07※
「っ、う、ぐッ、ぅう…ッ!」
「なーに我慢しちゃってんだよ。やめろよ、そういういじらしい真似」
「苛めたくなっちゃうだろ」笑う阿賀松。
指の腹に力が籠もり、柔らかく押し潰されるそれだけで汗が止まらなくて。バクバクとすぐ耳元で脈が聞こえた。
全身を巡る血液は焼けるように熱く、籠った空気と圧迫感に目眩を起こしそうになった時、唇に阿賀松の指が触れる。
「っ、ぅ、あ」
触れるように咥内へと侵入してくる阿賀松の指に、必死に首を動かし逃げようとするがそれを無視して喉奥へと入り込んでくるそれはあっさりと俺の舌を掴まえる。
「んっ、んぅ、ぐ」
唾液を絡ませるよう、粘膜に触れてくる指の感触が気持ち悪くて、喉奥を撫でられる度に嗚咽が止まらなくて、同時に溢れる唾液に指を絡ませた阿賀松は何事もなかったかのように指を引き抜いた。
「っ、ぐ、うぇ」
襲い掛かってくる吐き気に咽ていると、片方の阿賀松の手が股倉の奥へ伸びる。
濡れた指先が肛門に触れたとき、全身が跳び跳ねた。
「ッ、やめ……ッ」
「なんで?」
「ぁッ、や、い、やだ」
「お前の体も、全部、俺のものだろ」
濡れた指先は小さな音を立て中へ入り込んでくる。
性器に比べたらましだ、それでも、あの時、阿賀松の腕を半分飲み込んだ自分の下半身を思い出した瞬間、全身の筋肉が緊張した。
「ぁ……ッ」
痛みや恥ずかしさよりも、頭が真っ白になる。
病院にいる間からずっと、誰にも触られていなかったそこに躊躇いもなく指を捩じ込んでくる阿賀松が、俺は。
「ッ、ひ、ぅ」
「ユウキ君」
「っ、ぅ、く……ッ」
痛くない。こんなの、痛くもなんともない。怖くないし、指の一本や二本、大丈夫だ。大丈夫。大丈夫、俺は大丈夫だ。
「ッぁ、あ……ッ、ぁ……ッ」
あの時とは違う、ゆっくりと押し広げるように入ってくる指に頭の中が熱くなる。
阿賀松の指の形が内壁を伝わりより鮮明に感じてしまい、それなら何も分からなくなるくらいぐちゃぐちゃにもっと乱暴にしてくれた方がましだった。
息が浅くなる。先程とは違う汗が全身に滲み、目の前が霞む。
「……ッ」
志摩、志摩。志摩は、きっと怒ってるだろう。「どうせこうなると思ったよ」と皮肉混じりに詰ってくることに違いない。志摩のことを考えると胸が苦しくなった。けれど、その痛みのお陰で冷静な自分を失わずに済んだ。
けれど。唐突に、どこからともなくバイブレーションが響く。
「はぁーい」
それは阿賀松の携帯への着信だったようだ。
何の躊躇いもなく端末を取り出した阿賀松に言葉を失った。
「何?今すげー忙しいんだけど」
言いながらも、指の動きは止まらない。
泳ぐ腰を抱き竦められ、更に深く、滑り込んでくる指。
指が動く度に腹の中でグチャグチャと品のない音が響き、その音が聞こえてると思うと、生きた心地がしなかった。
「あ?ユウキ君?うん、いるけど。……あー大丈夫大丈夫、生きてるから」
微かに聞こえてくる声と阿賀松の言葉に、血の気が引く。
俺のことを心配してわざわざ阿賀松に電話してくれる相手なんて一人しかいない。
阿佐美だ。
「そんなに心配すんなよ、殺さねえよ。ただちょっと性別変わるかも知れねえけど。ハハッ!怒んなよ!冗談だって!」
笑えない冗談に心臓の音は加速するばかりで。
声が、息が、せめて阿佐美に聞こえないようにと必死に息を止め、堪える。
けれど、そんな俺を阿賀松はやすやすと見過ごしてくれる程優しくはなかった。
「ほら、ユウキ君、詩織ちゃんが心配してんぞ」
そう、耳元に押し付けられる硬質な感触に、一瞬、心臓が止まった。
「元気な声、聞かせてやれよ」
「……ッ!」
端末の奥、聞こえてくる『ゆうき君?』という聞き慣れた声に、まるで冷水をぶっ掛けられたような気分だった。
口を開ければ、変な声が出てしまうかもしれない。それだけでも気が気でないというのに、阿賀松は。
「ぅ、あッ」
次第に激しさを増す指の動きに、堪らず声を上げてしまう。瞬間、耳が熱くなった。
咄嗟に阿賀松の手を掴み、動きを止めようとするが先程よりも動作が荒くなるばかりで。
大きく広げられた腿、その間、挿し込まれた二本の指に中を摩擦される度に痺れるような感覚が脳を襲う。
「く、ぅ……ッ」
『ゆうき君?……ゆうき君?どうしたの?ゆうき君っ?』
心配する阿佐美の声が余計居た堪れなくて、このままではダメだ。そう思った俺は、咄嗟に、自分の手の甲に触れ、そのまま皮を抓った。瞬間、脳は鋭い痛みに支配される。
「し、おり……ッ」
痛いのは嫌いだ。いつも現実は痛くて、だけどだからこそ、今は痛みのお陰で流されずに自分の為すべきことを忘れずに済んだ。
『……ッゆうき君、聞いて、ゆうき君達がついたら、その時は迎えに行くから。だから……待ってて』
阿佐美の声がやけに遠く聞こえるのは阿賀松に聞こえないようにしているからか。
それでも、聞き取れた。
今何を信じていいのか分からない。
けれど、少なくとも、阿賀松に近付くことを目的としていた俺にとってこの状況は恐らく願ってもないことだろう。
逃げ場はない、今更阿賀松の懐に潜り込むことも難しいだろう。
けれど、それならば、突き立てられたその牙に噛み千切られ、そのまま奴の腹の中へ直接入り込むしか無い。
「詩織、助けて……ッ!早く……」
俺を、と言い掛けた時、端末を取り上げられた。そして、切られる通話。
端末を放り捨てた阿賀松の表情には先程までの笑みはない。その代わりに。
「本当、馬鹿だな、お前」
「……ッ」
「まるで自分が被害者みてえな言い草じゃねえかよ……ユウキ」
冷たい声に怒りを滲ませた目。
これでいい。最初から逃げ道なんて必要ないんだ。
受け入れればいい。それが俺の役目なのだから。
志摩はきっと俺のことを信じない。栫井のこともある。きっと、志摩は会長の元へ向かうだろう。
それは、ちょっとした賭けだった。ちょっとと言うには分が悪く、代償の大きな賭けだが。
俺は志摩に賭ける。俺のことを信じてくれない志摩に。俺の嘘を嘘だと分かってくれる志摩に。負けて失うのは志摩の信頼だけとは思わない。
けれど、どうせ無くなる足場ならば蹴り落とされる最後まで俺はそれにしがみつくだけだ。
「停めろ」
その阿賀松の一言で車が停められる。
スモーク貼りの窓ガラスの向こうはビル街が広がっていて、どうしてこんなところで、と辺りを見渡した時だった。
開かれるドア、そこから引き摺り出されるように車を降りらされる。
深夜の人気のない路上の上、慌てて立ち上がろうとするがそれでも阿賀松は俺から手を離さなかった。
「い……ッ」
薄暗い路地裏へ引っ張られ、そこで、ようやく阿賀松の手は離れた。
投げ捨てるように放られ、コンクリートの壁に背中を強打する。
表通りとは違う、湿った空気。捨てられるのだろうか、と思ったが、やはり、ただで帰してくれるつもりはないようだ。
「……裸ってすげぇよなぁ」
不意に、阿賀松が口を開く。
裸?と訝しめば、笑う阿賀松と目が合った。
「どんなやつでも、裸にひん剥いて生活させたら自分が人間以下の生き物に思えてくるんだってよ」
「お前はどうなんだろうな、ユウキ君」笑う阿賀松に、全身が凍り付く。
一瞬にして阿賀松が何を考えてるのか分かった。だからこそ、余計、伸びてくる手が恐ろしかった。
「……っ!」
咄嗟に、阿賀松の手を振り払う。
乾いた音を立て弾かれた自分の手を見詰めた阿賀松は笑みを消す。
「……調子に乗ってんじゃねえぞ」
阿賀松の右手、その固められた拳が視界の済に入った瞬間、全身が跳ね上がりそうになる。
「ご、めんなさ……っごめんなさいっ!」
頭を庇い、何度も口にする。
殴られてもいないのに、全身の神経がビリビリ反応するのが分かった。
指の関節部がのめり込み、歯が頬肉を突き破る感触を知っているからか。余計。
「っ本当、馬鹿だなぁ……お前」
目を瞑って痛みに堪えようとする。
けれど、一向にその痛みはやってこなくて。
それどころか。髪の毛に優しく触れる阿賀松の指先に、ぴくりと肩が反応した。
目を開けば、微笑む阿賀松がいた。阿賀松の指が頬を撫で、俺の顔を捉える。
「謝って許してもらえると思ってんのかよ」
瞬間、頬を抉るような痛みが顔面右半分を支配する。
銀の無骨なリングが皮膚を抉り、次の瞬間口の中いっぱいに鉄の味が広がった。
その反動でコンクリートの壁に後頭部を強打し、一瞬、視界が大きく揺れる。
「人を馬鹿にするのも大概にしろよ」
二発目は腫れた頬に刺すような痛みが走った。
痛いとかそんなことよりも、頭の中が真っ白になって何も考えられなくて。
三発目、歯が折れたとわかったのは舌の上にざらついた異物感を感じたからだ。
口いっぱいに溢れ出す血を飲み干すことも出来ず、それでも吐き出さないように堪えた瞬間。
四発目、ごぼりと音を立て口から溢れる鮮血を見て阿賀松は目の色一つも変えずにいて。
五発目、堪えきれずに地面に落ちる身体を無理やり起き上がらせ、六発目、右目に入った拳に咄嗟に顔を逸らせば間一髪、右目の縁にのめり込む硬い拳に首がもげるかと思った。
「ぅっ……え……」
アドレナリンが出てるお陰か、痛みが痛みなのかも分からなくなってくる。
それでも、既に、俺の全身からは力が抜けていた。
阿賀松に歯向かう力すらなくて、泣き叫ぶことも出来なくて、その場から動けなくなる俺の目の前、しゃがみ込んだ阿賀松は笑う。
「自分で脱げよ、服」
背筋に冷たい汗が走る。顔が腫れ、狭くなった視界の中、阿賀松は笑ったままで。
「早くしろ」
じっとこちらを見据えるその目に、まるで生きた心地がしなかった。
ここが路上でいつどこで人が来るのか分からないこの状況、普通ならばそんなことしないだろうし、逆にもしかしたらこの状況を利用して誰かを呼んで阿賀松を暴行の現行犯として突き出すことも出来ただろう。
けれど、今の俺には阿賀松の命令に従うことしか出来なかった。
殴られた痛みと自分の体が変形していく恐怖に支配された脳は阿賀松に逆らうことを考えられなくなっていた。指が思うように動かない。それでも、阿賀松の手前逆らうことも出来なくて。
「……っ」
焼けるように顔が熱い。霞む視界の中、突き刺さるような阿賀松の視線を感じながら俺は上に着ていた服を脱いだ。
生温い外気、体温が上昇していることもあってか寒く感じることはなかった。
けれど。
「何やってんだよ、早くしろ」
苛ついたようなその声に、つい「え」と息を漏らす。
言われた通り脱いだはずなのに、とそこまで考えて俺は冷水を浴びせられたような錯覚を覚えた。
阿賀松は、下も脱げと言っているのだろう。
「……っ、で、も」
「早くしろっつってんだよ」
「それとも、俺に脱がせてもらいてえの?」笑っていないその目に、全身が薄ら寒くなる。
「早くしろ」と、背後の壁を蹴る阿賀松に今度こそ目の前が真っ暗になった。
「……ッ」
ベルトを緩める。こんな時間だ、こんな明かりのない場所、誰も来ない。来るはずがない。
頭の中、自分に言い聞かせながら俺はゆっくりとズボン。脱いだ。
下着一枚になったところで、あまりの心許なさに真っ直ぐ立つことが出来なくなる。
「まだ残ってんだろ?」
愉快そうに笑う阿賀松。その言葉に、耳が焼けるように熱くなった。
ここは、いうことを聞かなければ。そう思うけど、やっぱり、俺の中の常識がそれを躊躇う。
身に着けている下着まで脱いでしまえば、それこそ本当に丸腰だ。見られたら俺の方が捕まるのは目に見えている。でも、これ以上阿賀松を怒らせたら。そう思うと嫌でも言うことを聞かずには居られなくて、ゆっくりと下着のウエストを掴んだ時。
「……おっせぇんだよ」
口を塞がれる。壁に後頭部を叩き付けられ、一瞬、全身の力が抜けそうになったとき。腹部に這わされた阿賀松の無骨な手が滑り、下着の下へ潜り込んだ。
驚いて、咄嗟に阿賀松の腕を掴もうもしたが問答無用で脱がされる下着に全身が硬直した。
「ん、ぅ……ッ!」
腿を滑り、膝下へ落ちるそれに手を伸ばそうとしても間に合わなくて。
とうとう全裸にされ、羞恥以上の恐怖が襲い掛かる。
まともに立つことが出来ず、引き腰になったところを阿賀松に掴まれ、強引に歩かされた。
「っ、あ、や、先輩……っ」
「お散歩だ、ユウキ君。なぁに、見られても大丈夫だろ?プライドもクソもねえお前なら」
「先輩……っ」
「オラ、ちゃんと歩け!ケツ蹴られてえのかよ!」
乱暴に背中を叩かれ、身が竦む。
立ち止まったら本当に蹴られそうで、身を庇うものが何一つない今、それだけは避けたかった。
「……ッ」
こんなところ、誰かに見られたら。
そう思えば思うほど、足が上手く動かなかった。
それでも、
「ぅ、く……ッ」
靴の裏の硬い感触がジンジン痺れるのを感じながら、一歩踏み出す。
靴が残されていることが救いだろう。砂利を踏む音が、静かな路地に響く。
背中に突き刺さる阿賀松の視線。それを感じながら、俺は歩いた。
今だけだ、今だけの、辛抱だ。そう、言い聞かせることで精一杯だった。
羞恥も恐怖も全部、痛みになって全身の神経を麻痺させる。
「手は後ろ、だ」
その声に、全筋肉が硬直した。
「俺の前で隠し事をするな」と、そう、案に言われているような気がして、それでも蹴りが飛んでくる前に俺は言われた通りにする。
寒い、よりも心細い。恥ずかしい、よりも自分がどこに向かうのがわからないことが不安だった。
「せん、ぱい……」
どこまで歩けばいいのか分からず、堪らず振り返りそうになる。
けれど、「進め」と背後の阿賀松に命じられ、俺はそれに従った。
痛みは引き、次第に麻痺が神経を支配する。血が乾いていくのがわかった。それでも、自分の状態を見失うことだけはなかった。
このまま歩いていけば、大通りに出てしまう。夜遅くとは言え、どのタイミングで歩行者や車が通り掛かるか分からない。
「今更お前に勿体ぶるようなもの、あるのかよ」
進め、と阿賀松は言う。結局、車道の上、白線の上までやってきた俺は遠くで点滅する信号機を見て、血の気が引いていく。
「……」
「その顔、何か言いたいことがあるみてぇだな」
その声に振り返れば歩道に立つ阿賀松と目があった。静まり返ったそこでは、阿賀松の声はよく反響する。
阿賀松は笑っていた。笑って、いつどこで見つかってもおかしくない俺を見て、楽しんでいる。
「どうして……先輩は、笑ってられるんですか……」
「気安く話し掛けてんじゃねえぞ、豚」
取り尽く島もない、一言だった。
冷ややかなものを帯びたその目に怯みそうになったが、ここからでは阿賀松との距離がある。
逃げようと思えば逃げれる。通行人が来たら助けを求めることだって出来る。分かってる、いくら露出狂みたいなことをしたところで殴られた顔を見られたら誰だってただの変質者と思わないだろう。
阿賀松が何を考えているのか分からなかった。恐らく、俺を試そうとしているのだろうが、それでもリスクが大きすぎる。
俺が助けを求めると思っていないのだろうか。
俺が――、
「……俺が、逃げると思わないんですか?」
構わず、声を上げる。
口に溜まった血のお陰で上手く喋れなかったけれど、それでも阿賀松の耳には届いただろう。
確かに、阿賀松の目の色が変わった。
そして、
「っ、く、クク……ッ」
笑っている、阿賀松が。
眉間を抑え、喉を鳴らす阿賀松になんだか嫌なものを感じ、咄嗟に身構えた。
「お前が?逃げる?……っハハ、そうだなぁ、ユウキ君すーぐちょろちょろするからなぁ」
「……」
「逆に考えてみたら分かるだろ、こんなの」
「逃さねえ自信がある、そういうことだとわかんねえかな?お前の脳ミソじゃ」笑う阿賀松。
その笑みに、悪寒が走った。そして、咄嗟に辺りを見渡す。夜を照らす無機質なビル街。都会は似たような建物ばかりと思っていた。けれど、そうではない。
遠くに見える見覚えのある巨大な総合病院、無駄に広いあの学園、それが近い場所にあるというだけでも嫌な予感がした。
「自分ちの庭で逃さねえだろ、普通」
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