「それなら、いっそのこと自分だけの犠牲で済むなら」仁科の言葉に、何も返す言葉が出なかった。
 もし、自分の行動で両親にまで迷惑がいってしまったら。そう考えただけで背筋が凍るようだった。

「……ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」
「別に構わないけど、俺以外のやつの前で言うなよ、あんまりそういうこと。……どこからチクられるかわかんねーし」
「……はい」

 仁科は、阿賀松に染まりきってるわけではない。けれど、阿賀松に逆らえないのは間違いない。
 阿賀松がいなくなれば、仁科のような阿賀松に逆らいたくても逆らえないやつらは喜ぶのだろうか。ふと考える。

「……齋藤?」
「はい」
「あまり、変なことを考えるなよ」
「……はい」

 仁科はそれ以上俺の真意を探ろうとはしなかった。
 けれど、少し開いた距離が落ち着かなくて、なんとなく居心地の悪さを感じずには居られなかったが……それも仕方ない。
 再び流れる沈黙の中、俺は光の差し込む窓に目を向ける。
 流れる雲、真っ青な空の下、体育の授業が終わったようだ、ジャージ姿の生徒たちがぞくぞくと校舎へと戻ってきているところだった。
 よく見れば、そこには見知った顔がいくつかあった。確か、俺のクラスメートだ。ベッドから腰を上げ、窓の外を眺める。けれど、その生徒たちの中に志摩や壱畝の姿はなかった。

「……」
「おい、あんま顔出すなよ」
「あ……すみません」

 そのまま引っ込めようとした時、不意に、ガラス越し、外部からの視線を感じた。

「……?」

 気になって辺りを見渡すものの、それらしき影はない。
 気のせいだろうか、思いながら俺はカーテンを閉めた。

「あの、先輩」
「どうした?……これ、食うか?」
「や、そうじゃないんですけど……あの伺いたいことがありまして」
「……」

 またか、というような顔。露骨というほどではないが、仁科は分かりやすい。
 聞かれたくない話題が出ると、顔が強張るのだ。

「八木先輩、やっぱり俺のこと怒ってましたか?」
「そうだな」
「……そうですか」
「お前は……」
「なんですか?」
「後悔しているのか?」

 仁科の目がこちらを覗き込む。
 疑われているという不快感はなかった。それでも、心の奥を覗き込まれるようなその錯覚に、ぞわりと腹の底から妙なものが込み上げてくる。

「……後悔したところで、何も変わらないので」

 自然と、笑みが浮かんだ。仁科がこんな返答を求めているわけではないだろう、わかったのに、口が勝手に動いた。
 後悔しても何も変わらない。泣いても何も変わらない。骨を守るためなら肉を断たなければならないように、心を殺さなければ決断は出来ない。

「俺が、こんなことを言えた義理じゃないが……」
「……?」
「あまり、無理をするなよ」

 ぽん、と肩を軽く叩かれる。
 どういう意味か分からなくて顔を上げれば、仁科は悲しそうな目をして俺を見下ろしていた。

「今のお前は……あいつと同じ目をしてる」

 あいつ?阿賀松のことかと思ったが、違うようだ。
 誰のことを指しているのか分からなかったが、その言葉が胸の奥にちくりと刺さった。そして、仁科に触れられた肩がポカポカと暖かくなる。

「確かに……お前の立場は辛いかもしれないが、お前が無理をすると悲しむやつがいるんじゃないのか」

 その言葉に、志摩が浮かぶ。何も答えられない俺に、仁科はまた寂しそうに笑った。

「悪い、余計なお世話だったな」
「いえ……あの、今のは」
「忘れてくれ。ただの俺の独り言だ」

 少なくとも、俺にはそんな風には聞こえなかった。
 俺を通して、誰かに問い掛けるようなそんな口振りに俺の心は強く揺さぶられたことは確かで。

「あの、先輩……」

 再度、仁科を呼ぼうとした時だった。保険室内に軽快な音楽が流れる。反応したのは仁科だった。
「やべ」と呟き、携帯を取り出した仁科はみるみるうちに青褪める。

「呼び出しですか?」
「……ってわけじゃねえと思うけど、わり、ちょっと電話に出ていいか?」
「はい、大丈夫です」

 仁科は「悪い」とまた呟き、カーテンの外へ出る。別にここで出ていいのに、と思ったが仁科としてはバツが悪い相手からだったのかもしれない。
 阿賀松からの命令がある以上そう遠くへは行かないはずだ。
 仁科がいなくなった後、俺はさっきもらったボトルに口を付けた。
 今は、阿佐美からの報告を待つしかない。せめて、携帯の電源を入れることが出来れば阿佐美と連絡が取れるのだけれど。
 ……仁科に頼むか?でも、これ以上不審に思われたらと思う反面、仁科ならと思う自分もいた。
 とにかく、今は、なるべく俺が動かない方がいいだろう。取り敢えず、仁科が戻ってきたから相談してみよう。
 水分補給で喉を潤し、息をつく。なんだか、今までの疲れがドッとくるようだった。
 仁科が戻ってくる間、少しだけなら、気を緩めてもいいだろうか。
 射し込む日差しに重たくなる瞼。俺は、少しだけ、ともう一度口の中で呟き、目を閉じた。


「……悪い、待たせ……齋藤?」

 微睡む意識の中、遠くで仁科の声が聞こえたような気がした。
 起きなければ。そう思うのに、鉛のように重い意識は俺の意志と反して深く沈んでいく。
 暖かな気温が心地よくて、そうしている内にとうとう仁科の声が聞こえなくなった。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 遠くから養護教諭と他の生徒の声が聞こえてきて、俺は慌てて飛び起きた。
 窓から見える青かった空は既に赤くなっていて、次第に覚醒する頭から血の気が引いていく。
 俺、どんだけ寝てたんだ。慌てて仁科を探すが、仁科の姿はない。
 その代わり……。

「おはよう、ゆうき君」

 阿賀松……否、阿佐美は俺を見るなり笑った。

「し……おり」
「よく寝てたみたいだったから起こさなかったんだ。……ここ最近、眠り浅かったみたいだったしね」
「ご、ごめん……っ」
「ううん、気にしないで」

 恥ずかしさと申し訳無さで顔を上げれない。
 阿佐美が頑張って情報収集してる間寝てるなんてどんだけ緊張感無いんだ、穴があったら入りたいくらいだが、そんな俺を責めるわけでもなく窘めてくる阿佐美にますます頭が上がらなくなる。

「あの……仁科先輩は」
「戻らせたよ」
「なんか、言ってた……?」
「ゆうき君のこと?……起こすのも可哀想なくらいの爆睡っぷりだったって言ってたよ」
「……、……」

 ますます居た堪れない。仁科に会ったら謝らなければ。

「それよりも、ゆうき君」

 阿佐美が僅かにトーンを落とす。
 先ほどとは打って変わって引き締まったその表情に、阿佐美が何を言わんとしているのか分かった。恐らく、情報収集の結果だろう。

「一旦、場所を変えようか。……動ける?」
「うん、俺は大丈夫」
「それじゃ、行こうか」

 そして、阿佐美に連れられ、俺は保健室を後にした。

 既に授業は全て終わっているようだった。学生寮へ直帰する生徒も入れば、部活動へ勤しむ生徒と賑わう校舎内。やはり俺たちは浮いていた。
 阿佐美に握り締められた手が、熱い。阿佐美の体温よりも遥かに自分の体温が熱いのが分かって、それで余計居た堪れなくて。阿賀松のフリをしてるのだから仕方ない、それに阿佐美と手を繋ぐのは初めてではない。
 そう言い聞かせるものの、変に視線を浴びることに抵抗がないわけではない。
 流石に、こんなに沢山の生徒がいる前でこうされるのは、少し、耐えられないものがある。

「あ……あの………」

 前を歩く阿佐美の背中に声を掛けるものの、阿佐美は何も言わない。
 故意なのか、たまたま聞こえなかったのか分からない。
 けれど、どこへ行くのか分からない今、校舎内をわざわざこうして歩き回る阿佐美に段々不安になってくる。
 まるで、見せ付けるみたいだ。誰に?

「……?」

 不意に、視線を感じた。その方を振り返るが、見知らぬ生徒たちが遠巻きに俺たちを見ては何か耳打ちをしてるだけだった。
 なんだか、嫌だな。思いながらも、今は阿佐美に従うしかない。俺は、せめて阿佐美に引き摺られないらよう歩く速さを早めた。
 ようやく阿佐美が立ち止まったのは学園の入り口前だった。
 沢山の生徒が出入りするそこで、いきなり立ち止まる阿佐美の背中に思わずぶつかってしまう。

「あ、ご、ごめ……っ」

 慌てて謝ろうとした時、阿佐美がこちらを振り返る。
 もしかして、殴られるのだろうか。そう、緊張で後退ったときだった。伸びてきた手に後頭部を掴まれた。
 え、と思った矢先。阿佐美の顔が近付く。同時に、唇に生暖かいものが触れる。
 その感触には覚えがあった。

「し、おり……ッ」
「ゆうき君、舌、出して」
「へ……?」

 早く、と俺にだけ聞こえる声で囁かれた。
 どうしていきなり、こんな公衆前で。疑問は尽きないが、今、俺の立場を考えればやることは一つしかない。恥ずかしいし、阿佐美が何を考えているのか分からなかったが、それでも今阿佐美は阿賀松だ。
 逆らうことは出来なくて、それなら、すぐに済ませるだけだと俺は口を開いた。舌を出せば、窄まった先端にキスをされ、舐められる。ピリピリと神経が痺れる。
 ざわめく周囲。突き刺さる視線がただ痛くて、それを無視して唇を吸われればやがてその感覚すら麻痺していく。

「ん、ぅ……」
「背中に手を回して」
「……こう……?」

 言われるがまま、阿佐美の背中に手を回す。
 そう、と阿佐美は笑って、深く、俺の舌を咥えた。
 なんで、こんなことを。霞む思考回路、一先ず阿佐美が満足するまでそのキスを受け入れようと口を開いたときだった。

 阿佐美の肩越し、傍観者たちのその奥によく見知った顔を見つけた。瞬間、血の気が引く。
 焦げ茶髪のそいつは、見間違うはずがない。
 ――志摩だ。

「ッ!」

 咄嗟に、目の前の阿佐美を突き飛ばそうとする。
 けれど、腕を取られ、代わりに頭を掴まれ、再度唇を貪られた。

「ぅ、んんッ、ふ……ッ!」

 固く噤んだ唇を舌先で無理やり抉じ開けられ、強引に咥内を掻き回される。上顎を舌先のピアスが掠めた瞬間、下腹部がぞくりと震えた。
 力が抜け落ちそうになるのを、必死に阿佐美の服を掴んで耐えることしか出来なくて。

「……っ、ゆうき君」

 唾液で濡れた唇から、舌を引き抜かれた瞬間腰が抜けそうだった。
 そんな俺を抱き留めた阿佐美は、何か言いたそうにして俺を見た。
 咄嗟に阿佐美の腕から抜け出そうと胸を押し返すが、離してはくれなかった。代わりに、志摩の姿を探すが、もうそこに志摩の姿はなかった。

「……ッ、志摩……」

 見られた。
 別に、良かった。誰とキスしようが、そのおかげでこの状況が変わるならそれでも構わないと思っていた。
 けれど、あの志摩の顔を思い出せば、気が気でなかった。
 見開かれた目、視線に込められたそれは皮膚を刺すような強い殺意。
 それが自分に向けられたものかどうか分からなかったが、それでも、志摩を放っておくことは出来なかった。

「ゆうき君」
「離してくれ、詩織、早くしないと、志摩が」
「……ゆうき君」

 どうして、阿佐美はこんなことをしたのだろうか。わざわざ人に目につくように、見せ付けるように。
 そこまで考えて、俺は一つの可能性に辿り着いた。
 以前から、志摩のことを目の敵にしていた阿佐美を思い出す。

「まさか、わざと……」

 志摩に見せ付けるためにこんな真似をしたというのか。
 阿佐美は何も言わない。言い訳も、弁解も。

「……ッ」

 阿佐美を突き飛ばし、志摩を追い掛けようとする。けれど、すぐに阿佐美に腕を掴まれた。
 強い力に引っ張られ、「離して」とその手を振り払おうとすれば思いっきり阿佐美の顔に当たってしまう。
 自分の手から発せられたその乾いた音に、血の気が引いた。
 拍子に爪が当たったのだろう、赤くなった頬に、やっぱり阿佐美は顔色一つも変えなかった。

「……ご、め……」
「なんでゆうき君が謝ってんの?」
「……殴る、つもりじゃなかったんだ……本当に」
「……」

 阿佐美は何も言わない。その代わりに、俺の腕を掴んで抱き寄せた。

「場所を移動しようか。思っていたよりも悪目立ちしてる」

 俺の耳元、小さく耳打ちする阿佐美に何を返す気にもなれなかった。
 擦れた頬から赤い血が滲み始めてるのを見て、心臓がバクバクと加速する。
 目の前が、揺れる。真っ赤に染まった手が、歪む縁の顔が、肉に沈むナイフの感触が蘇り、息が詰まりそうだった。

「……」

 動けなくなる俺を引っ張り、阿佐美は歩き出した。
 志摩を、追い掛けないといけない。会って、弁解をしないと。違うんだと。全部誤解だと。……何がだ?何が誤解なんだ?結果的に志摩を裏切ったのも阿佐美を受け入れたのも全部事実ではないか。志摩の顔がこびり付いて離れない。
 なのに、俺は、阿佐美から逃げ出すことが出来なかった。
 自分の手でまた、阿佐美を傷付けてしまったらと思ったら、正気でいられなかった。また俺は保身に走るのか。人を傷つける覚悟も出来ずに、誰かを守れるのか。

「……ッ」

 けれど、阿佐美に、情報を聞かないといけない。
 冷静になれ。冷静になれ。今俺がすべきことはなんだ。なんのために俺は、志摩の元から逃げ出してここに来たんだ。
 抉られるような胸の痛みを覚えながら、俺は、唇を噛み締めた。
 志摩には、もう少し待ってもらおう。時が来たらちゃんと説明する。志摩は分かってくれるはずだ。だから。
 ――俺は、阿佐美に着いていった。

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