天国か地獄


 side:壱畝

 もう少しだ、もう少しの辛抱だ。そうすれば、ゆう君は逃げられない。もう、俺の側から勝手にいなくなるような真似、させない。
 想像とは違えど、問題は結果だ。ああ、あと何日眠ればいいのだろうか。
 日付が変わるのが待ち遠しく、その反面、朝方、久し振りにちゃんと見たゆう君の顔を思い出す。
 顔色が悪かった。少し、痩せたような気がした。それでも、真っ直ぐとこちらを見上げてくるあの目が忘れられなかった。
 中学の時、よく覚えていたのはいつも俯きがちな横顔だった。隣を歩いていた時も、俺の方を見ようとしなくて。
 それなのに。初めて、ゆう君の顔をちゃんと見たような気がした。
 あんな顔してたっけ、なんて一人思い返していた時だった。

 玄関の方から、微かな物音が聞こえた。
 ゆう君だろうか、と思って起き上がったがすぐにその可能性は掻き消される。
 ノックされる扉。カードキーを持っているゆう君ならそんなことする必要はない。
 だとしたら。

「なんだよ、こんな時間に……」

 もしかして会長だろうか。時計に目を向ければ既に日付は変わっている。
 静まり返った夜の空気がやけに冷たく感じた。どちらにせよ、非常識過ぎる。無視しようと思ったが、再びノックをされる。
 諦めた俺は体を起こし、ベッドを降りた。

「はい――」

 そう、玄関の扉を開けた時だった。
 扉、微かな隙間に差し込まれた靴先に気付いたときは遅かった。

……ッ!」

 大きく開かれる扉、そこから伸びてきた手に胸倉を掴まれる。まだ覚醒しきれていない頭の中、咄嗟に振り払おうとするも相手の方が早かった。
 壁に体を叩き付けられ、背中に鈍い痛みが走る。

「齋藤はどこだよ」

 低く、地を這うような声に、目を見開く。
 薄暗い部屋の中、射し込む月明かりに照らされたその顔には見覚えがあった。

「……志摩、君……っ?」

 ゆう君に纏わりついているあの男が、なんでここに。
 事態が呑み込めず応えかねていれば更に首元を締め上げられそうになる。

「早く出せよ」

 もしかして彼は何か勘違いしているのだろうか。
 いきなり出てきたゆう君の名前にただならぬ予感を感じたが、本当になにも知らない身とすればこんな時間に叩き起こされていい迷惑だ。

「何?ゆう君?……君、何か勘違いしてるんじゃ……」

 ないのか。そう、言い掛けた矢先、顔のすぐ側、鋭いそれは音も無く突き立てられる。
 恐る恐る視線を横に向ければ、鋭く尖ったナイフが壁に突き刺さっていて。
 顔から1センチも離れていないその近距離に今更頭が冴えてきて、改めて自分が面倒なことに巻き込まれていることに気付く。

「あんたらが連れて行ったんだよね、齋藤を」
「や、まじ、俺知らないから……」

 汗が滲む。なんなんだこいつは。ナイフまで使って頭可笑しいんじゃないのか。
 ただの脅しにしてはキツすぎる、それ以上に冗談だと感じさせない据わった目がただただ気持ち悪くて。
 本当にゆう君がいなくなったとしたら、まさか、芳川会長が?いやでも、俺は何も聞いていない。

「心当たりあるんだ」
「……知らない」
「嘘つき」

 拍子に刺し抜かれたナイフ。奴の指の中でくるりとそれが回ったと思った矢先、ナイフの柄で思いっ切り頬を殴り付けられた。硬い先端が頬を抉り、その衝撃で壁に後頭部を強打した。
 同時に強い目眩に襲われる。二発目殴られそうになり、咄嗟にやつの腕を掴んで止めた。
 けれど。

「お前、こんな真似してただで……ッ」
「元よりただで済ませる気はないよ。今すぐ齋藤を連れて来いよ。じゃないとお前を殺すから」
「……マジで言ってんの……?頭可笑しいんじゃないのか、そんなこと言って、誰が言うこと」

 聞くと思ってるんだ、と目の前の奴を睨んだときだった。
 もう片方の手に、手を取られる。絡められる指に全身が泡立ち、振り払おうと力んだその瞬間。
 関節部、蛇のように絡み付いた志摩亮太の指はキツく俺の指を締め上げ、そして。ポキリと、耳元で小気味のいい音が鳴った。

「ふ、ぐッ!うッ!」

 最初は何が起こったのかわからなかった。
 それでも、指先に力が入らなくなって、次の瞬間全身の神経を引き千切るような痛みに頭の中が真っ白になって。
 パキパキ、パキリと。右手の指、全ての感覚が麻痺し始めた時。顔が濡れているのが汗のせいだけではないと気付いた。

「っ、……ぅ……ぐ……」
「これって戻すときすげー痛いんだってさ。音がするまで力づくで嵌めるんだよ、カチッてね。それで失神する人もいるって」

「お前は何本まで我慢出来るのか興味ない?」笑う志摩亮太。
 目の前の男が本気でヤバイ奴だって気付いたところで今更手遅れで。
 ぶら下がる右腕を握り締める。

「俺は、知らないって、言ってるだろ……このキチガイ野郎……ッ!」

 そう、声を上げたときだった。志摩亮太は俺の右手を取り、そのまま握手をするような何気ない動作で、俺の指を握り潰した。

「ぁ、ぐッ」
「嘘つくなよ、お前ら以外誰がいるんだよ。お前がここでグズグズしてるせいで齋藤になにかがあったらどうするつもりなんだよ。どう責任取ってくれるんだよ!なあ!」

 次第に激しさを増す志摩亮太の怒声すら頭の中にはいってこなくて。
 焼けるような激痛に耳の裏が熱くなって、汗が止まらない。体内から滲む脂汗が溢れて流れて頬を伝う。

「だから、知らないって……言ってるだろ……っ」

 喋るのも、言葉になっているのかすら分からなくて、それでも志摩亮太の表情が無表情になるのを見てそれがちゃんと届いているのだと分かった。
 興奮が冷め、落ち着いたのか志摩亮太の指が離れる。けれど、そのことに安堵する暇もなかった。

「芳川呼べよ」
「……は……ッ?」
「今すぐ、ここに」
「無理だ」
「早く」
「無理だ、俺はあの人の連絡先を知らない」

 嘘ではない。芳川会長とは直接会って話すようにしていたから、連絡先すら交換していない。
 ヘタな誤解でナイフで指を千切られるような真似は勘弁だ。必死こいて志摩亮太に伝えた時。

「……使えない奴」

 底冷えするような冷たい声に無感情の目。
 それは、ゆう君と一緒にいるときのものとは全く違うもので。
 背筋にぞくりと寒気が走り、一筋の汗が滑り落ちる。
 本気で俺に興味を持ってない、死んでも構わない。見覚えのあるその突き刺さる冷たい眼差しに、今度こそ言葉を失う。

「まあいいよ、ならお前も来いよ」
「え……っ」

「ほら、早く靴履いて」と、半ば投げ飛ばされるように玄関へと押しやられる。
 冗談じゃないと背後のやつから逃げようとするが、喉先にちくりと痛みが走り、凍り付いた。

「余計な真似したら殺す」

 ナイフを手にした志摩亮太は笑う。
 突き刺さる冷たい感触に顔面の筋肉が強張るのを感じた。
 ゆう君は、どうしてこんなやつと一緒に居ることが出来たのか不思議でたまらない。

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